堕ちた偶像のためのフィグマ   作:エコノミック・アニマル

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3.立腹七瀬

 ふざけんなよ、クソババア……!

「お、おい七瀬」

 崩れていた七瀬は呼吸を取り戻すと、立膝を支えにゆらりと起き上がる。

 言葉を発しこそしなかったが七瀬の切れた琥珀瞳は瞳孔が開いている。明らかな殺意で燃えていた。

「お、おい。落ち着けって七瀬」

 俺の制止を聞く気はないらしい。

 

 普段の冷静な七瀬とは思えない、剛烈な殺意の込まれた睨みに一瞬だけたじろいだ経理のババアだったが、山田さんの制止を強引に振りほどいて自分の机に置かれた電話の受話器をとり、ダイヤルに左の人差し指をかけて七瀬を煽った。

「今すぐ謝れば警察に突き出すのはやめてやるよ。身元の怪しいお前にとって警察は厄介だろう?」

 これで勝ったような醜悪の笑みを撒き散らす。

「なあやめようぜ初実さん、あんまり事を荒立てるとあんたが一番困る……」

「うるさい!!」

 経理ババアの枯れた怒声に、山田さんの骸骨のような身体が萎縮する。

「これだけじゃない。あたしゃこの2ヶ月ネコババの証拠をずっと集めていたんだ。こいつが盗んだっていう物証はいくらでもあるよ!!」

 

 このババア、その単細胞で思いつく限りの悪態をつき煽りやがる。

 穴だらけのせこい工作も、私には見え透いていた。

 

「さあさっさと跪け、土下座しな。許しを請え」

 この言葉に七瀬はきっと、土下座するどころか立ち上がり、経理ババアを蔑んでじっと見下ろした。

 163センチの七瀬とは20センチ差はある小さな醜婆は体格や爆乳にも圧倒されて、曲がった背骨を限界まで反りあげた。

「跪けっつってんだよ!!このアバズレ!!!」

「明日支給する給料や当座の現金を銀行へ下ろしに行っているのに、どうして出かけている間のあなたの机に、用意された給料があるの?」

「!」

 七瀬はじっと、ババアを見下ろす。

「そ、それは……」

「その説明もできないのに、あなたなんで私に喧嘩を売ったわけ?」

「い、いつも、支払う給料分ぐらいは現金の用意はあるわよ!!」

「いつもって、いつですか」

 さすがの俺も呆れ返る。そんな用意された様子が普段から見られない。

「……初実さん、あんたいっつも遅らせてるじゃないか。常に10日ぐらい」

 さすがの山田さんも、呆れ果てている。

 俺はこの工場しか知らないけれど、給料の遅延なんて倒産前でもない限り、よく起こる話ではない。

 

「だから支給日を25日から翌月の15日にするって、社長とも相談して、あんた達にも予め言ったはずだよ!!」

「そいつは確かに聞いたがな。それに少額のネコババは2ヶ月前から起こっていたが?」

 色々納得行かない様子で山田さんは舌打ちする。

「山田さん、それ本当ですか?」

 俺は山田さんに確認する。

「ああ、10円か100円か足りなかったぞ。この調子じゃ今月も多分な」

 俺は崩れた給料袋の山から自分の名前を探そうとしたが、すかさずババアが取り上げた。

「決定的な証拠を、崩そうったってそうはいかないよ!!」

 ババアはなお叫ぶ。よくもまあ踏ん反り返れるものだ。

 

 七瀬だって攻める。

「あなたが閉じた給料袋の封を破かずに、どうやって私がそこからネコババするの? だいたいあなたが普段やっている厳重な封の閉じ方じゃ、気づかれずに元に戻すのなんて無理よ。どうやったって痕が残るわ」

「だから、あんたが金庫から金を」

「金庫の管理は知らねえがな。あんた帳面確認した上で金庫から取り出して給料袋を作ってるんだろうが」

 このババアの醜態には、俺もおそらく山田さんも、激昂を内に抑えるのに苦労した。

 そして瞳をがんと見開いた七瀬は、ババアに対して宣告した。

「今回破ったのは山田さんの分だけど、これで鈴木や他の工員の分も抜き取られていたなら、あなたがやったことになるわ」

「確認させてもらうぞ」

 取り上げた給料袋を山田さんが引き剥がそうとするが、ババアは身を挺し、給料袋を頑として離さなかった。

「こいつが、この淫乱女が仕組んだんだ!! お前ら騙されてるんだ!!!」

 

「この件、社長に言うからな。今まで味方してくれた親方達に助け舟もらったって、もう退職した人間の言葉なんてさすがの社長も利かないからな」

「勝手にしな!!」

「出てけ」と四面楚歌の経理ババアによって、俺と七瀬と山田さんは事務所から追い出された。

 無駄に疲れた。タラップを鳴らして工場に降りると、図面を広げた親方と具志堅先輩も、漏れ出ていた顛末に呆れ果てていた。

「ま、これで良かったんじゃないの?」

 俺は普段の鬱屈からも晴れたような七瀬の表情に、安堵を覚えた。

 

「しっかし七瀬。お前あのババア相手によく圧倒されなかったな」

「あれは勢いだけの、特別に馬鹿だったわ。それでなくたって自分のカードも理解していない相手なんて、ちょっと足払いすればもう起き上がれないものよ」

 普段の無感情な七瀬と違って、この自信に溢れ狡猾にも感じられる勝ち気に満ちた七瀬は、これが本来の姿だとばかりにとても輝いて見える。

「それが素の七瀬なんだな」

「あ……こほん」

 俺の指摘に七瀬はなぜか咳払いして両頬をぺちんとはたくと、汚れた作業服を入れたトートバッグを左腕に通し、「今度こそ上がります。お先に失礼します、鈴木さん山田さん」と普段の物静かな雰囲気に戻ったのだった。

 

 

「ただいまー」

 ちょうど出前から帰ってきた厚木孝蔵の眼前、テーブル席のスツールでメニュー表を見ていたのは、白いブラウスがはち切れんばかりの、スイカのような大きなバストだった。

 惚ける孝蔵に女将が次の岡持ちを差し出してどつかれ、彼は追い出されるようにスーパーカブの荷台に岡持ちを引っ掛けて再び出発していった。

 

「半チャーハン、あとコーラ」

「はい、半チャーハンとコーラね」

 七瀬春子の前にペプシコーラの瓶が開栓されて差し出される。

 まだ6月とはいえ少し蒸し暑く、まして仕事終わりのあんな馬鹿げた出来事のあとに咽む冷たい飲み物はどんなに素晴らしいものだろう。

 それに考え事をするのに、甘い炭酸というのはちょうどよかった。

 ただし、ふと入った大衆中華屋『満州亭』は、あまり考え事をするのに向いてはいなかったが。

 

 

「あれ、おばちゃん。うちのにぃには?」

「あーハナちゃん、あれなら出前に出したよ」

「ちょっとおばちゃん!あたし待たせてって言ったのに!!」

 ――カウンターに身を乗り出して、子どもみたいに騒いでいるゴリラがいる。

 身長175センチぐらい、RPGに出てくるようなアマゾネス、あるいはオーガ。

 現代の基準なら美女寄りに分類されるだろうラテン系のワイルドなイケメン女子で、ポマードがちょっと臭うオールバック、革ジャンから覗く筋肉質のがっちりした浅黒い肌にちょっとゴリった立派な筋肉、胸……というか胸筋が、カウンターの油ぎった天板の上でわずかに揺れている。

「あー今晩の英語の宿題、どうしてもわかんねーんだよー。このままだと城所のやつにまたネチネチ言われるぅ~」

「なんで英語なんて選んじまったの。まー自分の頭の悪さを恨むこったね」

「ちっくしょー、こんな紙、鼻でもかんでから捨ててやる~!!」

 どうしてこの時代の学生は、課された課題を粗末に扱うのよ。あーもう、見てらんない。

「誰だオマエ」

「いいから宿題、見せてみなさいよ」

「うー……うん、どーぞ」

 どれどれ……、これは自動詞と他動詞の見分け方の出題か。

「いい? 他動詞には目的語が必ずつくの。一方で自動詞は目的語を取らずに動詞だけで完結できる。例を挙げると他動詞は――」

 

 …………

 

「うん、ちんぷんかんぷんだけど、とにかく宿題は出来た!! サンキューなアネさん!」

「どういたしまして」

 宿題を簡潔に解説しながらチャーハンを食べ終えた私は、水をコップ一杯ゆっくりと飲んでから、マールボロに火をつけた。

「あたし厚木花代ってんだ。アネさんは?」

「七瀬春子」

 餌付けをしたがごとく、どうも彼女に懐かれたようだ。見えない尻尾がぶんぶんしているのが見える。

「あたし高山ハガネってとこに住み込みしているからよ! 喧嘩なんかあったら頼ってくれな!」

「そうならないように立ち回るわ」

 こいつ使ってあのクソババアを殴り殺したいところだけど、ま、あれはもう終わったも同然だからいいか。

 食事を感謝満面の花代が奢ってくれた。

 給料日前日、今朝は上野に出張って手持ちの少ない私にとって、とてもありがたかった。

 

 午後7時、門限直前の下宿の外で、じゃがいも顔に汗をかいた青島社長がオート三輪のハンドルに寄りかかって私を待っていた。

「関山さんが君に相当な無礼をしたようで……」

 関山って、あの経理ババアのことか。嫉妬が先行しているのか自己紹介もしてくれないし、今初めて知った。

「ごめんね。関山さんの家ってうちの社主でさ、俺も逆らいにくいんだよ」

「心中お察しします」

 当分は工場の機械は動かないし、それに明日は出社しづらいだろうと、社長が配慮して私の給料袋を持ってきてくれたのだった。

 中身は予想通り抜かれていて、しかもズタズタで更に社長が萎縮してしまったが、最悪銀行で交換してくれるだろう。

「過去に何があったか知らないけれど、君は本当によく人間が出来ている。頭だってとても良いし感心するよ」

「そうですか?」

 どうせ社交辞令だろう。私は会釈するように遠慮して聞き返す風に演じる。

「ああ」

 まだ30代だという――現代の60代にも見える老けた姿の社長は、まるで本当にそうだというように、深くうなづいた。

「それで悪いんだけど、呼ぶまでしばらく待機ってことで休んでてくれないかな。来月の給料に響いちゃうのは申し訳ないんだけど……」

 私も、今は早急に時間が欲しかった。これは渡りに船だ。

 ――破滅の魔女をこの手で見つけ出し、渋谷のアイドルらが介入する前に滅さねば。

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