ご注文はうさぎです!Re 作:新生兎丸
「う……ん、ど、何処だここ?」
ふと目が覚めると、そこには光を一切拒絶したような暗闇が広がっていた。目を開けている自覚はある。だが、視神経が何も捉えない。
動こうとしても、手足が重い。縄か何かで、椅子に蛇のようにくくりつけられている。
落ち着いて、昨日の記憶を手繰り寄せる。
確か俺は自分の部屋で泥のように眠ったはずだ。
なのに、なぜこんな――。
「あ、ジンくん! 起きてたんだね、おはよ~」
唐突に、暗闇へ一筋の光が射し込んだ。
焼けるような刺激に目を細め、その逆光の中に立つ人物を確認する。現れたのは、あまりにも予想を裏切る人物だった。
「こ、ココア……? おま……な、何してるんだ?」
そこにいたのは、いつもの健気な笑顔を浮かべたココアだった。
しかし、彼女を見た瞬間に背筋を凍てつくような悪寒が走る。彼女の表情は、確かにいつものココアだ。
だが――どうしてその手に、べったりと赤黒い血が付着した包丁を握っているんだ?
「な、何してんだよお前……っ」
「ああ! これ? これはね、ジンくんに近寄る悪い虫を駆除してきたんだよ~。偉いでしょ? 偉いよね?」
恍惚とした表情を浮かべ、彼女は包丁の側面に頬ずりをする。そのままゆっくりと距離を詰め、俺の膝の上に腰を下ろすと、甘えるように胸に頭を預けてきた。
おかしい――狂ってる、何かが決定的に壊れている!
姿形はココアそのものなのに、中身は別物。正体不明の「ナニカ」がそこにいた。
「ほ、ほどいてくれ! ここから出せ!」
必死に暴れ、縄を振り払おうとしたその時。
鈍い音と共に、彼女の持つ包丁が俺の膝を深く貫いた。
「――――ッ!!?」
「大丈夫だよ~。私がずっと、ジンくんのお世話をしてあげる。ご飯もおトイレもお風呂もぜーんぶ、私が面倒見てあげるから」
声が出ない。
膝に刺さった包丁を「グリグリ」と抉られるたび、脳を焼くような激痛が走り、思考が白く塗りつぶされる。
「ずっと、ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと……ずぅ~っと。私だけ見てれば良いんだよ?」
打って変わって、彼女の笑顔はどす黒い狂気に染まっていた。
もう、こいつは――俺の知っているココアなんかじゃない。
「嘘だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「ひゃあ!?」
跳ねるように飛び起きた。
実際、布団から体が浮き上がっていた。心臓が早鐘を打ち、着ているTシャツは嫌な脂汗でぐっしょりと濡れている。
ベッドのすぐ傍には、ココアが立っていた。
俺は反射的に、防御の姿勢をとるように身構えてしまう。
「び、びっくりしたよ~。ごはんできたから起こそうと思ったんだけど……」
慌てて自分の膝を確認する。傷はない。血も流れていない。
どうやら、ただの悪夢だったらしい。
よりによって、何であんな夢を。
妙にリアルな痛みの感覚。何より「ココアがヤンデレ」という結末が、最悪にタチが悪かった。
「夢でよかった……」
心の底から絞り出した安堵の声。これほどまでに「日常」が愛おしく感じたのは初めてかもしれない。
ココアは、怯えたような俺の顔を見て不思議そうに首を傾げていた。
今日を除いて、最近の朝は心地よく目覚めることができていた。
原因はよく分からないが、特に夜更かしする理由もなく早めに寝ているからだろう。その反面、俺の高校生活にはまったくと言っていいほど華がない。
制服に着替え、朝食を摂るために下の階へ降りる。
今日の献立はタカヒロさんの担当らしい。焼きたてのクロワッサンとベーコンエッグ、それにセロリのサラダとトマトジュース。完璧にバランスの取れた、健康的なメニューだ。
ココアが幸せそうにクロワッサンを頬張る姿を見ていたら、ようやくこちらの空腹感も目を覚ました。
俺も一つ、口に運ぶ。
サクッとした食感とバターの香りが広がり、絶品だ。
ふと、ココアとチノの様子に違和感を覚える。……いや、違和感というほどでもない。いつもの好き嫌いだ。
ココアはトマトジュースを露骨に避け、チノはセロリの皿から目を逸らしている。
一緒に過ごす時間が長くなると、こういう細かな癖まで嫌でも把握できてしまう。
俺自身は、セロリもトマトジュースも特に好きでも嫌いでもない。そもそも、俺の辞書には「食の好き嫌い」という概念が存在しないのだ。
俺がトマトジュースを一気に飲み干し、セロリを完食しても、二人は結局最後まで嫌いなものに手を付けなかった。カウンターの上で、ティッピーが二人を交互に眺めて深い溜息をつく。
その呆れた気持ち、よく分かるぞ。……もっとも、ウサギの溜息が何を意味するのかは定かではないが。
支度を終え、俺たちは賑やかなラビットハウスを後にした。
「チノちゃん、好き嫌いしちゃダメだよ?」
「ココアさんだってトマトジュース、残してましたよね」
登校中、二人は今朝の残飯について不毛な言い争いを続けていた。あの後、二人が残した分は俺が責任を持って胃袋に収めておいた。
「でもチノちゃんの方が好き嫌い多いよ? ちゃんと食べないと大きくなれないよ?」
「大丈夫です。ココアさんよりは大きくなる予定ですから」
……できれば、チノにはそのままのサイズ感でいてほしい気もする。
成長して、背が高くなったチノというのはどうにも想像がつかない。
――待てよ?
もしチノが成長して、大人びたお姉ちゃんとして振る舞う姿なら……。それはそれで、アリかもしれない。
「それでは、私はこの辺で」
チノは俺たちとは通学路が異なる。街角の分岐点で、彼女はぺこりと頭を下げた。
「それじゃあな、チノ」
「バイバイ、チノちゃん!」
チノを見送った俺たちは、途中で千夜と合流し、賑やかさを増して学校へと向かった。
校門を抜け、玄関で靴を履き替える。
階段を上りながら、特筆すべき話題もないまま歩く。
「それじゃあまたね、ジンくん!」
「今日も一日、頑張りましょ~」
二人は笑顔で手を振り、それぞれの教室へ消えていく。俺も軽く手を振り返し、自分の教室の扉を引いた。
教室の真ん中あたりにある自分の席に座る。
てか、何でよりによって真ん中なんだよ……。
特に親しい友人がいるわけでもなく、ホームルームが始まるまで本を眺めてぼんやりと過ごすのが日課だ。
別に好きで孤独を選んでいるわけじゃない。ただ、入学してみれば周りは女子ばかり。彼女たちがグループを作るスピードに、男子である俺は完全に取り残されてしまったのだ。
居場所のない教室で、ただ静かに時が過ぎるのを待つ。
読書でもしようと、鞄に手を伸ばそうと腰を屈めた時。
机の奥に、見慣れない白い封筒が挟まっているのが目に入った。
「な、なんだこれ……?」
取り出してみると、その手紙は可愛らしいハート型のシールで封じられていた。
脳裏にある一つの答えが浮かぶが、即座にそれを否定する。可能性が低すぎる。
たとえこれが「ラブレター」だったとしても、この学校に俺を呼び出すような心当たりのある女子はいない。
……正確には二人いるが、あのココアや千夜が、こんな改まった真似をするはずがないのだ。
意を決して、封を破る。
中から取り出した紙に記されていたのは、簡潔な一文だった。
『放課後、屋上で待ってます』
差出人の名前はなかった。
放課後。
俺は呼び出しの手紙に従い、屋上の扉の前に立っていた。
制服の乱れを整え、深く息を吸い込む。「これは告白に違いない」という確信があるわけではないが、少しの期待を抱くくらいは許されるだろう。なんせ俺は、この女子校同然の環境で数少ない男子生徒の内の一人なのだから。
扉をゆっくりと押し開ける。刹那、午後の鮮烈な陽光が瞳を突き、俺は思わず目を細めた。
光の渦が収まったとき、そこに立っていたのは――。
「やっと会えたッスね! 芹沢ジンさん!」
「……殴っていいか?」
「いきなりレディに対してバイオレンスすぎないッスか!?」
首から一眼レフを下げ、満面の笑みを浮かべた少女がそこにいた。
金髪ツインテールという、記号をそのまま具現化したようなビジュアル。俺はすべてを悟った。これは愛の告白ではない。新聞部の数少ない男子という珍獣に対する執念の張り込みだ。
「そもそも、どこで俺の名前を掴んだ」
「新聞部をナメないでほしいッス! ターゲットの身辺調査は基本ッスよ!」
「ターゲットって言うな……」
膝から崩れ落ち、コンクリートの床を見つめる。期待で跳ね上がっていた心拍数は、一気にマイナスまで急降下した。
「まあまあ、そんなに落ち込まないでほしいッス! 改めて自己紹介ッスね。ボクは新聞部の花深 由々亜! 記念すべき第一回目の独占インタビュー、お願いするッス!」
彼女はビジュアルだけなら間違いなく美少女の部類に入るだろう。だが、俺の好みは清楚でおしとやかな大和撫子だ。目の前の、落ち着きのない小動物のようなタイプではない。
「いいぜ。答えられる範囲ならな、ビッチ」
「ビッチじゃないッス! 派手なだけで中身は超純情ッスよ!」
彼女は律儀にツッコミを入れながら、胸元からメモ帳とペンを取り出した。
「では質問ッス! この高校希少な男子生徒として、今の心境はどうッスか?」
差し出されたペンは、まるでマイクのように俺の鼻先に向けられる。
どう思っているか、だと?
地獄に決まっている。男が俺一人ということは、周囲から常に好奇と警戒の視線に晒されるということだ。この気まずい環境であと二年も過ごすのかと思うと、眩暈がする。
だが、唯一の救いがあるとすれば、体育の水泳授業くらいだろう。男子更衣室は俺の貸切状態だし、授業自体は女子と合同だ。
おかげで、クラスメイトの眩しい水着姿を正当な理由で見ることができる。最高だ。時折刺さる、「なんでアイツだけ混じってるの」という冷たい視線さえ無視すれば。
「……損することもあるが、得することもある、とだけ言っておこう」
「ほうほう……悟りを開いたような、なんとも深い表情ッスね。メモメモ」
「もういいか? 帰るぞ」
「あ、待って! まだ肝心な質問が……!」
「アリーヴェデルチ!」
俺は背を向け、逃げるように屋上を後にした。これ以上彼女のハイテンションに付き合っていたら、自分の心が磨り減ってしまう。
屋上に取り残された由々亜は、遠ざかる足音を聞きながら、そっとポケットから一枚の写真を取り出した。
それは、街角で泣きじゃくる小さな迷子の女の子を、不器用ながらも優しくあやしているジンの姿だった。
「優しいッスね、芹沢さんは……私みたいなうるさい奴の相手も、ちゃんとしてくれるんだから」
彼女は写真の中のジンに触れるように指を滑らせ、小さく独り言をこぼした。
「よかったッス。君に、まだ『好きな人』がいなくて」
帰り道。
「おつかれさま、ジンくん」
ふと顔を上げると、校門のところには千夜が立っていた。いつもなら隣にいるはずのココアの姿がない。
「千夜……って、あれ?一人か?」
「ココアちゃんは先生のお手伝いに捕まっちゃって。『お姉ちゃんとして頑張ってくるから、先に帰ってて!』なんて言われちゃったの」
「なるほど、それはお疲れ様だな」
「もしよかったら道中お供してくれないかしら? ナイト様」
千夜がいたずらっぽく微笑む。
俺はその誘いに肩をすくめて応えた。
「仰せのままに」
二人の影が夕暮れの道に伸びる。歩くたびに、千夜の長い髪から良い香りが漂い、屋上での騒動で荒んだ心が少しずつ解けていく。
その時、視界の先に聞き覚えのある「音」が聞こえてきた。
「……あれ、チノじゃないか?」
「あら、本当。何をしているのかしら?」
遠くの石畳の上を、香風智乃が軽やかに跳ねていた。
普段の彼女からは想像もできない、楽しげなスキップ。赤い石畳だけを選んで踏んでいくその姿は、まるで幼い子供の遊びのようだ。
「何か良いことでもあったのかしら。ほほえま~……」
「……ああ、微笑ましいな」
二人で見守っていると、チノの隣に一匹の野生のウサギが並んで跳ね始めた。それに気を取られたチノは、派手な音を立てて電柱に正面衝突した。
「……っ!」
頭を押さえてうずくまるチノ。俺は思わず駆け出しそうになった。
「な、なんか不安だ……ちょっと様子を見てくる」
「ええ、お願いね。私は甘兎庵の仕込みがあるから、チノちゃんのことよろしく」
千夜に手を振り、チノの方へ向かおうとした瞬間、袖を引かれた。
「最後に一つだけ。ジンくん、今週の土曜日は空いているかしら?」
「土曜? ああ、特に予定はないけど」
「よかった。ココアちゃんと図書館で勉強会をしようと思っているの。ジンくんも来てくれると嬉しいわ」
「ああ、分かった。じゃあ土曜に。また明日な」
千夜の穏やかな微笑みに見送られながら、俺は全力でスキップ後のチノのもとへと走り出した。
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