堕ちた偶像のためのフィグマ   作:エコノミック・アニマル

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1.工員七瀬

 七瀬春子は、集団就職に混じって4月に入った見習工だ。

 無口に徹して何も語らないが、こなれた薄化粧は白く艶やかで、まっすぐに通った鼻筋、血色の良い桃色の唇、琥珀色した切れ長の瞳にはひときわ高い気位を内包している。

 身分不詳なところを加味しても、なぜこんな零細の汚い玩具工場に応募したのか……まったく勿体ない大変な美女だった。

 経理のババアはそれこそ若い彼女の悪魔めいた美貌に嫉妬狂う。童顔や仕草からくるあどけない色気や、その幼気な顔つきにあまりに不釣り合いな豊満の肢体もあり、逃げてきた色街の女だとか下品な成金の妾だったとか、早速根も葉もない卑猥で陰湿な噂が立っていた。

 

 だが彼女は特に気に留めない。

 ただ黙々淡々「こんなもんでしょ」とばかり、汚れたじゃがいも男達の町で仕事を覚えていった。

 今日も男物の作業着に収まるよう100センチオーバーの胸をもったいなくも身動ける程度に潰し、すみれ色のおさげを作業帽の中にまとめて、そのしなやかな白い手に綿軍手を嵌め出来上がったソフビをビニール袋に包装している。

 

 週明け6月13日の午前11時、東京都葛飾区水元小合町・香取神社の近くにある青島ゴム玩具のバラックめいた町工場。

 俺はバッタもんのソフビの1ロット分を塗って、それらを乾燥機にかけたのだった。

 で、休憩所で最後のハイライトを吹かしながら、鉛筆片手に藁半紙にガリ版された宿題を広げては閉じていた。

 

『赤球2個と白球4個が入っている箱から1個の球を取り出し、色を調べてから箱に戻す。この試行を100回行ったとき、赤球の出た回数をXとする。このときP(X=20)を求める式を記せ。またE[X],V[X]を求めよ』

 初っ端からこんな問題だ。仕事疲れの夜学で行われた授業内容で、このときには完全に突っ伏していた。

 だいたい数学Ⅲなんて苦手科目なのもあってまったくわからない。

 

「あーあ……」

 そうして藁半紙の宿題を紙飛行機にして窓の外へ飛ばしたはずだったが、ふと向かい風で工場の中へ、それも休憩に入ろうとする七瀬春子の巨乳に先端が当たって墜ちる。

 床に墜落した紙飛行機――クシャクシャになった宿題を広げたのだった。そして皺を広げて……読んでいるようだ。

 

「もしかしてお前、それわかるの?」

 からかい半分、疑い半分に俺は七瀬に尋ねた。

 ……俺と同じハタチだったはずだ。高校を出たとは聞いてないし、だいたい高校を出られる頭ならこんな小さな町工場の中卒の見習工になんて甘んじるわけがない。

 俺の茶化しめいた質問に馬鹿にされたと思ったのか、七瀬はその切れ長の瞳で斬りつけるように俺を見たと思えば、鉛筆を執って藁半紙に式を書き出して俺に向けて突っ返したのだった。

「えっと……」

 もっともらしい式、式、式の羅列……。

 合っているかはわからないが、確実に問題の意図を理解して解こうとする熱意は感じられる。

 いや……この調子、この様子だと、正答の確証があるのだろう。

「解説いります?」

 収まりきらない双峰を上に載せて腕を組んだ七瀬が、決闘相手にピストルを撃ったような鋭い声で、首をかしげた。

「い、いや。解説されても、俺には合っているか、……わからねえし」

 正直、そのスイカの実ったような胸に目がいく。

「そうですか」

 アホらしいやりとりだったとばかり自腹で用意しているお茶と煎餅を2人分用意して、机に灰皿を用意すると古びた椅子に厳かに座る。

 そして一方のお茶と煎餅を、俺に差し出したのだった。

「お、おう」

 俺は座り直してそれを手前に引き、番茶を啜ったのだった。

 

「鈴木さんは」

「あ?」

「高校に通われているんですか?」

「あ……ああ」

 普段が無口に徹されているだけに、突然の機会で俺はどぎまぎしている。

「社長の奨めがあって金町高の定時制に通ってんだ」

 その学業のひどい成績には、半額学費を出してくれている社長に申し訳なく思っている。

 だが地頭の悪さは、どうあってもそう変わらない。

「七瀬こそ高校卒業してんだろ? なんで中卒扱いで工場に入ってんだよ。もったいねえ」

 その気になれば、戦前の難関女学を卒業したって鼻にかけている経理ババアの首ぐらいももぎ取れるだろう。

 そうしたらもういくらか待遇は厚いはずなのに。

「後先を狡猾に考えるより、単純に手を動かしていたほうが楽ですから」

「そんなもんなのか?」

「少なくとも、ここに来る前よりはだいぶ気楽なんです」

 少しため息をつくと、琥珀色の瞳に陰んだ疲れ色が滲み出ている。

 俺は頭を掻きながら、新しいハイライトを取り出そうと内ポケットをまさぐった。

 その様子を見て七瀬は、みちみちの胸ポケットから取り出した潰れたマールボロの、少し曲がった1本を俺に差し出した。

「いいのか? サンキュー」

「ライター貸してくれません?」

「ん」

 どこかで貰ったブックマッチで彼女の咥えた1本の先に火をつけ、残り火で貰った1本に火を点した。

 

 苦く、少しほのかな甘い風味。

 

 飴を舐めるように七瀬はマールボロを軽く一吸いする。まもなく、細く絞った桃色の口から、髪色に似た少し濃い目の紫煙が噴かれた。

「ここは長いんですか?」

 七瀬が、ぽつりと俺に質問した。

「ん? ああ、集団就職してもう5年になるな」

 思えば5年前――昭和36年の春、就職列車で常磐線を上って着いたのが上野駅。

 あのときは社長にハイヤーで迎えられて、この工場に入ったんだっけか。

 あの頃の工場はとても活気があった。オリンピックの後からかな、親方も隠居して業績とか悪くなったのは。

 今では俺に七瀬に山田さんにたまに社長ともう数人で仕事を回せる程度だ。

「出身はどこです?」

「福島の浜通りにある大熊ってとこ。ま、米と炭鉱以外、何にもないところさ。俺はそこの貧乏小作の5男坊だ」

 俺は七瀬に自然な流れで同じ質問をしかけた。だがバツの悪い表情を浮かべたので、聞き返すのはやめにした。

「七瀬は、何か趣味とかないのか? ここの安い給料じゃ大した遊びもできねえだろうに」

 思えば同時に入った顔はみんな辞めるかグレていった。

 まあ、俺も不真面目っちゃ不真面目なんだろうけど。社長が良くしてくれるので仕事はしている。

「それでもこれが気楽だから」

「はーぁ」

 彼女のその気楽をあまり理解できない俺に対して、七瀬はおかしいのかくすりと笑った。

 仏頂とは言わんが普段の無表情ぶりから一転して、それがあまりにも可愛くて、眩しくて。

 

「あんた達、そろそろ仕事に戻ってくれない?」

 2階の事務所から乱雑にタラップを鳴らして経理ババアが降りてくると、まるで痩せたカマキリが威嚇するように七瀬を特に睨む。

 涼しい顔でそそくさと戻っていく七瀬。

 灰皿にマールボロを押し潰して工場に戻った俺も、射出されてから熱を冷ましたのっぺらなソフビの顔を前に、新たに用意した新品の彩色筆を執ったのだった。

 

 

「や。仕事に精は出ているかね?」

 ガタガタと建付けの悪い引き戸を強引に開けて、風呂敷の包みを片手に社長が帰ってきた。

 30代にしては若く見えるその日焼けたじゃがいも顔をひょっこり、彩色する俺の左側から覗かせた。

「社長、おかえりなさい。これで明日の納品分は終わりですよ」

 午後3時、ちょうど定時だ。赤やメタリックに染まった山羊毛の彩色筆をよく洗い、トレーに並べて乾燥機に置く。

 過酷に使われて壊れかけていた射出成形機を手入れしていた山田さんも、今は骸骨の体を鳴らして、しんせいのタバコを吹かしながらくぼんだ眼で七瀬の日報を確認している。

 問題はなさそうで、七瀬のことを言葉足らずに認めていた。

 七瀬はというと、さっきの鮮やかなすみれ花はどこへいったか。無表情を越して無感情に戻っていたが。

 

 俺も日報を書き終えてファイルに閉じると、出勤簿を開いて退勤時間を書いた。

 授業までまだ2時間ある。いったんアパートに帰って横になろう……。

「先上がります」

 灯りの廻りを飛び回る蛾のような様相で経理ババアが社長へガミガミ噛みつきながら、2人が事務所へ上がっていく。

 山田さんも私服へ着替えにロッカーに行ったようだ。

 七瀬は……俺の見える限りでは見当たらなかった。

 

 

 午後5時、格安で買った中古の実用自転車を立ち漕ぎして、国鉄金町駅の北側にある高校へ始業ぎりぎりに滑り込んだのだった。

 教室に駆け込むと老齢な担任の城所が、俺の名前を後回しにして残り全員の出欠をとり終え、ダルマのようなしかめ面を向けていた。

 

 とはいえ定時制の出席率なんて悪くて当たり前で、日々の稼ぎに疲れ果てるかワルに走ったかで、ほぼ辞めたも同然の生徒が多い。

 そして例外なく俺が通う3年F組の教室も、定員40名に対して女ばかり半分強しか残っていなかった。

 

「はぁあー」

 昼間の七瀬のこともありつい意識してしまう。なんでうちのクラスメイトは貧相なまな板にコケシばかりなのだろうか。

 そう思ってホームルームを待っていると、

「てめえさっきから何かいやらしいこと考えてんだろ」

 メスゴリラのボスのような厚木妹が、昼部の番長の腕を折ったとかいう腕まくりした上腕二頭筋に力こぶを蓄えて、コケシ女子らを代表してきたのだった……。

 

 抵抗するのも疲れるので大人しく張り手を喰らい、いつのタイミングで出ていたのか鼻血をチリ紙でツッパする。

 合間の小休憩、俺も職員室近くの灰皿でハイライトに火をつけて喫煙を共にする他の男子や年齢の近い教師と世間話の輪に入ってはいたが、どうせ車か野球か飲む打つ買うの単調な話題なので正直さっさと帰って寝たかった。

「そういやはっちゃんよ」

 話を切り出したのはスティーブ・マックイーンを思わせる容貌の厚木孝蔵――さっき張り手をかましてきたメスゴリラ厚木妹こと花代の、8歳離れた実兄だった。

 クラスは別だが同学年で、うちの町工場の近くで中華屋の出前をしている。険悪な妹と違って俺とは仲が良かった。

 

「はっちゃんの工場にすんごいスタイルの姉ちゃんいるだろ」

「何だよ。紹介しねえぞ」

「あーいや、前に声かけたんだがまったくの脈なしだったんだ。男がいるわけでもなさそうだしイケると思ったんだがなぁ」

 さすがこいつは手が早い。だが七瀬のガードの固さにも感服する。

 というか、これだけのハンサム相手にも興味が向かないのかあいつ。

 珍しく、なんだか自分が優れた気分になった。

 

「すんごいスタイルって?」

 沼田先生が食いつくと、孝蔵がおどけて「ジェーン・マンスフィールドより美人ででかくてえろい」と下劣な口調で答えた。

「1メーター超えてるだろうなぁ……ぱいんぱいんだけど柔らかそうなスイカ」

「おー……」

 想像した沼田先生が鼻血を垂らしながら身を乗り出してなお食いついた。ああ、こいつら殴りたい。

 

「で、あいつがどうしたって?」

 本筋に戻そうと、俺は孝蔵に尋ねた。

「あの姉ちゃんさ、本当にこの時代の人間か?」

「はぁ?」

 なーに言ってんだこいつ。確かにそんな雰囲気だけど突拍子もない。

 孝蔵は真剣とまではいかないが、真面目な顔で話を続ける。

「いやな、日曜日に渋谷で見かけたんだ。ミシロ族みたいな格好して、例のビルから出てきた若い男と2人で歩いていたぜ」

「例のビルって」

 4月29日に突然現れた、53年後から来たっていう連中か。

「ありゃ男女の仲や行きずりの関係じゃないよ。だけど同じ、時代の雰囲気を感じた」

「お前追わなかったのか?」

「その場にミシロ族の素敵なデート相手ほっぽって追えってか??」

 こいつ殴りたい。

 

「その男との関係は知らねえけど、七瀬とは渋谷のそいつらが現れる前の4月3日に顔合わせしてんだ。思い違いだろ」

「あーそうなのか。というか名前知っちゃった。あの子、七瀬っていうのか」

 孝蔵はそれでも引っかかっているような顔をして、それでも無理に飲み込んだようだった。

 俺は俺で、あの七瀬が休日はミシロ族として過ごしているなんて意外だったが。

 

「その七瀬ってどんな娘なんだ。出身は? 学校は? 家族は? 恋人は?」

「知ってても教えねえよバーカ」

 思えば入社から2ヶ月少し、仕事以外で彼女のことをまったく知らない。

 

 

 そうして小休憩も終わり、ホームルームを終えると、わずかな街灯だけの真っ暗な道を重たい自転車を漕いでせいぜいと帰る。

 次の日も次の日も変わらず続く。これがこの俺――鈴木八郎の、ありきたりな毎日だった。

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