堕ちた偶像のためのフィグマ 作:エコノミック・アニマル
雨の降りしきる大寒の夜、職質を警戒して隠れて入った建設現場に捨てられた、マールボロの吸い殻は5本目だった。
この雨粒は、ビニール傘ぐらいでは防ぎきれない。
腰まで届くすみれ色の二つ結びは濡れ、胸のはちきれそうな白いトレンチコートも冷たく滲みて、悔悟の涙を流した墜落の偶像から非情に体温を奪っていく。
しかし彼女にとって、そんなことはもうどうでも良かった。
果てのない流浪で彼女を支えていた、藁のような希望は潰えた。
もう彼女に味方などなく、もう未来は閉ざされた。
がらんと、音がした。
ビニール傘を上げた彼女の視界に、縦掛けられていた赤い軽骨のH形鋼が、結束のワイヤーを千切ってゆっくりと倒れかかってゆく。
避けようと思えば避けきれた。だが彼女は覚悟を決めていた。
――私は偶像に拐かされた、代償として殺された。
それでいい。悪霊になれるなら大いに呪ってやる。
さっさとくたばれスケベ社長、せいぜい怯えろ無能マネージャー。
世界よ、私を忘れるな。私は絶対に忘れないぞ――……
そう呪詛を唱える墜ちた偶像に、鉄骨の宿星が下ったのだった。
旧びたサイレンと甲高いエンジン音が耳を塞ぎ、むせ返るほどの排気ガスが彼女を覆い尽す。
天国があるとすればお気楽な花畑を想像していた彼女だったが、実際は小汚く、地獄にしてはあまりにも面目躍如な人の世界が、目の前に繰り広げられている。
ここには鬼も天使も閻魔も神様も、いない。
昭和40年12月3日、中野上彦が死んだ。
一ツ橋の建設現場で降られた鉄筋の雨に串刺しになって、1週間も苦しんでやっと死んでいった。
あまりの酷い死に方にゼネコンが直々に謝罪して、治療費と口止め料と兼ねた見舞をそこそこは出してくれたが、受け取った父親は骨壺の代わりに東京土産を引っ提げて早々に新宿を発ったのだった。
12月9日、中川と十間川の合流に近い再現寺に、上彦にそこそこ縁のあった連中が30人ほどが集まった。
大方の連中は奴のことより我が身の最期を思い浮かべながら法要に臨み、今は大間でお斎を食べているのだろう。
「大丈夫ですか?」
同僚から借りた黒背広を畳んで、鐘つき堂の石垣に寄りかかってハイライトを吹かしていると、略装に着替えた若い尼の住職さんが話しかけてきたのだった。
「……まあ、食欲がなくて」
「ショックとも、また違うようですが」
「よくわかりますね」
正直上彦の死をそこまで悼んでいるわけではなかった。問題はあいつの死に様と、肉親の態度だった。
「俺も多分、上彦と同じになるんだろうなって」
「ああなるとは……」
「ま、死んで稼がなくなった子供より、目の前の大金のがよっぽど良いには決まってますからね」
ハイライトの紫煙が絡みついて、快晴の冬空に消し飛んでいく。
「こんな暮らしをしていると、たまに思うんですよ。俺達本当に人間なのかなって。もしかしたら地獄の餓鬼の一人で、ただ夢幻を見てんじゃないかなってね」
住職は険しく、言い返せないのかただ哀しい顔をしている。
「色んな意見や事実があるのは知っています。今回はその極端な例に過ぎないだけでしょうね」
俺は美辞もなくそう断り、黒背広を羽織って、小さな尼寺の、本堂の大間へ戻ったのだった。