腹ペコ毒蟲【新版】   作:アンディライリーのうさぎ

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35話 お酒ははたちから

 泣き疲れて寝てしまった安倍を抱えた七海は、どうしたものか頭を悩ませた。

 女子寮に、しかもこの時間帯に行くのは憚れる。かといって、自分の部屋に連れて行くのもハードルが高い。

 

 眉間に皺を寄せていた彼はそこで、高専にある仮眠室の存在を思い出した。呪術師よりも補助監督が利用する機会の多い場所である。かくいう七海はまだ利用したことがなかった。

 たしか、一応男女別ではある。しかし利用するのがほとんど男性ばかりのため、その区分もかなりあいまいなものになっている。

 

「………はぁ」

 

 七海はずり落ちる足を一度抱えなおし、仮眠室へと向かった。

 

 

 

 中に先客はおらず、電気をつけると接触の悪い蛍光灯がにぶい光をともす。

 少しのほこりっぽさを感じた七海は、安倍をベッドに横にしてから窓を開けた。

 春先の今ごろ、少しの肌寒さが冬の名残りを感じさせる。と同時に、春の匂いを感じた。植物が織りなす花の香りだ。

 

 深く、ゆっくりと息を吐いた七海は安倍に視線を戻した。

 胎児のように丸くなっている彼女は、小さな寝息を立てながら枕を抱きしめている。泣き腫らした目もとはすっかり赤くなっていた。

 

「………」

 

 七海は慰めるような気持ちで、閉じられたまぶたの下を人さし指でなぞった。

 

「い……せ、ぇ」

 

 安倍の手がおもむろに、七海のスウェットの袖をつかんだ。彼はその手をやんわりと外させようとしたが、思いのほか手はしっかりと握られているようで、なかなか外れない。

 その間も、壁に掛けられた時計の秒針が進んでいく。すでに丑三つ時の時間になろうとしていた。

 格闘の末に奪われた上のスウェットは、安倍の新しい抱き枕になった。そして今度はズボンの方を彼女の手がつかんでいる。

 さすがに下まで奪われては堪ったものではなく、困った七海は佇立する。

 そうして佇んでいると、春の夜風がだんだんと瞼を重くする。いっそこのまま隣のベッドで寝てしまいたくもなったが、それは彼の紳士の部分が是としない。

 

「……安倍さん」

 

 結局、七海は安倍を起こすことにした。黒いまつ毛が震え、紅い瞳がわずかにのぞく。

 手を外して欲しい、と七海が頼む前に、安倍の手が離れた。

 

「!」

 

 と思いきや、離れた手は七海の手を握る。

 半覚醒であろう瞳が、ぼんやりと彼を見つめている。手のひらの熱が七海の全身にじわじわと伝播していくようだった。

 

 一方で安倍の瞳はゆっくりと閉じ、そのまままたささやかな寝息を立てて眠り始めた。

 

 七海は自由な方の手で顔を覆い、ハァー…と息を吐く。

 彼女を労わりたい心情の裏でのぞく若い欲に、彼自身が翻弄され、転がされていた。

 

 

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 翌朝、隣のベッドで眠る七海の姿を見た櫻は、昨晩──というか、日づけ的には今日起こったあれやそれやを思い出し、悶絶した。

 ついでに悲惨な状態の顔も確認し、ホームアローンの主人公のように叫んで卒倒しかけた。瞼は腫れぼったくなっている上に、化粧も中途半端に落ちている。

 

 ひとまず起きた七海に顔を隠しながら謝り倒し、脱兎の勢いで自室に帰り化粧を落として、そこで風呂キャンしたことにも気づき、また叫んでベッドに沈んだ。

 好きな人に迷惑をかけただけでなく、悲惨な顔を見せて、しかも風呂キャンの身で隣で寝てしまっていた。

 もしかしたらイビキまでかいていたかもしれない。考えれば考えるほど、このまま消えてしまいたくなる。

 

「……あ、メールだ」

 

 相手は七海からだった。内容は彼女の身を案じるものだった。

 実際、テンパっていた櫻は一方的に謝り退散したため、七海が話すタイミングを遮ってしまっている。

 それもあり、送られてきたメールである。

 

「心配してくれた七海くんに私、私……ッ、ろくにお礼も言わずに逃げて来ちゃってるしぃ……!!」

 

 メールを見た彼女は再び自己嫌悪のスパイラルに陥り、撃沈した。

 

 

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 一日一日と時間が流れるにつれ、櫻の散らかっていた感情が少しずつ整理されていく。

 春になり、東京が桜の開花時期を迎えた時節。彼女は歳を一つ重ね、おとなの仲間入りを果たした。

 モラトリアム期間も呪術師を続けると語った彼女への反応はそれぞれである。もの好きだな、の反応が大多数だった。

 

 

 20歳になった櫻は、歌姫に誘われ、早速自分の部屋で宅飲みをすることになった。(飲まされたともいう)

 歌姫は早々に酔いだし、真っ赤な顔で愚痴を吐いている。

 一方で櫻はその愚痴の合間に酒を注がれ、飲み進めていった。

 酒は飯と違い、注いでも注いでも、腹がなかなか膨れない。味はザ・アルコールのにおいがするものより、カクテルの方が好みだった。まだこちらの方が、腹が満たされている感覚がする。

 

「お酒って、なんかフワフワしますね」

 

「このこーよー感がぁ、いいんらない!」

 

 歌姫はいよいよ酒に溺れ、グラスを握りしめたままテーブルに突っ伏して寝だした。

 あたりには開けられた缶ビールや酒瓶が転がり、室内全体にアルコール臭が充満している。

 櫻は重い頭を引きずりながらベランダの窓を全開にし、ついでに換気扇も回した。飲むならば、居酒屋などにすればよかったかもしれない。しばらくはアルコールのにおいが部屋の芳香剤になってしまいそうだった。

 

「まだ、歌姫ちゃんが用意した缶ビール、残ってるや…」

 

 櫻はチラリと酔いつぶれた歌姫を視界に入れる。

 せっかくの機会なのだ。この際、自分の限界を知る上でもさらに飲み進めていいかもしれない。そうすれば、噂で聞いた歌姫の酒での失敗談のようなことを、自分が起こさずに済む。

 

「……よしっ!飲むぞ!」

 

 そうと決まればと、櫻は新しい缶ビールを開け、一気に飲み干した。

 早々に尽きていたつまみも、隣の部屋の食料保管庫から見つくろう。

 食べて、飲み、時折面白半分で歌姫の頬を突いたり、引っ張る。それにも飽きたら適当にテレビをつけ、それを見ながら飲み進めた。

 

 

 

 翌朝起きるとひどい頭痛に見舞われた。体の倦怠感と喉の渇きが顕著に感じられる。

 

「うぅ……」

 

 ウォーキングデッドさながらの動きで立ち上がり、水を求めてキッチンに向かう。その途中で床に転がっていた歌姫につまずき、あわや転倒しそうになったところを、すんででテーブルに手をついて堪える。

 

「フゥー……」

 

 天然水と違って塩素の味が感じられる水道水でも、二日酔いに苛まれるいまの体には良薬のように染み渡る。

 

「………あんま、お酒は飲みたくないかな」

 

 アルコール臭が充満し、空き缶や空き瓶でとっ散らかった部屋を見て、櫻はそう思った。

 

 

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 4月頃には身体検査がある。そこらへんは一般的な学校と変わらない高専である。

 櫻の身長はさすがに、もう伸びなくなっていた。ちなみに去年はミリ単位でわずかに伸びていた。

 

 休み時間に2年の教室に赴くと、早速灰原が身長の話をしていた。

 

「七海は結構伸びてていいなぁ。僕は打ち止め、って感じだよ」

 

「少しは伸びていたじゃないですか」

 

「僕はッ、1センチの壁を越えられなかったんだよ…!!」

 

 灰原は燃えているようだった。熱というか、情熱というか。

 この熱気は、去年の同じ時期に見かけた、五条と夏油の間で起きたいざこざに通ずるものがある。これは硝子が「くだらねー」と呆れていた事件でもある。

 

 まあ、灰原と七海が同様の件でケンカするはずもない。

 軽い挨拶とともに部屋に入った櫻は、落ち込んでいる灰原を励ました。灰原の身長は日本男児の平均を考えれば長身の部類である。

 

「ちなみに、あと何センチくらい欲しいの?」

 

「………5センチくらいですかね」

 

 ハァ、と七海のため息が聞こえた。

 このため息は友人への呆れが透けて見えるものだった。灰原はジトっとした目で七海を見つめる。

 

「……なんですか、灰原。その目は」

 

「僕、気づいてるんだからね」

 

 灰原の視線が安倍に向いた途端に、七海の口が薄く開いた。

 

「七海くんも何か、身長で悩んでることがあるの?」

 

「安倍さんが気にされるようなことではありませんよ」

 

「……?そう」

 

 灰原は知っていた。身体測定で七海が身長が記録された用紙を片手に、「186センチか…」と呟いていたのを。

 その186センチはちょうど、安倍の身長だった。

 

 灰原は思わずニンマリとした笑みを浮かべる。無愛想な友人にも随分と、かわいげのある一面があったのだなと。

 この場合、負けず嫌いということでもあるのかもしれない。

 

「あっ、身長と言ったら、私は完全に伸びなくなっちゃってね──」

 

 雑談に花が咲いているうちに、次の授業を知らせる鐘が鳴った。

 架空の5年生である櫻は手を振り、2年の教室を後にした。

 

 

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 呪術師にとっての初夏というのは、繁忙期である。

 そんな多忙を極める呪術師の中でも、特に3年は忙しそうだった。

 五条は高専が()()()()()()特級術師ということもあり、特級の任務に追われ、夏油も夏油で1級術師の中でも抜きん出た力から任務に追われている。この二人は以前とは異なり、単独での仕事が増えていた。

 硝子の方は、もとより危険な任務に派遣されない。ただ、彼女も彼女で3年になる頃には呪術師やら補助監督の死体やら、むごい姿になった遺体を()()()()しまうようになった。

 

 呪術師というのはイかれている。

 逆にいえば、イかれていなければ壊れてしまう。

 そんな現場だった。

 

 

 

「忙しい……」

 

 櫻もまた、目を回すような忙しさに見舞われていた。時に歌姫と組んだり、時に冥冥と組んで任務に当たったり。

 また去年の目標である『準1級になる』も無事に叶ったため、今年は新たな目標を設定している。

 

(デンマーク語を習得するぞ〜!)

 

 呪術師とは関係のない目標ではあるが、彼女は俄然やる気になっていた。

 何せ、七海建人の母方の祖父がデンマーク人なのだ。この情報こそ知ったのはかなり前である。

 櫻は最初七海がハーフだと思っていた。しかし実際はクウォーターだった。

 

 元々デンマークの文化などは調べていたが、言語を勉強する余裕はなかった。本来ならばモラトリアム期間であるこの時期。多少は私欲に走っても構わないだろう。

 言語を習得した暁には、七海を驚かせる予定である。ちなみに肝心の七海はかじる程度しか話せない。

 

(単語帳…?)

 

 車を運転する補助監督の男は、後部座席で単語帳とにらめっこする櫻に首をかしげる。

 彼女はこうして、移動時間や家で勉強に勤しむ毎日を続けている。

 また、時たま一年の指導に回されることもあった。どうやら七海や灰原との任務の立ち回りや、二人の特訓に付き合っていたのが評価されたらしい。

 

 彼女は七海と灰原を焼き芋パーティーのほかに、そば打ちや餅つき、パン作りに巻き込んでいた裏で、請われれば体術の訓練にも付き合っていた。

 七海と灰原も力をつけることには貪欲だったし、櫻は五条に「素手の方が強いのに、何で武器を使ってんの?」と言われたことがあるところからわかるように、体術に秀でている。

 無論、七海たちは彼女だけでなく、五条や夏油に指南を受けることもあった。五条の上からハンコック的な態度はともかく、夏油は親身にアドバイスをしており、灰原は夏油から指南を受けることも多かった。

 

 まぁ、そのような経緯や、現場の五条や夏油が等級の高さから必然と舞い込む仕事が彼女より多くなっていることで、櫻に指導の鞭が渡されている。

 

 1年は彼女からすれば4つも学年が離れている。中坊を抜けたばかりの彼らは、彼女的にまだまだ子どもで、ともすれば擁護欲をも感じさせる初々しさだった。

 一方でその若人たちは、色々とでかいお姉さんに性癖が歪められていくのだった。

 

 

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 初夏を過ぎ、いよいよ夏本番が迫ってきた。

 忙しさも減ったかに思われたが、実際そうでもないのが現状。

 昨年発生した災害の影響が大きいのだろう、初夏を過ぎても呪術師の繁忙さはさほど変わらなかった。

 

 最近の出来事は夏油が特級入りを果たしたことだろうか。櫻は「すごいな…」と思った。特級はなろうと思ってなれるものではない。生まれ持った才能や力と、それを伸ばす力。それらすべてが噛み合わないと至れない境地だ。例えば五条でも、無下限か六眼のどちらかが無ければその力は大きく削られる。

 それでいえば、呪霊を食べれば食べるほど強くなれる彼女は、いずれは特級になるのも夢ではないのかもしれない。(『蟲人間』の存在が明るみになれば、特級術師になれる可能性が高いが)

 

 しかし、幼少期からいまに至るまで、人目を盗んで呪霊を捕食し続けても準1級止まりだ。──いや、呪具を用いなければ1級は目指せるだろう。ただ、ナナミンへのリスペクトは譲れない以上、ハンマーはやはり手放せない。

 

「強さ、かぁ…」

 

 強さは呪術師に必須だ。そして呪霊を食べれば食べるほど強くなれるなら、彼女は進んで力を求めるべきだ。

 

「………そこまで、貪欲になれないな」

 

 彼女は力のために呪霊を捕食するというより、呪霊が美味いから食べている節がある。もちろん、力は求めている。ただ、力への求心が食欲にとうてい及ばない。

 彼女の食欲は、時に櫻自身を苦しめる。赤ん坊を美味しそうと思うならともかく、本当に食べようとしてしまったのがその最たる例だ。

 実際に思うのと、行動するのではわけが違う。少なくとも、彼女の中では。

 

 苦しんでいた心もしかし、抑えきれぬ食欲に支配され、食べられなくなっていた肉を「美味い」と感じさせる。食べられなかったはずなのに、吐いてしまうほど拒絶感を抱いていたはずなのに、手が止まらない。うまいうまいと、彼女を芋虫(バケモノ)に変身させていく。それも変身したら二度と戻れない、バケモノへと。

 

 

「………」

 

 

 暗闇にたたずむ自販機の明かりが彼女の頬を照らす。

 櫻は野口英世を投入し、缶ビールを買った。酒は苦手だと感じつつ、眠れない夜はこうしてアルコールの力に頼ってしまう。酒の魔力が忘却の呪文をかけてくれるのだ。そうすると翌朝の不調と引き換えに、今の苦しみから解放される。その苦しみが生きている以上、一生ついて回る枷だとしても。

 

「ぷはぁ!」

 

 早々に500mlの缶を飲み干し、そばに置いてあるゴミ箱に入れる。それから自販機の在庫を尽きさせる勢いで大量に買い、両手いっぱいに抱えて寮に向かう。

 

「「あっ」」

 

 その道中で櫻は、スウェット姿の夏油と遭遇した。

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