ご注文はうさぎです!Re 作:新生兎丸
「……はぁっ、はぁっ……っ!」
心臓の音が、耳の奥で警鐘のようにうるさく鳴り響いている。
全力で走ったせいじゃない。もっと内側の、自分でも制御できない熱い何かが、胸の裏側をドンドンと叩いているせいだ。
芹沢さんの視界から消えるなり、ボクは壁に背中を預けてズルズルとその場に座り込んだ。
「……あっつい。なんなんッスか、今の……」
熱を帯びた両手で、火照りきった頬を包み込む。
手のひら越しに伝わってくる自分の温度は、さっきまで降っていた冷たい雨とは正反対で、今にも発火してしまいそうだった。
バカだ。本当に、バカだ。
いつもみたいに「今の、惚れちゃったッスかぁ?」とか「ボクに触るなんて、エッチ!」とか、いくらでもからかいの言葉は出てくるはずだったのに。
あんな風に、迷いなく守られるなんて。
不意に引き寄せられた時の、芹沢さんの体温。
鼻先をかすめた、雨の匂いと少しだけ混じった柔軟剤の香り。
そして、ボクを庇って泥水を被った、あの広い背中。
「………………っ!」
思い出すだけで、視界がチカチカする。
あんなの、あんなの反則ッス。
ボクは震える手で、首から下げた一眼レフを抱きしめた。
このカメラは、ボクにとっての『武器』だ。他人との間に適当な距離を保って、面白いものを切り取って、安全な場所からニヤニヤ笑うためのフィルター。
なのに、今のボクには、このカメラの重みさえも芹沢さんの腕の感触に上書きされてしまっている。
「……負けてるのは、ボクの方じゃないッスか」
ポツリとこぼれた独り言が、誰もいない路地に虚しく響く。
ずっと前から知っていた。
少し意地悪な言い方をしても、結局はため息をついて付き合ってくれる。
本に夢中になって傘を忘れるような抜けたところがあるくせに、誰かが困っていたら、自分を顧みずに動けてしまう。
そういう、芹沢さんの「普通なようで普通じゃない」優しさが、ボクのファインダーを狂わせ続けていたことくらい。
……あ。
ふと、自分の手のひらにあるはずの感触がないことに気づいた。
「…………傘」
芹沢さんに押し付けたまま、逃げてきちゃった。
あれじゃあ、まるでボクが明日、傘を返してもらうための口実をわざと作ったみたいじゃないッスか。
いや、実際はただパニックになって忘れただけなんスけど……。でも、明日、どんな顔をして会えばいいっていうんッスか。
「芹沢さんのバカ……かっこよすぎるんッスよ、ホントに」
膝に顔を埋めて、誰もいないのをいいことに、思い切り声を漏らす。
雨はもう、完全に上がっていた。
雲の隙間から覗く夕日が、世界をいたずらっぽく染め上げていく。
明日。
彼がボクの傘を持って現れたとき。
ボクはいつものように、憎まれ口を叩けるだろうか。
「……無理、ッス。今は、絶対無理……」
しばらくの間、顔を隠すように、水溜まりがキラキラと光る道端でうずくまっていた。
◇
「ただいまーっと」
裏口のドアを開け、ラビットハウスへと足を踏み入れる。
「おかえ……ジンくん!? ちょっと、なんでそんなにびしょ濡れなの!?」
先に映画館から戻っていたココアが、俺の姿を見るなり形相を変えて飛んできた。慌てて持ってきたバスタオルを受け取り、とりあえず頭に被せる。ふわりと鼻をくすぐったのは、香風家でいつも使われている柔軟剤の穏やかな香りだ。
「まあ、色々あってな」
ココアに続くようにしてチノも顔を出した。
二人して一体何があったと言わんばかりの驚愕の眼差しを向けてくる。根掘り葉掘り聞かれそうになったが、説明するのも少し骨が折れる。
適当な返事で濁すと、俺は礼だけ言って自室から着替えを掴み、脱衣所へと逃げ込んだ。
泥まみれになった制服を予洗いし、洗濯機に放り込む。それから冷え切った体を温めるべく、浴室のシャワーを浴びた。
(……あいつ、あんな顔するんだな)
不意に、花深の反応が頭をよぎる。いつもの彼女らしからぬ、余裕のない慌てた様子。
少しばかり胸にざわつきを覚えながらも、気にするほどのことじゃないと自分に言い聞かせるように、熱い湯を頭から被った。
風呂から上がり、着替えを済ませて自室に戻る。一息つこうと椅子に腰を下ろしたところで、コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「ジンさん、入ってもいいですか?」
チノの声だ。扉の向こう側に、彼女の気配を感じる。
チノの声に応えると、彼女はどこか落ち着かない様子で部屋に入ってきた。その手には、湯気の立つマグカップが握られている。
「……これ、温かいココアです。冷えたでしょうから」
「ありがと、チノ。助かるよ」
受け取ったカップからは甘い香りが漂い、指先から熱が伝わってくる。チノは俺がそれを一口すするのを見届けると、意を決したように真っ直ぐこちらを見つめてきた。
「それで……本当は何があったんですか? ココアさんにはあんな風に言っていましたけど、ただの雨にしては汚れ方が不自然です」
彼女の瞳には、誤魔化しを許さないような静かな意志が宿っている。隠し通すのもかえって心配をかけるかと思い、俺は小さく息を吐いて白状することにした。
「……別に、隠すような大層なことじゃないんだ。帰り道、同級生のヤツが車に水を跳ねられそうになってな。それを庇ったら、この様だ」
「庇った……。ジンさんが、その方を?」
「ああ。避ける間もなかったからな。まあ、ちょっと派手に泥水を被っただけだよ」
俺が淡々と事実を伝えると、チノは驚いたように目を見開き、それから少しだけ複雑そうな、それでいて安心したような表情を浮かべた。
「……ジンさんらしいといえば、らしいです。でも、もし怪我でもしていたらと思うと……」
「怪我はないよ。濡れただけだ」
「ならいいのですが……その同級生の方は、ちゃんとお礼を言ってくれましたか?」
チノの問いに、再び花深のあの慌てた顔が脳裏をよぎる。
「……さあな。どうだったかな」
曖昧に返しながら、俺は残りのココアを飲み干した。
「その傘も……その方のですか?」
チノの視線が、壁に立てかけてあった見慣れない傘に向けられた。
「ああ。相合い傘してたんだが、俺が傘を持ってたもんでさ。アイツ、急に慌てて走って帰っちゃったから、返しそびれたんだよ」
事実をそのまま口にしただけなのだが、言った直後、部屋の空気がわずかに冷えた気がした。
チノがすっと目を細める。
「……相合い傘、ですか」
「まあ、雨が酷かったしな。合理的だろ?」
「……」
チノは黙ったまま、じーっと俺の方を見つめている。
怒っているというよりは、何か得体の知れない不満を静かに溜め込んでいるような、そんな無言の圧力を感じる。
「……ジンさんは、お人好しすぎます」
「そうか?」
「そうです。ずぶ濡れになってまで人を庇ったり、相合い傘をしたり……。その同級生の方は、女性……なんですよね?」
チノの声のトーンが少しだけ低くなった。
「……まあ、そうだけど」
俺が肯定すると、彼女はぷいっと顔を背けた。
「……別に、私が口出しすることではありませんけど。でも、風邪を引いたら明日のシフトに響きますから。今日はもう、しっかり暖かくして寝てください」
そう言い残して、チノは空になったカップを手に取り、足早に部屋を出ていこうとする。
「ち、チノさん? なんか不機嫌……?」
確信を持てないまま、おそるおそる声をかけてみる。チノは扉に手をかけたまま、こちらを振り返らずに答えた。
「別に……そんなことないです。ただ、ジンさんの不用心さに呆れているだけで……」
「……もしかして、俺が他の女の人と相合い傘とかしたから、嫉妬してる?」
半分冗談のつもりでそう口にすると、チノの肩がびくんと跳ねた。
「っ!? そ、そんな……そんなことはありません! 何を言って……っ!」
目に見えて動揺したチノが、持っていた空のカップを落としそうになり、慌ててそれを掴み直そうとする。だが、その拍子に足元が机に引っかかり、彼女の体が大きく傾いた。
反射的に体が動く。床へ倒れ込むチノの頭を打たせないよう、俺は彼女を抱き寄せるようにして、その上に覆い被さる形で床へ滑り込んだ。
「…………っ」
鈍い音が響いたが、俺の腕がクッションになったおかげ
で、チノに大きな衝撃はいかなかったはずだ。
至近距離で、チノの吐息が肌に触れる。
見上げると、彼女は驚きで目を見開いたまま、顔を真っ赤に染めて固まっていた。
「……悪い。怪我はないか、チノ?」
顔が近すぎて、どちらの鼓動か分からない早鐘のような音が、静かな部屋に響いている。
「あ、ありがとうございます……」
腕の中でチノが、消え入りそうな声で呟く。至近距離で見つめ合う形になり、彼女の頬がみるみるうちに赤く染まっていくのが分かった。あまりの気まずさに、早く身体を起こそうとした、その時だった。
「チノちゃーん、おかわりのココア持ってきたよー……って、ええええええ!?」
勢いよく扉が開いたかと思うと、トレイを持ったココアが棒立ちになっていた。手に持ったスプーンが、カランと虚しく床に落ちる。
「ジ、ジンくん!? 何してるの!? チノちゃんを押し倒すなんて、そんな……そんな破廉恥なことしちゃダメだよぉ!」
「バッ……! 違う、これは事故だ! 誤解だ!」
慌てて身体を引き剥がすが、ココアのパニックは止まらない。
「お、押し倒すなんて……ジンくんのケダモノ! チノちゃん、今お姉ちゃんが助けてあげるからね!」
「ココアさん、違います! 私が転びそうになったのを、ジンさんが助けてくれて……!」
チノも真っ赤な顔のまま必死にフォローに回ってくれるが、一度スイッチの入ったココアには届かない。
「お嫁に行けなくなっちゃったらどうするの!?」
「大げさすぎるだろ! いいから落ち着け!って、ちょ、ちょっと待て! なんだそのぶっとい棒は!? どこから出したんだよ!」
ココアが背後から取り出したのは、およそ家庭用とは思えないほど重厚な、一本の麺棒だった。
「これはね、パンをこねるための魔法の杖だよ!」
「パン屋の娘が、神聖なパン作りの道具で制裁とか物騒なことしていいのかよ!?」
「いいの! 妹のピンチに、お姉ちゃんは手段を選ばないんだからぁ!」
ココアは麺棒をブンブンと振り回しながら、一歩ずつこちらへ詰め寄ってくる。その目は冗談抜きで本気だ。
「ココアさん、落ち着いてください! 本当にジンさんは悪くないんです!」
「チノちゃん、そんなに庇うなんて……さてはジンくんに弱みでも握られてるの!? 大丈夫、お姉ちゃんがその鎖を断ち切ってあげるから!」
「話を聞けぇぇ!」
部屋の隅へと追い詰められながら、ラビットハウスに俺の悲鳴が響き渡った。
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