堕ちた偶像のためのフィグマ 作:エコノミック・アニマル
江戸橋で首都高に乗った社長のスカイラインは、東京駅や皇居を横目に、空いているのを良いことに当時の最新車やトラックをもろともせず、快速を維持し続けた。
「社長、スピード落としてください!」
私の隣で鈴木が青ざめている。
最初はかかりの悪かったエンジンの調子は今はとても良さそうだがやはりものはボロ、足回りを中心に変な音が鳴っている。
「怖くないのか七瀬」
「怖いわよ」
現代では義務化になっているシートベルトのありがたみが、これでとても良くわかった。
この1958年式プリンス・スカイラインには、そんな類の安全装備はまったくついていないのだ。
よく懐かしいだノスタルジーだ言って持て囃しているけれども……21世紀にレトロカーを愛してやまない人達の、こんな狂気の産物を使う気持ちがまったくしれない。
それにしても渋谷まで大した距離ではないはずだが……。
お掘の淵から潜ったトンネル内部の淡く薄暗いオレンジのナトリウム灯も相まって、伸び切ったテープのようにとても長く感じる。
単調に、短い等間隔に連なるランプの線に、まるで異世界へ誘われていくような感覚もあるが、それ以上に社長の情緒のないペーパー運転が恐ろしい。
進行を邪魔された後ろの2トントラックが、激しいクラクションとパッシングをスカイラインにかましてきている。怖い。
全速力で走りたいためだけに乗ったのだろう首都高が、社長以外の私達にとっては1時間にも感じられるほどの罰ゲームだった。
しかも当時の終点だった霞が関インターから出て、なお延伸しようと建設途中の首都高の高架が続く交通戦争の六本木通りを、怒鳴られながらびゅんびゅん追い越していく。
そして案の定、取締に張っていた白バイに停められたのだった。
案内標識を頼りに渋谷駅東口の文化会館に近い駐車場にスカイラインを入庫して、俺達は一団で、先ほど通り過ぎたミシロのビルへ向かって歩いていた。
近づくごとに観光客や未来のスタイルを真似た奇抜なミシロ族の同年代が、すっかりミシロ一色のデパートやお店を散策したり、駅や都電にあちこちに点在して屯しているのをすれ違う。
4月29日正午の猛吹雪以来、ここは確かに時代の最先端を行っていた。
かのビートルズも来日する時に見に行けばびっくりだろう。
そして……明らかに場所とマッチしている美麗の七瀬を除けば俺達じゃがいも3人は、まったく今の地べたを這いつくばっていた。
なにせ社名入りの作業着にボロ草履、流行遅れの亜麻色の夏背広、あげくタイムスリップを疑うような国民服……。
……山田さんは、それはもう恥ずかしそうに国民服を丁寧に脱いで、薄手の山シャツ姿になっている。
作業着のときより骸骨が余計に際立っていた。
「これがミシロ族ねぇ……」
ガードレールに寄りかかって談笑しているミシロ族を見て、社長はぼやいた。
手にはいつの間に持ってきたのか、ライカを手にファインダーを覗く。
「なんてーか、格好はともかくとてもちぐはぐで野暮ったいですね。なんか垢抜けてない」
実際に見たとなると、率直な感想がこれだった。
そらそうだ。どんなに外見だけ未来に飾ったって、中身が伴ってなきゃ格好悪いに決まっている。
その点では七瀬春子という女はとても不思議だった。
バーゲンで買った適当なブラウスにアメ横で買ったらしい古着のジーパンという潔い格好をしているが、胸はともかくすみれ色の髪といい上品な化粧といい、これが未来人だと言われても俺は信じるだろう。
遠くで黄色い歓声があがった。どうも本物の未来人が歩いているようで、お登りな人らがサインと握手を求めているようだ。
その人だかりを見物すると、周りと頭身が全く違う。身長185センチは絶対にある飛び抜けているのがいた。
今日びの少女漫画でもあそこまでは盛らないだろうパステル基調のファンシーな格好をした茶髪パーマの童顔の女性が、観光客の子どもらしい幼児2人を肩車して、快く写真撮影に応じているのが見える。
その隣に少し頭身の下がった、あの七瀬よりもでかいショートヘアの少女と、もっと頭身の下がって二つ結びのやはりおおきな女性も色紙にサインを書いているのが見えたが、至近から突き刺すような鋭利な視線を感じたのでこれ以上見るのはやめておいた。
……午後5時、ミシロ族を満載にした都電が、53年後のビルのそびえ立つ足元の六本木通りを渋谷駅のターミナルへ入っていく。
「今日は奢るよ。デパートのレストランで食べよう」
これが時代かと、期待外れと期待通りの両方を感じた様子の社長が、皆を食事に誘った。
しんせい、ハイライト、マールボロ。
人の金で食べた、食後の一服なんて至福に決まっている。
吸わない社長はアイスコーヒーを啜りながらとても煙そうだったが。まあいいや。
東都東横百貨店のレストランは、ミシロ族だけでなく一般客でも混んでいる。
「あのビルの焼けた部分を、具志堅君が直しているのかい?」
ぼうっとしんせいを吹かしていた山田さんに、社長は尋ねた。
不意に意識を取り戻して、少し慌てて山田さんが答える。
「みたいですね。前のパレスビルが終わってすぐに入れて、今の現場には1ヶ月近いそうです」
「そうか……」
ガムシロップをいくつも入れたアイスコーヒーをストローで啜っている。
「彼、うち辞めてからちゃんと渡航証明を更新したんだろうね?」
「していると信じたいですが、彼もズボラだし。役人というのは人に指図するくせに仕事の遅いばかりですからね。アメリカさんが絡むと余計にひどい」
「そうだなぁ。何とかできなかったもんかなって今でも思うよ」
社長と山田さんの雑談の中で、俺の隣に座る七瀬がマールボロの煙を揺らしながら、9階から望む渋谷のネオンをチラ見しては、左手首につけた高級そうな腕時計を確認している。
何か重要なことを言いそびれているような少し深いため息をついて、タバコの灰を灰皿に落としていたのだった。
「すみません社長、先に帰ってもらっていいですか?」
「ん? 何か見たいなら僕ら待っているよ?」
俺は七瀬に目配せして、丁重には遠い声色で断った。
「いえ、俺、七瀬ともう少し周りたいんで」
七瀬は少し驚いた顔を俺に向けて、でも否定する様子もなかった。
「……ああ、そうか。若いもんなぁ」
何か別の意図を持っていると社長は勘ぐったようだが。
あんまり遅くなるんじゃないよと、寒くなって国民服を着た山田さんも手を振る。
土産でも買うのか、2人はのれん街へ歩いていったのだった。
「渋谷くんだりお前が連れてきたんだ。何かあるんじゃないのか?」
「……」
七瀬はなんだか、迷っているようだ。
「今何時?」
「7時15分」
「お前のとこの門限は過ぎてしまうな」
「……ええ」
どうせ明日も工場は動かない。こいつの逃げ場は塞いだようなもんだ。
「電車、乗ろうか」
上野まで至る山手線を遠回りすればちょうどいいぐらいだろう。
それまでに何か話してくれると良いのだが。
七瀬を俺が先導して横断歩道を渡り、都電のターミナル線を越えて渋谷駅へ入る。
ミシロ族の屯する噴水前のハチ公像を見て、遠い記憶を思い出したような、七瀬は泣きかけの表情を浮かべていた。