ご注文はうさぎです!Re   作:新生兎丸

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前見て全力疾走!

 店内が落ち着きを取り戻した、穏やかな午後のひととき。

 

 ココア、チノ、そしてリゼの三人が談笑しながら皿を洗っている。その微笑ましい光景を横目に、俺は布巾を手にテーブルを拭いていた。

 

 「あ、そうだ。私、またバイト休むかも」

 

 「なにか用事なの~?」

 

 リゼの言葉に、ココアがのんびりとした声を返す。

 

 「バイトの助っ人を頼まれてな。演劇部のやつだ」

 

 「演劇部!?すごぉ〜い!」

 

 「時々助っ人に行っていたのは、演劇部だったんですね」

 

 弾むような三人の会話を、俺は半分聞き流しながら、手元の作業に集中していた。だがその直後、静かな店内にパリンッという乾いた陶器の割れる音が響き渡る。

 

 反射的に音のした方へ視線を向けると、そこには呆然と立ち尽くすリゼの姿があった。その手元では、ついさっきまで洗っていたはずの皿が、見事なまでに真っ二つに割れている。

 

 落としたわけでも、ぶつけたわけでもない。まるで、握力だけで叩き割ったかのような不自然な割れ方だった。

 

 「えっ……なにごと?」

 

 思わず口をついて出た俺の言葉は、静まり返った店内にどこか虚しく響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 息を切らし、地面を蹴る音だけが響く。視界がチカチカとして、肺が焼けるように熱い。

 

 「はぁ……っ……! はぁっ……!」

 

 いや、ちょっと待て。おかしいだろ。なんで俺はこんな必死に走ってるんだ!?

 

 「芹沢くん! あと一周です! ラストスパートですよ~!」

 

 横から飛んでくる呑気な声。意識が朦朧として、思考の歯車がまともに噛み合わない。

 

 藤川のバレーの自主トレに付き合うことになったんだっけか?

 

 「……なんでっ……藤川がチャリ乗って、俺が走ってんだ……!?」

 

 涼しい顔でペダルを漕ぐあいつと、泥臭く地面を這う俺。

 

 主客転倒どころの話じゃない。

 

 トレーニングの主役はどっちだ!?

 

 「尚更……意味が、分からん……!」

 

 理不尽への怒りを燃料に、俺は無理やり足を前に踏み出した。

 

 「……っ、し、終了……!」

 

 最後の一歩を絞り出し、白線を越えた瞬間に膝から崩れ落ちた。

 

 「はぁ……はぁ……っ、げほっ……!」

 

 肺がひっくり返りそうなほどの激しい呼吸。コンクリートの熱が、汗ばんだ頬に伝わってくる。空がぐわんぐわんと歪んで見えた。

 

 カチッ、と自転車のスタンドを立てる乾いた音が耳元で響く。

 

 「お疲れ様です、芹沢くん!」

 

 視界の端に、爽やかな笑顔を浮かべて自転車から降りる藤川の姿が映った。コイツ、一滴も汗をかいてない。

 

 「し……ぬ、かと思った…………」

 

 文句の一つでも言ってやりたいが、今は声を通すための酸素すら足りない。ただただ、心臓の鼓動が耳の奥でうるさく打ち鳴らされていた。

 

 「それにしても本当にすごいタイム……」

 

 息を整えるのに集中しているため、ろくに返事を返せない。

 

「は……っ、はぁ……」

 

 返事をしたいのは山々だが、喉の奥が張り付いて声にならない。ただ荒い呼吸を繰り返しながら、薄目でこちらを覗き込んでくる藤川を見上げるのが精一杯だ。

 

 「本当に……中学の頃、何もしてこなかったんですか?」

 

 感心したような、純粋に不思議そうな声。

 

 何もしてこなかった。

 

 それは事実だ。部活に入るわけでもなく、放課後はただ適当に過ごしていただけ。どこにでもいる、ごく普通の帰宅部だったはずなんだ。

 

 それなのに、なんでこんなに動けるんだ、と自分でも思う。

 

 地面に背中を預けたまま、ようやく少しだけ肺に酸素が回ってきた。視界の歪みが収まり、代わりに体中の筋肉がじわじわと悲鳴を上げ始める。

 

 「……っ、ふぅ。……別に、普通じゃないか……」

 

 掠れた声でようやくそれだけ絞り出す。

 

 中学時代、特別に鍛えた記憶なんて一つもない。ただ、こうして限界まで追い込まれた時に、なぜか体が勝手に動いてしまう感覚がある。それが自分でも少し、気味が悪い。

 

 「……それより……飲み物。……死ぬ」

 

 震える手を伸ばすと、藤川が「あはは、すみません」と慌ててスポーツドリンクを差し出してきた。

 

 喉を通る冷たい液体が、焼けるような食道をゆっくりと鎮めていく。ボトルを口から離し、大きく一つ息を吐き出した。

 

 思考の霧が晴れてくると、ようやく事の始まりが記憶の底から浮かび上がってきた。

 

 ……そうだ。

 

 昼休み、藤川にバレー部の練習メニューの客観的なペース配分が知りたいと相談されたんだった。

 

 そもそも、バレー部のトレーニングならバレー部の奴に走らせればいいだろうに。なんで帰宅部の俺が、チャリの藤川に煽られながらインターバル走なんてやってるんだ。

 

 「いいデータが取れました。 芹沢くんの走り、本当にフォームに無駄がないですね」

 

 「そりゃどうも」

 

 「あ、そうだ。お礼と言ってはなんですけど、帰り道に何か奢りますよ?」

 

 「いや、大丈夫だって。そんな気使うことはないって」

 

 俺は立ち上がり、膝についた砂を払った。

 

 まだ足は笑っている。けれど、体のどこか深い場所で、使い切ったはずの熱がまだ燻っているのを感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 公園のベンチに座り、沈む夕日を眺めながらの雑談。

 

 話題は、今日学食で出た限定メニューの味だとか、次の小テストの範囲がいかに絶望的かだとか、本当にどうでもいいことばかりだ。

 

 「……あ、芹沢くん。口の端、砂ついてますよ」

 

 「うげ、マジか」

 

 「あはは、さっき派手に転びましたもんね」

 

 そんなやり取りをしながら、俺が袖で無造作に顔を拭っていた、その時だった。

 

 「――あれ? 藤川さん?」

 

 不意に、前方から弾むような声がかけられた。

 

 顔を上げると、見慣れない制服を着た女子高生が三人、こちらを凝視している。

 

 俺たちの学校の制服とは違う。他校の生徒だろう。

 

 「やっぱり! 藤川さんだよね? わあ、久しぶりー!」

 

 三人は小走りでこちらに駆け寄ってくる。その足取りや、健康的に日焼けした肌、そして独特の快活な雰囲気から、彼女たちが運動部であることは一目で分かった。

 

 「……あ」

 

 隣で藤川が短い声を漏らす。

 

 だが、その声はいつもの明るいトーンではない。

 

 「お、同じ中学の……?」

 

 俺がそう尋ねようとして藤川の横顔を見た瞬間、言葉が詰まった。さっきまであんなに明るかった彼女の顔が、見る間に青ざめていく。

 

 それだけじゃない。指先が、微かに、けれどはっきりと震えていた。

 

 「藤川さん、こんなところで何してるの? あ、もしかして……彼氏?」

 

 「えっ、あ、いや……」

 

 藤川の口から、掠れたような声が出る。

 彼女たちの視線が俺へと注がれるが、藤川は俺を紹介するどころか、まるで冷たい水を浴びせられたかのように硬直していた。

 

 中心にいる背の高い女子生徒が、悪気のない、けれど鋭い好奇心を孕んだ笑みを向ける。

 

 藤川の顔が、さらにひきつる。

 

 それは、恐怖とも、拒絶とも取れるような、今まで俺が見たことのない彼女の表情だった。

 

 「まだバレーやってるの?すごいアツくなるのはいいけど、うちらの時みたいに周りを巻き込んじゃ駄目だよ~?」

 

 その言葉が投げかけられた瞬間、公園の空気が凍りついたような気がした。

 

 「……っ」

 

 藤川の喉が、引き攣ったように小さく鳴る。

 

 「周りを巻き込む」というフレーズ。それは冗談めかした口調ではあったが、言われた本人にとっては、心臓を直接掴まれるような響きを持っていた。

 

 「あはは、冗談だよ! 相変わらず真面目な顔しちゃって」

 

 中心にいた背の高い女子が、藤川の肩を軽く叩く。その親密そうな動作とは裏腹に、彼女たちの瞳には、かつて同じコートに立っていた者だけが共有する、特有の選別の視線が混じっていた。

 

 「でも、藤川さんの『完璧主義』には、うちら本当に付いていくの大変だったんだから。あの時は、みんな必死だったよねぇ」

 

 「……ごめん、なさい」

 

 藤川の声は、地面に吸い込まれそうなほど細かった。

 

 いつもの、自信に満ちたエースとしての彼女はどこにもいない。ただ、過去の亡霊に怯える一人の少女がそこにいた。

 

 「いいって、謝らなくて! 今はもう別の学校だし。……じゃあ、うちらこれから部活の買い出しあるから。またね、藤川さん! 頑張ってね!」

 

 嵐のような彼女たちが、笑い声を残して去っていく。

 

 遠ざかる都会的な制服の背中を見送りる。

 沈黙が、重く俺達の間に降り積もる。

 

 藤川の方を盗み見ると、彼女は指が白くなるほど強く握りしめたままだ。

 

 「……聞いてました、よね」

 

 不意に顔を上げた彼女と、視線がぶつかる。その瞳の端には、夕刻の光を反射する微かな潤みが溜まっていた。

  

 「ああ……」

 

 短く応えると、それ以上の言葉は続かなかった。

 

 二人の間に横たわる沈黙を、急速に温度を下げた夕風が通り過ぎていく。先ほどまでの爽やかさはどこにもなく、今はただ、ひどく冷たかった。

 

 さっきまで心地よく頬を撫でていたはずの夕風が、今は衣服の隙間から入り込み、ひどく冷たく感じられた。

 

 藤川が静かに口を開く。

 

 「私、中学の時はバレー部のキャプテンだったんです。当時は勝つことしか考えてなくて……自分の『当たり前』を、他の子たちにも押し付けて。それで、チームをバラバラにしちゃった」

 

 自嘲しようとして失敗した、泣き出しそうな笑顔。

 

 先ほど彼女が口にした「バレー部のメニュー」への不安が、ただの技術的な相談ではなく、彼女の過去の傷跡そのものだったのだと理解した。

 

 彼女は恐れていた。

 自分一人だけが熱を帯びて、また誰かを巻き込んで自滅させてしまうことを。

 

「だから、芹沢くん。ごめんなさい。……私、自分の都合で、君を振り回しちゃいました」

 

 向けられた言葉は、先ほどの女子生徒たちに対するものよりも、ずっと深い後悔の色に染まっていた。その響きが、あまりに痛切で目を逸らしたくなるほどに。

 

 ただ、俺にはどうにも腑に落ちないことがあった。

 

 「つまんないことで立ち止まんな」

 

 俺の言葉に、藤川が弾かれたように顔を上げた。

 まだ震えの止まらない彼女の瞳が、俺を捉える。

 

 「……え……?」

 

 「ついてこれないようなヤツらは、置いてっちまえよ。少なくとも俺は、半端じゃない熱意と覚悟で物事に取り組むヤツは嫌いじゃない」

 

 感情を抑えた、努めて淡々とした声で言葉を継ぐ。

 

 さっきの女子生徒たちが言ったことは、きっと彼女たちなりの真実なのだろう。だが、

 

 「今のバレー部のやつらは、お前についてきてくれてるんだろ?」

 

 一瞬、彼女が息を呑むのが分かった。

 

 「隣で戦ってくれるヤツがいる。なら、あんなつまんねぇ外野の言葉に立ち止まってる暇なんてないだろ」

 

 そこまで一気に言い切ると、俺はまだ残っていたスポーツドリンクを最後の一口まで流し込んだ。

 

 空になったボトルが、ペコ、と頼りない音を立てる。

 

 沈黙が数秒、公園の空気を満たした。

 

 やがて、藤川がゆっくりと、深く息を吐き出した。

 白くなるほど握りしめていた指先から、不自然な力が抜けていく。

 

 「……芹沢くんは」

 

 彼女の声が、さっきまでの掠れた響きを捨て、少しだけいつもの明るさを取り戻していた。

 

 「……本当に、欲しい時に欲しい言葉をくれますね。ありがとうございます。……急に元気が出てきちゃいました」

 

 そう言って向けられた笑顔は、まだ少しだけ無理をしているようにも見えたが、その奥にある瞳には、確かに小さな火が灯り直していた。

 

 「今のちょっとかっこよかったですよ? そうやって、色んな女の子を口説いてきたんですか?」

 

 藤川が、いたずらっぽく目を細めて覗き込んできた。

 

 さっきまでの消え入りそうな空気はどこへやら、いつもの少し調子のいい彼女が戻ってきている。

 

 「そんな遊び人に見えるか?」

 

 俺は心底意外だという思いを込めて、顔をしかめてみせた。

 

 中学時代はただの帰宅部、今だってこうして良いようにトレーニングに付き合わされている身だ。どこをどう見ればそんな余裕のある人種に見えるのか。

 

 「はい。だって芹沢くん、普通にイケメンですもん」

 

 さらりと、本気か冗談か判別しづらいトーンで言ってくる。

 

 正面からそんなことを言われると、どう反応していいか分からず、俺は視線を不自然に泳がせた。

 

 「……見る目がなさすぎやしないか?」

 

 「ふふっ、そうですかねぇ? いつも可愛い女の子二人に囲まれながら帰ったりする時があるのに。――あれ、私の気のせいですか?」

 

 藤川が、意味深な笑みを浮かべて小首をかしげる。

 心臓が少しだけ、変なリズムを刻んだ。

 

 ……もしや、ココアや千夜のことを言っているのか?

 

 放課後、時折ラビットハウスの面々と一緒に歩くことがある。

 

 彼女たちのあの天真爛漫な明るさと、独特な華やかさは、確かに遠目からでも相当に目立つだろう。

 

 「あー……あれは、その」

 

 「あ、やっぱり自覚アリなんですね。エスコートの練習とかもしなきゃいけないんじゃないですか?」

 

 「だから、そういうんじゃないって……」

 

 「はいはい、そういうことにしておきますね」

 

 「……お前、元気になった途端に口が回りすぎだろ」

 

 呆れながらも、俺は彼女の横を歩き出した。

 

 夕暮れの街灯が点り始める中、藤川はまた楽しそうに自転車のベルをチリンと鳴らし、俺の少し前を歩んでいく。

 

 その背中を見ながら、俺は内心で、ココアたちの顔を思い出しては、また少しだけ頭を抱えたくなった。

 




ここまで読んで頂きありがとうございます!

次回に続きます!

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