「……そんなにも余は眠りこけていたのか」
獅子心王は視力と聴力をようやく取り戻し、エルフたちから現状を聞かされた。自分の領地で発見されていた黒い死体に関して知恵を借りに訪れたはずだというのに、結果として意味がなくなってしまった。そして愛すべき臣下たちを待たせたままにしてしまっている。
「余の回復までの援助、大変に感謝する。だが……まだ今しばらく、手を貸してはくれぬか」
「姫様からも王からも、獅子心王には最大限に尽くせと命じられています」
その姫君は連れ去られ、王の方も秘儀のためと人間の時間にして十年も隠れているという。結果として獅子心王が人間だけでなくエルフたちの指揮も執る形になっている。
「余は戦争しか能がない。近々、南へ遠征する気でもいるし、だがその前にあの愚弟を一発分からせてやらねばなるまい――」
寝込んでいたとは思えないほどの回復力でそのまま立ち上がり、傍らの大剣を手に取る。王女が正体不明の勢力に連れ去られたというのに、その死亡の報せを出しているのが王弟ジョンという時点で自白しているようなものだ。王の座ほしさに共に歩むべき部族に手を出し、足元を支える民衆の遺体で好き放題するなどと!
往きでの地味な僧衣から変わり、遠目でも分かる輝くきらびやかな鎧で森から出る。シャーウッドの森に訪れたのは腹心以外には伝えていたなかったが事前に指揮は預けていた。優秀な臣下たちは死者たちの進軍に対して戦列を展開しているのが一目で分かった。さりげなく腹心らが獅子心王が居るはずのシャーウッドの森を中心に陣形を組んでいるのだろう。
中型のきつねが飛びこんでくる。一刀のもとで両断した。胴と胴に分断してもばたつく姿に吐き気をもよおしそうだ。こんなものに頼るなど。
そして開けた道に進軍する死体の波。夜であっても分かるくらいに地平線とこちらの半ばくらいが黒々としている。先頭にはひときわ大きなもののシルエットは見受けられるが、
「さて、あそこに見えているのはなにかな?」
誰に問うでもなく言ってみせると、潜伏していた斥候役がすぐに参上した。いつ獅子心王が森から姿を現すか不明な状態でずっと周囲を張っていた隠密の一員。当然、あの先頭にいる何かについてすでに偵察を済ませていると信頼している。
「巨大ないのししです。それも殿下の背丈をも上回る巨体で、その上に王弟が乗っております。ノッティンガム城から出てこちらシャーウッドの森に向かっていますが、どうやらハンティントン伯――を名乗る青年が、近くの住民や旅行者に呼びかけていたようで人的な被害は見た目に反して少ないです」
「ハンティントン伯爵といえばストライダーか。彼が戻ってきたのか?」
「いえ、十代後半から二十代の青年でした。ストライダー・ハンティントンは生きていればもっと上の年齢です」
もしも二十年近い時を経てあの男が舞い戻ってきたならどれだけ頼もしいことかと期待したが、希望的観測を打ち切る。
(では、せがれのロビンの方か)
ストライダー自身、おのれの血筋がについて教えていない様子だったのでこのままハンティントン領の跡継ぎが絶えて、国に領地と財産が差し出されるものと思っていたが。
「呼びかけで個別に避難はできても、あの大群を止められるのは我らのみ。土地も民の財産も踏みにじらせてはならぬ。待たせたな、余の命令を全軍に届けよ。みな付近で待機しておろう。この地を最終防衛線とするぞ」
獅子心王は王であり指揮官でもあるが、なにより優れた戦士としての姿が本分だった。おのれが先頭に立って民を鼓舞する王だった。ジョンが乗っているあのいのししは自ら止めなければならない。津波のように押し寄せる死体の群れを止めるにはわずかな兵士も無駄にはできず、そして多数の兵士を割いていのししを止めるのは予想される被害が大きすぎる。
「さあゆくぞ諸君!」
獅子の頭を持つ王が、まさに生きた獣が吠えるように鬨の声を上げる。わざわざ人を介さずともすべての耳に届く声。
「かの死者の群れが我々に迫っている! 侵略に敗ければ奪われるのみ! 世界をあのような黒に塗り替えられたくなくば、力を尽くし戦うのだ! 余がその先陣を切ろうぞ!」
*
偵察の通り、並の人間の倍近い背丈のある獅子心王に並ぶ大きさのいのししが到達し、頭からこの愚弟が見下ろしてきた。わざわざ戴冠式でもするかのような金をかけた衣装を身にまとっている。
「兄上は相変わらずだな」
ジョンが片手を軽く挙げた。すると止まる気配のなかった獣たちが一斉に足を止める。おのれの魔術を誇示するかのような態度だ。獣たちはそれでいて今にも後ろ足で踏み切って食いつきそうな体勢。
「どうせ戦で国にいないことの多い、それも獣頭の王などと。その王冠、有能な者に渡した方がいいと思わんか?」
「この状況を見てそう考えるやつはおるまい」
獅子心王には獣の一体一体が地面を踏む音まで聞こえそうなのに、ジョンと獅子心王以外の心臓の音、いのちの音がまったく聴こえない。
そして獣の死体がほとんどである中に、人間の遺体も混ざっていた。服装からして避難しそこねた民と推測できる。ひとりいることに気づいてしまうと、ふたり、さんにん、もっといるのが目につく。
「我らは確かに血筋によって王位継承権を持つ。だが余に冠を渡したのはあくまで民だ。それが理解できぬから、民を傷つけ土を汚し森を焼くのだ!」
ジョンは黒いインク状のもので汚れてはいても、血は付いていない。人々を轢き殺すのにおのれの手を汚してはおらず、さりとて命令するものが負うべき責も棄てている。確かに獅子心王のように戦い明け暮れる王というのは内政に向いていないのだろう。だが危険な玩具ではしゃぐ愚か者はもっと民を不幸にする。
愚弟が逃げられないよう地面に叩き落とし、特等席をいのししの背から地上に変えてやろうかと大剣を持ち上げる。助走に必要な距離を作ってから、二足歩行でありながら四足の獅子と変わらぬ勢いで飛びかかる。
「ぬん! ――う!?」
踏みこんだ一閃が、軽い金属音と肉を断つ感触と共にで逸らされた。
空振りした突進の勢いを再利用、方向転換して顔を上げ、正体を確かめる。ジョンは嘲笑っている。
「頭数こそ少ないが、兄上に負けないいい手駒だろう?」
そう嘯くジョンの陰から現れた人物の腕は切り落とされていた。彼らが乗るいのししのすぐ横にはナイフを握った腕が落ちている。頭巾を被った黒い成人男性で、これもジョンに操られている死体であるのは明白で、
(……余はこやつを知っている?)
エルフの姫を連れ去り獅子心王自身にも重傷を負わせたあのときか、いや、この感じはもっと前から……。
*
ロビンは王弟ジョンを探しながら、ノッティンガムからシャーウッドの森へ刻一刻と迫る群れと並ぶ。それぞれの《黒い死者》である獣が全力疾走していたら追いつけなかったかもしれない。貸してもらった馬が良いのと、獣らがスピードを抑えていた二点が幸いした。腐った体で全力で動くと全身がばらばらになりかねないのだ。
群れ全体でのスピードは控えていても、ついていけていない個体は身体が崩れ落ちてしまい点々と置き去りになっていた。中には前脚二本と首だけでそれでも這いずって動こうとするものもいて、いかに冒涜的なことか。
「……見つけました!」
視力には自信がある。もっとも、黒ばかりの獣の群れの中で誇示するかのように赤や金など絢爛な衣装を身に着けていれば嫌でも目についた。波のように押し寄せる獣の群れの最前線、何かに乗った王弟ジョンがいる。
獅子心王と対峙しているのが見える。彼が見事な立ち回りで剣を振るったのに、それが防がれた。ああ、邪魔さえなければ!
黒の中で黒い姿をしているから分かりづらかったが、獅子心王の太刀を防いだのはマリアンを連れ去った人物に見える。他の《黒い死者》は獣でも人間でも、餌があるから食いつく程度の思考しか感じられなかったのに、あれだけは複雑なものを感じ取れるのだ。
ロビンのいる距離から獅子心王たちのところに追いつくには障害が多すぎる。でもロビンにはその距離で使える武器がある。
「私は今、相手の斜め後方、視界には入っていない――」
仲間から受けとったミスリルの大弓に矢を番える。元はといえば狩猟大会の景品になるはずだった品で、つまり大会で頂点に立つような人物が扱うことを想定された非常に強い弓だ。弓を引くのにかなりの力を要する。だがこれだけ強い弓なら、今は離れたところに立つ敵に鋭く飛んでいってくれるはずだ。二の腕の筋肉が盛り上がる。
「必ず仕留める!」
この角度なら妨害されないはず。一直線に王弟ジョンに向かって矢が飛んでいく。