堕ちた偶像のためのフィグマ 作:エコノミック・アニマル
――いつまでも羞恥で固まってられない。せっかくの休日だし、このままだと往来に轢かれかねない。
そうして重たい実用自転車をまっすぐすっと滑らせて、ペダルをゆっくりと漕ぎ始めたのだった。
厚木妹の軽トラがどっちに行ったのかは知らないし見当もつかないが、少なくとも学校も休みの今日はこれ以降に出くわす可能性は普通に考えればないし、今更見分けだってつかないだろう。
つまりは猛った欲望のまま六区に出向いてレベルの高いストリップなり外国のバインが出てくるポルノ映画を堪能してもいいわけなのだが、……あーやめておこう。
七瀬のレベルを超える女優やダンサーを見れるとは限らない。
――うん。御徒町まで走って、まずは仕事に使う彩色筆やパレットを補充しようかなー。
朝焼けを模した日の出麦酒の看板……明治に建てられた赤レンガの大きなビール工場を右手に吾妻橋を渡ると、百貨店を併設した鶴武のターミナル駅が……浅草寺の雷門も近く、出かけるたびに人と車がいつもごった返していた。
そうして狭い路側帯と歩道とを車と人を躱しながら、なお自転車を漕いでいく。
――今年出た色見本の新版を見ておきたいし、必要なら次に来た時に買おう。
アメ横にも寄って米軍放出品や最新のおもちゃを見ておきたいし、御徒町から帰る道にある古本屋を回って画集を散策したいし、鶴武の百貨店だってひやかしたい。
ま、それで良い時間になるだろう。
それからしばらくして、自転車の荷台に買い物のダンボールが厳重に縄で縛られる。これで給料袋の三分の一ぐらい使ったはずだ。
ほぼ工場で使うので一応は領収書を貰ったが、経理のババアは昨日の事を逆恨みしてまず許さないだろう。まあそれがなくたって、経費で出すまで嫌味を散々言ってくるわけだが。
東水元にある下宿から御徒町まで行くのにだいたい1時間。
帰りも当然1時間、ますます重たい自転車のペダルを漕ぎ続けた。
「よっ、いよいよ機械ぶっ壊れたって?」
「おかげで不意の休みだよ……」
疲労で痺れ始めた足を棒にして満州亭の戸を開けると、珍しく孝蔵が厨房に立っていた。
のれんを潜った俺に手を振りながら、ちょうどラーメンの湯切りをしているところだった。
「半チャーハンと半ライス、それぞれ1つ」
金のない時の外食はこれに限る。
「塩ラーメンにしてくれない?」
心底嫌そうな顔する孝蔵は、お玉を使って手書きの伝票を指差す。
さっきから塩ラーメンの注文が2、3個続いているようだ。なんて横着な。
「じゃ、塩ラーメン」
「あいよ、海苔おまけしとくぜ」
「それより麺を大盛りにしてくれ」
「怒られるから嫌だ」
注文勝手に変えといてなんて我儘な。だいたい塩のラーメンは好きではない。
反論する間もなく、カウンターから直に塩ラーメンをどかりと置いたのだった。
「なに、自転車で御徒町まで? ……本当に暇だったんだな」
しかも買ってきたのはほぼほぼ仕事道具かと、孝蔵は呆れた顔で頭の手ぬぐいを解き、ペプシコーラを俺の分も注いだ。
「別に薦んで飲んだり打ったり買ったりしろとは言わねえけどさー。はっちゃんにとってそれが遊びなの?」
「遊びだよ」
注いたコーラを少し飲んだ孝蔵は、信じられない……って顔をした。
「53年後の未来じゃさー、はっちゃんみたいの『社畜』とか言うらしいぜ」
「しゃちく?」
俺もコーラを口にして、その甘さと弾ける炭酸を堪能する。
「いつも仕事ばかり考えててさ。会社に飼われて畑さ起こしているような、牛か輓馬みたいってことさ」
「へぇー」
「俺はそれに共感したよ。やっぱり俺たちゃ働きすぎなんだって!」
「お前はサボってばかりだろう」
26歳にもなって世帯も持たずいつまでも子どもみたいに駄々こねてサボっている奴に俺は言われたかねえ。
「おい、孝蔵。店閉めっぞー」
奥から出てきた満州亭の太った主人が、のれんを下ろして提灯のスイッチを切る。
塩ラーメン60円の代金をガマ口から支払う。
店に掲げられた時計を見るともうすぐ8時10分だ。下宿に帰ってから銭湯に出直して、明日は工場の作業台に買った道具を並べに行こう……。
店に掲げられた時計を見るともうすぐ8時10分だ。下宿に帰ってから銭湯に出直して、明日は工場の作業台に買った道具を並べに行こう……。
午後9時。シャワー上がりの私はショーツに上裸のまま布団に寝転がり、充電中のスマートフォンを両手に持って昼間写したプラチナブロンドのあどけない少女の寝顔を見つめていた。
――これが私に死をもたらして、この世界をも壊し尽くす破滅の魔女なのだろうか。凶暴には見えないが。
でも、神無月ワタルにもたらされた啓示の通りの特徴はもっていた。
手をかけないにしろ……かけられないにしろ、今後はその様子を監視していかなければならない。
ふと、自室のドアがノックされる。相手は安藤のようだ。
私は起き上がってドレッサーの裏にスマートフォンを隠し、胸のとてもきついTシャツを何とか着て静かにドアを開けた。
「七瀬さん、一緒に冷凍みかん食べない?」
「あ……ええ」
安藤は、とても人当たりのよい女子大生だ。天然のウェーブがかかった黒髪のボブカットに、現代にも通じる楕円型のおしゃれな眼鏡をかけている。
左手には冷凍みかんのネットと、なにか機械を抱えていた。
ドアを更に開けて、中に招き入れる。
「ヤニ臭いですけど、それでも良ければどうぞ」
「大丈夫よ。私もだから」
そう言って安藤はブラウンのフレアスカートからハイライトを取り出してお茶目に振ってみる。
私は布団を除けて自室の中心に置いたちゃぶ台の、少し盛られた灰皿とライターを差し出す。
安藤は嬉々と正座して、ちゃぶ台の上で冷凍みかんを等分したのだった。