異世界の図書館、Wonderlandは複数の《神筆使い》とその仲間である《キャスト》たちが同じ時間を過ごし、鍛錬し、絆を深める場所だ。そのうち個々人の休憩所として使われている一室にジーンとその《神筆使い》はいる。
「マスター、風邪引くぞ」
夕日が傾きつつあるが夕食もまだの時間帯。だというのに、机に突っ伏して寝落ちしている主人。
最近になってこの《神筆使い》により具現化されたジーンにとってはまだ関係が浅い相手だ。だがここで放置して風邪を引かれたら寝覚めが悪い。毛布をかけてやるだけでも及第点だが、突っ伏した体勢のままだと起きたあとに腰痛と肩こりもコンビネーションアタックを仕掛けてくることだろう。人間ひとり抱えることくらい、魔神の力で怪力を得ているジーンにとってはわけもない。
丁重に《神筆使い》をお姫様抱っこでベッドに運んで、点けっぱなしだった明かりを落として、静かに部屋を出た。
今こうして《キャスト》として召喚されていることで、物語の登場人物――『絵に描いた餅』でしかない自分が現実世界に影響を及ぼせる。寝落ちした人間を運ぶのがシゴト第一号というのもどうかと思うが、風邪と腰痛と肩こりに苦しむを引く結末を変えたというのなら大戦果にしてもいいはずだ。
西洋風にデザインされた廊下、向こうの曲がり角から長い一本の影が伸びている。こっちに向かってきて、持ち主『たち』の姿があらわになった。
(げ、面倒くさいの)
腕組みをしたアラビアン衣装の男女だ。ジーンの知る限り、自分より遥かに大きなシゴトをかつて成し遂げた《オリジナル》のジーンとその主人たるシェハラザードの組み合わせ。ふたりなのにその影は一本に重なりあうくらい密着している。
自分とまったく同じ背丈、目線、容姿。アナザーキャストだと似ているようで少しずつずれており、それでいて互いに当価値な存在であるが、このジーンと自分は文字通りの意味で《オリジナル》が土台になってそれ以外が派生した関係性。
「よお、《オリジナル》じゃない俺」
「……なんだよ、シェハラザードとイチャイチャできるくらいしか自慢どころのない俺」
声質も同じ。声音に含まれた機嫌の表現は全然違う。
「ちょっと会いたくなっちゃったから私が誘ったの。やっぱジーンだからどの《神筆使い》が育てたジーンでもカッコイイんだよねぇ」
甘く蕩けた声でシェハラザードが割って入った。介入がなかったら同じタイミングでジーンとジーンで腹パンくらいしていたと思う。ひっそり構えていた拳を引っこめた。
「俺以外にも色目使うのやめろよ」
「むぅ~、このジーンはちょっと可愛くないし好みがロリ寄りだし、私になびかないんなら欲しくない、うん大丈夫」
「おい」
確かに自分の《物語》でちっちゃな指輪の魔神、ムーニャとキスをした。仮にあれが魔神でなく人間スケールだったとしても一般的に幼女、ロリっ子、童女と呼ぶべき年格好だった。それはそれとして女の好みは胸がでかくて床上手なのがイイ……はず。直接的な描写はされていないが自分はそういう設定のはずだ、とおのれに言い聞かせる。
「だって見てましたからね。『千夜一夜物語』は作中作形式。だから作者たるこのシェハラザードちゃんもキャラクターとして登場人物に成れるのです……」
これまで自分じゃない方のジーンの腕に蛇かツタみたいに絡まって甘えていた彼女の表情から、すっと甘さが抜けて目つきが冷たくなる。丁寧語だが隙のない空気感、元々被っていた大きなヴェール、そしてムーニャとのキスシーンを見ていたという発言。
一気にある人物に繋がった。
「お前……モルジアナだったのかよ」
「違う道を選んだのはあの《物語》におけるジーン自身よ。キャラクターが勝手に動きだし、作者はそれを記録するだけ。これは私の創作観そのものだから」
作品、キャラクターというのは作者の手から逃れられないものと常識的には思えるが、自分の創ったキャラクターを情夫とする女の言うことには「キャラクターが作者の意図しない行動をすることは『ある』」だという。あらゆる創作者がそういう考え方をしているわけではないだろう、反例として創作活動を実験と称する片眼鏡をかけた男の顔が浮かんだ。
自分のジーンには固く腕を組みつつもこちらには一切触れようとしないまま、背を向けて帰ってしまった。本当に会いに来て、言いたいことだけ言うだけのデートだったらしい。
*
シェハラザードが『千夜一夜物語』に干渉するというのは作者本人なのだから、理屈として何ら問題のない行為である。キスシーンの出歯亀(でばがめ)だって、そもそも穴蔵に閉じこめられたピンチの場面を助けにきてくれた結果だ。もしもそのピンチが世界を侵す《闇》を由来とするものだとしたら、額を地面に擦りつけながら脚を舐めても返しきれない借りになっていたところである。他で危うい事例もあったという噂は耳にしている。
納得いかない感情をなんとかねじ伏せつつぶらぶらと歩き回っていると、だいぶ日も沈んだ時間帯だというのに外からピュロロロと笛の音が聴こえてきた。中庭に出るとマグス・クラウンが楽譜なしで吹いている。メロディに統一感がないので即興かもしれない。夕焼けの赤と宵闇の青が混ざりあう風景とよく馴染んでいた。
いつもなら聞き流して通り過ぎるところだ。しかし今日はなんだかある種の直観が働いて、とりあえず邪魔するのも悪いので自然に終わるまでは立ち聞きを選ぶ。いつもなら軽妙で子供が喜びそうな弾む音のイメージがあるのだが、今回はビブラートを効かせた響く音をしていた。
聴いているうちにジーンの故郷にあたるアラビアン風のメロディだと気づいた頃――無意識に気づいていたからこそ聴き入っていたのかもしれない――演奏が終わった。
「なーんか俺を誘うためだけの演奏みてえだな。呼ばれて飛び出て……ってか?」
蛇使いは笛を使って操る。マグスは笛吹き。ジーンは蛇じゃないが、使役される魔神という意味では操られる側の面も持つ。
ジーンの言及をマグスは否定しなかった。
「そうだね、砂漠をルーツとする子はそう多くない。それでいてエジプトの女神様はまたちょっと違うしね」
「シェハラザードにもおデートを見せつけられたし、この流れはアレだろ、お前も童話の渡り人ぉ~とか言って俺の《物語》でなんかしてたんだろ」
「ふむ、確かにボクもちょっとばかり客演として出させてもらったね。だが話すと長いんだ」
マグスがおもむろに迫ってくる。
意味深なことを言いながら抱きついていくマグス。艶かしく指を頬に、首筋に這わせ、そして猫のように鼻先同士が一瞬当たるキス。硬直するジーンをよそに、また小動物のような動きでマグスが離れた。
思い当たる節があって、見事に『話すと長い』を理解し、サッと血の気が引く。
「うわっ……覚えがある……お前! あの踊り子ラクス!」
「キスの味で判別できるとは経験豊富だね。どうも、童話に色んな姿で紛れこむ道化師さ。その節はどうも」
「女の姿をした男とかいうレアケースはこれしか知らねえよ」
マグスの変装は服装や化粧というレベルでなく、文字通り別人になる。記憶は保っているが人格も変わっているから、それは多重人格だとスターシステムとかの領分とも言えよう。キスの味は同じだというのはご都合主義的にそうなっているのかもしれない。
「じゃあこっちはどうだい?」
ジーンの手を取った瞬間、乱暴に唇を奪ってきた。この様々な姿へ自在に変身できるマグス・クラウンの肉体においてもっとも血の色が濃く出た舌をねじこまれる。味を感じる優雅さなどなく、蠢く肉で舐め取るようなキス。他人の唾液の味は……まあ色々なシチュエーションで知っているが、もっと味わうべきものはいくらでもある気がする。
「ぶえっ! やめろやめろやめろ!」
「……どうもないか」
神妙にひとりで感心されても、ジーンにとっては何も面白くない。
ただこれまでの流れ、文脈で、おそらくジーンに意味がある何かに繋がるということは分かる。一瞬だけ頭を巡らせるが、ジーンの覚えている限りでこんな、絶対に自分を刻みこもうとさせる執念が滲むキスをしてきた人間はいない。記憶にない。
もうひとりのジーンに相対したときよりもムシャクシャした気分になり、唇を拭いながら言ってやる。
「マグスに、なんならシェハラザードや他の奴だって俺のナカに踏みこんでコソコソしているのはよーくわかった。確かにあの頃は『想像もつかなかった』な。だが真実がどうだったって、あったことはあったこと、なかったことにならねぇ……」
作り物だろうと、自分の想像できない何かが裏で走っていても、体験は真実だと。
それはフィクションたる物語を読んで、作者の意図がなんであれ読者の心が動いた体験が真実だということと同じこと。
それを聞いたマグスは「キミのそういうとこ、大事にしてくれ。あとこれ、もらっておいてくれないかい?」と何かを手に押し付けてきた。
「青い本と栞? 本はボロボロだし、栞は真っ白じゃねぇか」
「栞の方はね、前にジーンのベッドで見つかったやつなんだ。色々としたけどもう何の効果もない、キミの言う通り空白の栞だ。好きにしてくれていいよ。嘘は言ってない」
「本当のことでも都合が悪いところは伏せてるってことな。……もらってやるよ」
とりあえず嘘でないが本当でもないポイントをいくつか頭で巡らせる。『色々した』というのが漠然としており、ここは確実にごまかしが入っている。『もう効果がない』というから、以前は何かしらの力があったと推測できる。『ジーンのベッドで見つかった』といっても、シェハラザードを含めた《神筆使い》の人数だけジーンはいるから、自分のであるとは限らない。ただ裏返せば他のジーンだっているのに、敢えて自分に渡してきた理由も考えるべきか。
マグスは「色々考えているようだけど、もう終点に到達した話だよ」とか言って夜闇に消えていった。後ろ姿がどことなく機嫌が良さそうにも見えたが、マグス・クラウンは全部が道化で演技かもしれないから当てにはならない。
*
残されたジーンは夜空に昇った月を見上げる。
マスターの召喚により現代、現実世界の知識を共有されたことで、あの月はとてもじゃないがジーンの懐に収まるようなサイズでないことも、光っているのは太陽光の反射であることも、表面は砂漠を笑えないくらいに何もないことも、水中みたいに息ができないことも知っている。星だって空にまんべんなく散らばっているわけじゃなくて、どんなにちっちゃな星でも月より何倍どころでない果てしない距離にあるし、なんなら今光って見えるのは過去の光であってもう燃え尽きている可能性があるとかなんとか。
だが月を求めた自分の冒険は色褪せちゃいない。
砂漠にはない瑞々しい草でいっぱいの中庭で大の字で転がって、左手には栞を握ったまま、右手はいつかのように空へと伸ばした。