堕ちた偶像のためのフィグマ   作:エコノミック・アニマル

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4.漂泊七瀬

 洗濯機に作業着を託し夕膳を食べ終えシャワーを浴びてから、洗濯物が出来るまで自室に戻る。

 布団に桐ダンスにドレッサーぐらいの6畳の隅に積んだマールボロのカートンを手に取って包装を破り、溢れ出たパッケージの1つから真新しい1本を抜いて、少し入った灰皿の上に投げられていたどこかのホテルの名前が入った使い捨てライターで火をつけた。

 

 この味が、未だ昂ぶっている私の内心を鎮めるための最高の特効薬だった。

 昔はタバコだったら何でも良かったはずだ、マールボロを選ぶのはパッケージのデザインが可愛かっただけ。

 正直今の味は知っているマールボロと違ってとてもきつい。

 

 こうして、七草弁護士から餞別で貰ったこの舶来のマールボロだって残り僅かだった。

 そこらのタバコ屋に置いている銘柄ではないから、定期的に買いに行く店を探すのも大変だろう。

 禁煙……は無理だけど、切らしたら別のを考えないと……。コスメ同様、今の経済状況になって続けて良い代物ではない。

 

 土壁を支えるか細い柱に私も背を預ける。ぺたんと座った青い畳が心地よい。

 おさげを解いて腰まで下りたこの髪も、バイオレットから黒に染め直して、短くしてもいい。

 

 網代張りの天井を見上げると、昇っていく龍のような紫煙が蛍光灯の真っ白な光に反射して、明瞭な線をいくつも編み出している。

 これが、まるで私に垂らされた蜘蛛の糸のようで、マールボロがもたらすそれが消えてしまうのが、なんだか切ない。

 

 タバコは、試すならハイライトとかかなと、ふと鈴木が空気のように呑んでいる銘柄を思い出した。

 こうして時代に日常に染まっていくのか。それでも、まあ今更、安息を得られるのなら構わないのだけれども。

 

「七瀬さーん、洗濯物出来ているわよー」

 大学から帰ってきたばかりだろう安藤が、ハンガーを鳴らしながら呼んでくれた。

「ありがとうございます」

 安い陶磁の灰皿にまだ長い吸いかけの火を消して、私は洗濯場へとスリッパをつっかけた。

 

 

 

 古びた洗濯機の脱水ローラーをぎちぎち回して、汚れの落ちた作業着から水分を絞った。

 俺の隣では阿久津おやじが、ランニングシャツを四角に畳んでから同じように絞っている。

 後ろでは借りたアイロンでシャツを延ばす友永のおやじ。

 さっさと済ませないと後が並んでいる。この時間はいつも2台の洗濯機がフル回転だった。

 

「はあ」

 洗濯物を自室に干し終えてゴミを焼く焼却炉の前で、消火バケツを置いた俺はハイライトの紫煙と一緒にため息を吐いた。

 東京ったって葛飾だ、しかもこの水元辺りはもっと田舎で、この時期になるとぶーぶーぶーぶー、田んぼのウシガエルが合唱でうるさい。

 ぶーぶー泣きたいのは失業の危機に瀕しているこっちのほうだと愚痴りながら尻ポケットから漢文の宿題を開いて、漏れ出た台所の灯りを頼りに訳していた。

 ――将は慍りをもって戦いを致すべからず。利に合えばすなわち動き、利に合わざればすなわち止む。怒りはまた喜ぶべく、憤りはまた悦ぶべきも、亡国はもってまた存すべからず、死者はまた生くべからず。

 孫子の兵法書、これは火攻篇からの引用だ。

 

 ふと七瀬の殺意のみなぎるあの瞳を思い出した。

 普段冷淡なあいつが、ババア相手とはいえあそこまで激昂するとはそれまで想像がつかなかった。

 あれも完璧無比な人形ではなく大した事のない人間なのだと、安堵する要因にもなってはくれたが。

 

 残り火を始末して、ゴミの消し炭をゴミ袋に掃いて自室に戻る。

 11時だ、もう眠い。裸電球を消して、湿気った布団に身を委ねる。

 

 

 

 6月15日、小雨。水曜日平日の半ばだが、学校は定休だし工場が休業したこともあって、丸1日暇になった。

 こんな時ぐらい遅起きでも良いだろうに、5時には目覚めてしまった。

 

 顔を洗って用を足し、食堂に行くと台所には既にばあさんが立って朝食の支度を始めている。

「おはようございます」

「あいよ、珍しく早起きだね」

 俺は冷蔵庫からマジックで『スズキ』と記名したテトラパックの牛乳を取り出して、ストローを挿して啜りながら、届いたばかりの朝刊に目を通した。

 

 目に引く大したニュースはない。

 米軍による北ベトナム空爆や文化大革命を宣言した中国の様相、日産がプリンス自動車を合併か、来るビートルズの特集を組んだ雑誌の広告。

 どれも自分に縁の薄い、遠い世界での出来事だった。

 

 

 畳み直した朝刊を起きてきた阿久津おやじに渡して、一番に朝食を済ませた俺は適当に自転車を出して辺りを散歩することにした。

 登校する小中学生を横切って、狭路を行く満員の帝成バスに道を譲って、西へ、赴くままにペダルを漕いでいく。

 中川橋を渡って青戸町、さらに新四ツ木橋を渡って墨田区へ。そのまま都電と並走すると、右手に隅田川に沿う形でかつての花街が……。

 

 8年前に赤線が廃止され表向きは消滅した向島の花街だが、奥ほどの玉の井では今も銘酒店街が生きていた。

 なんなら就職したての頃に具志堅先輩と厚木兄に連れられて、買ったこともある。

 具志堅先輩が見繕った当時で30くらいのベテランだったが、下品だし痩せすぎていてあまり好みでなかったのを覚えている。

 

 そうして思うと……ダメだ、いくらなんでも七瀬に対してあまりにお下劣だ。

 経理ババアのせいで周囲に卑猥な噂は耐えないし、うーむ……。

 

「抱くなら七瀬だ。うん、あのおっぱいはやばい」

 

 欲望ぎりぎりにぼやいた俺をピストルで射抜くような、いや間違いなく射抜いたその鋭利な視線に、右に振り向いていた俺は冷や汗を浮かべてわずかに目をずらす。

 俺が路側帯で信号待ちをしている真横の車道に、空荷の軽トラのハンドルを怒り任せに歪ませる厚木妹と、助手席にはなぜか七瀬が激昂冷ややかにこっちを見ている。

 

 信号が青になり車道の渋滞が一気に進む。流石に流れを逆らえない軽トラはそのまま行ったが、俺は真っ青になり固まったままだ。

 そうしてラッシュを過ぎた須田町行きの都電がチンと出発のベルを鳴らして、車社会に敗北したボロボロの3丁目電停を、悲鳴のようなジョイント音を叩きながらゆっくり発進していった。

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