腹ペコ毒蟲【新版】 作:アンディライリーのうさぎ
ここ最近、安倍の元気がなくなった。その変化は食事量で判断できる。多ければ元気、少なければ元気がない。実にわかりやすい基準だった。
「夏油さんも元気がないけど、安倍先輩も元気がなくなっちゃったね」
「……そうですね」
任務帰り、灰原と七海はタクシーの中にいた。灰原はコンビニで買ったおにぎりを食べており、七海はその隣で安倍からきていたメールの返事を返している最中だった。
「…みんなさ、抱えてばかりだね」
「……えぇ」
「僕も何か力になれたらって思うけど、きっと、難しいんだろうな…」
灰原は以前から夏油の気分を晴らそうと試みていた。しかし効果は現れなかった。むしろ、夏油の心のグラフは右下りを続けている。
「…本当は、二人で海に行く予定だったんです」
「七海と安倍先輩が? いつ行く予定だったの?」
「私の、誕生日の近辺で」
「あぁ……今年は初夏を過ぎても任務が多いからねぇ…」
はたして夏の間に二人で海に行くことができるのか。今のところ未定である。
七海はそれで、安倍を元気づけられたらと考えていたようだ。
「行くとしたら、どこの海に行くの?」
「彼女は沖縄がいいとおっしゃっていました」
「沖縄か! 僕らも去年行ったね、任務で」
「五条さんたちに振り回されましたけど」
「…うん」
「………」
7時を過ぎても、まだ陽が出ている。
訪れた沈黙に耐えかねた七海は、携帯から視線を移す。赤い夕日をバックに見えた友人の横顔には、ご飯粒が無数についていた。
「…あれ、七海なんで震えてるの?」
「なっ……んでもないです」
◇◇◇
夜に夏油と偶然出会してから少したった後、櫻のもとに五条が来た。夏油から彼女の件を聞いたようである。
「お前、傑を食ったんか」
「……そんな、生徒を食い物にしたみたいな言い方…」
「事実だろ」
五条は夏油と硝子が、夏油の肩の傷の件を伏せていたため知らなかったらしい。禪院甚爾を殺した五条のもとに夏油が訪れた時には、すでに肩の傷は硝子によって治療されていた。
硝子が五条に黙っていたのは、夏油と似た思考があったからだ。
五条が知らない場合も、なまじ彼が最強な分、安倍に大きなリスクが生じる可能性があった。
以上から硝子は黙認兼、様子見を選んでいた。
「………」
櫻はスッと、五条に両手首を差し出す。半目になった五条は彼女の額にデコピンした。加減は当然されているが、しかし櫻が涙目になるくらいには衝撃がある。
このデコピンにはきっと、色々と含まれている。親友を傷つけられたことへの怒りや、彼女を咎める五条の心情などが。その中には彼女を思いやる心も含まれている。
「……すみません、でした」
「俺に謝ったってしょうがねぇだろ」
「言い訳になってしまいますけど…当時のことはまったく覚えていないんです」
「無意識だろうと殺しちまったら、それでアウトだってことわかってる?」
「………」
黙り込んでしまった彼女に、五条はハァーとため息をつく。彼とて追い込みたいわけではないが、安倍の抱えている爆弾の都合上、多少厳しくせざるを得ないのだ。
「で、硝子へはまだってことね」
「……はい」
櫻はスカートの裾を強く握りしめる。硝子に自分の事情を話して………どんなリアクションが返ってくるのか。それを考えていると、やはり七海に行き着いてしまう。
最近の彼女はずっとこの繰り返しだ。硝子にと考えて、七海のことを考える。結果として、好きでもない酒に逃げている。
「硝子には大丈夫だ、話しても」
「私の悩みがそこじゃないのは、あなたもわかっているでしょう」
「それってさ、今悩んでも仕方なくね?」
「それができないから、私の睡眠の質が落ちているんです」
坊ちゃんはいつも快眠そうでいいですよね、の言葉に、五条は笑みで返した。
◇◇◇
青い海の延期が決まり、櫻の内心ではハリケーンと台風が手を取り合って世界を破滅に導いている。
せっかく、アレコレと用意していたのに。ちょっと大胆な水着にしてもいいよね? ──とか、考えていたのに。
明るくなり始めていた心は一気に沈み、深海魚とお友だちになっている。まだ硝子には話せておらず、仕事の忙しさのせいで七海とも会えていない。
そんな折、珍しく2年のサポート役として任務をできる機会が訪れた。七海や灰原と任務を共にするのは去年以来で、久しぶりのことだった。
「さて!」
軽いランニングを終えた彼女は、シャワーを浴びてからテーブルに向き合う気でいた。
千里の道も一歩から。語学習得の道のりはまだまだ遠い。
教材やノートを用意してから、櫻は風呂に向かった。汗を流してスッキリしたところで、部屋着に着替える。
「やぁ」
リビングに向かうと、知らないお姉さんがビールを飲みながら教科書をめくっていた。
「ひゃっ………110番!!!」
しかして彼女の携帯は、テーブルの上に置きっぱなしだった。
◇◇◇
不法侵入者の正体は特級術師、九十九由基だった。ベランダから侵入したらしく、靴が綺麗に揃えられている。
九十九由基といえば、高専の仕事を受けないことで有名な女である。櫻もそのくらいは知っていた。
(何でこの人が私の部屋に…?)
「ところで安倍君、君はどんな男が
「いや、その前にあなたがここにいる理由をお聞きしたいんですけど…」
「質問に質問を重ねるのはナンセンスだよ」
「えっと…じゃあ七海くんです」
「七海? ……あぁ、君の彼氏くんだね」
どうやら、九十九は彼女の情報をすでに知っているらしい。何か裏がある。でなければ、一介の術師の情報を特級術師の九十九が好きこのんで手に入れるはずもない。
紅い瞳がスッと細まる。喉がゴクリと鳴った。願わくはこの予想は当たってほしくない。
九十九は櫻の内心を見透かすように、「とりあえず座ったらどうだい?」とうながす。
「まどろっこしいのはいりません。あなたの目的をお聞きしたい」
「では、単刀直入に聞こう。君は『
「ひゃく……?」
「その表情は知らないようだね」
「………」
百蟲毒蟲。櫻の中で何かが引っかかる。『
幼少期、あの屋敷にいた頃、読み聞かせてもらった腹ペコの虫の絵本から名づけた名前で────、
(あっ)
そこで、櫻は思い出した。自身の術式の、本当の名前を。
名前の響きが可愛くなかった。そんな理由で変えた、術式名。
──────『百蟲毒蟲』
それが安倍櫻の──いや、『
しばし呆然とした櫻に、九十九は大丈夫かい、と声をかけながらビールを飲み進める。
「何か思い出したようだね」
「……なぜその名前を、あなたが知っているんですか?」
「偶然知ったんだよ。海外を色々とまわっている過程でね」
九十九が『百蟲毒蟲』という名を知ったのは、中国だった。中国の中でも都会からはるかに離れた、日本で言うところの限界集落と呼ばれる場所である。その秘境具合も、電車を乗り継ぎバスを乗り継いで、車で2時間……のようなスケールを凌駕する。車で2時間を徒歩数日に置き換えた場所だ。
そんな場所で、九十九は村民に信仰される神の存在を知った。はるか昔、村人を
その神の名こそ、『百蟲毒蟲』である。
「しかして、こういった伝承は世界各国を回っている都合上、いろいろと聞く。この時点ではまだ私の興味を引くにいたらなかった。ただ、うわさで五条家が何かを調べていると知ってね。少し気になって調べれば、とある宗教組織を探っているらしいときた」
高専とは異なる独自のネットワークを持つ九十九だからこそ、知り得た情報。その宗教組織について九十九が探りを入れたところ、すでに跡形もなく消えているとわかった。
ただ、その組織が崇めていたらしい神の名前は知れた。人々を呪いから救うという存在。名を、『アオムシ様』。
「まぁ、似たような伝承はどこにでもあるものだ。「虫」や「人びとを救う」という類似点があるが、たまたまだろう。そうは思いつつ、私の勘が妙に引っかかってね」
五条家がなぜその宗教組織を調べていたのか。その近辺を探る中で、九十九は知る。五条家の寵児が通う東京校に、『
「これがただの偶然とは、とうてい思えないわけだ。君の過去についても少し調べさせてもらった。はたして森にさまよっていた君は、親に捨てられたのだろうか? それとも────例えば、怪しい場所から逃げ出してきたのかも、しれないね」
「………」
「そう睨まないでほしい。君をどうこうしたい、というわけでは……いや、まったくないというわけではないが、一つ私の目的を聞いてほしい」
呪霊の生まれない世界を作る。そのための“原因療法”の研究。
呪霊を退治するのではなく、呪霊そのものが生まれないようにする。それが九十九由基の目的である。
彼女はこの研究をする上で、
「君の術式は血液から生み出した虫を操るらしいが、この力に「人びとを救う」というニュアンスを持たせるのは、いささか難しいと思わないかい?」
つまり、安倍櫻は術式本来の力を秘匿している。
「……私が、どういった存在かはご存知ないのですね」
「あぁ、あいにくとそこまでは。まぁ、推察することはできるけれどね。調べたが、本当に情報が出てこなかったんだ。だからこそ、
「それで、あなたの望みは?」
「おや、まるで私が脅しているような言い方だね」
「十分な脅しになるんですよ。今、あなたが語った情報だけでも」
「……そうだね。まず、君の本当の術式の力を知っておきたい。その上で提案させてほしい」
「………わかりました」
櫻は呪霊が食べられること、そして呪霊を食べた分だけ強くなれることを語る。自分の正体=人と呪いの混ぜ合わせのことも語った方がいいのか、逡巡した。
それに九十九は首を横に振る。
「相手に付け込ませる隙を、自分から作る必要はない。今の君は私を信用できないだろうからね。しかし、いや、興味深いね………」
呪いを食らい、強くなる。呪霊の呪力を、自身の呪力に変換しているとも言える。ただ、取り入れた呪力の分だけ呪力がアップするわけではなく、この効率はかなり悪い。
「君を研究する価値はありそうだ。──さて、提案なんだが、安倍君。君は本来だと、
「………」
「このお姉さんに、付いてくる気はないかな? もちろん“縛り”付きで君の情報は伏せるし、そうでなくとも、君が望まぬならば私は君の情報を他言しないと誓おう」
「いやです」
「ははっ、そうか」
九十九は困ったように笑う。今のところ、櫻の九十九への心象は悪い。自分の情報を握っているというだけで、忌避すべき対象になる。旧知の五条や夏油は別だが。彼らは信用できる。
「まぁ、気が向いたら連絡してくれ。君がその気なら、例の村にも案内するよ」
「………」
「察するに、安倍君は自身でさえ知らないことが多いようだ。私ならば、五条家が──いや、五条君がつかめなかった情報もつかめる可能性がある。どうするかは、君の判断に委ねよう」
九十九はビールを置き、自身の連絡先を書いた紙を櫻に渡し、ベランダの戸を開く。
靴を履く九十九に、櫻は声をかけた。
「例えば……例えば好きな女の子が芋虫に変身すると知ったら、相手はどう思うでしょうか」
「恋の相談かな?」
「…違います。例えばの話です」
「そうだね。芋虫に変身するといったら、パッと思い出すのはカフカだが………その相手はきっと、驚くだろうね。怯えるかもしれないし、暴言を吐くかもしれない」
「……ッ」
「その時はきっと、その人間の本性が出る。ただ、安倍君は少し勘違いしているが、人間とて人間でありながら、バケモノに変身することがある」
「………」
「どうなるかは私にもわからない。君が自分から告白するにせよ、または何らかの形でバレてしまうにせよ、覚悟を持たなければならない。それが、君が持って生まれたものとの宿命であり、付き合い方だ」
力になってあげられなくてすまないね、と九十九は続ける。
櫻は首を小さく横に振った。
「………少しだけ、あなたに好感を抱きました」
「それならば、よかった」
ではね、と九十九は片手をあげて去っていく。
それから思い出したように振り返る。
「あっ、ごめん……そういえば、夏油君に君のことちょっと話しちゃった」
上がった好感度が、フラットに戻った。