【幕間7:ノッティンガム城に面した通りの夫婦】]
『ああ臭いったらありゃしない! ほらもう、窓を閉めておくれ! ……えぇ、城の一室に美人がいるって? そんなわけないでしょう、寝ぼけているんじゃないよ! 王弟が来てから城がおかしくなったと思ったらあんたもかい!』
【囚人マリアン、あらそう】
ノッチィンガム城の一室。体の良い牢獄のようなものだが、そこにいるマリアンには飲み水、その役目を兼ねられる酒、身分に見合った食事も一日に数回ずつ届けられていた。
運び手はやはり女性の《黒い死者》で、皿を運ぶ者、部屋の鍵を開ける者、終わったら鍵を閉める者と複数人で来る。一度は食事のタイミングで脱走を試みたが、あの黒い頭巾の《黒い死者》によってすぐ取り押さえられてしまった。装備品を取り上げられた丸腰でなかったらやりようもあったのだが。
機を待つために今はまだ閉じこめられた状態を受け入れている。だがマリアンは一切の飲食をしていなかった。
「ジョンなんかが用意したのなんていらないわ。こんな死臭のする場所でおいしく食べられるわけがないじゃない。空気のいい森ならいいけどね」
運ばれてきた皿は無残にもばらばらの破片になってに床の上に散らばっている。ただ操られているだけの《黒い死者》に悪態を付いても意味がないと理解しつつも愚痴は出る。
魔力は生命力そのもの。マリアンの魔力を目当てにしているというのならば、自分自身を人質にするまでだ。どれだけ飢えに耐えられるか、心を折られずに済むか。
割れた破片を一個一個拾う。細かな作業は《黒い死者》じゃできないだろう。観察した限りは簡単な命令しかこなせないようだ。だから皿運び、鍵の開け締めと動作ごとに人数が必要になっている。大小、不定の大きさ、無数にも思える数に散らばった陶器の破片を集めるのはその能力を越えた仕事だ。あくまで推測だから、例外もある。
大きなかけら、鋭利なかけら、きらめくかけら……。おてんばな姫君はエルフの城でもたまに皿を割っていた。自分の手を傷つけないように選び取るのは難しくない。
マッチが現れたのはそんなときであった。嬉しかった。できるものなら一緒に飛びだしてしまいたかった。
そんな思いを抑えて断るしかなかったのは、あの頭巾の《黒い死者》の存在だ。あれだけは危険で、単純な命令しか受けられないはずなのに『ロビンや獅子心王を打ち倒し、マリアンを誘拐し、《指輪》も利用して逃走し、王弟の元まで連れていく』という複雑な行動を完遂している。もしもマリアンがマッチと一緒に脱走したらこれに追われるのは確実で、悔しいことに自分には振り切るだけの力がないと言い切れてしまう。
マッチを見送ったあと、額に手を当てて祈った。あの子が無事にこの死の臭いに満ちた城から出られますように。
*
マッチが現れてから一週間ほど経った夜。
「プリンセス・マリアン。その強情さには感服する」
ずっと《黒い死者》らにマリアンの世話をさせていた王弟ジョンがわざわざ訪れた。この城に生きた人間はほとんどおらず、身分の高いはずの彼を世話する人も当然ながら不足しているはずだ。インクでもこぼしたかのような汚れが目立っていた。
王弟の後ろにはこの城の本来の持ち主、ノッティンガム州長が付き従っていた。何日もろくにものを食べていないマリアン、薄汚れた王弟ジョンと並んでいるのに、州長が一番やつれて目元が落ちくぼんでいる。
「なかなか使える男だと思っていたのだが、ここにきて大きなミスをしてくれてな」
「…………」
怪訝な顔になる。マリアンにとって王弟は敵対者で、その協力者である州長を紹介されても得することがない。
「狩猟大会の優勝者を逃した上に、大枚をはたいたミスリルの武具も盗まれて……生きている人間は不便だ、まったく不便だ」
背筋が冷たくなる。彼の言葉に潜む危うさ、そして腰に提げた剣の柄に手をかけて、傍らにいる男に向かって、「なにを!」マリアンが制止したときにはもう、ノッティンガム州長の腹は鋭い剣で貫かれていた。
深々と刺さった剣をジョンは柄からぐるりと回転させ、内蔵もずたずたにする。血と肉と剣が擦れる音は最悪に不愉快だった。あっけなく、ひとりの男が絶命する。
「ここからだ」
その一声を合図に彼の指にある《指輪》とマリアンに嵌めさせられた《指輪》が怪しく輝く。それは夜闇の水面のようにぬめった光。
思わず手を押さえる。まるで燃えあがるかのように《指輪》が熱い。こんなものを付けていれば火傷をしてもおかしくないのに、ただただマリアンの生命力を糧にして燃えあがる。弱気なところを見せるまいとしているのに息が荒くなっていく。
王弟ジョンの《指輪》は活き活きとしている錯覚さえ起こさせる。どろどろとインクの塊のようなものがこぼれ、床に落ち、できたばかりの死体に這い寄る。今は夜で、部屋の灯りも消えかけのろうそくによるわずかなものしかないのに、マリアンの眼に見えてはいけない《闇》が視えている。
うごめく《闇》が死体に絡みつき包むと、ついに死体が動きだした……………………。
「本当は、狩猟大会であの大いのししを仕留められるほどの人間を連れてきてこうしたかったのだがな」
「人間を利用するだけして!」
「使えるやつは生かすさ」
そうやって嘯く男の後ろに控えるは二体。殺されたノッティンガム州長、あの頭巾の《黒い死者》。片方は今さっき殺された。
命の危険を感じる。
「殺しはしない、お前は使えるからな。もう懐柔は、やめだ。恨むなら頑固な自分を恨め」
マリアンとジョンの指に嵌った《指輪》があれば、死と生の境目が曖昧になる。殺さないという言葉を字面通りに受け止めても気休めにもならない。
ぐっと拳を握りこむ。血が出そうなくらいに。
今も《指輪》から魔力や生命力を吸い上げられているのを感じる。死んだ人間を操るおぞましい術がどういう仕組みなのかなど分析もしたくないが、おそらく《指輪》だけでは不十分で、エルフや一部の人間のように魔力がないと扱えないのだろう。マリアンを外付けのリソースとして使う実験としてノッティンガム州長を殺したのだ。
「使えない男を使った実験も成功した。これで、時は満ちた」
王弟ジョンは宣言する。
その瞬間、世界が終わるかのような爆発音が空を震わせた。その方角は、シャーウッドの森。黒々とした煙が立ち昇り、夜の空が赤く染まりはじめる。
「森が……!」
どうして。ロビンや城のエルフたちがいればあんな火事を起こさせるわけがない。どうしたというの。
マリアンは知らない、森の守護者たるロビンがマリアン誘拐の濡れ衣を着せられたこと、連携を失って森から離れざるを得なくなったこと。マッチとはそこまで話さなかった。王弟は守りの手薄になった森へひっそりと人をやって仕込みをしていた。それが済んだからこそ、指揮を任せていたノッティンガム州長は用済みとされた。
(待てない)
マリアン側の準備が終わる前に動くのは、できるなら避けたかったが。
「ここで!」
首筋に拳を――拳にしのばせていた、鋭いかけらを振り上げる。
食事のたびにわざと皿を割って、そのかけらから鋭利な武器として使えそうなものをあちこちに隠しておく。あまりに皿の破片が減っていれば気づかれるかもしれないから、何日も毎食の皿を割っては特に大きなかけらをひとつだけ頂戴していた。王弟は《黒い死者》になにもかも任せているから、堂々とそんなことをしても気づかれなかった。さらにわざと不審な行動して、その反応を見て動きや命令系統の法則を確かめていた。
ナイフのように扱って急所を狙おうとして――身体が動かなくなる。魚のように口を開け閉めするしかできない。
(どうして!)
喉から声も出ない。
「お前の指に《指輪》がある限り、俺を殺せんよ」
片手で悠々と顎を持ち上げられ、屈辱に肩が震える。皿の破片は投げ捨て、腕を突っ張って距離を取る。害する行動は縛られるようだが、突き放すのに制約はなさそうだ。
まずマリアンは逃げた。でも壁を背にはしなかった。それは追い込まれたネズミが最後に行き着く場所だ。このときだけはまともに食事を摂っていないことを恨んだ。限界が近く、体の感覚が鈍い。頭に血が回っていない。
(落ち着け、考えろ、諦めちゃいけない)
窓や扉を壊して脱走されないようテーブルも椅子も、壁や床に一体として取り付けられているものしかなかった。この場で投げつける獲物は、せいぜいベッドの枕くらいしかない。嫌味なことに、寝具は上等な一品を設置してあるのだ。
(『切り札』は生きている、だから、あたし、は、)
ジョンのそばに控えている頭巾の《黒い死者》は手出しする様子がない。幸いだった。一緒に来られたら絶対に逃げられない。
王族だの偉そうぶるくせに下卑た笑みを浮かべてマリアンへと王弟ジョンが一歩、また一歩と足を踏み出したとき、
カチッ。
狭い部屋に閃光が炸裂する。
マリアンの扱うトラップは、ロビンと同じく物理的な仕掛けのものと、彼女の特技である魔力で編んだものがある。武器になるものを奪われ、皿一枚一枚から地道にナイフの代わりを作るのと同時に行っていた勝つための準備。食事すら拒否し追いこみながら、必要なときが来れば隙を作らせるための。
《ブラインドトラップ》などという気取った名前を与えているこの魔法を以て、敵の視覚聴覚を奪ったわずかな時間でマリアンは夜闇に姿を消した。
*
夜の風が窓から吹き込む。夜の空を炎が赤く染める。
「逃げおおせられるとはプリンセス自身も思っているまい」
捕えた姫に逃げられてもさほど慌てていなかった。
「あの森に火はもう放たれた。戦の火蓋は切られた」
歴代の人間の王たちは、あのシャーウッドの森に決して手出しをしてこなかった。あれの地下には資源が眠る、森を刈って掘り出せば自分たちはさらに繁栄できる。いくら言っても兄の獅子心王も聞き入れてくれなかった。地下にあるものが掘りだしたい、手に入れたい。
今の王弟ジョンはとにかくあの森を燃やしたくて仕方がない。まるで腹が減っているかのよう。
「兄上はエルフらに匿われている……王座を奪うためには、まず出てきてもらわねばなるまい」
彼が最初に作った、頭巾男の死体はとても優秀で気に入っている。初期に動かした死体だからか、たまに命令に従わないこともある。代わりに命令以上の成果も上げる。王女マリアンに《指輪》を付けさせたのは命令外の行動だったが、おかげでその力を吸い上げる用途に至れたのだ。
元はおのれが《指輪》をすべて身に着けて操るつもりだった。しかしジョン自身の力が削られていくという問題点があったし、ゆえにずっと水面下で活動するばかりでこれといった動きはとれなかった。出来のいい死体を各地から集めても、腐っていくのを見ていくことしかできなかった。
「行け、死体たち。死者が跋扈し、森が燃えれば『世界の危機』の演出に相応しいだろう?」
地下に集めていた亡者たちが動きだす。その中には毛むくじゃらの巨体もあった。
「あとは……プリンセス死亡の報でも流すとするか。偽の情報だというのは隠さなくてもよい……」