腹ペコ毒蟲【新版】 作:アンディライリーのうさぎ
彼女は、安倍櫻はハングリーに生きている。これまで夏油傑のように「非術師を救う」という偉大な大義はなかった。
かくいうその夏油が、目の前でうまそうにビールを飲む呪詛師へと転じてしまった。
彼女は悩んだ。自分がこれからどうあろうかと。多方面にご迷惑をかけているのは重々知らされた。家入には「私ってそんな美味そうじゃないんですか…?」と言われたし、五条からは「ミイラでしか見たことのねぇ細さじゃん」とかなんとか言われた。夜蛾や冥冥たちも見舞いにきた。
七海だけは、唯一来ていない。当然だろう。自分が行った所業を思えば。当然、メールのやり取りもあの日から途切れている。
櫻は飯にかぶりついた。食わないから鬱屈とした気分になってしまうのだと、過去の教訓で学んでいたはずだ。
最初はもどしてしまった。それでも食べた。胃に、自分の使命を思い出せと、胸の上から叩いて教育した。
今年の姉妹校戦は夏にいろいろとあったため、開催が遅れた。結局臨時で五条が加入し、今年も東京校の勝利に終わった──というのを、見舞いにきた硝子から聞かされた。
硝子は少し戻った櫻の胸に抱きつき、すこやかな成長を祈った。
時は流れていき、もう冬が近い頃に櫻は退院できた。久しぶりに着た制服は全体的にぶかついている。肉も完全には戻っていないし、筋肉もかなり落ちてしまった。これから鍛え直さなければならない。
胃の穴はすっかり治っている。そういえばこの穴を見せた時、約一名がひっくり返って長い足を天井に向けていた。元気だなぁ、と彼女は思うなどした。一年には見せていない。見せる前に歌姫に正座させられたからである。
葉っぱが落ちていく。白い息を吐く彼女は、2年の教室に向かった。学校に訪れるのも長らくぶりだった。先に夜蛾や3年(硝子しかいなかった)と、1年と4年の教室に顔を見せている。
訪れた教室には、机が一つしかない。心臓が止まった気がする。幻覚として現れてくれることもなかった。「安倍先輩!」と言っていた、あの元気はつらつな姿が。
七海は本を読んでいた。遠目からでもやつれているのがわかった。机の上にはメモ帳とペンもある。呼吸がしにくくなる。
前から入るか後ろから入るかで迷って、彼女は気づけばベランダにいた。そこで、青い瞳と目が合った。向こうの呼吸が一瞬、ヒュッと音を立てたのがわかった。
櫻はそのまま身投げしたくなった。しかし、堪えた。
「……私、ここから動かないから。距離、いくらでも取っていいから…」
「………」
「七海くんと、話がしたい」
七海はメモ帳を手に取り、大きめの文字で『分かりました』と書き、それを見せた。文字まで綺麗だと、彼女は思った。
七海は一瞬立ち上がり、周囲を見てから椅子に座った。
「……声、まだ出せないんだね」
『はい』
「残念だな。七海くんの声…私は好きだから」
「………」
「ごめん気持ち悪いよね忘れて」
七海はメモ帳に何か書いたが、途中で手を止め、次のページをめくる。
『安倍さんは今、体調は大丈夫ですか?』
「…うん。ちゃんとご飯は食べられてる」
『よかったです』
「………うん」
櫻は七海をじっと見つめた。髪の動きや目の瞬き。その一つ一つがはるか昔に見た姿のように思えてしまう。
懐かしさを感じた。愛おしさも感じた。見て、感じるほど、途方もなく「好き」があふれてくる。
この愛する彼に、自分は、
「謝っても、仕方ないのはわかってる。でも……改めて、ごめんなさい」
「………」
「私が『ひとの味』を知っているのは、わかってるよね」
『灰原は』
「っ、……うん」
『どんな最期だったんですか?』
「……あ、そっか。私、語ってなかったか。まだ、誰にも………」
精神の入院措置ありとのことで、高専側も彼女から話を聞けないままになっていた。それほど事件直後の彼女の精神状態は壊れていた。
櫻は灰原が逃げなかったことや、自分の前に立ち塞がったことを語る。
灰原が彼女に言った言葉を話したとき、七海の目が丸くなった。そして、額に手を当て、下を向いてしまった。
「ごめん…ごめん、何か気に障った?」
『いえ、違います』
「………私、覚えてないの。信じてもらえないかもしれないけど…すごくおなかが空いたのは覚えてて…………違う、違う……………灰原くんの内臓がこぼれた時、美味そうな色だなって思った」
「…ッ」
「でも、あの子は私の可愛い後輩だった。友だちでもあった。自分でもわからない。何であの子を………いや、それは、私がバケモノだからで」
「………」
「……灰原くんだけじゃなくて、夏油くんの肩もかじった。児相に引き取られる前、もっと小さい頃に暴走した虫が私の栄養にした。屋敷の人間が全員死んだ。私のお腹に入った」
支離滅裂としながら、櫻は堰を切ったように話す。義母と義兄を殺したあの男を殺したことも、気づけば話していた。涙があふれた。ここ最近、泣いてばかりだった。
「私は………」
彼女は携帯を開き、数か月ぶりに七海にメールを送る。
【蠱毒でひとと呪いを混ぜ合わせた】
「バケモノだから」
七海に高専に密告されて秘匿死刑になるなら、それも悪くないと感じている。
「私が灰原くんに罪滅ぼしするには、この身を捧げるしかないんだって思う」
「………」
「私、少し嬉しいの。七海くんが呪術師を辞めてくれたら、灰原くんみたいに死なないだろうって」
「フ……!」
「うん、うん。サイテーな人間だよ。人間のフリをしてる、バケモノだよ」
櫻は涙を拭った。立ち上がった七海は感情を露わにしている。
それでも彼女は続ける。
「私、バケモノになるなら、強いバケモノになろうと思うの。五条くんには絶対に追いつけないだろうけど、夏油くんを蹴っ飛ばして目の前で美酒に酔いしれるくらいには、強くなろうって」
「………」
「そうすれば、死ぬべきじゃない命を、一人でも多く救えるから」
「……ぁ」
七海は声を出そうと、喉に手を当てて苦しげに顔を歪める。
「私、頑張るから。七海くんの分も、灰原くんの分も背負うから」
「……っ」
「だから、私のこと、少しだけ好きになってくれたら、うれしい」
櫻はベランダに身を乗り出し、腰かけた。
「私と別れましょう、七海建人くん」
彼女が浮かべた微笑みは、七海が思わず魅入ってしまうほど、綺麗だった。
◇◇◇
夜、高専のとある位置にあるベンチ。アルコールが買える自販機がすぐ側にあるそこで、櫻は酔いつぶれていた。
体が半分落ちそうになっているその姿を発見したのは、任務帰りの五条だった。
「うっわ、酒くさ!!」
いくつもの空き缶が周囲に転がっている。この自販機では買えない銘柄が一つ転がっているのを察するに、部屋にあるものを飲み尽くして、追加で買いにきたのかもしれない。
「おいパイセン、こんなところで酔いつぶれられても迷惑なんだけど」
「ん……げとーくん?」
「ハ? ………」
「……ありぇ、かみしろい………あなたは、ユキのようせいさん?」
完全に酔っぱらっている。五条は仕方なく、手のひらに安倍の背中をくっつける、天内キャリー方法で運んだ。天内と異なり、こちらはおとなしい。安倍の靴の先がガガッと、地面と摩擦を生む。
「……七海となんかあったわけ?」
「ななみくん? ななみ………わかれちゃ」
「へぇー………えっ?」
「きらわれるようなこと、いった。わたし、しんでほしくない。ずるい………う゛ぅ〜〜」
安倍の瞳から、ボロボロと涙がこぼれる。その雫はそのまま地面に点々と落ちる。
表情を歪めて、長い時間を使って、そして小さく頷いた七海に、彼女は安堵した。
これでいいのだと。バケモノの自分と、七海との関係はこれで絶たれたのだと。もう、傷つける心配もない。
しかし、自分で言っておきながら、途方もなく苦しかった。七海が首を横に振ってくれることを期待している自分もいた。あんな、友人を食らうなんて惨いことをしておきながら、そんなことを考えてしまう自分が嫌になる。
「わたし、とっきゅうじゅちゅしになる」
「でもパイセンザコじゃん」
「なったら、ぼっちゃんのおしごともへる」
「俺一人で十分だよ」
「だいじょーぶ、ごじょーくん」
君は一人じゃないよ。
ズルズルと地面に擦れていた靴の音が止まる。ちなみに手がこすれていないのは、両手がビールを後生大事そうに持っているからであるからして。
「…安倍先輩はさ、何で傑の誘いを断った?」
「……? ひじゅちゅしに、たいせつなひとがいるから」
「でも、ソイツらってもう亡くなってるじゃん」
「かんけーないよ。しんでいようが、いまいが。わたしのハートにみんながいるかぎり」
「……そう」
また、ズルズルと靴のこすれる音が聞こえだす。
「…ねぇ、これ、きもちわゆくなる……」
「飲み過ぎの自業自得だ、酔っぱらい」
◇◇◇
七海が高専を去り、3年になるはずの2年がいなくなった。3年や1年が進級し、新入生が桜の季節にやってくる。
力を得るには、呪霊を食らうのが手っ取り早い。以前のように、少しずつ虫たちに呪霊を拾い食いさせるのでは意味がない。もっと精力的に捕食する必要がある。
量を食べるには、やはり彼女みずから食べた方が効率がいい。
(単独任務を増やしてもらうか…)
単独なら帳を下ろした中で、人目を気にせず呪霊を捕食することができる。幸い、彼女は攻めとサポートのどちらも一人でこなせる。負担は大きいが、それでも強くなると決めたのだ。
ひとまず年内に1級の昇格を目指し、数年以内に特級入りを目指したい。
『特級術師』の定義は、「単独で国家転覆も可能なレベルの力を有する」である。
五条は言わずもがな。特級呪詛師になった夏油も、呪霊の数で国家転覆も可能だと判断されている。九十九由基の能力は知らない(調べればわかりはするだろう)が、彼女も特級に見合った力を持っているのだろう。
安倍櫻が特級にいたるなら、強さと数を組み合わせる必要がある。
呪霊や人間に毒を注入できる虫は、数の面では夏油に遠く及ばない。この虫は最大で彼女の血液の総量分しか、体外に出すことはできないのだ。
そして力では圧倒的に五条悟に劣る。いや、あれを比較対象にするのはそもそも間違いか。何せ、向こうは『最強』だ。
「私………強くなるから」
灰原の墓に墓参りをし、彼女は立ち上がる。
もう、大切なひとを失うのはごめんだ。
灰原雄は自分の弱さが原因で死んだ。もっと貪欲に彼女が力を求めていれば、彼は死なずに済んだ。
そして七海建人のことも、中途半端なバケモノだったせいで、取り返しがつかないほど傷つけてしまった。
呪霊を食らって食らって、彼女は本当の『バケモノ』になる。そう決めた。
自分がどうなろうとかまわない。
ただ、呪霊を殺すだけの、バケモノになる。
その果てで人間を殺そうとしたその時は────いや、殺す前に、五条に殺してもらおう。死体から生まれる、呪いの虫もろとも。
「……おにぎり、私が作ったものじゃない方がよかったかな?」
彼女は墓に供えたサッカーボールサイズのおにぎりを一瞥してから、墓を後にした。
灰原『(パクパクムシャムシャ パクパクムシャムシャ……)』