ご注文はうさぎです!Re   作:新生兎丸

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ついここまで深掘ってしまった。

長文ですが根気強く読んで頂けることを願っております!


1.オトメゴコロ

 

「どうしよう……」

 

 今朝のジンさんに対する冷たい態度や、刺々しい言葉。それを思い返すたびに、胸の奥がチリチリと後悔で痛みます。 

 

 すべては、あの妙な夢のせいです。

 

 「はぁ…………」

 

 手元の教科書に目を落としながら、思わず深い溜息が漏れてしまいました。

 

 今は休み時間。

 

 周りのクラスメイトたちが楽しそうに週末の予定を話している声も、今の私には遠い世界の出来事のように聞こえます。

 

 窓の外を眺めれば、校庭の隅で揺れる木々。その穏やかさが、余計に私の心の中のザワつきを強調するようです。

 

 あんな夢さえ見なければ、いつも通りの穏やかな朝を過ごせたはずなのに。

 

 ジンさんの性格を考えれば、今頃きっと自分に非があったのではないかと自責の念に駆られているに違いありません。今日、ラビットハウスで顔を合わせたら、すぐにでも謝らなきゃ。

 

 でも……一体、なんて言えばいいのでしょうか?

 

 まさか、「あなたの破廉恥な夢を見たせいで」なんて、口が裂けても言えません。尚更ジンさんに不快な思いをさせてしまうかもしれません……。

 

 「ジンさんは……私を女の子として見てないから……」

 

 「なになに〜? 悩み相談?」

 

 「わっ!? ま、マヤさん!?」

 

 つい独り言が漏れてしまったようです。いつからそこにいたのか、マヤさんがニヤニヤしながら顔を覗き込んできました。心臓が飛び出るかと思いました。

 

 「そんなに溜息ついてたら、幸せが逃げちゃうぞ〜」

 

 「チノちゃん、今日はずっと元気ないね。……何か悩みごと?」

 

 マヤさんの隣にはメグさんもいました。おっとりとした、でもどこか見透かすような心配そうな眼差しが私に向けられます。

 

 「い、いえ……。大丈夫です。なんでもありませんから」 

 

 私は慌てて、控えめに手を振って否定しました。けれど、二人の追及は止まりません。

 

 「水臭いな〜。何かあるなら言ってよ。今日のチノ、明らかにおかしいもん」

 

 「そうだよチノちゃん。チノちゃんが沈んでると、私まで悲しくなっちゃうよ……」

 

 「マヤさん……メグさん……」

 

 二人の真っ直ぐな優しさを、無下にはしたくありません。ただ、このモヤモヤした気持ちをどう説明すればいいのか。私は迷いながらも、ポツリポツリと言葉を選び、親友である彼女たちに打ち明けることに決めました。

 

 「あの……実は……」

 

 私が言い淀むと、二人は私の机に身を乗り出すようにして、真剣に耳を傾けてくれました。

 

 「今朝……変な夢を、見てしまって」

 

 「変な夢?」

 

 「はい。その……ジンさんが出てくる、夢なんですけど……」

 

 ジンさんの名前を出した瞬間、マヤさんの目がパァッと輝きました。

 

 「おおっ!? もしかして恋愛系のやつか!? ジンとチノが手繋いでデートとか!」

 

 「ち、違いますっ! そんなんじゃありません!」

 

 私は慌てて首を横に振って全否定します。顔がカッと熱くなるのが自分でもわかりました。手をつなぐなんて可愛らしいものではありません。

 

 もっとこう……密着して、その……。

 

 思い出すだけで、頭から湯気が出そうです。

 

 「でも、その夢のせいで……今朝、ジンさんにすごく冷たく当たってしまったんです……」

 

 「ああ、なるほどね。夢の中のジンに照れちゃって、現実のジンに素直になれなかったんだ」

 

 メグさんが、ぽん、と手を打って納得したように頷きました。メグさんのその的確すぎる指摘に、私はぐうの音も出ません。

 

 「……はい。ジンさんは何も悪くないのに。だから、謝らなきゃって思ってるんです。でも……」

 

 「でも?」

 

 私が言葉を濁すと、マヤさんとメグさんが不思議そうに顔を見合わせます。先ほどこぼしてしまった独り言の続きを、私はポツリと口にしました。

 

 「私……ジンさんにとって、ただの『子ども』とか、手のかかる『妹』みたいにしか思われてない気がして。あんな……あんな夢を見た自分が、なんだかすごく恥ずかしくて、どんな顔をして会えばいいのかわからないんです……」

 

 膝の上でギュッと両手を握りしめると、マヤさんが私の背中をバンッと勢いよく叩きました。

 

 「痛っ……」

 

 「何ウジウジ言ってんだよ! ジンがチノをどう思ってるかなんて、ジンにしかわかんないじゃん!」

 

 「そうだよチノちゃん。ジンさんはとっても優しいから、チノちゃんが『ごめんなさい』って言えば、絶対にわかってくれるよ。それに……」

 

 メグさんがふふっと優しく微笑んで、私の顔を下から覗き込みました。

 

 「チノちゃんがジンさんを意識してるってこと、ジンさんに伝わったら、少しずつ『女の子』として見てくれるようになるかもしれないよ?」

 

 「め、メグさんっ! 意識だなんて、私は別にそういうわけじゃ——!」

 

 「あはは、顔真っ赤だぞチノ〜!」

 

 「もう、二人ともからかわないでください……!」

 

 二人の明るい笑い声に包まれて。

 

 まだ少し胸の奥はドキドキしていますが、一人で抱え込んでいたチリチリとした痛みは、いつの間にか少しだけ和らいでいました。

 

 「意識してるだなんて……そんな、大げさな」

 

 私は熱くなった頬を隠すように、広げたままの教科書に顔を埋めました。

 

 ジンさんは、ラビットハウスを支えてくれている、大切な従業員さんで……。私にとっては、ただの「お兄さん」のような存在。

 

 ……のはずでした。

 

 「へぇー? 大げさかなぁ?」

 

 マヤさんがニヤリと口角を上げ、私の隣の席にどかっと腰を下ろしました。

 

 「だってさ、チノ。もしジンが『ただの店員』なら、変な夢見たってそれで終わりじゃん。わざわざ引きずって、朝から冷たくしちゃうなんて、それもう『特別な相手』だって認めてるようなもんだぞ?」

 

 「そ、それは……動揺しただけで……」

 

 「動揺するってことは、チノちゃんの中にジンさんの『男の子』としてのイメージが、ちゃんとあるってことだよね」

 

 メグさんが、私の手元にそっと自分の手を重ねました。その手の温もりが、今の私には少しだけ眩しく感じます。

 

  「ジンさんの、真剣な顔をしてコーヒーを淹れてる時とか、ちょっとドキッとしちゃうこと、ない?」

 

 「…………」

 

 否定したかった。けれど、メグさんの言葉に、脳裏をよぎったのは今朝の夢ではありませんでした。重い荷物を持ち上げるジンさんの腕。高いところにある棚の荷物を取ってくれた時に、ふわりと香ったジンさん特有のシャンプーの匂い。

 

 ……思い返せば、そんな「男の子」を感じる瞬間なんて、日常に溢れていたのかもしれません。

 

 「……ジンさんは、私が背伸びをしてもずっと『妹』だと思って接しています。結局は守られる立場の家族です」

 

 ぽつりと、本音が漏れました。

 

 「だから……そんなジンさんに対して、私だけが勝手に破廉恥な……あられもない想像をしてしまったことが、なんだかジンさんを裏切ってしまったみたいで、申し訳なくて、顔が見られないんです」

 

 「裏切り、かぁ。チノは真面目だねぇ」

 

 マヤさんは呆れたように溜息をつくと、私の頭をわしわしと掻き回しました。

 

 「いいか? ジンだって男だぞ。チノみたいな可愛い子が毎日近くにいて、一ミリも意識してないわけないだろ。むしろ、ジンの方が必死に『子ども扱い』することで、自分の理性を守ってる可能性だってあるわけだし!」

 

 「なっ、何を言ってるんですかっ!?」

 

 「あはは! 可能性の話だよ、可能性の!」

 

 マヤさんの突拍子もない推理に、私はすっかり毒気を抜かれてしまいました。 

 

 ジンさんが、私を意識して、理性を守っている……?

 

 そんなこと、あるはずがないのに。でも、その言葉がほんの少しだけ、私の心に波紋を広げました。

 

 「今日のバイト。ジンさん、きっとラビットハウスで、申し訳ない顔をしてチノちゃんのこと待ってると思うよ」

 

 「はい。ちゃんと……謝ってきます」

 

 予鈴のチャイムが鳴り響きます。

 

 教科書を閉じる私の胸の鼓動は、さっきまでの後悔による痛みではなく、別の、少しだけ熱を帯びた何かに変わっていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 窓の外では、春の陽気に誘われた生徒たちがグラウンドで声を上げている。

 けれど、俺の意識はその喧騒のさらに向こう側、今朝のラビットハウスのキッチンに置き去りにされたままだった。

 

 不潔です!

 

 コーヒー豆の香りが漂ういつもの朝に、チノから投げつけられた冷徹な一言。心当たりがない。まったくない。

 

 昨晩はちゃんと風呂に入ったし、身なりだって整えていたはずだ。それなのに、あのアイスブルーの瞳には明確な嫌悪の色が浮かんでいた。

 

 「芹沢くん……?」

 

 不意に横から声をかけられ、俺は弾かれたように顔を上げた。

 

 視界に入ったのは、藤川だった。

 

 「あ……ああ。悪い、ちょっと考え事してた」

 

 「考え事、ですか。授業中もずっと上の空でしたし、顔色も優れませんね」

 

 藤川は俺の机の端に腰をかけ、真っ直ぐな視線を送ってくる。

 

 彼女はクラスでも一目置かれるエースだが、誰に対しても丁寧な敬語を崩さない。

 

 「もし体調が悪いのでしたら、保健室まで付き添いましょうか?」

 

 そう言って、藤川は俺の肩や腕のラインを値踏みするように、少しだけ熱を帯びた瞳で見つめてきた。

 

 彼女は何故か、俺の筋肉の付き方に妙な関心を持っている節がある。

 

 「いや、体調は悪くないんだ。ただ、その……訳あって同居してる妹みたいな知り合いの女の子に、いきなり『不潔だ』って言われてさ」

 

 俺の言葉に藤川が片眉を上げる。

 

 「芹沢くんが? それはまた、随分と突飛な指摘ですね。……何か、無自覚にデリカシーのない行動を取った心当たりは?」

 

 「それが分かれば苦労しないんだよ……」

 

 俺は深いため息をつき、机に突っ伏した。

 

 チノはまだ中学生だ。年頃の女の子特有の、多感な時期というやつだろうか。

 

 それとも、同じ屋根の下で暮らし、同じバイト先で働いているという近すぎる距離感が、何か決定的な摩擦を生んでしまったのか。

 

 「……藤川なら、どう思う? 理由も言わずに『不潔』って言ってくる時、相手は何を考えてるんだ?」

 

 藤川は少しだけ思案するように顎に手を当て、それからニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

 

 「そうですね。本当に嫌いなら口を利くことすらしないでしょう。……案外、貴方が他の女性の匂いでもさせていたとか、そんな些細な嫉妬の裏返しだったりしませんか?」

 

 「まさか。あの子に限って、そんなことはないだろ」

 

 苦笑いで返したが、藤川の言葉は妙に胸にざわつきを残した。

 

 藤川は俺の机の角に置いた手を離し、少しだけ声を潜めた。年相応の……いや、どこか達観した女子としての鋭い光がその瞳に宿る。

 

 「芹沢くん。年下と言うことは中学生ですよね?中学生くらいの女の子というのは、自分でも制御できない『揺らぎ』の中にいるものですよ」

 

 「揺らぎ……?」

 

 「ええ。理屈じゃないんです。昨日まで平気だった父親の洗濯物が急に耐えられなくなったり、親しくしていた異性の何気ない仕草が、生理的な嫌悪感に変換されてしまったり……」

 

 藤川は窓の外、遠くへと目を向けた。

 

 「特に、同じ屋根の下で暮らしているなら尚更です。距離が近ければ近いほど、相手の『生々しさ』に敏感になる時期がある。あなたが悪いわけではなく、彼女の中であなたの存在が『ただの知り合い』から『一人の男性』へと、無意識にアップデートされようとしている証拠かもしれません」

 

 「……それが、『不潔』って言葉に繋がるのか?」

 

 「言葉そのものに深い意味はないでしょう。ただの防衛本能です。自分の中の戸惑いを隠すために、一番強い言葉で壁を作っただけ。……心当たりを探るより、今は少しだけ、彼女のパーソナルスペースを尊重してあげたらどうですか?」

 

 藤川はそこで言葉を切ると、立ち上がって自分の席へと歩き出した。

 

 「追いかけすぎると、本当に嫌われますよ。……あ、でも。清潔感にだけは、いつも以上に気を使って損はないと思いますけれど」

 

 振り返った彼女は、いたずらっぽく、それでいてどこか励ますような笑みを浮かべた。

 

 「それじゃあ、頑張ってくださいね」

 

 軽やかな足取りで去っていく彼女の背中を見送りながら、俺は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。理屈で解決しようとしていた自分が、少しだけ恥ずかしくなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「お疲れ様です芹沢さーん! 今日も今日とて、スクープの香りがプンプンするッスね!」

 

 背後から賑やかな足音と共に聞き慣れた声が響いた。

 

 振り返るまでもない。新聞部の花深だ。首からは年季の入った一眼レフをぶら下げ、相変わらずのハイテンションで俺の隣に並んでくる。

 

 「……花深か。今日はもう部活じゃないのか?」

 

 「特ダネを追う者に休息はないッス! 特に芹沢さんは、歩くシャッターチャンスっすからね。何か面白い悩み事とか、スキャンダラスな事件とか抱えてないッスか?」

 

 花深はレンズのキャップを外しながら、ぐいっと顔を覗き込んできた。

 

 いつもなら「何もない」とあしらうところだが、今日は藤川との会話を引きずっていたせいか、反応が少し遅れてしまう。

 

 「……おや? 芹沢さん、今の間は何っすか? カメラを向けるまでもなく、ファインダー越しじゃなくても丸分かりッスよ」

 

 彼女はピタリと足を止め、一眼レフを胸元に収めると、少しだけ真面目な顔で俺を見上げた。

 

 「顔色が曇天模様ッス。いつもの鉄壁な芹沢さんらしくないッスね。……何かあったんッスか?因みに隠しても無駄っす、ボクの直感は新聞部のエース級なんスから」

 

 「……別に、大したことじゃない」

 

 「大したことじゃないなら、話せるはずッス! うち、聞き上手には定評があるんッスよ。記事にはしないって約束するっすから、吐き出しちゃってくださいッス」

 

 真っ直ぐに向けられる彼女の瞳。

 

 藤川のアドバイスもそうだったが、女子の視点というのは、今の俺には必要なのかもしれない。ただ、女の子と同じ屋根の下暮らしてるなんて言ったら絶対に面倒くさいことになるから嘘をついた。

 

 「……朝、妹に『不潔』って言われたんだ。理由が全く分からなくてな」

 

 「不潔……? 芹沢さんがッスか? てか!妹居たんスか!?」

 

 「そ、そこまで驚くことじゃないだろ」

 

 「そ、そうッスけど……」

 

 花深は一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした後、鼻をクンクンと鳴らして俺の袖口に顔を寄せた。

 

 「……んー、全然そんなことないッス。むしろ、いつもの芹沢さんの、落ち着く匂いがするッスよ? 妹さんが何に怒ってるかは知らないッスけど」

 

 花深は一眼レフを首から下げ直すと、うーん、と唸りながら人差し指を顎に当てた。いつものスクープを追う時の鋭い目つきになり、俺の周りをぐるぐると歩き回る。

 

 「芹沢さん、今朝の行動を時系列で再生してほしいッス。現場検証開始ッスよ!」

 

 「現場検証って……普通に起きて、顔を洗って、朝飯を作ってた時だ」

 

 「ふむふむ。物理的な接触はあったんッスか?」

 

 「いや、朝の挨拶を交わした途端に『不潔です!』って…………」

 

 花深は立ち止まり、レンズを弄りながら考え込む。

 

 「……芹沢さん、まさか昨日の夜、エッチな雑誌とか出しっぱなしにしてなかったッスか? あるいは、女子禁制のビデオとか」

 

 「バカ言え、そんなもん持ってない。持っていたとしてもそんな不注意はしない」

 

 「じゃあ、匂いッス! 芹沢さんは無自覚でも、女の子の鼻は犬並みに敏感なんっすよ。例えば……他の女の子の香水の匂いが移ってたとか!」

 

 花深はそう言いながら、今度は遠慮なく俺の胸元に鼻を近づけてきた。クンクンと、まるで不審物を確認する警察犬のような勢いだ。

 

 「……でもやっぱり、石鹸と、微かに柔軟剤の匂いがするくらいッス。ボクにとっては最高に『特ダネ』な良い匂いッスけど、その子にとっては違うんッスかね……」

 

 少しだけ顔を赤くして離れる花深。しかし、すぐにまた真剣な顔に戻る。

 

 「ん~…………『不潔』っていう言葉、実は衛生的な意味じゃない可能性が高いッス」

 

 「というと?」

 

 「女の子がその言葉を投げつける時って、対象を『男』として意識しすぎて、どう接していいか分からなくなった時のパニックワードだったりするんッスよ。いわゆる、生理的な戸惑いを攻撃に変換しちゃうっていうか……」

 

 花深はカメラのファインダーを覗き、ピントを俺に合わせながらポツリと呟いた。

 

 「…………その子はきっと、芹沢さんのことが近くなりすぎて、怖くなってるんじゃないッスか?」

 

 シャッター音がひとつ、教室に響いた。

 

 「とりあえず、今日の芹沢さんは何時にも増して哀愁漂っててて最高に映えてるッス。でも、あんまり悩まないでほしいッスよ。妹さんは、芹沢さんが嫌いなわけじゃなくて、たぶん、ピントが合いすぎて眩しいだけッスから」

 

 「比喩が多くて分からん。もっとちゃんと説明してくれ」

 

 そう言って俺は花深の顔にグイッと近付く。

 

 「ちょ、ちょっと! 近い、近すぎるッス芹沢さん!」

 

 花深が裏返った声を上げ、一眼レフを抱えたままタタタッと二歩後退した。レンズ越しではなく、生身の視線が至近距離でぶつかったせいか、彼女の顔は耳の付け根まで一気に真っ赤に染まっている。

 

 「……あ、悪い。つい詰め寄っちまった」

 

 「あ、慌てさせないでほしいッス。心臓が壊れるかと思ったッスよ……」

 

 彼女は乱れた呼吸を整えるように胸元を押さえ、それから咳払いを一つ。今度は茶化すような語尾を少し抑えて、真剣なトーンで切り出した。

 

 「いいッスか?もっと噛み砕いて言うッスよ。妹さんにとって、芹沢さんはこれまで『当たり前にそこにいる家族みたいな人』だったはずッス。でも、女の子って、急に世界の解像度が上がる時期があるんッスよ」

 

 花深は手元のカメラのフォーカスリングを回す仕草を見せた。

 

 「今まで『背景』みたいに馴染んでた芹沢さんの男らしい部分……例えば、腕の筋肉とか、声の低さとか、ふとした時の体温とか。そういうのが急に『異性』として意識のド真ん中にピントが合っちゃったんッス。そうなると、今まで通りの距離感で接するのが、なんだか自分だけエッチなことを考えてるみたいで……恥ずかしくて、怖くて、パニックになるんッスよ」

 

 「……それが『不潔』に繋がるのか?」

 

 「そうッス! 自分の心の動揺を認めたくないから、相手を『汚いもの』扱いして遠ざけようとする……いわゆる、好き避けの超進化版、防衛本能ッス。芹沢さんが本当に不潔なんじゃなくて、芹沢さんを意識しちゃう自分の心が『不純』に思えて、それを言葉の弾丸にして発射しちゃっただけッスよ」

 

 花深は少しだけ寂しそうに笑って、俺の胸元を指差した。

 

 「だから、ジンさんは何も変えなくていいッス。いつも通り、どっしり構えててほしいッス。変に避けたりしたら、それこそスクープ級の悲劇になっちゃうッスから」

 

 「……意識、してるのか。チノが俺を?」

 

 俺の耳に、藤川と花深の言葉が交互にリフレインする。

 

 「……いや、やっぱりおかしいだろ。俺を意識してるから『不潔』なんて、論理が飛躍しすぎだ。嫌いなやつにしか言わない言葉だろ、普通」

 

 腕を組んで唸る俺を見て、花深は深いため息をついた。それも、呆れ果てて肺の中の空気を全部吐き出しそうな、重たいやつだ。

 

 「……芹沢さん、マジッスか。今の説明で納得いかないんッスか?」

 

 「ああ。もしあいつが俺を嫌いになったんなら、早急に謝るなり身の振り方を考えなきゃいけない。パニックとか防衛本能とか、そんな曖昧な話で片付けられるほど楽観的にはなれないんだよ」

 

 俺が真剣に返すと、花深は持っていた一眼レフをがっくりと下げ、肩を落とした。

 

 「……鈍感。鈍感すぎるッス、芹沢さん。シャッターの速度でも捉えきれないレベルの鈍さッスよ、それは」

 

 「なんだよ、急に」

 

 「いいッスか?女の子が『不潔!』って叫ぶのは、除菌スプレーをかけたいからじゃないッス!自分の心臓のバクバクを止めるための、精一杯の目隠しなんッスよ! 芹沢さんがカッコ良いのが悪いんッス!」

 

 花深はこらえきれないといった様子で、地団駄を踏むように足をバタつかせた。

 

 「あーもう! ボクがこんなに分かりやすく解説してるのに、全然響いてないッスね。……正直、その妹さんがちょっと可哀想になってきたッス。こんなに察しの悪い男を相手に、一人で顔を真っ赤にして戦ってるなんて……」

 

 彼女は冷ややかな、それでいてどこか同情の混じった視線を俺に向けてくる。

 

 「芹沢さん、その『不潔』って言葉を辞書通りに受け取ってるうちは、特ダネなんて一生掴めないッスよ。……もういいッス、ボクは帰るッス! 芹沢さんはせいぜい、家に帰ってからその『不潔』の真意を肌で感じてくればいいッス!」

 

 「おい、花深!」

 

 呼びかける声を無視して、彼女はプイッと横を向くと、今度こそ猛烈な勢いで走り去っていった。

 

 「……あいつ、何に怒ってるんだ?」

 

 一人残された教室で、俺はますます首を傾げる。

 女子の考えていることは、数学の公式より何倍も難解だ。

 

 結局、モヤモヤした塊を抱えたまま教室を出るしかなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「あ、ジンくん。お疲れ様~」

 

 昇降口へ続く廊下、柔らかな黒髪を揺らして立っていたのは、和風喫茶『甘兎庵』の看板娘、千夜だった。いつもなら隣にいるはずのココアの姿はなく、彼女は一人で俺を待っていたようだ。

 

 「千夜か。ココアは?」

 

 「ココアちゃんなら、今日はラビットハウスに新しいパンのアイディアを試したいって、鼻息荒く先に帰っちゃったわ。だから……もし良ければ、一緒に帰らない?」

 

 おっとりとした微笑みを向けられ、俺は二つ返事で頷いた。藤川や花深とのやり取りで頭がパンクしそうだった俺にとって、千夜の穏やかな空気感は救いのように感じられたからだ。

 

 校門を出て、夕焼けに染まる通学路を二人で歩き出す。

 

 「……それで、ジンくん。今日はなんだか、心ここに在らずって顔をしているけれど?ずっと今朝の事で悩んでいたの?」

 

 流石は千夜だ。鋭いというよりは、包み込むような観察眼で俺の異変を察している。俺は意を決して、今朝チノに言われた不可解な一言を打ち明けることにした。

 

 「……チノにいきなり『不潔です』って言われたんだ。理由が全く分からなくて。学校でもいろんな奴に相談したんだが、余計に混乱してきてな」

 

 「あら……ふふっ、それはまた。チノちゃんらしいというか、なんというか」

 

 千夜は驚く風でもなく、袖で口元を隠してクスクスと笑った。

 

 「千夜、笑い事じゃないんだ。俺、そんなに不潔に見えるか? 風呂も入ってるし、服も洗濯してるんだぞ」

 

 「ううん、ジンくんはとっても清潔感があるわよ。でもね、女の子がその言葉を使う時って、必ずしも汚れのことを指しているわけじゃないの」

 

 千夜は足を止め、路傍に咲く花を愛でるように目を細めた。

 

 「例えば……そうね。甘兎庵の新作メニューに『漆黒の深淵に沈む乙女の戦慄』っていうあんみつがあるんだけど、名前は怖いけれど、中身はとっても甘くて繊細なのよ。今のチノちゃんの言葉も、それと同じじゃないかしら?」

 

 「……例えが独特すぎて、余計に分からなくなったんだが」

 

 「あら、ごめんなさい。つまりね、言葉の『皮』に惑わされちゃダメよってこと。チノちゃんは今、自分の知らない感情に振り回されて、それをどうにかして追い出そうとしているの。……ジンくんの存在が、今の彼女には『刺激が強すぎる』のかもしれないわね」

 

 千夜は再び歩き出し、俺の顔を覗き込んだ。

 

 「ねえ、ジンくん。今夜は少しだけ、いつもより優しく、でも踏み込みすぎずに接してあげて。彼女、きっと今頃ラビットハウスで、自分の言ったことを後悔して、もっとパニックになっているはずだから」

 

 千夜の言葉は、花深の言っていたこととどこか重なる部分があった。

 

 「刺激が強い」だの「意識している」だの。

 どうにも腑に落ちないが、これだけ多くの女子が同じようなことを言うのなら、そこに真実があるのかもしれない。

 

 「……分かった。とりあえず、普通に、でも慎重に接してみるよ」

 

 「ええ、それが一番よ。頑張ってね、ジンくん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 千夜と別れ、一人でラビットハウスへと続く石畳の道を歩く。

 

 夕闇が街を包み込み始め、街灯がポツポツと灯りだしていた。

 

 「……不潔、か」

 

 今日一日、その単語にどれだけ振り回されたことか。

 

 藤川には「パーソナルスペース」だのと言われ、花深には「鈍感すぎる」と呆れられ、千夜には「あんみつの名前と同じ」なんて煙に巻かれたような解説をされた。

 

 女子たちの言うことを統合すると、どうやらチノは俺を嫌いになったわけではなく、むしろ「意識しすぎている」ということらしい。だが、正直に言って全くピンとこない。

 

 俺はただの居候で、バイト仲間で……あいつにとっては、年の離れた兄のような存在だと勝手に思っていた。

 

 それなのに、急に男として意識されて、パニックになって「不潔」なんて言葉が飛び出すなんて。

 

 「……あり得ないだろ、普通」

 

 つい独り言が漏れる。

 もし花深たちの言うことが正しいなら、俺が今朝感じたあの拒絶の視線は、嫌悪ではなく戸惑いだったということになる。

 

 だが、あの瞳を思い出すと、どうしても「嫌われた」という結論の方がしっくりきてしまう。

 

 「……これも考えすぎなのか?」

 

 俺は軽く頭を振った。

 

 深読みして自惚れるのも格好悪いし、かといって無神経に踏み込んで火に油を注ぐのも避けたい。

 

 結局のところ、俺にできるのはいつも通りでいることだけだ。

 

 少しだけ距離を保ちつつ、チノが落ち着くのを待つ。……石鹸の匂いには、少しだけ気を使いながら。

 

 ラビットハウスの看板が見えてきた。

 

 窓から漏れる暖かな光が、石畳をオレンジ色に染めている。

 

 いつもなら「ただいま」と迷わず開ける扉が、今日に限ってはひどく重く感じられた。

 

 (……チノ、まだ怒ってるかな?)

 

 一つ、深く息を吐き出す。

 

 覚悟を決め、俺は真鍮のドアノブに手をかけた。

カラン、と。静かな店内に、帰宅を告げるカウベルの音が鳴り響いた。

 

 カウンターの奥、ティッピーを頭に乗せたチノが、こちらを向いたまま凍りついたように静止している。客の姿はなく、ミルが豆を挽く音さえしない静寂。夕暮れの光が差し込む店内は、ひどく広くなってしまったように感じられた。

 

 「た、ただいま」

 

 「……おかえりなさい、ジンさん」

 

 チノの声は小さく、どこか湿り気を帯びている。今朝のような刺々しさは消えていたが、代わりに視線が泳ぎ、俺と目が合うのを頑なに拒んでいるようだった。

 

 俺は荷物を置くのも忘れ、カウンター越しに彼女と向き合った。藤川や花深、千夜……今日一日、いろんな奴からもらった言葉が頭をよぎるが、結局、俺の口から出たのは一番不器用で真っ直ぐな言葉だった。

 

 「……チノ。今朝のことだけど、謝りたくて」

 

 「えっ……?」

 

 チノが小さく肩を震わせ、ようやく俺の顔を見た。その瞳は驚きに揺れている。

 

 「何が原因だったのか、一日考えても分からなかったんだ。……でも、俺が無意識にお前の嫌がることをしたんだろ。不潔だって思わせるような、何か……。理由が分からないまま謝るのは失礼かもしれないけど、もし直せるところがあるなら、今すぐ直したい。だから、教えてくれないか?」

 

 俺は一歩、カウンターに歩み寄った。

 

 すると、チノは今朝のように逃げ出すどころか、逆に身をすくめるようにして俯いてしまった。

 

 「……違います」

 

 「え?」

 

 「ジンさんは……何も、悪くありません。不潔なんて、あんなひどいこと……本当は、思ってないんです」

 

 絞り出すような声。チノの白い指先が、カウンターの縁をぎゅっと握りしめている。

 

 「ただ、その……今朝、ジンさんが近くに来た時、急に……なんて言えばいいんでしょう。胸が苦しくなって、パニックになってしまって……それで、口をついて出たのが、あんな言葉で……」

 

 彼女の顔が、見る見るうちに耳の付け根まで赤くなっていく。俯いているせいで表情はよく見えないが、震える声には後悔と、それから……説明のつかない熱が混じっているようだった。

 

 「私の方こそ、ごめんなさい……。ジンさんのせいじゃないのに、あんな……八つ当たりみたいなこと。本当に、最低なのは私です」

 

 「……チノ」

 

 俯いて自分を責める彼女の言葉を遮るように、俺は努めて穏やかな口調で返した。

 

 「自分のことを最低なんて言うな。そんなわけないだろ?」

 

 カウンター越しに身を乗り出すと、チノがびくりと肩を揺らして、潤んだ瞳を少しだけ上げた。

 

 「……でも、私。理由も言わずにジンさんを罵倒して、一日中嫌な思いをさせて……」

 

 「理由なんて、後からでいいよ。体調が悪かったのかもしれないし、何か……俺には分からない複雑なもんなんだろ?」

 

 結局、藤川や花深が言っていた「異性としての意識」なんて高尚な理屈は、今の俺の頭には一ミリも入っていなかった。ただ、目の前で女の子が、自分を責めている。それだけは、見過ごせなかった。

 

 「チノが『最低』なら、理由も分からずにチノを悩ませてた俺は、もっと救いようがない大馬鹿者ってことになる。……だろ?」

 

 「ジン、さん……」

 

 「不潔じゃないって分かっただけで十分だ。俺、今日一日、ずっと自分の匂いを嗅ぎながら歩いてたんだぞ? 完全に不審者だった」

 

 わざとおどけて見せると、チノの口元が、ほんの少しだけ、綻んだ。

 

 「……ふふっ。不審者なジンさん、想像できます」

 

 想像に容易いのには意見したいけど…………まあ、チノが笑ってくれたなら何でもいいや。

 

 チノは小さく息を吐き出すと、熱を持った頬を両手で押さえ、それから視線を俺の胸元……いや、首筋のあたりに落とした。

 

 「……本当に、ごめんなさい。ジンさんは、その……全然、不潔なんかじゃありません。むしろ、さっきから……その、いい匂いが、します」

 

 「え? 匂い?」

 

 「……はい。だから、その……お客さんが来るまで、そこにいてくれませんか?」

 

 彼女は消え入りそうな声でそう言うと、今度は逃げることなく、けれど相変わらず顔を真っ赤にしたまま、ゆっくりとコーヒーを淹れ直す準備を始めた。

 

 結局、彼女がなぜパニックになったのか、その「真意」については霧の中のままだ。

 

 だが、カウンターを挟んだこの絶妙な距離感に、少しだけ穏やかな時間が戻ってきたことだけは確かだった。

 

 「……こ、コーヒー淹れますね!今日のお詫びです!」

 

 「ありがとうチノ。もらうよ」

 

 ティッピーがチノの頭の上で「やれやれ」とでも言いたげに欠伸をしたのを、俺は見逃さなかった。

  

 

 




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