堕ちた偶像のためのフィグマ 作:エコノミック・アニマル
ほどよく溶けかけた冷凍みかんを頂いた。冷たく柑橘の甘さに私も少し癒やされる。
そんな私を見た安藤雪菜はとても満足そうに、食後のハイライトを咥えた。
スカートのポケットをまさぐるが、自分のマッチを忘れたようだ。
「どうぞ」
灰皿の横に放っていた私のライターを差し出すが、今度は使い方がわからない様子で……。
「ボタンを押したら一発でつくわ」
混合ガスが電気着火して紅色をつけた筆先のような力強い火を出した時、その軽い使い心地に安藤は感心したようだった。
「いいわねこれ。どこで買ったの?」
「それは……」
ここに漂着する以前、放浪生活で泊まったいずれのホテルの、アメニティで貰ったターボライター。
どこのコンビニでもレジ横に置かれているような使い捨ての安物なのだが……。
「欲しいなら新しいのあげるわ」
「いいの?」
美味しい冷凍みかんのお礼のつもりだ。
マールボロのカートンの山からクッキー缶を掘り出すと、雑に入れた着火具の中から似たようなターボライターを1本彼女に渡した。
「ところで安藤さん、それはなんですか?」
「そうそう、一緒に見ないかしらって思って」
灰皿を除けたちゃぶ台の上に、重たそうなそれを載せた。
「テレビ?」
「うん。パパに買ってもらったの」
「パパ……」
パパ活女子なのかよこいつ……。それも相当な金額貢がせているな……?
「ねえ、七瀬さんだったらもっとがっぽり稼げるわよ?」
私とて業界人に誘われても枕営業は頑としてしなかったものを……。
……ま、自業自得でいずれ痛い目見るのは彼女だし、今のところ私が関知するところではない。
それでも……。
「若さを安売りするような真似やめなさいよ……」
「なにか年寄りくさい事言いましたぁ?」
「……」
人の忠告を利かないのはわかってた、早く痛い目見ろ、この猫かぶり女。
ところでちゃぶ台のこれは、マイクロと銘打ったソニー製のポータブルテレビだ。
小さなブラウン管の右横に大きなチャンネルダイヤル、調整のつまみやスイッチ、筐体の上からロッドアンテナが伸びている。
「フシミテレビでミシロのアイドル達が歌う特番をするんですって。本当は食堂のテレビが大きいしカラーだし音だっていいんだけど、消灯時間になっちゃうから」
「ふーん……」
テレビは昔の……いや、半世紀経った現代の、私の居場所の一つだった。
この時代とは違って衰退しかけてはいたけれど、当時の私は抜擢にプライドを抱いて臨んでいた。
私が初主演を果たしたドラマをよく覚えている。今も変わらず馬鹿な内容だと思っているが、自分が作り上げた作品として感銘深かった。
私がそんな懐いを馳せている横で期待ばかり先に突き走っている安藤がテレビの電源を入れ8チャンネルに合わせてからロッドアンテナをアルミサッシに伸ばした。
砂嵐の吹き荒れていた5インチの白黒モニターに、前時間の番組――新婚夫婦を扱ったホームドラマらしき映像が流れてきたのだった。
「結婚、ねぇ」
頬杖ついて、安藤はぼやく。
「七瀬さんは、これから素敵なお相手見つかると思う?」
「追い出すわよ」
パパ活話をぶり返す気かこの女。
「違うわよ、マジメな話で、……まあ、これは私が勝手に語りたいこと」
真剣な眼差しを見たので、私は目くじらを緩ませる。
貰ったライターでハイライトの火をつけて、安藤は語る。
「私、戦災孤児だからさ。勉強はできたけど孤児院って中学卒業したらすぐに働きに出させるし、最初の就職先がとにかくひどくて、このままじゃ使い潰されて終わるだけだから、トンズラしたわけ。……でもその後がね。新宿でルンペンするはめになって、でも最初のパパさんに拾われて、娘のように愛してくれて高校卒業できた」
「……」
「そのパパさんは私の目の前で刺されて死んじゃったけれど。すぐに次のパパさんが見つかって、今度は大学まで行かせてくれて、でも少しのお金だけ残して消えちゃって。今度のパパはいずれ一緒になろうっていうけど、多分約束は破られるかなって」
「……それで?」
「私は上に這い上がりたいの。教養のあるレディになりたい。そして運が良ければ、添い遂げられる相手がほしい。パパ達が注いてくれた愛情を使うに値する、そんな相手がほしいなって。だから、使えるものは使う。……七瀬さんは、どう思うかなって」
「そうね……」
彼女がちゃぶ台に置いたライターでマールボロに火をつけて、私も頭の中で言葉を適切な内容に組み上げる。
「添い遂げられる相手を見誤らなければ、それでいいんじゃないかしら。ただその相手があなたのそんな蝶のような過去を受け入れてくれるかは微妙だし、その相手があなたが養分を吸い上げて枯れたパパの一人になってしまうこともあるって、私は思うけれども」
「……そうね」
午後10時、現代の映像技術で豪奢に演出されて、346プロダクションプレゼンツの特別番組が始まった。
6月16日、木曜日。
「まずい! 寝坊したぁ!!?」
いや、会社休業しているから、遅刻ですらないわけなんだが。
今日は学校の授業がある。あ、宿題……英語終わってないじゃん。
とにかく布団から起き上がって、流しで軽く洗顔して、蝿帳に入ったぬるい朝食を掻き込んでっと……。
「いい加減にしないと食事の用意やめるよ!!?」
「後で!」
教科書類は一度帰って持っていけばいい。昨日買った道具類を突っ込んだ顔料シミだらけの手提げ袋を肩にかけて、わざとらしく急ぐ。
徒歩10分のところを走ったにしても中途半端な6分で到着した。
建付けの悪い工場の引き戸を壊れないよう開けると、作業服を整えた山田さんが新しい射出成形機の据付の準備途中で、大きなため息をついていた。
「おはようございます」
「あ……うん、おはよう。社長から聞いてないのか?」
「休業するっては聞きましたよ。で昨日の休みに仕事に使う筆とかパレットとか補充したんで、今日置きにきただけってところです」
「うーん、そうかー」
そして山田さんは少し考える素振りをしたあと、俺に振り向き手招きをする。
「あー……」
察しはついていた。俺も休憩所に入り椅子に腰掛け机の灰皿を寄せた山田さんは、たまらないなとばかりしんせいに火をつけた。
「初実さんが天下のうちは仕事をする気にならんよ。まったく」
「そうですよね」
「……もう、やめようと思う。今までは先代の恩もあってどうにか続けてきたけど、景気は悪いし、社長だって優柔不断でまったくひどいし、初実さんは当然年々と酷くなっていくしでな」
「次の当てはあるんすか?」
「武田の金型屋に以前から誘われてんだがこれも断った。もう50だし、年寄りどもは死んだし2人のせがれは独り立ちできたし、塵肺もひどくなったし、昨日のうちに女房と話をつけたしで。続ける理由がないんだなぁ」
そう山田さんは言って、灰を落とした。
「俺の気がかりは若いのだ」
「俺と七瀬っすか?」
「お前より七瀬だ」
骸骨のくぼんだ目が、しんみりと俺を見ている。
「お前は若いし男だからえり好みしなけりゃ食うに困らんが、七瀬ほどになるとかえってつらいだろうよ。あれは優秀が過ぎる」
「そうっすよね」
「噂通りに男達に媚びたり身体を売るような真似だけは、してもらいたくないがな……」
俺と山田さんは同時にため息をついた。
「ところでお前も、社長に夜学行かされていたよな」
「ええ、学費半額出してくれてるし」
「悪いことはいわん。……夜学は、諦めろ。勉強の出来るできないの問題じゃなくてだな……社長は親切のつもりだろうが、この状態じゃお前だってすり潰されるだけだ」
「うーん……」
薄々わかってはいたが、そうだよなぁ……。
「とりあえずは、今あることをこなしますよ。俺馬鹿だけど、仕事の中途半端は嫌いだし」
「そうか。……頑張れよ」
「お世話になりました」
俺は自分の作業台の引き出しに道具類を補充すると、2階で一方的に怒鳴られている社長には声をかけず、下宿への砂利道をとぼとぼ歩いていった。
「おう、おはよう七瀬」
「おはようございます。鈴木さん」
タイトなジーンズに、はちきれる寸前のブラウスを着た七瀬優子が、俺の下宿の前を通りかかるところだった。