堕ちた偶像のためのフィグマ 作:エコノミック・アニマル
「あのスケベ、色ボケ野郎……なんて目でアネさんの事を見ていやがるんだ!!」
明日登校したら教卓の上にへし折って千切った首を晒してやると顔を真赤にして息巻く花代と対照に、そんな目に慣れきって今更大した感情もないのが私だった。
――男なんていつの時代だってそんなもんだし、彼はわりと内面を見て私を評価しているようなので好ましいぐらいには思っている。
これが調子づいていた昔は、彼みたいなのとて有象無象の中の馬鹿なゴミにしか見えずに、そんな理解もなく足蹴にもしなかったろう。
人の成長か、いや、私のこれは多分老化だ。
あの人の死に振り回されて、世間にも事務所にも見限られて、この時代の時間も含めればもう1年も私の心に蝕んだ。そんなだからもう年齢相応の精神には戻れなかった。
今朝早くに起きた私が上野に行くため帝成金山駅へ歩いていたところに、軽トラを運転する事務服姿の厚木花代が通りかかったのだった。
川口市にある取引先に荷物を取りにいくという。
行き先も逆方向なので挨拶もそこそこにすぐ別れるはずが、まるで真っ黒いサモエドのように尻尾をぶんぶん振り回して懐いているのを無下にも出来ず……。
少々大きすぎる親切を謹んで受けて、本来遠回りになる上野まで乗せてもらうことにしたのだった。
「アネさんの事にぃにに聞いたんだ。そしたら鈴木と同じ工場なんだって?」
「そうよ」
彼女のにぃに……兄・孝蔵の事を、私は顔ぐらいしか覚えていない。
映画の大脱走に出てくるオートバイの大尉みたいな顔立ちの、彼女に比べたらだいぶ小柄な男だったと思うが。
「安心して、しばいておいたから!」
「何もそこまでしなくても……」
私の額に一筋の脂汗が滴っていく。
彼女のこの懐き方には背筋に一瞬強い寒気が走ったぐらいだ。
ワイルドな見た目に反してレズでヤンデレなのだろうか、疑いたくなるぐらいには。
そうして鈴木を石化させてから隅田川を渡った軽トラは、交通戦争を起こした言問通りを強引に追い越して五叉路を左へ曲がる。
都電の上に後の建設途中の首都高の橋桁の立ち並ぶ昭和通りを少し行くと、もう上野駅の浅草口ロータリーだった。
「じゃあアネさん。したっけ、頑張ってね!」
正面玄関に軽トラを回してくれる。
花代は狭い座席からマッチョな左腕を伸ばして助手席のドアを閉めると、車流に餐まれないよう脱兎のごとく昭和通りの来た道へ走り去っていった。
「さて……」
露天商やホームレスが壁際に入り乱れている国鉄線の敷かれた上野駅の高架を潜って、西郷像を遠目に帝成上野駅の地下入口を過ぎる。
地図を片手に見上げた上野の九龍城塞は、やはり不忍池の東から都電の通う動物園通りを跨いで上野公園の天神社まで覆いかぶさるように、まるで盛り上がったカサブタみたくそびえ立っていた。
「ぷらちなぶろんどぉ……あー銀に近い色に髪を染めたメリケンっぽい女ぁ?」
旧い白衣姿をした傷痍軍人らの募金箱に聖徳太子の肖像が描かれた千円札を入れ、見かけなかったかと聞いてみる。
白髪だらけの一人が、かけている弱視用の濃いめの遮光レンズを外して、私の顔をじろじろと見てきた。こいつ吐息が臭いな。
「公園のベンチで寝てたよな」
「いや今朝ガード下で直に横たわっていたぜ。ダンボール貸してやったよ」
「ほら黒いガウンを着てたろ」
「ちゃうちゃう白いローブだった」
「20歳ぐらいの長髪の良い女だった」
「いやぁー15ぐらいのガキだありゃ」
「適当抜かしてんじゃないでしょうね……」
昨日あたり現れたプラチナブロンドの女性なんてそんなありふれているわけでないのに、なんで特徴がばらけているのよ。
「いんやいんやー、だけんどもう少しお札さ恵んでくれたら、思い出せるんだけどなぁ」
こっちは怒りと混乱でマールボロのフィルターを噛み切るところだ。
どうせこいつら募金詐欺の集団だし、性質の悪いのに聞くんじゃなかった。
「プラチナブロンドの髪色をした外国人の女性ですか?」
「あー白ローブを着た女の子だったら、杖つきながらふらふらーってあっちに」
「あの子なら、霊園の中に入ったんじゃないのか?」
藝大のキャンパスまで歩いてやっと学生達から信憑性のある情報を掴み、付近で聞き込みを繰り返してから辿り着いたのは谷中霊園だった。
腕時計を見るともう5時を回っていた。
迷路のように入り組んだ墓の中を不気味に感じながら歩いていく。
途中迷いかけたので慶喜公の墓碑を頼った。もう少し歩いて基点になる墓所を見つけ塀の周囲を歩いていたら葵の御紋がついた門扉に寄りかかって、外国人の少女が倒れていた。
身長150センチぐらい、年齢15ぐらいの小柄な女の子。
この日本でとても異質なコスプレめいた白基調のローブ、サファイアの花を連想させる細身の魔導杖。
なにより、水色がかったプラチナブロンドのショートヘア。
それが疲れ果てて、墓碑にもたれて寝入っている。
「こいつが、魔女……?」
私は震える手を抑え、バッグから取り出したスマートフォンを使い彼女の全身を撮る。
このまま手にかけようかと迷ううちにシャッター音で目を覚ましたのか、彼女の幼く丸い緑の瞳がはっと開いた。
私は驚き、焦って早足で逃げた。公園を出る頃合いマールボロに火をつけて振り向くと、幸い追いかけられてはいないようだった。
私は、まずはこのまま帰ることにした。
帝成上野駅の地下ホームで津田沼行きの電車に乗ってから左手首を覗くと、腕時計は午後7時20分を指していた。
生ける屍へ至る熱病に冒され、昏睡状態に見舞われていたはずの彼女にとってこれは、六感すべてが見事に働いている鮮明でとても長い夢だった。
いや、これは明らかに夢ではなく、一種の現実だ。
イタミ達が暮らしていたニホンとは技術水準が明らかに退行している、この世界は過去のニホン。
その物証にゴミから拾ったくしゃくしゃの古新聞は、彼女の知る21世紀より50年近く前の日付が打刻されている。
――これは夢か現実か幻か。 ――なぜ私はここにあるのか。
――精神だけが飛ばされたのか。それとも実際の身体ごと?
――私がこの世界に至ったきっかけの現象はなんなのか。
リンドン派の若き魔導師は警戒をしながらも探究心のおもむくまま、昨日から徹してこの上野周辺を調べ回っている。
そして今日は公園内の国立図書館で、職員達が怪しむなかで彼女は堂々と、華奢な身体から空腹を鳴らしながら状況に関わりそうな蔵書を積んで読み漁っていた。
「閉館の時間です」
若い女司書が、とても困惑した表情で私に退館を促した。「うん」と立ち上がって杖を持つと、女司書はますます怪しんだ。
出奔してきたとでも思われたか……警察を呼ばれると厄介そうだから、とりあえずはこの辺りから出る必要がありそうだ。
だが空腹は栄養失調の症状に変化してしまい、もともとない体力を明らかに削いでいる。
ローブの袖にはスニッカーズのミニチョコレートが3つだけ入っていたので1つを口にして蛇口の水で嵩増ししたが、お腹を痛めることになってしまった。
「ダメ。少し休もう……」
ここは墓所なのだろう、御影石で出来た大小新旧様々な墓碑や立派な宝塔ばかり並んでいる。
たまに置かれているお供え物には食べ物も混じっていたが、この気温と多湿でどれもだいぶ痛んでいるようだ。
「イタミ……」
カラスがかあかあ啼いている。応じてかあかあ別のカラスが啼いている。
私を啄むためか。私を食っても大して美味くない、ぞ……。
カメラシャッターの切れるような電子音に私ははっと目を覚ました。
だが視界がひどく歪んでいるのも感じて、スマートフォンを手にしたすみれ色の髪の女を呼び止めることも出来なかった。
「わたし……これ、しぬ」
空腹と腹痛に続いて熱病もぶり返したか。それでなくても体力は相当持っていかれてたようだ。
迂闊だ……自衛隊の――イタミの加護を受けてから特に命の保障が強固なものになっていたから、すっかり弛みきって……。
「この子をジープに!」
「あい、わかった!」
まだらな意識の中で、気づけば剃髪頭の女性が私の顔を覗いて、ささくれた顔の老警官に私は背負われた。