ご注文はうさぎです!Re   作:新生兎丸

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3.プールに濡れて雨に濡れて涙に濡れる

 数日経ったとある放課後。

 

 厚い雨雲のせいで空は夕暮れのように暗い。窓ガラスを叩く雨粒の音が、静まり返った教室に規則正しく響いている。その冷ややかな雨音をBGMに、俺は一人、座席に深く腰掛けて読書に勤しんでいた。

 

 今日、ココアたちは連れ立って映画館へ行っている。俺も誘われはしたものの、手元にあるチケットは五枚きり。定員オーバーで俺が身を引く形になったわけだが、正直、映画の内容自体はかなり気になっていた。

 

 せめて雰囲気だけでも味わおうと、俺は映画の原作である一冊の小説を手に取った。

 

 文字を追うたびに、頭の中では映画のスクリーンにも負けない鮮やかな情景が広がっていく。雨の日の静寂が、物語への没入感をいっそう深めてくれる。

 

 続きは帰ってから読もう。俺は栞を挟んで、そろそろ帰ろうと重い腰を持ち上げた。

 

 ふと、そこである重大な事実に気づき、俺は思考を止めた。

 

 傘を忘れた。

 

 窓の外では、アスファルトを叩く雨音が勢いを増している。この土砂降りの中を傘なしで帰るのは、さすがに無茶が過ぎる。

 

 かといって、ここで天を仰いだところで状況が好転するわけでもない。

 

 今からココアに連絡して、映画が終わった後に傘を届けてもらうか?

 

 いや、あいつのことだ。いつになるか分かったもんじゃないし、何よりあいつに借りを作るのは精神的にくる。だが、あまりモタモタしていると、最終下校時刻で学校自体が閉まってしまう。

 

 打開策を見出せず、空っぽの教卓をぼんやりと眺めていると、背後で引き戸が乾いた音を立てた。

 

 「あれ? 芹沢さん? まだいたんッスか?」

 

 不意に背後で扉が開き、聞き馴染みのある軽薄な声が響いた。

 振り返ると、そこにはバッグを肩にかけた花深が立っている。

 

 「……花深。お前、クラス別だろ。なんでここにいるんだよ」

 

 「部活帰りッスよ。この教室の前を通ったら、芹沢さんが何やら深刻そうな顔して突っ立ってたんで」

 

 淡々とした口調とは裏腹に、その瞳は「お宝発見!」と言わんばかりの好奇心で爛々と輝いている。完全に面白がられている。

 

 「それで? 独りで黄昏れて、どうしたんッスか?」

 

 「……別に、なんでもない」

 

 「もしかして〜……」

 

 花深が目を細め、獲物を追い詰めるような足取りでじりじりと距離を詰めてくる。

 

 「傘、忘れちゃった系ッスか?」

 

 図星だった。

 俺が沈黙したのを肯定と受け取ったのだろう。花深の口角が、これ以上ないほどに吊り上がる。

 

 「へぇ〜! 芹沢さんともあろうお方が、傘を忘れちゃったんスか〜。そりゃあ大変ッスねぇ? 外はあんなに土砂降りなのに、一体どうやって帰るつもりなんスか〜?」

 

 顔を覗き込むようにして、勝ち誇った笑みを浮かべる。

 語尾を伸ばしたその声には、隠しきれない愉悦がこれでもかと混じっていた。

 

 「クッ……! めんどくせぇ……!」

 

 思わず毒づいたが、状況は最悪だ。窓の外では叩きつけるような雨音が勢いを増している。

 

 「な、……なんとかするし」

 

 「ほ〜う? 未だ止む気配のないこの降り方を見て、そんなことが言えるんッスかぁ?」

 

 花深は窓の外を指さし、わざとらしく肩をすくめてみせた。

 

 「でも、最終下校時間まであとちょっとしかないッスよ〜? 時間になったら先生方に強制的に追い出されると思うッスけど、それでもいいんッスか〜?」

 

 相変わらずのニタニタ顔で、俺のパーソナルスペースを侵食するように歩み寄ってくる。

 

 正論すぎて何も言い返せない。追い詰められた俺の様子を見て、花深は勝ち誇ったように人差し指を立てた。

 

 「そこで救いの神、登場ッス! ボク、丁度傘を持ってきてるんスよね〜」

 

 あざといまでのタイミングで、彼女は手にした傘をひらひらと振ってみせる。

 

 「……ま、芹沢さんがどうしてもって言うなら、一緒に入れてあげてもいいッスよ?」

 

 上目遣いにこちらを覗き込むその瞳には、「さあ、どうするんスか?」という底意地の悪い期待が透けて見えていた。

 

 「くっ……! い、一緒に……傘に入れてください……!」

 

 屈辱に耐え、絞り出すように告げた。

 途端、目の前の少女の表情がパッと華やぐ。

 

 「んもぉ〜! しょうがないッスねぇ! この慈悲深くて優しい優しいボクが、特別に一緒に帰ってあげましょう!」

 

 これ以上ないほどの満面の笑みを浮かべ、花深は「えっへん」と効果音が聞こえてきそうな勢いで胸を張った。

 その様子は、まるで迷子の子供を助けるヒーローか、あるいは念願の獲物を仕留めた策士のようでもある。

 

 「ほら、ボクに感謝するッスよ? 芹沢さん!」

 

 勝ち誇った様子で、彼女は手にした傘を自慢げに掲げてみせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「にしても、ホントにボクが居てよかったッスね~! ましてや、こんな美少女と相合傘なんて。……キャッ、芹沢さん、幸せ者すぎッス!」

 

 校門を出てからというもの、コイツは水を得た魚のようにはしゃぎまくっている。

 一歩踏み出すごとに跳ねるような足取りが、俺の苛立ちを逆なでする。

 

 「はいはい。ホント助かりましたよ。花深様が居てくれて良かったです」

 

 棒読みで返すと、花深はさらに調子に乗って胸を反らせた。

 

 「もっとこう、ボクを敬い、頭を垂れるッス!」

 

 「……傘持ってるだろ、こっちは」

 

 お辞儀なんかしたら傘から頭がはみ出すだろ、という無言の抗議を込めて睨みつける。

 そんな他愛もない応酬を繰り返しながら、一つの傘の下、雨に煙るアスファルトを並んで歩く。

 

 「それにしても、あんな時間まで何やってたんッスか? 雨が降り出す前に、いくらでも帰るタイミングはあったはずッスけど」

 

 ふと、花深が茶化すのをやめて首を傾げた。

 

 「本を読んでたら止まらなくなったんだよ。気づいた時には、もう手遅れだった……」

 

 「へぇー。そんなに集中しちゃうほど面白い本なんッスか?」

 

 「まあな。一応、映画化もされてる有名な作品だし」

 

 雨音に混じって、少しだけ弾んだ俺の声が傘の内に響いた。

 

 「ふーん。ボク、本はあんまり読まないんで。映画になってたとしても、よく分かんないッスけどね」

 

 花深は興味なさげに視線を逸らすと、首から下げた一眼レフのダイヤルをいじり始めた。雨粒がレンズに飛ばないよう、器用に庇のように身を寄せてくる。

 

 「そのカメラ、バッグにしまっておかなくていいのか? 濡れるだろ」

 

 「ん~……まあホントは、こんな日は大人しくしておいた方が良いんッスけど。でも、スクープってのはいつだって唐突にやって来るもんッスからね!」

 

 不意に、花深がこちらへレンズを向けてきた。

 ファインダーも覗かず、至近距離で「カシャッ」と小気味よいシャッター音を響かせる。

 

 「ちょっ、お前……!」

 

 「いい表情ッスよ、芹沢さん! 屈辱にまみれた敗北者の顔、バッチリいただいたッス!」

 

 コイツはいつも勝手に撮りやがって……。

 

 文句を言おうと口を開きかけたが、カメラを構えて悪戯っぽく笑う花深のペースに、結局は溜息をついて飲み込むしかなかった。

 

 ふと、頭上を叩く音が柔らかくなっていることに気づいた。

雲の切れ間から、わずかに薄明るい光が漏れ出し、雨に濡れたアスファルトを鈍く照らしている。

 

 「雨、上がってきたな」

 

 「おっ、ホントだ。ボクの魅力に気圧された雨雲が、ついに退散したみたいッスね!」

 

 「……はいはい。お前のその謎の自信には、天候すらもお手上げってことか」

 

 呆れ半分に返しながら、俺たちは足を止めた。

 

 閉じた傘の先から、溜まっていた雫がトトッ、と音を立てて地面に落ちる。窮屈だった共有スペースが解消され、涼やかな空気が二人の間を通り抜けた。

 

 「にしても芹沢さん、これに懲りたら今度から天気予報くらいはチェックするんッスよ?」

 

 「……善処するよ」

 

 傘という盾を失い、少しだけ手持ち無沙汰になった俺たちは、また並んで歩き出す。

 

 水溜まりが鏡のように空を映し出していた、その時だった。

 

 背後から迫る、耳障りなロードノイズ。

 一台の車が、スピードを落とさないまま俺たちのすぐ脇を猛烈な勢いで駆け抜けていった。

 

 轟音と共に、路肩に溜まった泥水が大きな扇形を描いて跳ね上がる。

 

 俺は考えるより先に、花深の肩を掴んで自分の方へと引き寄せた。彼女の小さな体が、俺の胸元に飛び込んでくる。

 

 冷たい衝撃が、背中から全身を貫いた。

 

 「…………えっ?」

 

 俺の腕の中で、花深が小さく声を漏らした。

 重い沈黙が流れる。

 

 「……芹沢、さん……?」

 

 恐る恐る顔を上げた花深の視線の先で、俺の制服の背面は無残なほど泥にまみれていた。滴り落ちる濁った水滴が、首筋に冷たく這う。

 

 「……随分と無茶な運転だな……って!あっ! わ、悪い……!」

 

 至近距離で重なった体温と、彼女の驚いたような視線に気づき、俺は弾かれたように手を離した。

 

 反射的に数歩距離を取る。泥水に濡れた靴が、アスファルトの上で無機質な音を立てた。

 

 やばい、また絶対なんか言われる。

 

 「ナイト気取り」だの「どさくさに紛れて」だの、彼女の語彙力ならいくらでも煽り文句が出てくるはずだ。俺は身構え、逃げるように視線を斜め下に落とした。制服の袖から滴り落ちる泥水が、ポタポタと地面に小さな波紋を作っている。

 

 だが。

 

 数秒経っても、いつもの小生意気な声が聞こえてこない。

 

 「…………」

 

 静寂。

 

 雨上がりの澄んだ空気の中で、彼女の沈黙だけが重く居座っている。

 

 不審に思って顔を上げると、そこには俺の予想を裏切る花深の姿があった。

 

 いつもなら獲物を見つけた猛獣のように爛々と輝いているその瞳が、今はただ、茫然と俺を映している。

 

 「……花深?」

 

 呼びかけるが、反応はない。

 彼女は俺の濡れ鼠になった肩と、自分の腕の中にある無傷のカメラを交互に見つめ、信じられないものを見たかのように唇を小さく震わせていた。

 

 夕闇が迫る街路灯の下、彼女の頬がわずかに赤らんでいるように見えたのは、きっと雨上がりの湿った光のせいだろう。

 

 「あ、の……芹沢、さん……」

 

 ようやく紡ぎ出された声は、ひどく頼りなく空気に溶けていく。

 

  「あ、ありがとうッス……」

 

 消え入りそうな声でそう呟くと、彼女は弾かれたように視線を逸らした。

 いつもの不敵な笑みも、人を食ったような軽口も、今の彼女からは完全に消失している。

 

 「あー、えっと……! ボク、急用を思い出したッス! 用事! そう、スクープの裏取りッス! じゃあ、あとはよろしくッス!」

 

 「おい、ちょっと待て――」

 

 呼び止める間もなかった。花深は顔を伏せたまま、逃げるような足取りで駆け出していく。

 水溜まりを飛び越え、角を曲がってその背中が見えなくなるまで、ほんの数秒のことだった。

 

 「……なんだよ、あいつ」

 

 後に残されたのは、泥水で重くなった俺の制服と、静まり返った歩道。

 

 そして――

 

 「あ……」

 

 ふと、右手に残る感覚に気づく。

 俺の手には、さっきまで二人を隔てていた、花深の傘が握られたままだった。

 

 持ち主がいなくなった傘は、雨上がりの湿った風に吹かれて、所在なげに揺れている。

 

 あんなに必死に俺をからかっていたくせに、肝心なものを置いていくなんて。

 

 俺は一人、びしょ濡れのまま立ち尽くしていた。

 

 遠くでまた、雲の切れ間から差し込む夕日が、濡れた路面を不自然なほどオレンジ色に焼き始めていた。

 

 

 

 

 

 




ここまで閲覧ありがとうございます!

次回もお楽しみに!

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