腹ペコ毒蟲【新版】 作:アンディライリーのうさぎ
2級案件が1級相当の土地神だった。その知らせを受け、急きょ別の任務終わりに派遣されることになった五条。高専には夏油もいたが、彼よりも五条の方が現場に近かった。
術式で長距離の瞬間移動が可能だったら、移動にイラつく必要はなかった。しかし、まだこの応用の目処は立っていない。歯がゆい気分だった。
情報によると安倍らの活躍により、1級を追いつめることには成功したらしい。しかし討伐にはいたらず、呪霊の逃亡を許した。
現在術師3名のうち、七海が重傷。安倍が中等傷で灰原が軽傷とのこと。
「ハァ〜……」
問題はそれからである。
蔵にあった呪具、または呪物に巻き込まれて行方不明になったと思われる子どもと、その捜索に乗り出た灰原と安倍。
ただでさえ任務の等級違いのうえに、行方不明事件が重なり、現場は混乱している。その混乱の影響で七海の搬送も遅れた。そのため、「だったら私が行った方が早いだろ」と、硝子も駆けつけている。
(きな臭ェ…)
はたしてこれらは偶然なのだろうか? 五条は考える。事前の想定と、実際の等級違いは残念なことに発生しうる。だが、立て続けに同じ場所で高専案件が発生するのは珍しい。この二つが偶然に重なったのか、そこが問題だ。現場に安倍がいるのも引っかかる。2級案件に準1級が派遣されるのはおかしなことではないのだが。
(パイセン関連だとしたら……まさか、例の女中が手を引いてんのかね)
裏できっと、何か動き出しているのは間違いなかった。
◇◇◇
聞こえた悲鳴に七海は目を覚ました。頭がひどく痛む中で、側にあった鉈を握りしめ、立ち上がる。
集会場の小部屋に寝かせられていた彼は、肩に走った痛みにうめきながら襖に手をかける。むせ返るような血のにおいがする。最悪の予感は、その想像の上を行った。
畳に襖、避難していた人びとが使っていた座布団。そこに血を勢いよくばらまいたような痕がある。人びとは逃げまどい、四方八方へと散り散りになる。靴を履く余裕など、彼らにはなかった。
外から体を押し込んでいる見覚えのある顔の呪霊は、しかして、見覚えのない無数の手足を持っている。形だけは人間のものとそっくりだった。
「ぎゃっ」
今、七海の目の前で、その手足に捕まっていた子どもがつぶされた。血があたりに飛び散り、その子どもの肉片が彼の体に当たる。鉈の柄がきしむ勢いで握られ、色白の肌に血管が浮かび上がった。感じた呪力の気配に、呪霊の顔が向く。目前に迫った鉈はしかし、七海もろとも虫でもはらうようにはたき落とされる。
「がっ…!!」
吹き飛ばされた衝撃で、七海の体は建物を破り木にぶつかった。ズルズルとその肢体が落ちる。血が地面に吐かれた。ひどいめまいが襲う。気を抜いたらすぐに気を失ってしまいそうだった。
『ヂャア 始メルヨウ カクレンボ』
イーチ、ニー、と呪霊の声が聞こえる。
のどかな鳥の鳴き声が聞こえる中、村の至るところから悲鳴が響く。呪霊は60まで数えると、口角を限界まで吊り上げた。
────五条悟到着まで、あと30分。
────家入硝子到着まで、あと2時間。
◇◇◇
おなかがね、とってもすいてるの。おなかとせなかがくっついちゃうくらい!
わたし、どうしてこんなにおなかがへるんだろう? とってもふしぎ。
おなかがへったよう
じゅれいはとーってもおいしいよ! すっごくすっごくおいしいよ!
あかいおにくもおいしいの。よだれがたきになって、あふれちゃうくらい。
おなか、すいたな
おなかへった
ニク
オニク ある
そこに
………
だめだよ このおにくはたべちゃだめなおにくなの
さくらだって、それくらいわかるもん
………
だからたべちゃだめなの!
………
いいの? だって…
……… おにく
おなか、すいた
…ねえ
あなた
なんていうの?
◇◇◇
村人で狩りを楽しんでいた呪霊は、その全能感が崩される形で一瞬のうちに半身を失った。蒼い瞳が頭上から己を見すえる。絶対なる捕食者を前にして、本能が恐怖した。
逃げなければと手足に力を込め地面を蹴やろうとした瞬間、呪霊は思考を止めた。
──否、「思考する」ことはもうできない。
すでに呪霊は、塵芥となったのだから。
村人の半数近くが殺された。五条は一旦生存者の捜索を補助監督らに任せ、森の方に視線を向ける。村人が入り込んでいるようで、所々に呪力の流れを感じる。ノイズになるそれを意識から外し、目的の呪力を探す。非術師とは異なる呪力の流れ、それを────、
「五条さん!!」
補助監督の一人がバタバタとした様子で駆けてきた。五条は「あ」と声を漏らす。
「七海」
「そうです! 七海術師が抜け出して………え?」
「ハァ〜……」
山の中で見つけた見覚えのある呪力。五条は急いで、重傷人を回収しに向かった。
◇◇◇
安倍と灰原が昨夜、行方不明になった少女を探しに向かってから戻ってきていない。
硝子が来るまで絶対安静だと告げられた七海は、その忠告を無視して抜け出した。いま現在、補助監督らは現場の確認に東奔西走しており、彼が抜け出したことに気づくのが遅れた。
念のため鉈は装備し、フラつく足取りで七海は歩いた。途中、農業用の止め具に使う緑の棒を見つけ、それを杖がわりにする。
まともな思考ができない中、二人はどこにいるだろうかと考え、自然と森に足が運んだ。
(安倍さん、灰原……)
まばたきをするその一瞬一瞬に、死体になった村人の姿がまぶたの裏に映る。あの呪霊は七海を吹き飛ばした後、彼の方には見向きもせずに逃げまどう人びとを追った。
彼は体に力を入れたが、指一本動かせなかった。視界がかすみ、悲鳴ばかりが聞こえる。自分の荒い呼吸の音も聞こえた。
ただ、果てしない無力感が、彼の内側にはある。
一方でどうだろうか、五条悟は。現場に着いて、気絶していた七海が補助監督に手当てされていた間に、彼は特級呪霊を討伐した。チートなその力が、なおさら七海の無力感に拍車をかける。
七海建人は弱かった。目の前で殺される村人を救うこともできなかった。
噛みしめた唇から血が流れる。
それと同時に、最悪の事態を考えてしまう。
「……!」
ふいに血臭を感じた。漂ってくるその方角に七海は進む。途中で見覚えのある武器が地面に転がっているのを発見した。
足は駆け足に変わる。
包帯の下から血が滲み出す。それでも構わず七海は走る。
「七海!!!」
後ろから五条の声が聞こえたのと、目の前の光景が視界に入ったのは同時だった。
五条の歩が止まったのを感じる。
風が木々を揺らす音や、セミの声。鳥のさえずり。
その中に混じって聞こえてくる、耳を塞ぎたくなるような音。
安倍は生きていた。彼女は倒れる遺体の腹に顔を埋めていた。頭が不愉快な音を立てるたびに、小刻みに揺れ動く。
よくよく見れば、欠けた手足の場所には黒い虫がうごめいている。六眼で見た五条はその再生にも気づいた。
「………」
七海の口から空気だけがハク、と漏れ出る。声が出せなくなった。頭が動くのを拒む。
それでもどうにか言葉を紡ぐ。目尻から涙があふれた。正体のわからない涙だ。
「あべ、さん」
肉を咀嚼する音がやんで、安倍の顔が上がった。白い肌が、真っ赤に染まっている。肉片も口の端についていた。目元のあたりにもついている。
「あべさん」
紅い瞳は普段と違う。人間にあるべきものがない。理性というものがない。そこには本能しかなく、彼女は再び肉に顔を近づけた。七海は悲鳴のように彼女の名を呼ぶ。やめてくれと叫んだ。倒れているその遺体は、その男は、彼の友人だった。涙が止まらなくなった。そんな七海を、後ろから五条が支える。
「安倍櫻」
五条の言葉に、名を呼ばれた彼女は動きを止める。
蒼い瞳を、彼女は不思議そうに見た。そしてもう一度、七海の方に視線を向ける。青い海の瞳と、血の海が交差する。
「…………ななみ、くん?」
正気を取り戻した櫻は、立ちあがろうとした自分の手に触れたものを見て、固まる。
腹を食い散らかされた灰原雄の死体が、目の前にあった。