ロビンが逡巡しているのは分かる。気でも狂ったかと思われているかもしれない。
(でも、惚れてる女を死なせろだなんて無茶ぶりするだけの結末をあげるわ)
いのしし狩りのときにロビンに貸した、心の臓は動いたままの仮死状態へ導く毒矢。あれの最後の一本がロビンの元に残っていた偶然がどういうものなのか、登場人物の誰にも分からない。
黒いインクにまみれた胸に、矢が届いた。
我ながらよくできた毒で、元から身体が弱っていたのを差し引いてもあっさりと『死ねた』。
白く煙った世界に引きずり込まれた。
覚えていたくなかったが見覚えがある。操られたストライダーさんに連れ去られるとき迷いこんだのと同じところだ。
死の世界。殺風景なのに樹や花もたくさんある。古今東西で死んだ動植物がみなここに集ったらいくら広くてもあふれてしまうだろうから、いずれ昇天だとか成仏だとか、死のその先へとけこむはずだ。
王弟ジョンが《指輪》を通じて無理やりに動かしているせいで、必要以上にたくさんの動物、エルフ、人間、死んだ人がここにいた。
その中で今いちばん話したいひとのところへマリアンは歩む。
今や息子とほとんど背格好が変わらない彼の元へ。
最後に会ったときには黒い頭巾で覆っていて、他の何者にもマリアンに手出しができないようにロビンが来るまで見守ってくれていた。はじめは《指輪》を奪うために来たと思ったのに、慈しみすら感じる佇まいで待っていたのだ。
この死者の世界でもまた、そのときとほとんど変わらない立ち姿でそこにいる。片腕が切り落とされ空白になっているのは、現世の方で見た通りだ。
「ストライダーさん、もういいんだ。ずっと彷徨っていて、ずっと戦ってきたんだろう」
森から出ていってすぐに亡くなったとは思わないが、ここ最近に死体にされたわけでもない。王弟の操る《黒い死者》の中で高度な動きができるのはおそらく彼だけだ。残念なことに、マッチたち小人族の里を襲ってずっと追跡していたのも彼で違いない。
それでも。
「他の獣たちと違って今の貴方がジョンの命令に……『言われたことにしか』従っていないのは、貴方が抵抗しているからでしょう? なんて強靭な意志なのだろう。――エルフの命の長さでほんの二十年ほど前なんて、まばたきをするような時間なんだけどね。貴方の息子を見ていたら、この二十年がとっても濃く感じたものさ。大丈夫、貴方の後を継ぐだけの人間には……まだまだだけど、でも確かな腕だよ。ロビンが《眼》を得られないのもずっと不思議だったし、それで貴方が生きていると思っていたんだけど、やっと合点がいった。生きることも死ぬこともできないままの貴方を送り出すのが、あたしの――」
聞こえているのかどうか分からない。でも、やっと会えたから出てくるだけの言葉を紡ぐ。
最後にそっと、彼の残った手を包み込んで。
*
吐き出したい気持ちを飲み込みながら戦っていたロビンは、奇妙なものをみた。
たったひとりで強固な護衛をなしていた黒い男が、いきなり憑き物が落ちたかのように動きを止めた。右足が止まり、周囲を目まぐるしく警戒していた頭の動きが止まり、左足も止まり、そして振り上げられた手が止まる。まるで木の葉がはらはらと落ちるよう。
なにか大切なもの――ロビンは彼が自分の父であることを知らないままなのだ――が切れてしまう音が、糸が切れる音が聞こえる気がした。
そのときロビンに異変、変化、天啓、進化、そんなものが起きた。
まず、視えるはずのないものが視えた。全身の動きが止まってついに倒れた黒い男のそばに、幼馴染のドライアードにも似た、蔓や葉で編まれた衣装をまとった長髪の精霊が佇んでいて――知らないはずの母の懐かしさが胸に去来した――まばたきをしたら消えていた。
視えなくなったと同時、自分の肩に友であるドライアードが寄り添っていた。そして《眼》で視える世界が広がった。
視覚だけでない、自分を中心にまるでマリアンの《シャープアイ》のよう感覚が拡大されるのを感じる。向こうの立木のそばで倒れている兵士にはまだ息がある、後ろで《黒い死者》となった猟犬が唾液の代わりに黒いインク状の液体を垂らしながら走っている、そして王弟ジョンはまだこの場に起きた変化に気づかないまま嘲笑っている…………。
頭にあらゆるものが予告なく詰め込まれる。まるで目の前で小さな太陽、耳元で嵐のそれぞれ暴れているかのようで、必要な感覚を掻き分け焦点を当てるのに頭が痛くなる。
一度まぶたを固く閉じ、昂ぶった神経を鎮める。
次に開いたとき、晴れの大空に投げ出されたかのようにクリアになっていた。
討つべき敵、王弟ジョンの居場所まで風がまっすぐに通るかのように道筋が視える。今ロビンに迫った流れ矢が後ろから飛んできたにもかかわらず気づくことができて難なく避けられる。誰にも邪魔されず射抜くためのラインが視える。
(ロビン、見えてる?)
肩にいるドライアードの声が聞こえる。
そう、ロビンの視線はジョンの心臓でない、その腕、手、甲、中指に嵌められた《指輪》に注がれていた。
(そう。分かっているなら、大丈夫だよ)
「目を凝らし……闇を暴き出す!」
あれがすべての元凶。エルフの王が宛ててくれた手紙にもあった。『かつて冥王はおのれの力を《指輪》として分けていた』と。
この《眼》が射抜くべきものを教えてくれる。迫る敵を教えてくれる。
前々からマリアンに「見えるはずのないものが視えたりしないか」と問われることがあった。「ドライアードのことですか」と返すたびに歯がゆそうな表情をしていたのが印象的で、何か意味のある問いであることだけは気づいていた。そのたび、ロビンを成長途上の半人前として扱うような言動が強まるのも。
今はわかる。
《シャーウッドの番人》を継ぐ者だけの能力、瞳――《シャーウッドアイ》。
どうして今この力が発現したのか、深く考えないようにしつつ。
獅子心王といのししの巨体同士の争いもついに決着がついていた。いのししの首がありえない方向にひねり曲げられた。大剣はいのししの牙と共に折れていて、最後は力比べになっていたのだ。いのししの上に乗っていたジョンはあり得ないと言わんばかりの顔をしながら無様に転げ落ちていた。必死に命乞いか、頭を割られるとでも思ったか、手を頭上で組んで伏せて動かない。
その手には《指輪》が光っていた。今なら狙うに障害はない。
彼女を射ぬいた一矢と違って迷いなく矢をつがえ、速射。
ミスリルの大弓はただ高価な品でなく、かつて冥王との戦いでも用いられた《闇》を打ち払う素材だった。今やその伝説を覚えている者はエルフでもわずかであっても、その力は変わらないままである。
ついにジョンの《指輪》に矢の先端が到達し。
戦場にいた誰もが悲鳴を聞いた。それは人間でなく、《指輪》そのものの。どんな鳥の鳴き声よりも、どんな武器が擦れあう音よりも高音域で、そして耳障り。頭の中を直接に刃物で削ぐかのような不快感。
悲鳴が鳴り止んだその次に襲いかかってきたのは、腐敗臭。未来の歴史書にも『場には敵も味方も数多くの死体があったが、それらすべてを混ぜ合わせてもなおこの異臭の方がひどかった』と誰もが証言して記載されるであろう――そう断言できるくらいの。
「おぉ……うおお……おおおおぉぉぉお…………!」
ジョンが唸る、苦しむ、力が抜けて崩れる、追い込まれた《指輪》が持ち主にまで牙を剥いている。この雄叫びもまた戦場にいるみなが聞いた。
そのジョンの姿が見えなくなる。まるで《指輪》の体液かのように溢れ出した真っ黒な液体に呑まれていた。マリアンの周りで沼のようになっていたものの比ではなく、まるで巨大生物の動脈に傷をつけたかのように黒々と吹き出している。
この世の終わりを連想させる光景。
戦場を覆っていた《黒い死者》すらも呑み込んで、そのまま黒の中に溶かしてしまっていた。見る限りはジョンに操られていなかった兵士の遺体も同様にひとたび波にさらわれると形がなくなってしまう。
シャーウッドの森だけが清い力に守られているかのように――ロビンは知っている、エルフの王が明かしてくれた秘密――黒の奔流を退けていた。幸いなことに火が燃え移る性質は持っていないようで、森に点けられた火を結果的に消し止めてくれていた。
幸いなことはそのたった一点で、その一点以外は地獄の蓋が開いたような有様。
「みなさま! 逃げてください! 森へ、森に退避!」
一気に馬を走らせる。声を張り上げる。わざわざ呼びかけるまでもなく異常事態に兵士たちは撤退を始めているが、逃げる方向がばらばらだ。
正念場だ。馬のたてがみを撫でて声をかける。
「負担をかけますが、頑張って」
応えるように鼻を鳴らしてくれた。
今は自分たちの身を守らなければならない。《指輪》は砕けたが、そのあとに焼け野原しか残らなければ勝利と言い難い。
生者も死者も区別なく飲み込んでいき、大地が巨大なインク瓶を倒したかのように黒に染められていき、なお広がっていく。中心部、ジョンがいた場所から遠い場所はまだ無事だが、遠目にも分かるくらい溢れる黒は収まる気配がない。
途中、負傷者を抱えた小隊がはぐれていた。黒い海の広がる速度は獣の足に比べれば遅いが、立ち止まっていれば逃げ遅れるのは明白だ。
「ハンティントン伯!」
近くまで駆けつけると、まだはっきり覚えられていないがハンティントン領の兵だった。四人いて、そのうちまったく動けなくなっている者が一名いるようだ。
「動けるなら走りなさい、余力のある者は肩を貸しなさい! 生き延びるのです!」
「こいつはあの黒いのに溺れて、息はしているが意識が」
「ならば私の馬を使ってください」
救助された者は黒く染まっているが、ただ着衣が黒く汚れているだけだ。生きた人間が生きたままあの中に入っても、形なく溶けてしまうということではないらしい。
王弟ジョンと対峙していた獅子心王は無事だろうか。どうあがいても液体を避けられない距離だが、そこから生きて出られる余地があるというのは分かったが……。
「ひぃ! なんだあれは!」
兵の叫びで考え事から引き戻された。彼の指差す先には、炎と黒でできた巨大な目玉が。
押し寄せた波が引いていくよう、今まで大地へ広がっていた黒い海が目玉のもとへ集まって戻っていく。どろどろとした黒い液体がごぼごぼと遠目でも分かるくらいに泡立ち、生き物のように踊り、生き物の形を作っていく。
その光景ゆえあっけにとられるうちに、黒い海の代わりに、ジョンが率いていた《黒い死者》の数倍にもおよぶ黒い軍団ができあがっていた。
(ヒトの力が及ぶ相手では……!)
炎でできた目玉が細められ――そして眼球が剥き出しになるくらいに開かれた。
絶望の軍勢が前進を始めた。
*
マリアンはひとり涙が止まらなかった。
ストライダーさんは死者の世界のさらに向こう側へと行ってしまった。まだ生者の世界で心臓が動いているマリアンは、死んではいるが同じところへは行けない。
しかもこのような場所に訪れるなんて初めてなものだから、ここから生者の世界へ戻れるのか分からない。
パキッ。
やけに軽い音がして、思わず手元を見るとあの忌々しい《指輪》にヒビが入っていた。
(……やったのね、ロビン)
この《指輪》があるから生きたままこちらに引き込まれたのだから、脱出にするにも鍵になりそうなものだったが。永遠にさまようことになるかもしれない絶望よりも、成すべきことを成してくれたことへの安堵の方が今は上回っていた。
(これからどうしよう)
マリアンの身体は今頃あの森の中で矢が刺さった毒による仮死状態にあるはずだ。ただし意識の方がこの世界の側にいる限りは身体も目覚めないだろう。
(……手段を探さなきゃ。あたしが諦めたら終わりだ)
肉体がないところに時間の概念もない。エルフだろうが人間だろうがねずみだろうが、死んだら同じだ。
さっき涙が流れたのだって、生きていたとき肉体でそう反応していたから再現しているに過ぎない。今なら『そういうもの』になろうと思えばどろどろの不定形になることも容易いだろう。でも自分を捨てる気は毛頭なく、足を動かして求める。
時間の感覚が曖昧になるうち、白と煙ばかりの世界に、懐かしい緑が見えた。
紙の焼けた破片のような形状で空間が裂けていて、大きさは窓くらい。そこから死の白でない、生きた色が見える。もちろんまっすぐに駆けていった。無策で飛びだしはしない程度に慎重だったが、ないはずの心臓の高鳴りも抑えられない。
その隙間から外を見たときはおのれの用心深さへの感謝と後悔、その両方がどっと押し寄せた。
生者の世界で何が起きているのか今のマリアンには分からない。だがとんでもないことが起きている。
懐かしい緑だと感じたそこは、やはりシャーウッドの森だった。森に火を放たれてしまったのはマリアン自身もノッティンガム城から見せつけられた通りで、その焼け焦げた一部がこの空間の裂け目になっていたのだ。
(もしも森が丸ごと焼かれていたら、こんな大きさで済まない穴が開いていた!)
周囲に黒い汚れが目立つものの、火そのものはもう収まっているようだ。それくらいしか確かめられない。
それよりも――シャーウッドの森の状況よりもマリアンの目を引くものが、向こうにはあった。
黒と炎でできた目玉、地平線を埋めんばかりの《黒い死者》の軍勢、撤退するしかない人々。
「なによあれ! こんなめちゃくちゃがまかり通るっていうの?」
シャーウッドの森を一部とはいえ燃やされ、《指輪》が砕かれた反動であちらとこちらの境目が曖昧になっている。王弟ジョンがマリアンの力を奪って作り出していたのをたやすく上回る量の死者があふれようとしている。
もう長命の種族ですら当事者が生きていない時代の歴史書であの目玉が象徴する存在は、かつて世界を《闇》で支配しかけたあの冥王。もう滅んだはずの存在だが死者の世界から出てきたのか、力だけそれらしい形を取ってきたのか、もはや大した問題でない。
また手元を見る。《指輪》は壊れかけだがまだ残っている。
どこで使うのかはこのときまで分からず、使わないで済むなら越したことのなかった『切り札』がある。最初に《指輪》をつけさせられたときに死者の世界で見かけた死んだ祖先たちの姿を見てから頭の片隅にあった。死者を呼び起こすという外道の力、言い換えればこの奇跡は《指輪》を持つマリアンにだって使えるのだ。
指と指が互い違いに重なるように組んで、まだ《指輪》が砕けないでと祈りながら唱える。
「円環の理に還りし歴代の御霊たちよ。いまひとたび目覚め《闇》を打ち払う光となりたまえ――」