【幕間1:大昔、ずっと過去の番人の走り書き】
『美しい森、聖なる森、はるか昔からある森。この森を守るのが《シャーウッドの番人》の役目。なぜ守らねばならないのか、そんなことも長い時に流されながらも代々それぞれのやり方で一生を捧げるのだ』
【ロビン、マッチといのししを倒す】
友人となったリトル・ジョンは飲み明かしたのち、翌日にドワーフ仲間と合流すると言って山に帰っていった。別れ際に果たした、また会おうという約束はきっと果たされるはず――売るはずの品を失くした件の後始末で当面は追われそうだが。ロビンが心配したら「オマエは気にするな、次に会うときの土産にいい酒だけ用意しておいてくれ」と背中を叩かれた。
ただロビンは生まれも育ちも森であり、しかも父親といくらかのエルフ以外の知り合いがいない。その中で友人といっていいのはジョンが初めてだ。鳥や精霊も含めていいのならばまだいるが、それは屁理屈というものだ。
ともかく自身が生産者を営んでいるでもなく、酒造りを営む知り合いにも心当たりのないロビンにとってはこの酒好きのドワーフに向けた土産の用意は急務といってよかった。
リトル・ジョンとの出会いをきっかけに森から少し離れることも増えた。外への興味はもともとあって、昔からエルフの書物庫から拝借して知識を深めたりもしてきたのだが――勝手に出入りしていたが次代の《シャーウッドの番人》ゆえにお目こぼしをもらっていたのだ――足を運んで見聞きするのとは全然違う。
もちろん森の巡回もおろそかにしていない、していないが物理的に使える時間が減っているのも事実。
「またおでかけかい?」
空が薄明るくなる日の出の時間、出立にマントを羽織っているところに声が降りかかる。芯の通った女性の声。
オークの樹を伝ってするすると萌える草と同じ緑の髪をした女性が降りてきた。もしもその姿を切り抜いたならば樹に巻きついたしなやかな蔓の一筋にも見えたかもしれない。それは彼女が土臭いという意味でなく、森そのものと調和しているということだ。森を生まれながらの庭とするロビンと対照の頂点。
たった一つ、その美しい真紅の瞳だけは森で見ることのない色で、だからこそ彼女の個を際立たせていた。讃えすぎにもとられるロビンから見たこの感想は、このエルフの乙女マリアンに惚れた弱みとでも言おうか。一目惚れしたその日から彼女の美しさは変わらないどころか、あの日はエルフの城で王女の姿をとり今はシャーウッドの森で狩人として振る舞い、新たな姿を見せ続けるのだ。
ロビンの口が開いて――そうです、友人にふるまうための酒を手に入れるアテができて――言葉が喉にでかかって、久しぶりにこの誇り高い女性を前にして、
「ノッティンガム領の方で狩猟大会があるのですよ。行ってみませんか?」
ここに下心もあったが、番人であっても時には森から出てもいいというのがロビンの考え方であった。父が森の外から来た人間でありながら先代《シャーウッドの番人》だったからというのもあるが、この考え方がより固まったのはリトル・ジョンとの出会いがあった。人と出会い、語らうのは素晴らしいことである――その思いは本物。
「えぇえ?」
信じられないものを見る目で見られた。仮にもエルフの王女様にこんな顔していいのか、というくらい目を見開いて眉をぐにゃりとさせて。
「いえ、腕前に自信がないのでしたら私だけで優勝してきますので」
今度は眉が釣り上がる。人間からすれば果てしないような時間を持ち、肉体的にも常に瑞々しさを持つエルフ族であるが、エルフの叡智も技術もそれに見合うだけの鍛錬を積んではじめて仕上がるのは変わらない。マリアンもまた優れた狩人として人知れず弓を引き続けている。
「そんなの言われたら、行かないなんて言えないじゃない!」
今のエルフの王女がおてんば姫であるのは何度も父に聞かされていたものだが、このように目の当たりにするとそれすら微笑ましい。樹々が寄り集まる森の中で弓術の鍛錬を行えるほど広い場所は限られていて、早朝の巡回を終えてロビンがそこに訪れると先に訓練用の的には矢がいくつも立っているのだ。ごくまれに矢を放った主を見ることもあったが、まるで「あんたが森の巡回を終えたのなら自分が行く」と言わんばかりに入れ替わって姿を消してしまう。口に出さないだけで彼女がそういう意識でいるのは間違いなかった。
雨に濡れたりしたときに備えての予備のマントもささっと渡して、彼女の気が変わる前に話を進めていく。シャーウッドの森からノッティンガムまでは馬なしなら丸一日、馬があっても休憩も考慮すればやはりその日のうちに到着したら御の字という距離なのである。帰りも考えればそれなりの旅になる。
「待って、待ってよ。無策で森から離れるなんてありえないったら」
そう言いながらマリアンは自分のクロスボウに矢を一本、つがえる。構える姿はまるでロビンが射るときと瓜二つなのに――同じエルフ族の武具を使っているから当然、なのか?――余分な力が入っていない洗練さを感じさせる。
「目が利くんだ、あたしは」
放たれた一本の矢は手近な幹に突き立つ。灯火が灯るように矢から魔力が広がっていくのがロビンでも分かった。
「《シャープアイ》の魔法を仕込んだよ。これで何かが森に近づいても視えるようになるから」
「素晴らしい念の入れようです」
嫌味でもなく素直な感嘆。
「でもあんただって、随所に仕掛けているのだろう? トラップを」
「よくご存知で」
「これが番人の仕事なのさ」
貴女は《シャーウッドの番人》ではない……それを言ってしまえば確実に怒らせるだろう。だが先代の番人ストライダー・シャーウッドが行方をくらまし、だがロビンが幼子だった間は彼女が森を守っていたのはエルフたちもみなが知るところだった。それこそエルフ族の王女という肩書さえなければ、少年ロビンよりも次代の番人として相応しいと推す者もいたに違いない。
「でも精霊に選ばれたのはあんたなの。しっかりしてよね?」
事実、マリアンに森の精霊を視ることはできない。彼女の言う「選ばれた」の意味。
「ぼけっとしてないでよ、ノッティンガムまで移動だけで疲れたらたまらないだろう? うちの城から馬を連れていくよ」
挑発に乗ってやったがロビンの考え方をみんな認めたわけじゃない、という口ぶり。一度やると決めたことには妥協しないのも彼女の性格。
こういう一面を知るたびに一目惚れで終わらない、ますます魅力に酔わされるのだとロビンは苦笑する。マリアンや馬の分も含めた水と携行食、あとは最小限の準備を手早く済ませて、その馬に跨る。森の清い空気と新鮮な草で育った、エルフらの所有する馬は白くしなやかだ。
「今日は頼みますよ」
撫でながらそう呼びかけるとブルルと鼻を鳴らして返事をしてくれた。
*
外の光は樹々の葉で優しく遮られた木漏れ日とは違う、遠慮のない太陽光。森から出ることのない――もしや初めてだとか? さすがに自惚れか――マリアンの体調に気遣いながらも、太陽が東から南へ過ぎたくらいでノッティンガム街へ到着した。
大会はつまるところ挑戦者以外にとっても祭りということで、街は活気づいていた。あちらこちらが花輪がかけられ旗が立っている。ここぞとばかり、宿屋や食事処は客引きに励んでいるし籠につまみや花を入れた女子供が道行く人にアピールしていた。
事前に調べたところでは今回はノッティンガム州長が直々に主催しているというので、人間の偉い階級、つまるところ貴族の遊びだと踏んでいた。しかし意外にも屈強な男たちも多く、マント越しにでも身体の線が細いロビンとマリアンは場違いな雰囲気であった。狩人としての装備がなければ、見物人で恋人同士にも見えたことだろう。
領主が仕切るという大会ならば街で一番目立っているノッティンガム城が本部だろう。とりあえず花で飾られた道なりに進んで正面に向かう。
しかし鉄の鎧を着込んだ衛兵に止められる。
「そら、大会に来るやつらはあっちだ。城には王弟ジョン様もいらっしゃるから、お前たちのようなのが会えるお人じゃない」
人間は人間族以外の種族と交流が薄い。今代の王――獅子心王は亜人だというが、肌の色があからさまに人間たちと違うマリアン、見た目はほとんど人間(そもそも父親が人間である)のロビンも耳はエルフ寄りの尖った形をしていて、余計にこんな態度を取られているのか。王も苦労していそうである。
「お前たちのようなの、扱いだそうですよ」
「べっつに、こんなところで王女様扱いされたって嬉しくもないもの」
エルフの領域でマリアンに口を出せる立場の者がほとんどいないのは、王女という肩書からも想像に難くない。狩人の服を着込んで森を走り回って、まして外の狩猟大会に参加するだなんて、他で聞いたこともなかった。
王女様扱いが嫌いなマリアンが話題を切り替えてくる。ロビンとしてもそれ以上掘り下げるほどでもない。
「確か道中で聞いた話じゃ、ウサギやいのししを狩るのだっけ? いのししは野生のだけど、ウサギはわざわざ放つって……手のこんだことをするよね」
「それだけ祭りとして本腰を入れているということでしょうね。景品にある大樽の酒はいただいていきますよ」
先に本部に立ち寄って確かめると、優勝賞品のところに人だかりができていた。ロビンはもちろん、マリアンも女性ながら背丈はあるので手頃な木箱に乗って覗いてみる。そこにはリトル・ジョンと一緒に呑んだのと変わらない大きさの酒樽と輝く大弓がこれから決まる優勝者を待っていた。あくまで腕試しとして付いてきたマリアンはあまり興味がなさそうだったが、この大弓を見て態度が変わった。
「あんたが酒酒酒酒いうからそればかりと思っていたら! ミスリルだよ、分かる? こんなの、あたしの知ってるエルフでも持っているのなんてごくわずかだっていうのに」
ロビンはもう一度あたりを見回し、エルフの王女でもあるマリアンが感嘆するほどの大弓を見てやっと得心する。いかにも戦士という連中はこれを目当てにやってきたのだろう。国一番の腕を持つ者がここで決まるかもしれない。
そこでロビンの頭にふとよぎるものがあった。下に着込んだミスリルの楔帷子。特にリトル・ジョンとはあの荷物について話さなかったが――なんといっても酒が旨かったのが悪い――この弓と対の景品にするためにはるばる取り寄せられたのだろうか。
「ぼうっとしてるんじゃないよ!」
マリアンに肘でどつかれると同時、角笛の低くもよく通る音が響き渡る。次にこの笛が鳴ったときが終わりだ。
男らが散り散りになっていくので地面が揺れるような感覚になる。開始すぐから矢の風切り音も少ないながら聞こえていて、もたもたする暇はなさそうだ。自らの馬で駆けていく者もいる。
「じゃ、あたしはあたしのやり方でいくから。帰りは馬の繋ぎ場で合流だ」
最低限の伝達だけしてマリアンは消えてしまった。
この日のために飼育されていたウサギたちは街道含めてあちらこちらにぴょんぴょんと飛んでいた。野生のよりも丸々とした体格でもすばしっこい。優勝賞品が武器ということで参加者には兵士、ならず者といった風体の者が多くて、本職の狩人はロビンたち含めてもあまりいない。その上に人間にとって住みよいノッティンガムの街は見通しがよすぎて、すぐにウサギが逃げだしてしまう。もっとも、狩りに慣れていない者が森で獲物を追うのはより難しいだろうが。
「おっと、失礼」
見物に来ている貴婦人のすぐそばで草を食んでいたウサギに一本の矢が刺さる。「ひいっ」と短い悲鳴。一撃で動かなくなったそれを大会用の籠にしまいながら、ロビンは一礼。森の外、まして女性相手の作法は完全に自己流だ。
「こちら、お食べになりますか?」
一匹くらい譲っても優勝を狙うのに差し障りないという自信と、これだけよく太ったウサギならば美味しいはずという親切心からの言葉であったのだが、婦人は色とりどりの飾りがついた帽子が落ちてしまう勢いで首を横に振った。
*
マリアンはまず繋ぎ場まで自分たちの馬を取りに戻った。あまり人里に連れたことはない馬なので街全体の興奮に呑まれていないか心配だったのと、もちろん狩りのためだ。
ちまちまとウサギを数ばかり狩るのは性に合わなかった。狙うなら大物のいのしし。そっちは野生のそのままということで、近くにいるかも分からないのは承知での一点狙いだ。ノッティンガム街のそばに小さな農村があり、その周囲にはいい感じの森があったのだ。シャーウッドの森には及ばないが居心地がよさそうだと行き道で印象に残ったのが幸いした。
(これで駆除させるのもこの大会の目的だろうしねぇ)
人間というのは個々にだと知恵も力もエルフには及ばないというのに、集団になると賢いものなのだ。一見には不合理なことでも、見渡すと驚くほどよくできていたりする。
単に人を集めて祭りを催すだけならば、的を立てて射抜くような大会で目的に足りるはずだ。狩猟させるためにウサギを育てて放つよりも、木を切り出して形を整えて立てる方が簡単な仕事である。そこに手間をかけて獣狩りをさせるならば、そのメリットがあるはず。そして大会本部で要綱を確かめていたら――ロビンは酒に舌鼓を打っていて興味がなさそうだったが――いのししの方が明らかに得点を高く決められていて、本気で勝ちにいくならばいのしし狙いしかないようになっていた。
(わざわざ歴戦の勇士でも欲しがるようなミスリルの武器を餌にするくらいだから……)
並の人間族では束になっても歯が立たないようなやつが、ノッティンガムにいるはず。高い金を払って駆除依頼するどころか、向こうから喜んで集まってくるようにすればお釣りがくるようなくらいの。
「あれでもないね」
目星をつけた農村に着いたところ、ちょうど一匹のいのししが先客によって狩られたのが見えた。だがこれなら腕の立つ狩人一人でも問題のない大きさで、本命ではないと断言できる。
嗅覚の鋭いいのししを呼べる匂い玉を使おうかも考えたが、余計に引き寄せてもいいことはあるまい。足を使って探すことにしよう。
「セイヤッ」
馬を駆けさせる。そしてシャーウッドの森より樹々が密集していて、昼間でも空を覆いってしまいがちな森へ……。
外縁の方は村人も出入りしているのだろう、ほどよく道ができていたり邪魔な岩や倒木がよけられていたりしたが、少し中に入るだけで道なき道を往くことになった。それでも、数世代前の人間が拓いたのであろう道が苔や下草でできた膜の下にあって、自然と彼らの道程をなぞることになる。
軽く確かめてハズレならすぐ別のところへ移動するつもりであったが、かなりの量になる動物の糞を発見した。数体分のが重なったのでなく、大きな一個体のものとみてよさそうだ。ならばもうひとつの痕跡もあるはず。
村で中型ほどのいのししを仕留めていた連中はそれで満足して森の中まで確かめていなさそうだ。これはもらったと口元が緩んだとき、他の狩人の気配がした。周囲を見回す――鬱蒼とした森では白銀の毛をした馬はよく目立った。エルフの所有するこの種を連れているのはマリアンとあとひとりだけだ。
出発地点で別れたはずのロビンが遅れてここに到着していた。
「なんであんたがここにいるのさ」
「いのししの住処は大会より前に見つけていましてね。そこから辿ってきただけですよ」
ロビンが街にて貴婦人へウサギ一羽くらい譲っても構わないだけの自信の源はこれであったが、ウサギを譲ったことをマリアンが知る由もない。
「ほら、みてごらんよ。あんたの腕くらいの高ささ」
マリアンの示した木では、皮が削げてつるつるとなった箇所があった。いのししのような動物が体をこすりつけると残る痕跡である。ただ、普通の大きさのいのししなら足元くらいの高さにできるそれが、青年の体の高さにあるという。
「これは狙い通りの大物になりそうですね」
「う~ん、あたしらだけで仕留められる大きさかなぁ?」
そう言いつつも、体の大きさから推測される足のサイズに合わせてくくり罠の調整をして埋めたり、それと別に魔力を使ったトラップを設置しはじめていた。
くくり罠は、輪の中に足を踏み入れると作動して足を捉える。掴まえた足以外は自由がきくので推測される巨体には効果が薄いかもしれないが、持ち運びが容易いのでとりあえず仕掛けていた。本来ならばターゲット以外の動物がかからないように硬さの調整もするところだが、巨体が相手ならばそのあたりは設置スピードを重視して簡単に済ませている。
マリアンの罠を隠すのに土や枝をかけるのを足で手伝いつつ、
「くくり罠を持ち込んだのなら、毒矢もあるのでしょう? やれますよ」
「ここまでの大型と思わなかったからねぇ。剣も必要だったかも」
エルフの城にも武器はあるが、長く森でひっそりと生きるようになってから汎用性のあるものを仕入れる機会も少なくなり、所有しているものは貴重すぎて持ち出しができないものばかりだ。仮に道楽としてのいのしし狩りに宝剣を持ち出したとなれば、王女といえども相当に絞られることになるのは覚悟しなければなるまい。
「とりあえず貸してやるわよ。魔力も入ってるんだから無駄撃ちしないでよね」
持ちこんだ毒矢の一部を渡してやる。これ単体で殺すのではなく獲物を弱らせるたぐいの毒で、心の臓は動いたまま意識を遠のかせて仮死状態へ持っていく。生きたまま捕らえるのにも、動きを止めてから完全に命を断つのにも使える。
「補充にシャーウッドまで戻ったら夜になりますからね。それに余裕もさほどないかと」
「というと?」
魔力を使ったトラップを追加しようとしていたマリアンが顔を上げる。くくり罠は設置したなら巡回と回収しなくてはならないというデメリットもあるが、魔力のトラップなら時間が経てば消えてしまうので今回のような遠征では大きなメリットになるのだった。
「住処へ先に寄ったのですが、人が近くを通った痕跡があったのですよ。足跡の大きさからして、子供と思われます。人数はひとりだけ」
「それを早く言いなさいよ!」
「だから住処から順に痕跡を辿っているんですよ、私だって」
周辺の人間が生活に必要なものを採取する領域はもっと外縁であり、一人きりは死にたがりであろう。人助けを趣味とするわけではないが、迷い人がいると知ってしまって無視できるほど冷徹でもない。
トラップの設置には集中力と時間が必要なのだが、あっという間に編み上げた。
*
「……いました!」
ジェスチャーでマリアンへ音もなく合図を出す。返事の合図は無かったが、その紅い瞳がこちらを見てくれたので伝わったと分かる。
獣と鉢合わせの危険を抑えるために登れそうな樹の上から捜索していたが、それが無駄だと思わせるくらいの巨体。中途半端な高さだと却って危険だ。静かに地面へ降り立った。
上下の牙が擦りあって鋭く光り、身体の大きさは大の大人が肩車をしてやっと高さが及ぶくらいか、その巨大な体躯で一歩進むたびに森の土に大きな足跡がつく。腐葉土の豊かな、柔らかな土でも蹄の形まではっきり残る。
あの巨体では生命を保つだけで毎日大量の餌を必要とするだろう。餌を探して――いや、違う。探してはいる。だがその対象はいつも足元にある草でない。あれは持ち前の嗅覚を駆使して、追っている。
何を探している? 感覚を研ぎ澄ませているロビンにもマリアンにもそれらしいものは見当たらないが――いや、ある!
いのししの動きが変わる。体力を浪費しないよう緩慢な動作だったのが、途端に鋭くなる。まさにある一本の樹に突進している、だがそこに目に見えないが何かがある、いる、今確かに枝の折れる音もした!
突進する膝関節を狙い、一本。
目的地が分かっていればそこに至るまでの足の動きだって分かる。
バランスを崩してわずかに牙が横に逸れた。と、『人がそこに現れた』。
「あわわわぁ! た、たすけて!」
まるで透明人間のように、何もないところからその子は現れたのだ。小柄だから、ロビンが見たという足跡の主に違いない。いつからいたのか優れた狩人ふたりでも、いのししの動きの違和感でやっといることには気づけたかどうかである。
声も高く、体も小さい、子供か。体より大きな背負い荷に物をはちきれそうなくらい詰めて、見たところ狩人や戦士でもない彼は助けを求めている。
ロビンは関節を打たれてうまく起き上がれない巨体のすぐ横を駆け抜け、背中で庇う。
「大丈夫ですか、後ろへ!」
その子は腰が抜けてしまったか、ロビンの背後に滑りこみはできたがそこから動けない。彼を守っているロビンもここから動けない。
いのししは安全な場所へ逃げるまで待つわけもなく、生臭い息を吐きながら立ち上がろうとしている。
「ああもう、あんたの思いつきの尻拭いをするのはあたしってワケ?」
足を引きずりながらも立ち上がったいのししの足元にマリアンが滑りこむ。そして魔力を使った罠をそのまま一歩先に仕掛ける。下手をすればマリアン自身が踏みつけられてもおかしくない綱渡りだが、体を張って庇うロビンに負けてはいられなかった。
「目と耳を塞ぎな!」
こんな緊張状態でも引きつけさせる鋭い警告に、ロビンとその子は咄嗟に従う。
*
ふさいだ耳にも伝わる炸裂音と、閉じた視界でもまぶた越しに感じる閃光。
わけもらず、だが助けてくれる狩人ふたりに身を委ねる彼がおそるおそる薄めを開けて見たのは、迫っていた巨体がふらふらとあさっての方に揺れていた姿。その隙をみて女のひとがもうひとりに矢を何本もまとめて寄越し、同じ束をそのひと自身も小手と一体になったクロスボウにつがえている姿。
次の瞬間、鏡あわせかのよう、でも男のひとの方は背中で庇ってくれながら、女のひとは弾けるよう立ち位置を変えて。
警告に従ったのにまだちょっと視界はちかちかするし耳もごぅってなっておかしい。自分たちでこれなら、目や耳を守れないいのししはどうなっているだろう。そして少なからずあの音と光の影響を受けたはずのふたりは何事もなかったかのような力強さを誇っている。
一本目が放たれる。空気の揺れが頬を震わせる。耳がまともだったらまるで刃物のような風切音も聞こえただろう。いのししの毛皮に突き立つが、あまりの巨体だからまるで矢が一筋の髪の毛のようだ。
次の矢、次の次、と飛ぶ。刺さる数が増えるたびに動きが重たくなっていくのが素人目にも分かるが、それでも元より鈍くなっているだけで、逃げるという手段のない状況ではいまだ動き回れる獣は脅威そのものだった。
「こっちだ、こっちに!」
警告を飛ばしたのと同じ、よく通る声を――いのししに向けて飛ばしている。そして懐からまた何かを掴んで投げ飛ばす。鼻にきつい臭いが満ちる。これはわかる、いのししがさっき透明になった自分を見つけだしたのは臭いを追われたからで、それを封じるためだ。
目も耳も鼻もだめにされ、暗黒の中で矢の雨を浴びせかけられ、いのししの怒りが頂点に達している。これだけ封じているのに、野生の勘の鋭さか、下手な仕掛け罠は学習して避けるという知能か、目が合った。
(うごかなきゃ、うごかなきゃ)
逃げることもできないから、こんな、ふたりで倒すには無茶な大きさのいのししに挑んでいる。
(助けて、《スティンガー》……!)
夢中で腰に提げていた、じいちゃんから託された剣を取りだす。小人族の力でも扱える名刀だと聞いていたが、優しい性格の孫にはついぞ扱えなかった。
「わあああー!」
こわくてこわくて、足元ががくがくするけど、この『敵が近づけば危険を知らせる』剣が光っている、そうだ、いのししをなんとかするんだ――!
*
ロビンの後ろで震えているだけだった子が大きな声とともに剣を取り出す。マリアンがひと目でエルフの宝刀に勝るとも劣らぬ一品だと分かる、名刀。あれなら小柄な体でも戦力になる。
いのししの感覚器が回復しつつあるのを察して、マリアンはわざと地面を強く踏んで草の擦れる音を出す。狙いをひとつに定めさせないことで戸惑わせようとするのだが、いのししの顔がロビンとあの子の方から動かない。
(もう毒矢が……)
マリアンの持つ方は使い切って、ロビンが持っているのが最後の一本だ。ロビンももはや普通の鋼の矢に切り替えるしかない。これだけ打ちこんでもまだ暴れる力があるのは驚くべきことだ。
毒が回っているからこそ最後の抵抗で暴れているのだろうと考えているが、それで相討ちで死んだりしたらこちらの負けだ。
いのししが走り始める、もう鈍い動きだが勢いがつけば止まらない。
ロビンは『見捨てて逃げる』などという選択肢はまったくなく、元より男としての腕力握力にあわせて強い弓を、感覚を研ぎ澄ませて限界まで引いている。獲物を一点で仕留める鷹と同じ目をしている。
この一本で決めるつもりだ。厚い毛皮に幾度も阻まれ、必殺の一撃を撃てる先は――眼球。
しかしこれまでの毒、罠でよろめくゆえに狙いが定まらない。いや、ぎりぎりまで引きつけるのだ。矢は遠くの獲物を狙うのに適した武器だが、離れるほど威力は落ちる。
「もはや外さん!」
射る。至近距離で右の眼球に突き刺さる。
マリアンは驚く。続けてまったく同じ軌道をなぞってもう一射放たれた。二本目は正確にすでに刺さった方の矢筈を貫き、勢い衰えぬままさらに深く、深く。あれは自分にはできない技術。
ついにいのししの膝が崩れ、だが勢いのままその鋭い牙が突っ込んでくる。一射だけ放ちすぐ回避に入れば避けられただろうが、二射目を加えると間に合わない、間に合わない。
「わあああー!」
勇気を奮い立たせた子が叫ぶ。ロビンの背から輝く剣と共に飛び出す。勇気はあっても恐怖も一緒にいて、盾にでもするよう刀身を立てて。だがその名刀はいのししの牙を削ぎながら確かに横に受け流して、深々と溝を作り、ロビンの胸に鋭く突き立てられる未来を避けたのだ。
巨体が倒れる音、樹々が倒れる音、葉が擦れる音、マリアンの叫ぶ声。一通りの音が沈み、いのししの荒い息遣いだけが残る。
「ちょっと、大丈夫!」
柔らかい草を踏みしめる音をさせながら駆け寄る。どっちに。
「ふたりともだよ!」
先までのたくましい戦士としての表情は剥がれていて、両人の手足や顔色を急いで確かめてまわる。
ロビンの腕はさすがに鍛えられていて、あの連射でも多少筋肉が張っているだけで正常の範囲内だった。毒矢でうっかり自身の肌を傷つけるようなミスもしていないし、そこは元から心配していない。
名前を聞く暇もないままになっていた子の方も、どこから来たのか大変に汚れた格好ではあったが、怪我はない。最後の突進を剣で受けたときには相当の衝撃がかかっていたはずだが、筋や骨にも異常がなかった。見た目に反して剣術の心得があるというのか。
改めて無事を確かめて、深くため息をついた。
「あんたねぇ、いくら人助けだっていっても無茶しすぎだよ?」
「ちょっと試してみたかったのもあって……心配させました」
言葉の割にはロビンの口元は綻んでいた。マリアンには心配されて笑う心理が分からない。
「試すって何をさ」
ロビンが緑の狩服の裾を上げて示す。鎖帷子が出てきて、これもまたマリアンにはその素材が分かる。純度の高いミスリルだ。今日だけでいくつ希少な品を目にしたものか。
どこで手に入れたのか、だが巨大ないのししの牙に対して『試してみたい』などという大口を叩くくらいだから最高級の防具であることを分かっていての無茶である。いちいち驚いてやるのも癪で「心配して損した」と憎まれ口を叩いてやった。これまでのマリアン自身の行動を見れば嘘なのは明らかでも。
「……っ。心臓が縮みあがるかと思ったよ」
「エルフであれば少々の寿命が縮んでも大した差でないでしょう」
「そうよ、今でだってあんたより長く生きているんだから」
ロビン・シャーウッドの身体的な特徴に、エルフ族のそれにも似た長い耳があった。ただロビンの父親は人間であるし、なによりこの世に生まれてからまだ二十年経つか経たないかである。たとえ純血のエルフであっても見た目の姿と実年齢が比例する年齢だった。マリアンはエルフ族の中では年若くても、数百年はとうに生きている。幼きロビンと初めて顔を合わせたときから時間が止まったかのようにその美しさは変わらない。
そして名乗る暇もなかった少年は。
「エルフ、初めてみた! でももっときれい!」
興奮してぴょんぴょん跳ね、人間と別の種族であるという。
小柄な体格から推測したロビンが「ドワーフ族ですか」と訊くと、頭を大きく振って「小人族だよ、マッチだよ」と答える。
「マッチ、いい名ですね」
「じいちゃんが付けてくれたんだ!」
青空のようなさわやかな笑顔は、マッチの家族への愛をよく表している。
「しかしまあ、いったいぜんたいなんで森でいのししに追われていたんだい?」
マッチの表情が真剣な、そして深刻なものに変わる。
「じいちゃんの持つ、透明になれるふしぎな《指輪》をエルフのところにとどけてって。その……ひと月くらい前だよ、ぼくたちの里が変なやつにおそわれて、行けるのはぼくしかいないんだ。このあたりのいちばん大きな森にエルフたちがいるって」
里が燃やされたくだりではロビンの顔もみるみる険しくなっていった。賊はたった一人だったらしいが弓術剣術体術いずれも優れていて、戦いに不慣れな小人族では歯が立たなかったそうだ。
そしてノッティンガムとシャーウッドは一日の距離だ。もっともっと遠くから来たマッチがこのあたりで目についた森に入りこんでしまったということらしい。ずっとシャーウッド暮らしのロビンとマリアンにしたら名前もない小さな森だが、遠くから来た小人にしたら十分すぎる大きさで勘違いしてしまうのも仕方ない。そしてロビンが痕跡を見つけていたよう、いのししのねぐらに迷いこんで怒らせてしまったという顛末。
この場にいる唯一のエルフ族であり、その王女の立場でもあるマリアンの表情も引き締まる。
「あたしが預かってシャーウッドに持っていこう。じいさんの判断とあんたの長旅を後悔させない、そんな結果を約束するよ」
高らかな宣言にマッチが手を上げ、ロビンがそれに応じてハイタッチをしてはしゃぐ。緊張もほどけ、友情が紡がれていた。
マリアンも、とマッチに求められて彼女もその輪に加わる。持ち込んだ水と携帯食をここで開けて摂ろうとロビンが提案し、同意する。森のど真ん中で寝ることはできないが、飯を食べれば体力も回復する。
ただマリアンだけ、楽しい食事というよりもただ腹にエネルギー源を流しこむような気持ちだった。気がかりなことがある。
マッチと最初に遭遇したときに何もないところからマッチが現れたのが《指輪》の効力ということだ。ただ透明でもそこにいるのだというのに、優れた狩人でもあるロビンとマリアンの両方が気配にも気づけなかった――彼を探すいのししの挙動がなかったら通り過ぎていたことだろう。
「……透明になる指輪、か……」
盛り上がる男ふたりの傍ら、マリアンだけ悩ましげに目を細める。
(そういう伝承のある品は知っている、でも何百年も前に失われたものだし……人ひとり完全に姿を消させる魔術だなんて、レプリカだとしても……)
マッチは『透明になった』と説明したが、『そこからいなくなっていた』のではないだろうか。
「――マ――、マリアンってばあ!」
「えっ?」
考えすぎるあまり、耳に入らなくなっていた。素っ頓狂な声で返事をしてしまう。
「ずっと《スティンガー》が光りっぱなしなんだ。ほんとうにいのしし、やっつけられている?」
マッチの持つ名刀の名だ。考え事をしていて話を右から左に流していたマリアンはまた聞き直すことになったが「敵が近づくと輝いて危険を知らせてくれる」という性質を持っているのだと語ってくれた。いのししから逃げ回れたのもこの危機察知能力があってこそだという。
しこたま毒矢を打ちこんだ上でロビンの最後の二本の矢が止めになったものの、死には至っていない。
「毒矢も残り一本まで使い切らせる生命力でしたからね。それでも時間が経てばじきに動かなくなりますよ」
「そうかあ。この剣にはたすけられているから、光っているとつい」
改めて、倒れ伏している巨体をみなで見る。もう動けない静けさが、勝利の証。牙が削げているのはマッチの勇気の証。
「そうだねぇ、あたしたちやったんだよ! どうやって運ぼうか? いっそ小人族の里へ届けてやったら、こんだけの肉なら復興の助けにもなるんじゃあないか」
マッチの足でひと月の道筋なら、馬も使えば大きく短縮できるだろう。それでもこの量の生肉そのままを運搬するにはできないから、保存の効く加工が必要。そしてすべてを運ばなくても、ロビンたちでも食べたいだけ食ってもバチは当たらないだろう。そんな楽しい相談を友人同士で交わしていく。
*
友人たちの時間を壊したのは、多数の足音。獣ではなく人間の、金属がぶつかりあうがしゃがしゃした音。
「ご苦労である」
多数の鉄鎧を着た兵士たちの先頭に、ひとりだけ鎧を着けずに上等な布をまとった役人がいる。尊大、えばってる、そんな第一印象。
「私はノッティンガムの州長であるよ。害獣の駆除を成し遂げたな。賢明なる君たちなら、このいのししを仕留めれば大会に優勝することを分かっていたのはすばらしい」
彼は州長――この狩猟大会の主催者だ、と名乗った。言われてみれば、従えている兵たちはノッティンガム城でロビンたちを追い返した衛兵とよく似た出で立ちだ。あの衛兵は王弟という要人警護のために街中で鉄鎧という装備をしていたのだろうが、こちらは戦争でも始めようという不穏さを感じさせた。
伏したいのししにノッティンガム州長はあごを向け、
「こいつには手こずらせられておってな。君は英雄といっていい。歓迎せねばなるまいて」
「皆で仕留めたのですよ」
「大した問題じゃない。今宵は私の城にて開く食事会に英雄を招待せねばならないのだよ」
話していて違和感があり、ロビンはそっと見渡す。一緒にいたはずのマッチが姿を隠していた。彼の祖父が渡した《スティンガー》の『敵を探知する力』があるならば声を出す暇もなく連れ去り、ということもないだろう。この人間たちに訊いても詮無いことで、マリアンもどうこうする様子もなさそうなので今は触れないでおく。
「お呼ばれするのはロビンだけなんだろう? いのししの肉はあたしに譲っておくれよ! 人手も貸してくれたらなお助かるさ。これだけ引き連れているんだから」
はじめはノッティンガムへ遠征することにも乗り気でなかったマリアンとしては、実力を示す狩りも一段落したところで一刻も早くシャーウッドの森へと帰りたいのだろう。その本音を抜きとしても、肉の加工は早ければ早いほどいいのは違いない。
「ならん」
穏やかな物腰が一転。空気が凍りそうなほどに鋭い声で断られた。
「この領地を獅子心王から預かるのは私だ。そしてあらゆる獣も王の所有物。ゆえにこの場で扱いを決めるのは私だ」
この態度は、まるで森を守る《シャーウッドの番人》たる役割を否定されたかのようでもあった。このノッティンガムの役人がふたりの出自を知っているとは思わなくても。
「王、ですか」
森の外には王国があって、たくさんの人間が暮らしていて、それを治める王がいるのは知っている。エルフの領域よりも遥かに広く、数を従える権力を持っている。
父から《シャーウッドの番人》について聞かされるとき、森の外の方を見ながら言っていた。
『この森は王のものでもエルフのものでもない。だが誰のものでもないままでいるには、誰かの力が必要なのだ――』
貴方たちはシャーウッドの森はどう思っている――?
無意識にロビンの口から言葉が漏れた。
「ん? あぁ……資源を採掘したいのだがあそこはエルフも住み着いている上に、賊が我が物顔で独占しておるからな。獅子心王も本腰を入れてもらいたいものなのに、面倒なことで」
このときどういう表情をしていたか、ロビンは自分でも分からなかった。
ノッティンガム州長は気にすることなく、懐から取り出した紙をロビンに押し付けながら、
「忙しいのでね。私のサインが入ったこの書簡を城へ持っていくのだ。優勝のしるしにもなるから、景品の大弓も受け取れる。城には日暮れになったら来るように。くれぐれも」
そう早口で言い切って、鎧の兵士たちに指示を出しながらいのししを運ぶ準備をしていった。
人間がとどめを刺すには強靭すぎるその体も、毒で弱らされ多人数に囲まれればもう何もできない。ちらりと見えた、矢を打ち込んでいない方の瞳は細かく動いてはいても、焦点は合っていない。
胸の奥がざわつくロビンと対照的に、マリアンはふんすと鼻を鳴らしているはいるが深く気にしていない様子だ。肘でロビンを小突き、人間たちが忙しそうにしている場所から離れるよう促してきた。
ロビンもここに留まっていて良いことがなさそうという点には同意できるので、無言で従っていく。
*
役人たちとロビンらとで互いの声が届かないくらい、しいて言えば人がいる気配は遠くからするか、というくらいまで距離を取ってからやっとマリアンは閉じていた口を開いた。
「なんだよ、感じの悪い! せっかく楽しく飲み食いするって話をしていたのにさ」
気に入らない様子で、わざと足元の土を蹴り上げてみたりもしてみせる。
朝早くからシャーウッドから出発してもういい時間だった。どうしようかね、とこれからの話を始める。
「ミスリルの大弓、お城にあるんだって。あんただけでも領主様のお呼ばれに応じるかい?」
「いえ、私が共に過ごしたいのは貴方たちですよ」
「歯の浮くようなセリフを……」
「ロビンの歯はきれいだよー?」
姿を消していたマッチがひょっこりと会話に戻ってきた。役人たちから離れたら何となく戻ってくる気配はしていたので、あの《指輪》は使わずその小さな身体を活かして隠れていただけだろう。
「そういう慣用句さ。ロビンみたいなヤツを言うんだよ」
「ふぅん?」
マッチは指で口を開けてにまーっとしてみたり、彼なりの『ロビンみたいやヤツ』の人物像を思い巡らせているのか。ピンとは来ていない様子である。素直、純朴といった性格のマッチにはよくわからないのだろう。
「さっきはごめんね、じいちゃんが《スティンガー》が光るうちは絶対にかくれろ、身をまもれって。いのししがまた暴れても……こわかったし」
温厚そうなマッチが長旅を果たせたのもこの危機探知によるのは明らかだ。祖父の言いつけと道中の実績があるなら責めるつもりなどない。
「たとえまたいのししが起きたとしても、私たちが付いてますよ」
ロビンが微笑みながら言ってのけ、マリアンが「ほらこういうのだよ、歯が浮くセリフっていうのは」と指し示す。やっぱり分かってなさそうなマッチが「わかった!」と楽しそうに言う。
そのうちに馬を待たせていた場所まで戻ってきた。使わないで余ったくくり罠は回収していく。
「さて、お城に招かれるかどうかの話ですが……ジョンが明朝にシャーウッドに来るのです。この大会で優勝する気でいましたから、いい酒が手に入ると数日前に手紙を送っていたのですよ」
「呆れた。それならすぐにでも景品を受け取って出発してないとシャーウッドに帰りつかないよ」
「貴女が用意した馬は、これくらいこなせるでしょう?」
実際、もしもマリアンが出発前に森に仕込んでおいた《シャープアイ》の探知にかかる何かがあったならば大会を放棄してでも飛んで戻る用意はしてあった。そのひとつが並では耐えきれないような距離を駆け抜けられる、最上の馬だ。
「ああもう、あたしのやってきたことが巡り巡ってぜんぶあんたのためになってるってワケ。ほんっと腹が立つわね! ならきっちり活用しきることね! 怪我をさせたら承知しないんだから」
段取りは相談した。ロビンはノッティンガム街に戻って酒だけは手に入れてくる。マリアンとマッチは同じ馬に乗ってシャーウッドに戻る。マリアンは「あたしにはその酒盛りは重要でないんだから自分の用事は自分で片付けてよね」とも釘を刺した。ただでさえ朝早くから出発させて、帰路は小人族とはいえ二人乗りだ。先に出発するが適切な休息も挟んで、ロビンより遅くにシャーウッドに到着することになるだろう、とも付け足す。
*
昼間の燦々とした陽気から、赤く空気を染めて肌に心地いい夕方の西日に変わりつつあった。
ほどよく疲れた戦士や狩人たちがおのおの捕らえたうさぎや他の中型の獣を連れてきたり、ロビンの持つそれに似た書簡を役人に見せて回ったりしている。だがこの街まで運んでくることのできる大きさの獲物という時点で、ロビンたちが仕留めた大型のいのししにはどうあがいても及ばない。あれは大人でも見上げるくらいで、牙だけで子供と変わらないくらいの大きさがあった。
「酒や賞金はここで受け渡す。ミスリルの大弓は貴重な品だから、城での晩餐会で受け取れ」
あのいのししほどではないが、ちょっと見上げるくらいの量の賞品が目の前に積み上げられている。ロビンにとって用があったのは酒だけだが、金もあれば困るものでない。シャーウッドの森で生まれ育ったロビンだが、父親に外へ連れられたときに金という概念は学習されてもらっていた。
だが問題があった。賞金とされる金貨の大袋がずしりと重く、酒と一緒に持ち帰るのが難しい。片方だけなら全部まるごとは難しくても馬の力を借りればなんとかなる。
そして大弓についてはあの州長が言っていたことと同じであった。貴重な品に心が動かないわけではないが、やはり友達とこれから過ごすことになるであろう時間の方が楽しみで仕方なかった。
「晩餐会に参加すれば、帰りの荷馬車も手配されるぞ」
至れり尽くせり、親切――といった表現が適切なのだろうが、違和感もあった。体ひとつで持って帰ることのできないような量の品々。
とりあえず今ある分の金貨や酒が欲しい、と広場のあたりまで運んでもらった。「運ぶのはいいが晩餐会へ行けばその間に金を盗られるかもしれないぞ」と忠告もされたが、構わない、と告げる。
「さて」
主催者は巨大いのししを討伐した者をそのまま優勝にするつもりでいたが、他の参加者はまだたくさんのうさぎや鹿など連れていけば優勝の芽があると思っている。みな運び出された酒や金貨に目を白黒させていた。一般の住民たちもちらちら様子を伺っているのが分かる。
「私はロビン・シャーウッド! 此度の狩猟大会で勝たせていただきました! しかし私はこれらの賞品をすべて持ち帰られません。だが私のものになっている。だから、皆様に振る舞おうと思います!」
わあぁ! 住民たちから歓声があがった。なんならば役人の方も嬉しそうにしている。中には怪訝そうな顔をする者もいた。「シャーウッド……? 森の盗賊か?」そんな陰口が少しだけ聞こえたが、本当に一部だ。
優勝を逃した参加者も、自分で捕らえた肉を次々と提供して辺りがお祭り騒ぎになる。住民が調味料やら塩やら提供してくれるおかげでより香ばしい匂いもあちこちから漂ってきていた。飾られた花たちも再び元気を取り戻したかのようにすら感じる。
それにしてもここまで喜ばれることだったろうか。疑問に思うと、通りがかりが教えてくれた。
「この大会を開くのにノッティンガム州長は重たい税をかけていたんだ。ミスリルの武具を仕入れるにはとんでもない金がかかるし、賞金だって何人もがが一生遊んで暮らせるくらいの額だぞ」
巻き上げられた金が戻ってくるとなればお祭り騒ぎもさもありなん。
ロビンが提供したのと別の強い酒ですっかりできあがった男が肩に絡んできて、臭い吐息とともに耳打ちしてくれる。
「なあ知っているか? 本当はミスリルの弓だけでなくて防具も仕入れる予定だったんだってよぉ。だけどノッティンガム州長の気が変わったから景品にするのをやめたっていうが、ありゃ違うね、奪われたのさ。今ごろそれを手に入れたやつは勝ち組だなぁ」
そのミスリルの防具、私が今着ています――と言い出さない程度にはロビンは空気を読むことを学習したのである。