堕ちた偶像のためのフィグマ 作:エコノミック・アニマル
既に冷めたコーヒーを口に含み、ふと左手首に見たケイトスペードの腕時計は5時34分を指している。
神無月ワタルの言った内容を確かめるため一晩明かしたのは、長距離旅客で埋まる上野駅前の深夜喫茶だ。
灰皿にマールボロの吸い殻を押しつぶし、そこそこになった会計を済ませて小雨の表に出て公園の外縁にしたがって南に歩くと、彼の言った通りもう怪異が現れたのだった。
弁財天を覆い隠し、不忍池の東側から大通りを潜らせ公園の一部にまでそれは侵食している、世紀末の九龍城塞を思わせる怪獣めいた高層のスラム建築。
当然、昨日までそこになかったものだ。
だが大通りの都電も、車の往来も、道行く通行人も、それまでの日常のようにそんな怪異の足の間を潜っていく。
七瀬春子の脳裏に、風車塔へ突撃する狂騎士の様相が浮かんだ。
――いいや。まだ負けてはいないし、狂うにも早い。
しかし今日はもうタイムリミットだった。一旦はこの春子としての日常に戻り、8時には出勤しなければならない。
そのままの足の向きで帝成上野駅の地下ホームへ至る階段を降りるときに、彼女は再び見上げて覚悟した。
彼が、神無月ワタルが言っていた。
――破滅の魔女を、始末しなければ……。
ターゲットの顔写真などはない。だがそいつの特徴は明確に聞いている。
あの違法建築――上野城塞と一緒に顕現した、強大な魔導を操るプラチナブロンドの若い女。
私に二度目の、再びの死をもたらす女。
昭和41年6月14日、今日は小雨だ。
部屋の戸の表では朝食に呼びに来た阿久津おやじの野太い声がする。
俺は寝ぼけながら湿気った煎餅布団から起き上がり、しわくちゃのシャツとズボンを適当に履いて1階の食堂に向かったのだった。
「早く食べんか。片付かん」
「はいはい」
間仕切りを挟んだ流し台に立つ下宿主人のばあさんが、既に朝食を済ませた他の下宿人の皿茶碗の水をせっかちに切っていた。
今日の朝食も変わらず、麦飯に味噌汁にレタスに目玉焼きにウィンナーが3本。
それらを味わうことなくさらりと流し込み、草履をつっかけ、表に立て掛けた重たい自転車を立ち漕ぎして工場へ急ぐ。
そうして途中、出前している孝蔵のスーパーカブと並んで「また遅刻か!」とからかわれたりして、7時56分、事務所のタラップを駆け上がる。
そうして経理ババアの嫌味の雨の中、ぎりぎりで出勤簿に捺印できたのだった。
工場に降りると、掃除を終えた七瀬が先に立ち、俺の指示を待っていた。
「トラックはいつくるんですか?」
「あー10時頃かな」
休憩所では朝早くから腕まくりにハチマキ姿の山田さんが、応援に呼んだ親方や具志堅先輩と一緒に、射出成形機の図面を見てオーバーホールの打ち合わせをしている。
社長は相変わらず営業で外回り、ババアも明日支給する皆の給料を取りに銀行へ行っているはずだ。
「積み込むだけだから丁寧にやればすぐ終わるもんだ。今日は半ドンだし気張らずやろうぜ」
「はい」
ババアが書いた無駄に達筆な納品書の内容を再三確認して、納品するダンボールもその封に異常がないか最終確認する。
そうしていると間もなく4トントラックが、灰色の荷台を工場に横付けしたのだった。
「おつかれさまっす」
「急ぐから、ちゃっちゃかやっちゃおう」
詰め込み作業は運転手を含めた3人がかりですぐに終わる。
そうしてトラックも出発すると、養魚池の向こう、三郷村の田んぼから正午を告げるサイレンが聞こえた。
「このポンコツめ」
「やっぱり中古は中古だねー」
射出成形機の置かれていた区画では、山田さん筆頭に親方と具志堅先輩が、苦戦を強いられてとても険しい顔でパーツの状態を確認しているが、俺達の勤務はこれまでだった。
「おつかれさまです」
自分の作業台で顔料や彩色筆の状態とストックを確かめていたところで、七瀬がいつもの鋭利な声をかけてきた。
「あーおつかれ。俺はちょっちあるから、先上がっててくれや」
「わかりました。失礼します」
ロッカー同士の隙間から見え隠れする色白なバインに俺は危うく鼻を伸ばしかける。
まもなくボタンのはち切れそうな白いブラウスにジーパン姿になって脇にトートバッグを抱えた七瀬が、カンカンカンとタラップを鳴らして事務所へ上がっていく。
「おい、手空きなら茶ぐらい出せや!!」
「あいあい」
久しぶりに浴びた親方の怒声に慣れきった返事し、作業台の引き出しの定位置に道具を揃えて仕舞うと、俺は3人分の茶汲みをしたのだった。
「なんだてめえ鈴木だったのか。久しぶりだな、元気しとっか?」
視力が衰えたのを表向きの理由に引退した親方だが、実際に衰えているのを目の当たりにすると、なんだか淋しい気持ちになった。
「はい。おかげさまで」
お盆に載せて持ってきたお茶を「これにはあがったり」とばかり休憩に入った山田さんと具志堅先輩にも配る。
「具志堅先輩もお久しぶりです。今はどこに?」
シケモクのゴールデンバットを咥えた具志堅先輩が、得意そうに今を語る。
「鳶になってよぉ。今は渋谷のミシロのビルディングの修理で登っているんだ」
「あそこの現場なんですねー」
「やっぱりあれは未来か異星の産物よ。なんでもかんでもオートオートで、ちっちゃいコンピューターがさ。ところ狭しに並んでいてよ。そうそう、勧められてよエナジードリンクっての飲んでみたぜ。すごい味だったぁー」
「へぇー」
よくはわからないが、それはもう驚きの連続だったのだろう。
楽しそうな具志堅先輩を横目に、ノートに簡易な図面を描いて山田さんが唸っていた。
「成形機、ダメそうなんです?」
「まあ、騙して使っていたのが余計に悪かったようだ。新しい型とはいえ潰れたとこから中古で買って、それをよくわからんまま酷使した報いだわなぁ」
「古いのはどうしたって?」
親方が山田さんに身を乗り出す。
「あれはもうダメでしたから、屑鉄に出しましたよ」
骸骨の身体を竦ませて、投げ出したいとばかりに大きなため息をついた。
「はん。俺ならきっと直せたね。だからお前もそうだし、青島の若造だって頭でっかちで甘いと」
また始まったよ。社長も嫌われているなぁ。
「そういや、七瀬ちゃんって言ったっけ。4月に入った見習いの」
ゴールデンバットのシケモクもギリギリまで吸いきった殻を床にすり潰して、具志堅先輩は俺に訊ねる。
「あーはい。七瀬がどうかしましたか?」
またナンパかな。
「いやー毎週欠かさずミシロのビルを見に来ているようだからよ。何でもあのビルは53年後の未来じゃ芸能事務所だっていうし、あの子器量もとても良いしアイドルなんかに憧れてんのかなってさ」
藹々としてきた1階の工場とは変わって、2階の事務所では七瀬春子が一人、出勤簿に退勤時間を書いて経理の机のブックスタンドに戻した。
『次のニュースです』
――経理のおばさんは、銀行へ出向く前にラジオを消し忘れたようだ。
応接スペースのチェストに置かれた卓上ラジオのスイッチを摘み、電源を切ろうとした。
『今日未明、新宿区のマンションで、会社経営者の七星聡さん48歳を階段から突き落とし殺害したとして、娘の貴子19歳が逮捕されました』
「――!!!」
厳重な金庫が炸裂したように、脳裏にあれが走っていく。
『犯人の貴子は警察に対し犯行を否定していますが、取材によると聡さんが日常的に犯人へ金銭を無心しており、トラブルが耐えなかったとのことです』
――この私を輝かしい世界から放逐した、忌まわしく、当てつけのひどい、あの人の身勝手な死。
ラジオの電源を静かに切ると、後ろにあった経理の事務机に寄りかかり、激痛を伴った過呼吸を治めようと手近な茶封筒の口を破いて呼吸器を覆った。
意識してゆっくり息を吐く。封筒に溜まった呼気を、吸う。
苦しい。苦しい。
「ちょっとあんた!!なーにやってくれてるのさ!!!」
経理のおばさんから何度もビンタを喰らい、私はようやく目を醒ました。
「現場は押さえたからね!! やっぱりこいつが給料をネコババしていたのさ!!!」
ヒステリックに叫ぶ更年期の女を、山田さんが抑えて宥めようとしている。
「大丈夫か、七瀬。救急車呼ぶか?」
「い、いえ……ごめんなさい。急に息が苦しくなって……」
鈴木の手を借りて、よろめきながら起き上がる。
「馬鹿にしやがって、このアバズレを警察に突き出せ!!! 110番!! 110番を!!!」
暴れる醜婆の蹴りが私の胸に直撃し、治まりかけた肺が痙攣して咳き込んだ。
「初実さん、やめないか! みっともない!!」
「くそ、くそぉ!!」
私はこのババアに、激しい殺意を抱いたのだった。