腹ペコ毒蟲【新版】   作:アンディライリーのうさぎ

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無性に肉が食いたくて、からあげを一個レンジでチンした。


28話 赤ん坊

 初デートの日から少し経ったある日。櫻は高専で久しぶりに会った冥冥にご祝儀を渡した。以前に家族が増えたという話は聞いていたが、その赤ん坊が冥冥の腕の中にいる。

 

「やっぱり、子は親に似るんですね」

 

 まだ生えたてのポヤポヤした髪は冥冥と同じ色をしている。櫻の言葉に、冥冥は口角を上げて「フフ…」と笑う。完全に、からかうそれだった。

 

「まぁ、家族だからね。似るものだよ」

 

「お母さんが大好きなんですね…こんなにメーメーさんにしがみついちゃって」

 

 小さな手は、冥冥の服の皺を引き伸ばすように強く握っている。

 

「ところで、赤ん坊を連れてきたってことは、後輩たちに見せに来たんですか?」

 

「ひと稼ぎしようと思ってね」

 

 そう言った冥冥の手が、グズった赤ん坊の背中をトンと、やさしく叩く。その一定のリズムに赤ん坊のグズリが止まり、小さな寝息が聞こえ出した。

 

 

 

 冥冥は有言実行とばかりに、後輩たちからご祝儀を収穫した。五条からは多めに乱獲していた。抱っこはまた別料金である。ニコチンを封印している硝子が、樋口一葉を差し出す。硝子の腕の中に抱かれた赤ん坊は、じっと硝子のホクロを凝視した。伸びた手が、そのホクロの部位をペチペチと触る。

 

「………これが、母性ってやつか」

 

「ぼ、僕もいいですかっ!」

 

 灰原もまた抱っこを望み、札を差し出し赤ん坊を抱き上げる。妙に慣れた手つきを披露するその後ろで、七海は引いた顔をしていた。これは冥冥に向けられたものである。

 

 少しの間を置き、赤ん坊はフンと鼻を鳴らした。まるで、「男にしてはなかなかの腕じゃないですか」とでも言うように。

 

 

「安倍君も抱いてみるかい?」

 

「エッ?」

 

 

 まさか指名制があるとは思いもしなかった櫻は驚く。彼女は周囲より一歩離れた距離から赤子を覗いていた。

 

 少し悩んだ彼女は頷く。指名制のわりにはチップが必要だった。

 

「わっ! わ、わ……」

 

 冥冥の腕から、恐る恐る赤子を受け取る。小さくて、熱い。マグマ溜まりがこんなに小さな生き物の中にある。

 

 赤ん坊は揺れ動く長い黒髪が気になったのか、髪の束を捕まえ、左右に振り出す。

 

「………」

 

 震える手で頬を突くと、途方もなくやわらかい。胸の肉より、よっぽど。突いた側から引っ込み、形を崩す。餅の完全なる上位互換である。

 

 顔を近づけて匂いを嗅いでみると、甘い匂いがした。はじめて嗅ぐ匂いだ。近づくほどその匂いが強まる。例えるならミルクだろうか? また彼女はスンと鼻を鳴らす。

 

「赤ちゃんって……イイ、匂いですね」

 

「母乳の匂いだね」

 

 櫻は瞳を閉じて、またその匂いを嗅いだ。鼻腔を通って、神経の管を通り、彼女の脳に信号が行き着く。そこから出された信号がまた神経の管を通り、彼女の口内に届いた。口の中に唾液が溜まる。また、スンと匂いを嗅ぐ。甘くて、実に食指のそそる。唾を飲み込んだ拍子にごくりと喉が鳴る。彼女の口元が赤ん坊のやわい頬に触れた。唇で突くと、赤ん坊の柔らかさがより伝わる。側から見ればキスをしている光景だ。

 

 匂いを吸い、唾液が溜まって、喉が鳴る。彼女の閉じていた目が開いた。五感を享受していた紅い瞳がスッと細まる。そして、口をうっすらと開け────、

 

 

「マジで冥さんに似てんねー」

 

 

 ──る前に、横から伸びてきた手が赤ん坊をかっさらった。

 

 盗んだ犯人である五条は、赤ん坊を自分の顔の高さにまで持っていく。表情豊かな赤ん坊は、眉をこれでもかと寄せる。

 

「おっと、君からだっこ料はもらっていないな」

 

 冥冥が颯爽と五条の手から赤ん坊を取り返す。

 

「にしてもまぁ、また随分と歳の離れた弟で」

 

 弟……? と、複数の声がハモる。

 思考が止まっていた櫻も、「えっ?」と声を上げた。

 

「おや、バラしてしまっては面白くないじゃないか」

 

「メーメーさんがお産したんじゃなかったんだ…」

 

 ふふ、と冥冥は笑う。グリーンの口紅も相まって、ミステリアスな色気を匂わせる。

 彼女は弟を抱き直し、その頭を撫でた。

 

 

「可愛いだろう? 私の弟は」

 

 

 それこそ、他人に見せびらかしたくなるくらいには。

 

 

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 夕方から、また雨が降り始めた。ここのところ雨ばかりだ。

 

 櫻は授業が終わると、そのまま鍛錬にも行かず家に直帰した。二年生と廊下ですれ違った際、蒼い瞳が己をとらえたが、自分は視線を向けぬまま、唇を引き結んで堪えた。

 

 陽はまだまだ明るい。沈むには時計があと何周すればよいのか。玄関を開け、ドアを閉めた瞬間に全身が重たくなる。靴を脱ぎ捨て、靴下の右だけ脱ぎ捨てることに成功して、カバンを投げ捨て、弁当の入った風呂敷はボーリングの玉のようにフローリングに滑らせる。制服を脱ぎ捨てる気力は残っておらず、最後は自分をベッドに投げ捨てた。

 

「ハァー………」

 

 窓から差し込む直射日光が彼女の頬に当たる。自分の体のY軸を起点にして、それを右に少し傾ける。その左半分は心地の良い暗闇に。もう右半分は焼き殺される。

 

 

 頭が重かった。だというのに、一周回って気持ち悪くなるほどの空腹を覚えている。原因はあの赤ん坊だ。彼女は赤ん坊に触れるのがはじめてだった。母乳の匂いがする赤ん坊は、涎が止まらなくなる生き物だった。彼女の手が震え、吐く息も震える。目頭も熱くなる。

 

 世話になった先輩の弟に、自分は何を思ったのか。いったい何をしようとしたのか? 無意識のうちに行おうとしていたのが何より悍ましい。本能的に彼女は口を開けようとした。そのミルクの匂いのするやわい肌に歯を突き立てて、肉の味を感受しようとした。

 

 夏油を見て「美味そう」と思うのと、実際に赤ん坊を食おうとしたのでは話の深刻さが違う。

 

 間に五条が入っていなければ、今頃彼女は赤ん坊の頬を食いちぎっていただろう。さすれば赤ん坊は死んでいたかもしれず、『人間を殺さない(一部除く)』の縛りに抵触することになった。幸い、彼女の異変に気づいたのは、櫻の事情を知る五条だけだった。

 

 ────いや、何が「幸い」なのか。言い訳がましいにも程がある。

 

「………ッ」

 

 頭がドクドクと脈打つ。心臓も暴れ、気温に見合わない汗があふれ、シーツに吸い込まれていく。荒い呼吸の中に、ハハ、と嘲笑が混じる。ああ何ということだろう。彼女はすっかり忘れていた。七海への恋心にドップリと浸かり、自分が何者であるかを忘れようとしていた。それはとても罪深いことだ。

 

 

「私はぁ、バケモノォ……!!」

 

 

 ハハ、フフフ──と彼女はなおも笑う。笑いながら涙を流し、ベッドの上で丸くなり、シーツに手足が巻き込まれ、芋虫になった。

 

 

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 釘を刺そうとした五条は、刺す前に猛省している彼女を見て毒気が抜かれた。

 

 櫻はその日、朝に弁当を作る気力がなく、食堂で七海たちと昼食を取った。任務も踏まえ、毎日弁当を作れるわけではない。週に数回、少なくて1回といった具合だ。

 

 

 談笑する七海と灰原を尻目に、ラーメンを啜る。同じものを大量に食べたい日もあれば、幅広く楽しみたい日もある。今日の気分は後者だった。汁まで飲み干した後は別の大皿に手を伸ばす。ハンバーグの肉を切り分け、持ち上げるとソースがとろりと落ちた。皿に添えられたグリンピースと共に口の中に招き入れ、咀嚼する。

 

 濃厚なソースの味。染み出した肉の脂が口の中で弾ける。美味かった。肉、肉が美味い。肉、肉────?

 

 

「ッ……!」

 

 

 食事の手が止まる。彼女は口を押さえた。腹は減っているはずなのに、精神的なブレーキがかかる。

 

 脂が食道をぬらつかせ、肉が胃に降りていく。しかしそれが逆流し、競り上がる。

 

「安倍さん?」

 

 ラーメンの器に置かれた箸が転がり、テーブルの上に落ちる。彼女の目は一点を凝視し、背筋を固定したまま椅子を後ろに引く。横から七海の声が聞こえる。ただ、それよりも今は体で起きている謀反がまずい。

 

「…気持ち悪いのですか?」

 

 うんと、首を横に振りたいが、そうすれば揺れた脳がそのYESを、「吐いていい」のYESにとらえてしまう。まさかこんな場所で吐くわけにはいかない。

 

 

 そもそも、今までこうした嘔吐感に見舞われたことがない。頭がパニックになっている。

 

 彼女は現在地から、食堂のトイレの場所を計算する。背中に誰かの手が触れる。声の近さからその手が七海のものであるとわかる。

 

「僕、厨房から袋をもらってくる!!」

 

 灰原の声も聞こえた。背中がさすられている。触れられている場所がじんわりと温かくなる。

 

 七海の熱が分けられている気がした。これは人間の熱である。七海は人間で、自分は人間の肉に涎を溢れさせてしまう。

 

 吐き気がより増した。もうこれ以上歩けないが、歩かなければ醜態を晒してしまう。それはできない。何より七海の前で。そいつはちょいと、彼女の乙女心が許さない。ゆえに、根気で歩く。競り上がったものを飲み込むと、酸っぱいにおいが鼻腔を犯し、より吐き気が増す。

 

「どこへ……あぁ」

 

 安倍の行きたい場所を察した七海は、なるたけ歩く彼女の負担にならないように介助する。

 

 自分はバケモノで七海は人間で。そんな事実が彼女の思考を回る。

 

 自分がバケモノだと知ったら、七海はどう思うのか。本能が人を餌だと認識してしまっている己を、七海はどう思うだろう。怖かった。ナナミンなら絶対的に寄り添ってくれる。ナナミンは彼女を裏切らない。しかしナナミンはもういない。七海はナナミンと似ていても、違う。ナナミンのように、七海がバケモノの彼女を嫌わない保証はない。

 

 

 きもちわるい。

 

 

 もう限界だった。ただ、努力は実った。女子トイレの手前までたどり着いた後、灰原が厨房に行った際に事態を察した中年の女性が駆けつけ、七海と介抱を替わった。

 

 食べ物を吐くのははじめてだった。胃が痙攣し、中身が便器にぶちまけられる。気持ち悪い。ただただ、気持ち悪い。自分の存在が気持ち悪い。自分はどうして生まれてきてしまったのだろう。涙が流れる。髪が後ろに引っ張られる感覚とともに、背をさすられる。「大丈夫よ」と顔なじみの女性の声が聞こえる。

 

 吐いて、流して──を何度か繰り返し、胃の収縮がおさまった頃には疲れきっていた。ぼんやりとする頭でうながされるまま、ペットボトルの水を口につけ、うがいしてから吐く…を繰り返す。

 

 そのまま、医務室で眠ることになった。寝るまでは秒だった。

 

 

(絶対に……隠さないと)

 

 

 愛しているからこそ、誰よりも自分の『事実』を知られたくない。

 知られる前に離れてしまえばいいのかもしれない。だが、その選択は選べない。

 

 とっくのすでに、七海建人は彼女の縋る先になっていた。

 

 この腕を離したくない。

 

 この恋は、彼女にとって猛毒に違いなかった。それはもしかしたら、七海にも。

 

 

 

 

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 眠りに落ちた先で、彼女は血の羊水に浸る。

 

 どこまでも紅い、紅い海。

 

 天上に浮かぶ悍ましい赤ん坊を目にした彼女は、鳴き声を聞いた。

 

 ああ、と彼女は理解する。『アレ』は自分だ。

 

 

 

「やっぱり、私ってバケモノじゃん」

 

 

 

 涙は出ない。その代わり、バケモノらしく笑って見せた。

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