堕ちた偶像のためのフィグマ   作:エコノミック・アニマル

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10.失着七瀬

 思えば、あれ自体が運の尽きだったのかもしれない。

 

 今から52年後の、平成30年6月15日。

 肥大し迷路になった渋谷駅広場のハチ公像の前で、高校生の私は学校帰りに遊ぶ友達を待って改札とスマートフォンを見ていた。

 SNSで話しているその時だった、あのスケベジジイが後のマネージャーを振り切って声をかけてきたのは。

 

 いきなりのセクハラ発言にむかっとしたが、非礼を詫びて改まったマネージャーが渡してくれた名刺の住所に向かったのは、翌の土曜日のことだった。

 以来1年半、いやらしい目やいわれのない妬みや中傷を受けながらも私は、グラビアアイドルとしてひた走った。

 ――稼ぎを当てにして遊び惚けていた父親の事故死、勝手に支払われた巨額の保険金、そしてあのふざけた手記がリークされるまでは。

 

 

「七瀬、大丈夫か」

 ふいと今の信じられない現実に意識が戻ったのだった。

 鈴木八郎が、恐れるような表情で私を見ている。

「なんでもない」

 この冷や汗はすぐに乾くだろう。ポケットから取り出したハンカチでさっと拭う。

 

 動悸を抑えようと深呼吸をしていると、きゃんと、足元で犬の鳴き声がした。

「え」

 

 デニムパンツの裾にじゃれついているのは、ロシアンライカのような白黒の小型犬だった。

 黒い頭から伸びる立耳が巻き毛のように少し折れている。

 飼われているのか赤い首輪をしていて、私に対して短い尻尾を振っていた。

「忠犬よ、ご主人はどこ行った?」

 鈴木は犬が逃げないように優しく首輪を掴んで頭を撫でてやり、まもなく駆け寄ってきた女の子に手綱を渡す。

「スパシーバ……えと、ありがとうございます」

「どういたしまして」

 鈴木は女の子を見て笑んだが、同時に少し怪訝な顔をした。

 その姿に、私も一瞬で鳥肌が立った。

 

 青みがかったプラチナブロンドをショートヘアにした15歳ぐらいの少女だった。

 スラブ系の雪のように白い顔立ちで、緑青の瞳が宝石のように輝いている。

 

 ……上野の傷痍軍人どもが言っていた、あやふやな魔女の特徴とはまた違う。

 洗練されたデニム基調の服装といい、神無月ワタルが気づかないわけがない状況といい、この子は破滅の魔女ではなく現代からやってきたミシロのアイドルの一人だろう。

 現に少し女子高生然とした黒髪ロングの少女が、時代不相応の蒼いオーラを出しながら「アーニャ、クドは見つかった?」と、噴水を周って駆け寄ってきていた。

 

「ブッジチェ アスタロージヌィ フスリェドゥユシィ ラース」

 少し間を置いて一応の警戒を解いた私は、それまで殺意にも近い眼光を向けられ戸惑っていたこのアーニャという少女に、片言で諭す口調で注意を促した。

「Ах……Спасибо, что простила меня. Спокойной ночи!」

 まさか母国語で返されるとは思わなかったのだろう。

 アーニャは途端に嬉しそうにして手を振って、ライカ犬と合流した少女と一緒に散歩へ戻っていった。

 

「お前ロシア語うまいな」

「大学にいた頃、第二外国語で履修した程度よ。ネイティブの人に通じるとは思わなかったけれど」

 ロシア語を解する人物は、現代に比べれば今のほうがよっぽど多く、下手をすれば英語よりも身近だ。

 もっとも気をつけなければ、面倒事に巻き込まれかねないような情勢なのだけれども。

「しかし驚いたよ、まさかソ連人のきれいな女の子を拝めるなんてな。まるで絵本に出てくる妖精だったな」

「そうね……」

 鈴木はそうおどけるが、感心と疑念が混在した黒い瞳は、私をじっと見定めようとしている。

 

 

 引っ張っていく鈴木に国電山手線へ放り込まれて、内回りの暗い車窓に映る自分の姿と鈴木を交互に見つめていた。

 品川駅を発車したカナリア色の8両編成が、対向するウグイス色の電車の風圧を受けて横に揺れる。

 私の時代には新駅の出来る高輪の辺りは、もう灯火も乏しく真っ暗で何も見えない。

 

「七瀬、生まれはどこなんだ?」

 私が喋り出すのを待っていたが埒が明かないと、意を決した鈴木が切り出した。

「覚えていないわ」

 履歴書にもそう書いた。そんなのだからこそ同情を得て採ってくれたのが、あの青島ゴム玩具の町工場だった。

「孤児なのか?」

 なお鈴木は聞いてくる。

「似たようなものだけど、一応は違うわ。親は私を育ててくれたはずよ」

「なんだよそれ」

 鈴木は私の適当そうな返答に、明らかに苛立っていた。

「だって私には、……過去の記憶がないもの」

 閑散とした車内に、対向する外回り電車の前照灯と、けたたましい汽笛が啼き響いた。

 

 

 53年後からタイムスリップしてきたミシロのビルの現実があるから、本当のことを言っても彼はそれを信じてくれるだろうが。

 ……破滅の魔女を滅ぼさなければならない今時点は少なくとも、それまで演じてきた記憶喪失の女を続けるしかない。

「だって、戸籍はあるんだろ?」

 戸惑う様子で鈴木は続ける。

「記憶喪失になってから新たに作ったものよ。元の身元なんて知らないわ」

 ……就籍に際しては、七草弁護士が非常によく助けてくれた。

 この当時の20歳は終戦直後の生まれにあたり無戸籍者も多いとはいえ、まったく身元が不明の状態の申請から、たった1ヶ月強で家庭裁判所の判決が出るのは異例とのことだ。

「だからババアがあんなこと言っていたのか……」

 鈴木はうなだれた。

「今日、渋谷を提案したのは、何かあのビルの人達と私が、同じような存在に感じていたから。でも実際に見て全然違った。あの人達には確かな輝きがあって、私にはそんなものはない」

 まるで天を仰ぐように、車内を煌々と照らす蛍光灯に手をかざした。

 

 

「ところでおめーさ。……一度コケるとボロボロとホラが剥がれていく経験、ガキん頃何度もなかったのか?」

 ……迫真に演じきった私の横で、うなだれていたはずの鈴木は、それはもうおかしそうに笑いを堪えている。

 激昂寸前でもあるようで、こめかみに青筋がいくつも立っている、とても複雑な感情が渦巻いているようだ。

 

「どこがおかしいの?」

 バレるような事は、鈴木が知りうる範疇ではないはずだ。

 ……頭の中で、砂の溶けるようにまっさらと鳴いている。

「お前が毎週渋谷に行っているのは具志堅先輩から聞いていた。お前の性格からしてそんな行くたびに感動とか感傷を起こす性質じゃねえだろう」

「私だって感傷に浸ることは山ほどあるわ」

 平静を装うが、声色に震えが走っているのが自分でもわかる。

 落ち着け自分。この程度ならまだ立て直せる。

 

「もう一つ、さっき致命的な事言ってる」

「なによ」

「お前記憶喪失なのにロシア語習ったって事実を覚えているだろう。どこの大学で履修したんだその第二外国語」

「……う」

 

 

 ……山田さんが以前ぼやいていたな。

 炭鉱のカナリアって、いざ事故ったら鳥籠の中で窒息して、あっけなく死ぬって。

 

 東京、神田、秋葉原、御徒町……、乗り換えの帝成線がある上野まではまだかかる。

 しらばっくれようにも、取り繕う余地も物理的な逃げ場もない。

 

 新橋駅を発車したカナリア色の電車は明治の高架線を走って、新橋からもうすぐ有楽町に差し掛かる。

 

 七瀬春子の築き上げた自信の虚構は、このウグイスのような男に、あっけなく崩されたのだった。

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