穴の底では時間感覚がない。だが砂漠特有の乱高下す る気温は土の下へもわずかながら影響しており、夜と昼がループする感覚は多少伝わっていた。水無しでの限界ギリギリ、投獄されてから二、三日かどうかといったところだ。
口の中でもぞもぞする気配がする。
(やっとか)
ずっと口の中で転がしていたモノをぺっと吐き出した。赤い宝石が輝く指輪。
このところ静かすぎて物足りなくなっていたところに、騒がしいピンクのマスコット魔神が出てくる。
『ちょっとご主人! なんでムーニャちゃんがいない間に指輪ナメナメしてるのぉ~! ご主人のことは好きだけどさすがにそういう趣味はないんですけどぉ!』
「そりゃお前のこれまでの持ち主が不用心だったってことだよ。寝首かかれて指ごと切り落とされたヤツとかいたんじゃね?」
『どうして知ってるの……いたけど……』
話し相手もちょうどほしかったが、それを口に出すとまた〝対価〟を請求されそうなので余計なことは言わずイジっていた。喋りながら指先の感覚を頼りに指輪を嵌めなおす。
本物はあらかじめ口に含んで隠していたから、こうして奪われずにジーンの手元に残っている。女装をしているうちは声はどうせ出せないし、もしも捕まっても騒いだり歯で噛みついたりできないよう口はすぐさま塞ぐのが定石だからこその隠し場所だ。口腔まで念入りに確認されたら終わっていた。しかしセインがすぐさま被せた布袋を、一般兵士がわざわざリスクを負ってあらためることもなかった。
『それでそれで、ムーニャちゃんなら魔法の絨毯なりロープなり出してご主人助けられるよ? 命令して? ご主人顔色悪いよ? でも食べ物とか飲み水はムーニャちゃんには扱えないのよ?』
「いや、いい」
見張りがサボってくれているなら幸いだが、それは楽観的過ぎる。〝砕き〟で人間がバラバラにされるのを横からかっさらったのと同じく、脱獄してしまえばまたノンストップで状況は転がるのだ。仕方なくタイミングを選べなかったならともかく、選べるのならば急ぐ必要はない。
まずは現状の確認だ。
「無事に運び終えたか?」
『しょーじき力技が過ぎるんだけどぉ……まだ砕かれていなかった像は盗賊団のアジトに送ったよ。ぶいっ』
元は生きた人間が材料でも、無機物の像としてならムーニャの力で転送できる。でなければ宿屋を物色したとき櫛や腕輪などの装飾品も動かせなかった。これで見せしめで殺されかけている者たちの安全はとりあえず確保できた。
「あと聞きたかったのは、魔法のランプは同じように持ち出せるかどうかだ」
『ぶるぶるぶるぶる! むーりー! ランプ抱えたまんまのご主人を絨毯で運ぶことはできるけど、魔法の道具そのものをイチニのポンするのはなし!』
すごい勢いで首を横にぶんぶん振るからムーニャの頬肉もぶるんぶるんして面白かったが、指摘したら拗ねそうだ。イジるのは全部が終わってからにしよう。
*
『ねーねーねー、いつまで転がってるのー? せめて縛ってる縄だけでも切ってって、命令してよー痛そうだよー』
「うるせえ、だって〝対価〟要るんだろ。こんな状態じゃいつ払えるかわかんねーし、魔神なしで対処できるんなら命令は避けたいんだよ」
黄金像、宝石像を運ばせた命令の〝対価〟も後払いで積んでしまっている。何を選ぶかは任意であるが――だからこそスルタンら父娘は魔神の怒りを買って呪いの泉が生じたという話だ――アイス数本で済ませられる類でない行為だと、ジーンは思っている。思っているからこそ安易にこれ以上命令ができない。
『うー……ご主人いっつもドタバタしてるし、そのたびに後払い命令じゃ良くないのはそうだけど……と、特別に前払いだっていいのよ……?』
いつもうるさいムーニャが急にもごもごし始める。
『今までの元ご主人たちで一番のイケメンだし……ちょっとカッコイイなーって思ってるし……ちゅーしてくれたらムーニャちゃん当分は頑張れるくらいの〝対価〟前払いになるくらい嬉しいかなーって……』
「えー、いいけどムードもへったくれもない穴蔵だけど大丈夫なの?」
魔神とは人間の理から飛び出した存在であり、見た目の性別は便宜上のものだと解釈していた。生娘みたいに照れられてやっと、魔神の感性がそこまで人間と変わらないらしいということを理解する。
もっと早く知ってしまっていたら、ジーンはおのれの顔の良さを自覚しているので色気で籠絡させにいったかもしれない。したらしたで拗らせた関係の女が増えていたから、これでよかった。
『このままご主人が破滅したら最後のオンナになるかもしれない! イケる!』
「俺はこんなところで終わらねーよ。こんな場所でもいいんなら、いいけど」
器用に反動を使い、手は縛られたままだが身体を起こす。
肩にちょこんと座ったムーニャが決意の表情で唇を突きだした。人間と魔神で体格の差がありすぎて、必死に出してる唇が美しい女の一部分を例えるのによく使われる花のつぼみどころか、子供の小指のその先っちょくらいのサイズ感だ。
ムーニャときたら全身ガチガチに緊張し目もガッチリ閉じているもんだから、距離感とかまったく把握していない。代わりに余裕たっぷりのジーンが肩を持ち上げて位置調整して、それでもちょっと唇の射程距離が足りていなかったので首も前に出してやった。ちょっとだけ唇と唇でタッチした。ムーニャのぷるぷるがちょっとだけ伝わる。
からんからんと縄ハシゴが上から落とされる音。
「イフタームーヤー・シムシム……性愛対象は幼女ですか、それも魔神の。趣味が悪いですね」
「えーお前かよ、モルジアナかよ、マジかよ」
「恩を売られたから来てやったというのに、その言い草ですか」
想像していたのとちょっと違ったが、助けが来た。赤い髪と青いヴェールの対照と、おっぱいネクタイが印象的なモルジアナだ。こっちにも手を回していたし、縄ハシゴがなきゃ穴蔵から出られないので文句は言えない。
降りてきたモルジアナが縄を解いてくれる。きつく結ばれていたせいで手首足首にひどく痕が残っていた。
『ひえええ! みみみみっみみみっ見られてた! ムーニャちゃんもう恥ずかしい! ムリムリ! ちょっとストライキ! 引きこもる!』
今更ムーニャがガタガタと騒ぎだし、指輪に取りつけられた宝石の中に潜ってしまった。改めて、人差し指に収まった指輪を眺める。
捕縛されたジーンの懐をまさぐるフリをして、元々用意していた偽物を魔法の指輪としてスルタンに渡していたセイン。
わざわざ偽指輪を用意してごまかしてくれたくらいだから、縄ハシゴを下ろす登場人物はセインだと思っていたのに。そのタイミングでは兵士を無力化したり宮殿内部の構造など調べ上げて、仕込みもこなしてくれるのだろうと考えて、無理な自力脱出は考えずに待っていたのだが。
「そういえば警備の兵士たち……多くが昼間から酔いつぶれていて楽でしたね。オトモダチは策士だったようで」
「何かあったのかもな。とにかく出るか」
縄ハシゴを上がると他にもいくつか囚人を放りこむための穴が並んでいたが、すべて縄ハシゴは下ろされている。そのまま見張りたちの詰所に繋がっていて、ちらりと覗くと兵士がいびきをかいていた。彼らのために用意されていた水とパンを口に詰める。
ついでに着せられていたボロ服は脱ぎ捨てて、代わりに洗いたてのちょっと仕立ての良い兵士服をもらってやった。赤は着慣れない色味で落ち着かない気持ちになるが、ボロ服よりはずっと良い。横にあった曲刀も拝借する。
「こちらへ」
手際のよいモルジアナの案内に任せ、宮殿の外へと脱出できそうな扉のそばまで来た。内側からなら簡単に開く。開くと夕刻特有の、熱気と冷気が混ざった風が吹き抜けた。
「……このまま外に出たら、どうなる?」
「私たちの仲間を粉砕される前に助けてくれた恩はありますが、一方で好き放題もしてくれました。例の指輪ごと遠くに去ってもらえるならばそれで手打ちとしましょう。あとのことは、こちらの問題。人間に戻す手段も探していくつもりです」
別に盗賊団といえども自由を失って人間が死ぬのは気分が悪いから助けただけだし、彼女の言う通り元に戻すところまでジーンが関わる義理がない。
なら、関わる義理のある相手については。
「セインはどうなっている? あんたのことだ、兵士が酔っ払っているといっても油断せず来たはずだし、姫さんとも通じていたんだろう」
深く嘆息された。さっきの質問にずれた回答をしたのもわざとに違いない。
「貴方を捕らえる手伝いに見せかけ、実のところは脱獄の手引きをしようとしたことが発覚して、きっと今宵にでも処刑されるところですね。私としては、あの男が串刺しでも獣の餌でもとにかく消えてくれた方が良いくらいです。だからはぐらかしました」
「なんだって、そこまでの悪意をセインに持ってるんだ」
モルジアナたちのアジトから脱出する際「お前だけは逃さない」と首締め寸前までしがみつき食いついてきたのも、指輪を盗んだジーンに対してでなかった。今ならセインを対してだと分かる。セインは彼女に会ったことがないと言っていたが、過去の事情を伏せているだけだったのかもしれない。だが何があったのだとしても、これまで見てきたモルジアナに対して不釣り合いなほどのどす黒い悪意だと、ジーンは感じたのだ。
「……今の貴方には想像もつかない」
「またそれか」
踊り子ラクスにも同じことを言われた。そして同じ言い方をするということは、モルジアナとセインを巡る事情とラクスの企みとは繋がっていて、つまりはジーン自身にも関わることなのに、蚊帳の外に置かれている不信感。ただしライラ王女とは無関係だというから本当にわけが分からない。
「あの男を救いにいこうといくのなら、私と貴方の道はこれから後戻りする余地もなく
「元からちょっと魔法の指輪を巡ってぶつかっただけだろ。別れたところでどうもないさ。俺の女になりたいのか?」
「夫がいますので。貴方が助けた水晶像が彼でした。……ちょっと出会っただけ、ぶつかっただけなら別れもどうともない、と言いましたね」
お前自身の言葉から言質はとったぞ、とモルジアナが続ける。
「あの男だって、貴方にとっては少しばかり手を貸しただけの関係でしょう」
当たり前のことをわざわざ指摘されるまでもない、とジーンは返す。
「理屈ではそうだな。しかも裏切られて、マッチポンプで穴蔵に閉じこめられたし」
セインによる情報リークに関係なくスルタンに上をいかれて、結局は囚われの身になったかもしれない。その場合でもムーニャに盗賊の像を運ばせ、同時にモルジアナへ間接的に連絡を取ったのはセインの行動に関係なく、ゆえに今とあまり結果は変わらなかったはずだ。
ただただ、友好的に接してきて、マッチポンプで裏切って、モルジアナの言うことには勝手にそのまま危機に陥っているヤツに対してジーンがどう思い、どう行動するかというだけの問題。
「俺は頭で動かねえ。やりたいことをやるだけだ」
見捨てろとモルジアナから言外に言われているからこそ、自分の中にある反発する心が自覚でき、より決意は強まる。
らしくもなく彼女は手を差し出し、握手を求めた。最後にジーンも握り返す。
華奢な見た目に反してマメの多い指だった。斧だけでもこうはならないだろう、中指のはペンだこの特徴な気がする。こんな手をした女をジーンは知らないはずなのに、長年の女と今生の別れになるような感覚がよぎった。
「……そんな性格だからこそ、貴方は《主人公》なのでしょうね。さようなら」
結んだ手がほどかれ、ついに互いに背を向けた。