ご注文はうさぎです!Re 作:新生兎丸
「ジンさん、せっかくですから勝負しましょう」
そう言ってチノが取り出したのは、プールの喧騒とは無縁の、どこか凛とした佇まいのチェス盤だった。
「……望むところだ、チノ。いざ尋常に!」
俺たちは波の音が遠くに聞こえる少し落ち着いたスペースを見つけ、盤を広げた。
ルールは一応、頭に入っている。実戦経験は皆無に等しいが、年上の意地というか、兄貴分として中学生に易々と敗北を喫するわけにはいかない。
「というか、チノってチェスまで出来るんだな。本当、多才だよなぁ」
感心しながら、まずは小手調べとばかりにポーンを一つ前進させた。
盤面を見つめるチノの瞳は、いつになく真剣だ。プールの湿った空気の中で、彼女の指先が迷いなく駒を滑らせる。
「ジンさんも、なんだかんだ言って器用ですよね。チェスのルールを知っているとは思いませんでしたし、仕事の飲み込みも早いですし」
「そうか? でもそれは、チノの教え方が良いからだよ」
「私が教えたのは基礎だけです。そこから先、自分のものにして上手く立ち回っているのは、ジンさん自身ですよ」
淡々と、けれど確かな評価を口にする彼女に、俺は少し面食らいながらも口角を上げた。
「そりゃあ。こんな可愛い女の子の前で、格好つけないわけにはいかないからな」
ふと、チノの手がピタリと止まった。
「か、可愛いとか……そんな簡単に言わないでくださいっ」
「事実なんだから、しょうがないだろ」
「そ、そうやって動揺させる作戦ですか……! 不用意にそんなことを言うなんて、反則です……」
彼女は耳まで真っ赤にして、盤面の駒を睨みつけている。
「そんな高度な駆け引きができるほど、俺の頭は回ってないよ」
不意打ちで照れさせてしまったことに罪悪感を覚え、俺は苦笑いを浮かべた。だが、チノは小さく息を吸い込むと、震える唇を噛み締め、真っ直ぐに俺を見つめ返してきた。
「じ、ジンさんだって……初めて会った時は少しぶっきらぼうだし、男の人だし……正直、ちょっとだけ怖いなって思ってました」
「……だろうな」
「でも、今は違います。一緒にいて頼りになるし、よく見れば……か、カッコいい……ですし……」
沸騰しそうな勢いで顔を赤く染めながら、彼女は絞り出すようにそう言った。こちらを揺さぶるための「反撃」のつもりかもしれないが、どう見ても自分の方が限界寸前だ。
「ははっ。ありがとう、チノ。嘘でも嬉しいよ」
「う、嘘なんかじゃ……!……ないです」
俺が冗談めかして受け流そうとすると、彼女は決然とした表情で、一気にクイーンを前線へ突き出した。
「私が勝ったら……今日、一緒に映画鑑賞をしてください。こ、ココアさん抜きで!」
チェックを告げると同時に突きつけられた、大胆な条件。プールの喧騒が、急に遠ざかったような気がした。
「じゃあ、俺が勝ったら、映画の内容は俺が決めるな」
俺の返答を聞いた瞬間、チノは一瞬だけ、時が止まったようにキョトンとした表情を浮かべた。
彼女が提示した条件は「勝ったら、二人きりで映画を観る」というものだ。
それに対して俺が「勝ったら、俺が内容を決める」と返したということは、つまり――。
「……あ」
ようやくその意味に気づいたのか、彼女の瞳が小刻みに揺れ始める。
勝っても負けても、俺たちは今日、二人きりで映画を観ることになる。暗黙のうちに承諾した形になったその事実に、チノは真っ赤な顔のまま、言葉を失って俺を見つめていた。
「俺が勝ったら、とんでもなくマニアックな作品にしちゃうかもな」
わざと茶化すように言うと、彼女は慌てて盤面へ視線を戻し、駒を握りしめた。
「そ、そういうことでしたら、私も絶対に負けられません……! ジンさんの意外と怖がりなところを克服できるような、すごい映画を選んでみせますから!」
動揺を隠すように、けれど先ほどまでよりもずっと熱を帯びた手つきで、チノが次の一手を打つ。
プールの水面が反射する光が、彼女の横顔を眩しく照らしていた。
もはや、どちらが勝つかは問題ではないのかもしれない。
俺たちはただ、この勝負の後に待っている「二人だけの時間」を、チェス盤という共通の言語を通して、少しずつ手繰り寄せていた。
「チェックメイト……ですね」
チノが静かに、けれど勝利の余韻を噛みしめるように最後の一手を指した。
盤面を見れば、俺のキングは完全に退路を断たれている。
「あと一手……及ばなかったか……!」
俺は天を仰ぎ、深々と溜息を吐いた。年上の意地を見せるつもりだったが、彼女の冷静沈着な盤面支配の前には、にわか仕込みの戦術など通用しなかったらしい。
「ふふっ。ジンさんも、最後の方はかなり鋭い攻めでしたよ。……少しだけ、焦りました」
チノはそう言って、パチパチと瞬きをしながらようやく緊張の糸を解いた。耳たぶにまだ少し赤みが残っているのは、先ほどの「カッコいい」発言のせいか、あるいは勝利の興奮のせいか。
「完敗だよ。……どんな恐ろしい作品が出てきても、覚悟しておく」
「恐ろしいだなんて、人聞きが悪いです」
彼女は手際よく駒を片付けながら、どこか嬉しそうに目を細めた。
「楽しみにしてますね、ジンさん」
プールの喧騒が、なぜか今は心地よいBGMのように聞こえる。
「チノちゃん、次は私と勝負しましょう?」
ココアたちと賑やかに騒いでいたはずの千夜が、いつの間にかおっとりとした足取りでこちらに近づいてきた。その瞳には、穏やかな笑顔の裏に悪戯っぽい光が宿っている。
「千夜、気をつけろよ。チノはめちゃくちゃ強いぞ。さっき俺も完敗したところだ」
俺は苦笑いしながら席を立ち、千夜と場所を交代した。盤面を挟んで向かい合う二人からは、先ほどとはまた違う、独特の空気感が漂い始める。
「せっかくですもの、何か賭けない? 私が勝ったら、ティッピーの濡れた姿を見せてもらうわね」
千夜は、手近にいたティッピーを眺めながら、シュールな要求をさらりと口にした。
「……いいですよ。その代わり、私が勝ったら――ココアさんとジンさんに、私のことを『お姉ちゃん』って呼んでもらいます」
チノは静かに、決然とした口調で受けて立った。
あれ?俺、またベットされてる……?
少し離れた場所にあるベンチに腰を下ろし、賑やかな喧騒を遠巻きに眺めながら、俺は独り、火照った身体を休めることにした。
誰かと連れ立ってプールに来るなんて、一体いつ以来だろうか。
そもそも、この町に来る前の俺にとって、同世代の連中と連れ立って遊びに行くなんて選択肢は、どこにも存在していなかった。
これまでの人生、年下の中学生とチェスに興じたり、同世代の奴らと遊びに来たり、そんな「当たり前」の青春など、俺とは無縁の異世界の話だと思っていた。
ふと、手のひらを見つめる。
この町に来てから、俺を取り巻く環境は驚くほど変わった。
水面に反射する陽光が眩しくて、俺は少しだけ目を細めた。
心地よい疲れと、胸の奥に灯った小さな熱。
今のこの穏やかな時間が、まるで壊れやすい硝子細工のように思えて、俺は無意識のうちに、かつての自分にはなかった「守りたい」という独占欲を抱き始めていることに気づかされた。
賑やかなプールの音をBGMに、独り物思いに耽っていると、不意に明るい声が隣から降ってきた。
「ジンくん、隣座っても良い?」
見上げると、水滴を弾かせたココアが、少しだけ遠慮がちに立っていた。
「ああ、いいよ。どうぞ」
俺が場所を空けると、彼女は「えへへ、失礼します」と隣に腰を下ろした。
あちらの勝負はついたらしい。結果はチノの完勝。
どうやら俺とココアは、チノを「お姉ちゃん」と呼ばなければならないようだ。
「ジンくん、疲れてない? 大丈夫?」
ココアが覗き込むように顔を近づけてくる。
「お前がそんな殊勝な気遣いを見せるとはな。意外だよ」
「んもうっ。私だって、ちゃんと気遣えるもん!」
「ははっ。分かってるよ、冗談だ」
軽口を叩き合えば、いつもの空気に戻る。だが、ふと会話が途切れた瞬間、プールの喧騒が遠のき、二人だけの沈黙がベンチに落ちた。
「……ねえ、ジンくん。私……ジンくんとの距離、近すぎるのかな?」
「どうした、急に」
いつもの「お姉ちゃん節」はどこへやら、彼女の声は少しだけ不安げに揺れている。
「シャロちゃんに言われて、気づいたの。ジンくんも男の子だし、異性の私がいつもグイグイ行って、困らせてないかなって思って……」
ココアは自分の膝を見つめたまま、所在なさげに指先を動かした。
彼女の「無自覚な距離の近さ」には、正直何度も肝を冷やしている。今日も、これまでも。
「まあ……正直、距離感が近すぎると、色々と困る時はある。あいにく俺も聖人じゃないし、結局のところ俺たちは男と女だからな」
努めて冷静に、事実を告げる。
すると、ココアが弾かれたように顔を上げた。その頬は、夕暮れのような赤みに染まっている。
「そ、それってさ……。わ、私のことを……その、一人の女の子として、意識してるって……こと?」
その問いに、俺は逃げることをやめた。
本心を隠すために「盾」を構えるのは、ココアに対して失礼な気がしたからだ。
「そんなの、ずっと前からそうだよ」
真っ直ぐに彼女の目を見て、本音を落とす。
ココアは大きく目を見開いたまま、金縛りにあったように固まった。水飛沫が太陽に反射して、彼女の潤んだ瞳の中でキラキラと跳ねていた。
「そ、そっか~。えへへ……。ご、ごめんね? 困っちゃったでしょ?」
ココアは照れ隠しに頬を掻きながら、落ち着かない様子で視線を泳がせた。いつもの自信満々な「お姉ちゃん」はどこへやら。今の彼女はただの、年相応の女の子に見えた。
「……困っちゃいないさ」
俺は視線を正面に投げたまま、短く、けれどはっきりと否定した。
困るほど翻弄されているのは事実だが、それを不快だと思ったことは一度もない。言葉足らずな俺のその一言に、ココアは息を呑み、胸のあたりをぎゅっと押さえた。
「あ、ありがとう……」
蚊の鳴くような声で彼女が応える。
そこから、どちらともなく沈黙が訪れた。
プールサイドに響く子供たちの歓声や、飛び込みの派手な水音。それらすべてが、今の俺たちの周りだけフィルターをかけたように遠ざかっていく。
お互いに、自分たちが発した言葉の「重さ」に後からあてられてしまったらしい。
俺はただ、隣から伝わってくるココアの熱い体温と、塩素の混じった微かな甘い香りに意識が向いてしまうのを必死に抑えていた。隣に座る彼女も、おそらくは同じ、あるいはそれ以上の気恥ずかしさと戦っているのだろう。
不意に吹いた風が濡れた肌を冷やしていくが、胸の奥の熱だけは、一向に冷める気配がなかった。
「じ、ジンくんと居ると、ドキドキさせられっぱなしだよぉ……っ!」
ココアは耐えきれなくなったように両手で顔を覆い、指の隙間から恨めしそうに俺を睨んできた。その潤んだ瞳と真っ赤な耳たぶを見せつけられて、俺の理性の防波堤もいよいよ決壊寸前だ。
「お、俺だけが悪いのか!? こっちだってな、いつも男の性を考えずに距離詰めたりしやがって……!」
溜まっていた本音が、勢い任せに口から飛び出した。
普段は冷静を装っているが、さすがに今のこの空気で聖人君子を気取るのは限界だ。
「え、えぇっ!? そ、そんなに……意識、してたの!?」
「当たり前だろ! お前、自分がどれだけ無防備か分かってんのか!?」
「うぅ……だ、だってジンくんだから、つい安心しちゃって……。でも、そう言われると、なんだか急に……恥ずかしくなってきちゃった……」
ココアは小さく身を縮め、今さらながら自分の水着姿を隠すように腕を組んだ。その仕草が余計に女性を意識させてしまい、俺は慌てて視線を明後日の方向へと逸らす。
お互いに顔が熱い。
喧嘩腰の言い合いをしているはずなのに、胸の奥は甘酸っぱい熱気で充満していて、呼吸ひとつするのも苦しい。
……さっきまで平和な勝負をしていたのが嘘のようだ。
「二人とも、飲み物買ってくるけど、何が飲みたい?」
不意に背後から声をかけられ、俺たちの心臓は揃って跳ね上がった。
振り返れば、そこには怪訝そうな顔をしたリゼと、どこか探るような視線を向けるシャロが立っていた。
「シャ、シャロちゃん!? リゼちゃん!?」
ココアの声が裏返る。俺たちは弾かれたように距離を取り、不自然なほど背筋を伸ばして取り繕った。
「お、俺はなんでもいいよ! 」
自分でも驚くほど声がデカい。動揺を隠そうとして、余計に怪しさを振りまいている自覚はあるが、一度狂ったペースは元に戻らない。
「わ、私はコーヒー牛乳が良いな~! あはは、喉が渇いちゃって!」
ココアもココアで、顔を真っ赤にしたままぶんぶんと手を振っている。リゼたちの登場によって一気にパニックへと書き換えられてしまった。
「……なんだ、二人して茹でダコみたいな顔をして」
リゼがジト目で俺たちを交互に見る。その鋭い眼差しに、俺は冷や汗が止まらなくなる。
「なんだか、入っちゃいけない空気が漂っていたような……」
シャロが細めた目で追及してくる。彼女達の勘の良さは、時としてどんなセンサーよりも厄介だ。
「そ、そんなことないよぉ! ジンくんと、その、チノちゃんをお姉ちゃんって呼ぶ練習をしてただけだよ!」
……嘘が下手すぎる。
俺は隣で墓穴を掘り続けるココアを見ながら、心の中で早くこの場を立ち去ってくれと祈るしかなかった。
「……? まあいいか。ジンもコーヒー牛乳でいいだろ?」
リゼは釈然としない様子で首を傾げたが、それ以上は追及せず、俺の好みを勝手に決め打ちしてきた。
「あ、ああ。頼むよ」
反射的に肯定したが、今の俺の心境は甘い飲み物で一息つきたい気分なのか、それともブラックコーヒーで頭を冷やしたい気分なのか、自分でも判然としない。
「じゃあ、行ってくる。行こうか、シャロ」
嵐が去ったような静寂。
……いや、静寂ではない。隣にはまだ、茹で上がったままのココアが残っている。
リゼたちが完全に見えなくなったのを確認してから、俺は大きく息を吐き出した。
「……死ぬかと思った」
「わ、私も……。心臓が口から飛び出しちゃうかと思ったよぉ……」
ココアはベンチにぐったりと背中を預け、真っ赤な顔のまま両手でパタパタと自分を仰いでいる。
「別に悪いことしてた訳じゃないのにな」
涼みに来ていた筈なのに、余計体が火照ってしまった。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
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