腹ペコ毒蟲【新版】 作:アンディライリーのうさぎ
櫻は肉が食べられなくなった。食べたとしても心理的なもので吐いてしまう。それ以外は普通に食べられる。魚も問題ない。ただ、刺身のような血の味が強いものはやはり、人の肉を想像してしまいダメだった。
「ベジタリアンも、こんな気持ちなのかな…」
心配をかけた七海と灰原には、「フォアグラの作り方を知っちゃって…」と誤魔化した。フォアグラの作り方を調べようとした灰原は、七海に止められた。
また、彼女は夢の中で頻繁に赤ん坊の泣き声を聞くようになった。
自身の生得領域が反映されたその場所に浮かぶ、巨大な赤ん坊。現実でもその鳴き声が幻聴として聞こえる時がある。
赤ん坊は何か自分に訴えかけているのだろうか? 悩んでいる時にふと脳裏によぎったのは冥冥である。彼女は早速、冥冥に聞いてみることにした。
「赤ん坊って、どうして泣くんでしょうか?」
『私に教えを乞いたいわけだね』
「授業料なら払います…!」
『うん、いいだろう』
金額は後輩割引で良心的である。冥冥は自分の弟を例に挙げ、どのような時に赤ん坊が泣くのか教授する。
『腹が減った時やオムツが汚れた時、何か生理的な欲求により泣くこともあれば、外的な刺激に触れて泣くこともある』
まだ言葉を発せない赤ん坊は、自分の欲求を示す方法を『泣く』行為で表現している。
「泣いてばかりじゃ、お世話をする方は大変じゃないですか?」
『大変かもしれないね。ただ弟は、私に抱かれている時は泣かないんだよ』
「…きっと、お姉ちゃんが怒ると怖いと感じて──」
『おっと、私はすでに高専生ではないから、後輩割引は無効だったかな?』
「お姉ちゃんが美人だから、緊張してるんですね!!」
『それは…フフ、困った弟だね』
ミステリアスな雰囲気を醸す冥冥は、なんだかんだで弟が可愛くて仕方ないようである。まだまだ小さい弟も、姉が好きだというのが表情や言動から感じ取れる。
櫻は亡くなった義兄を思い出した。彼が生きていたとして、多少の歩み寄りはできても、冥冥とその弟のような関係にはなれなかっただろう。
『しかし、安倍君がいきなり赤ん坊の件を聞いてきたということは……』
「な、なんですか?」
『一応言っておくけれど、相手が18にならないうちは、きちんと避妊をするようにね』
「…………え?」
『じゃあ、ここら辺で切らせてもらうよ。授業料はいつものように、指定の口座に頼むね』
電話が切れた。ツーツーと電子音が鳴る。呆けたままの櫻はベッドに横になり、徐々に理解が追いついてきた頭が爆発し、「うわあああっ!!!」と叫びながらフローリングにローリングした。
勢いでテーブルの脚に足の甲をぶつけ、卓上のものがテーブルもろとも吹っ飛ぶ。化粧水や鏡が吹っ飛んで大惨事となった。
ハーハーと、彼女は荒い息を吐く。エアコンが付いているが、汗だくになっている。せっかく風呂に入ったというのに、また入り直さなければいけない。
(いやいやいや、まだちゅーだってしたことないし、手を繋いだことしかないし)
彼女は自分の手のひらを見つめる。自分よりも身長は低いが、手は大きかった。そう、手は大きかった。あの手が自分の手を握っていた。彼女はまたローリングして、『
(七海くんはまだ15歳!! もうちょっとで16歳になるけど……えっ、15歳と19歳が付き合ってる!!? 15歳と19歳が付き合うのって問題ないの!? 問題? 大問題選手権?? いや、夜蛾センセーも「……学生の領分は忘れないように」って言ってただけで、交際自体は否定しなかったし大丈夫だよね! ……………ねっ!
彼女はハム太郎を「ハム」から連想して、「肉太郎」と勘違いしているのはともかく────。
「………七海くんは、経験したことがあるのでしょうか?」
櫻は気になった。非常に気になった。
さすがに七海に面と向かって「あなたは非童貞ですか?」と尋ねる勇気はない。
しかしあの容姿だ。モテていたのは間違いない。モテていなかったらむしろ周囲の女性の正気を疑う。あんなにカッコいいんだぞ? もうマジかっこいい。S・K・ローリングは転がる。テレビが落ちてきた。
「灰原くんに…いや、灰原くんにこんな話をさせるのも……二人の友情にヒビが入ったら大変だし………やっぱり頼むなら2年の男たち…?」
夏油は親交が薄いので、頼みにくい。だとすれば五条になるか。『
問題は七海がこの問いに正直に答えるかという点である。
「…………やっぱり、知りたいぃ…!!」
櫻はソファーに衝突する。ぶつかった拍子に動いたソファーの脚がフローリングを傷つけた。
「櫻先ぱーい?」
先ほどからの騒音を聞きつけ、硝子がやってきた。
玄関を開けた彼女の目に映ったのは、泥棒に入られたのではないかと見紛う荒れた室内と、その中心で仰向けになっている先輩の姿だった。
◇◇◇
1日限定20個のプリンを携え、櫻は五条に例の件を依頼した。七海に女性との経験があるか否か、聞いて欲しいと。
白い箱から出てきた
「お主も悪よのう」
「ふふ……お代官様こそ」
「で、確実に聞ける保証はねぇけどいいんだな?」
「はい。大丈夫です」
密約はかくして果たされた。五条は早速、付属の黒いスプーンでプリンを頬張る。そして実に美味そうにそれを平らげた。
「ところで、坊ちゃんはこれまでどのくらいの経験がお有りなんですか?」
「……なぁ、自覚のないノーデリカシーが一番タチが悪いって自覚した方がいいぞ」
「分かりました。それで、経験人数は?」
「何も理解してねぇ「分かりました」だろ…!!」
彼女は一般の男子校生の平均値というのを知りたかった。五条がその「一般」の枠に入るかは微妙だが、データを集めておくに越したことはない。
「まぁ、月並みには?」
「その月並みが分からないから聞いているんです」
「そう言うユーはどうなのよ」
「私ですか? 私は────ゼロです!」
櫻はなぜか胸を張って答えた。彼女的に、恥じる理由は何もないがゆえの堂々さだった。
「それで、坊ちゃんは……あっ!!」
五条が悟空のように消えた。とっさに彼女が出入り口の方を見ると、これまた最終巻の悟空さのようなポーズで「アディオス」と言って去って行った。
空になった教室に一人残された彼女は、結局その「月並み」の数を知れぬままになった。
◇◇◇
五条から「メンゴ〜」と軽い挨拶のメールから始まり、例の件が失敗に終わったことを知らされた。
櫻はまぁ仕方ないかと、一旦諦めることにした。やはり、聞くなら自分で特攻するしかないのかもしれない。
ちなみに同日の昼に昼食を共にした七海は、いつもよりピリついていた。もしやと彼女は思ったが、灰原曰く、やはり五条の絡みが気に障ったらしい。
「………ごめん」
「なぜあなたが謝るのですか。悪いのはあの人です」
「………違うの」
「違うとは?」
「……私が、五条くんに…お願いしたの……」
彼女の言葉が尻すぼみになっていく。それでもどうにか言葉を紡いだ。内心は悪いことをして先生に叱られる小学生の気分である。
「………
「……はい」
櫻は七海に連行されていく。灰原は二人に向かって小さく手を振った。
櫻が連行されて行ったのは二年の教室から離れた空き教室である。一番盗み聞きをしてきそうな者たちから物理的な距離を置いた結果だ。
隅にあった椅子の二つを引っ張り出し、二人はそこに座った。
「それで」
「…はい」
「事情をお聞かせ願いますか」
「……はい」
冥冥から赤ん坊の授業を聞いたのは省いていいだろうと思い、端的に先輩と電話のやり取りの中で、そういった性的な話題が出たのだと明かす。
「そこから、その………七海くんは女性との経験があるのかと、気になって…」
「────五条さんに探りを頼んだと?」
「……はい」
「ハァー……」
七海は頭を押さえた。7:3に分けられた前髪が崩れる。櫻はため息に肩をびくつかせ、ジッと床のゴミが挟まっている木目を見つめる。脳内で「嫌われたかもしれない」と後悔の波が押して押して、溺れそうになっている。
「ちなみに、どのように頼んだのですか? 詳しく教えてください」
「えっと…『お代官様、此度は貴殿にお願いが一つございまして──』」
「待ってください」
「…はい?」
「………文字通りそのままの内容で言ったのですか?」
「そう、だけど…」
七海はまた頭を押さえた。彼女が結構ノリで物を言うことを、彼はあまり知らない。七海の前では櫻もガラスの靴を履く。乙女という生き物になる。
「すみません、続けてください」
「……『あの、な、七海くんの……け、経験人数を知り、たくて……この1日限定20個のプリンで、何卒──────ふふ……お代官様こそ』」
アップダウンの激しい会話だった。聞いている側のふり回され加減が凄まじい。しかし、話は読めてきた。七海は背もたれに背を預け、腕を組む。
「安倍さんは「経験人数を知りたい」とおっしゃったのですね?」
「う………はい」
「単純に、あの人の聞き方が悪かったです」
「五条くんは七海くんになんて言ったの!?」
「………」
「アッ………ひとまず、気に障る、言い方だったのね…」
「もちろん質問の内容も、ですが」
「………ごめんなさい」
冥冥の弟の件の時と同等の猛省さに駆られている。今回はさらに罪悪感がたっぷり上乗せされている。もう下を向いている頭を上げられない。このまま額を地面につけ、そのまま回転してブラジルに行ってしまいたい。いっそ、土下座をすべきか。今ここで。それで、七海がいないと自分はもう生きていけないと、縋り付けばいいのか。
「気になるのですか?」
上からそんな七海の声が降りかかり、後頭部あたりにぶつかる。彼女はゆっくりと顔をあげ、視線をさまよわせる。
「七海、くんが嫌なら…」
「どうして、気になるんですか?」
「………」
七海の背が前のめりになり、彼女の顔に近づく。逸らしてしまう彼女に対し、青い海の目はまっすぐに彼女の瞳に向けられている。
櫻の中で罪悪感とは異なる、カッとしたものが体をのぼって頭にたどりつく。汗が流れる。それは、羞恥心という感情である。
「好き、なので…」
「………」
「私は、恋を今まで知らなくて、でも……七海くんのことを初めて『恋』の意味で、好きになって………私はそういった、経験がない…から。何か、余計に、気になってしまって……」
もっと冷静に考えるべきだった。これを聞いたら、七海が嫌がるだろうかと、審査を通すべきだった。しかしそれを忘れて──というより、そこまで頭が回らなくなり、結果として七海に不快な思いをさせてしまった。
彼女は蚊の消え入るような声で、再び謝った。
「…ありませんよ」
「ごめんなっ………え?」
「ありません、と言いました」
「………本当に?」
「なぜ疑うんですか…」
そもそも、と七海は続ける。半年前までは中坊だった年頃で、しかも呪術高専のような特殊な場所に入った男に経験もクソもないだろうと。交際経験はあるかもしれないが、中坊で性行為は乱れすぎていると。
まぁ五条が質問というか、もはやセクハラ発言をかましてきた時、一名の表情が怪しかったが。前髪に個性を出している人が。
「回りくどいことはせず、今後は聞きたいことがあるなら直接私に聞いてください」
「…何でも?」
「内容は加味します」
「……わかった」
彼女が死刑を覚悟した判決は、執行猶予付きで終わった。
肩の荷が降りると、安心感にホッと息を吐く。
「……あっ! そう言えば、五条くんは「月並み」の経験らしいよ!」
余計なことを口走ってしまった彼女は、また椅子に座らされることになった。どんな流れでそうなったのか説明させられ、彼女が五条に自身の経験人数を語ったあたりで七海の顔に影ができる。
食堂の時よりよっぽど機嫌が悪くなった七海に、櫻は肩を縮こませるしかなかった。
◇◆◇
赤ん坊が泣いている。彼女の動きに合わせて、紅い水面に波紋が生じる。
「うん、本気でできるとは思ってないよ」
彼女は誰に聞かせるでもなく、ポツポツと呟く。
「できないよ。しちゃいけないよ。それくらい私にもわかってる」
赤ん坊が泣いている。静かにしてよと、彼女は思う。
「そう、私はバケモノだから。だから泣くなよ、黙れよ」
赤ん坊は泣いている。求めて泣いている。
「お前が泣かなくたって、自分が何者かはわかってるよ。だから、いい加減に……」
赤ん坊は泣く。
お腹が空いたと、泣いている。