ご注文はうさぎです!Re 作:新生兎丸
シャロと別れた後、俺はラビットハウスへと続くいつもの道を真っ直ぐ歩いていた。
いつの間にか、通りを吹き抜ける風が随分と冷たくなっている。首元を抜ける冷気に思わず身震いし、ポケットの奥へと両手を突っ込んだ。
夕暮れに染まる石畳の街並みは相変わらず綺麗だが、肌を刺す空気はもう完全に冬の到来を告げている。そろそろクローゼットの奥からマフラーを引っ張り出してこないと。
そんなことをぼんやりと考えていると、ふと現実的な問題が脳裏に浮かぶ。
「はぁ……」
口から漏れた白い息と一緒に、重苦しいため息がこぼれ落ちた。
頭を過ったのは、間近に迫ったテストの三文字だ。これからラビットハウスに帰った後、机に向かってペンを握らなければならないと思うだけで、急激に足取りが重くなる。
今回のテストはとにかく範囲が広すぎるのだ。
要領よくこなそうにも限度があるし、ここから先の数日間、睡眠時間を削って勉強に追われるのは火を見るより明らかだった。必然的に長くなるであろう机とのにらめっこを想像し、俺は盛大にげんなりとしていた。
自室のドアを開けると、そこにはしんと静まり返った空間が広がっていた。
階下のラビットハウスは、すでに看板を降ろして今日の営業を終えている。いつもなら店内に満ちている芳醇な珈琲の残り香も、今は心なしか薄れ、建物全体が深い眠りにつこうとしているかのようだった。
今日はおそらく、リゼとチノが店を回していたはずだ。テキパキと指示を出すリゼと、それに静かに従うチノの姿が目に浮かぶ。
しかし、どういうわけか邸内には二人の気配が全くなかった。フットワークの軽いリゼならともかく、あのインドア派なチノまで姿がないのは少し奇妙だ。
二人でどこかに出かけたのだろうか?
明日の買い出しにでも行ったのか、あるいはリゼがチノを気分転換にでも連れ出したのか。そんな他愛のない疑問が頭をよぎる。
だが、そんな思考に浸っていられる余裕は、今の俺には一秒たりとも残されていなかった。
机上の戦場、迫るタイムリミット。
パチリ、とデスクライトのスイッチを入れる。白い光が容赦なく机の上を照らし出し、俺は大きくため息をつきながら、分厚い英語の参考書を開いた。
めくったページにびっしりと並ぶのは、容赦のないアルファベットの羅列だ。複雑に絡み合う構文、暗記すべき膨大な英単語の数々。それらが一斉に、俺のキャパシティを超えかけた脳細胞へと襲いかかってくる。
「……いや、集中しろ、俺」
頬を両手で軽く叩き、意識を無理やり目の前のテキストへと引き戻す。
チノたちの行方に対する小さな好奇心も、さっきまでシャロと過ごしていた時間の余韻も、今はすべて心の奥底に押し込めなければならない。迫りくる試験のプレッシャーが、見えない刃のように俺の背中をチクチクと刺激していた。
ブツブツと掠れた声で英文を音読し、ペンを握る指先に力を込めてノートに呪文のように書き殴っていく。
一行、また一行と、単語を脳の引き出しに強引に叩き込んでいく。静まり返った部屋の中に、カリカリとシャーペンが紙を引っ掻く音と、時折めくられるページの音だけが、やけに大きく響いていた。
集中し始めて、どれくらいの時間が経った頃だろうか。
張り詰めた糸のようだった集中力の中で、英文の海を泳いでいた俺の意識が、突如として現実の自室へと引き戻された。
静寂に包まれていた部屋を切り裂いたのは、机の端で激しく震えだしたスマートフォンの無機質な振動音だった。ウッド調の天板と擦れて、ブー、ブーと不快な音が夜の空気に響き渡る。
「……いいところだったのに」
思考の歯車を急に止められた苛立ちを隠せないまま、俺は渋々ペンを置き、青白く光る画面へと目を落とした。そこに表示されていたのは、お馴染みの、しかしこのタイミングにおいては最も歓迎したくない、たった二文字の登録名だった。
連絡主は、母親。
珍しく息子が、誰に強制されるでもなく自発的に集中し、机に向かって勉学に励んでいると言うのに。なんてタイミングの悪い血縁者だろうか。
ここで無視すれば、後から「なんで出ないの!」と何十倍にも膨れ上がった説教の追撃が来るのは目に見えている。俺は諦めて小さくため息をひとつつくと、通話ボタンを押す。
「もしもし?」
極力、今忙しいんだぞという不機嫌さをにじませた声で応じる。だが、スピーカーから聞こえてきたのは、そんな息子の微々たる抵抗などどこ吹く風といった様子の、妙に呑気で、それでいてすべてを見透かしているかのような母親の声だった。
『あ、出た。ちゃんと勉強してる?』
開口一番、それかよ。
挨拶もそこそこに投げかけられた直球の質問に、思わず天を仰いだ。
どんだけ息子に信用を置いていないんだか。確かに、普段の俺の行いが100%清廉潔白で勤勉だったかと言われれば、多少の耳の痛さはある。だが、今日、この瞬間ばかりは紛れもない冤罪だ。必死に英文を頭に叩き込んでいた俺の努力を、一瞬で霧散させるような台詞だった。
「現在進行形でな。んで、どうしたの?」
手元のノートに視線を落とす。そこには、さっきまでカリカリと音を立てて書き殴っていたアルファベットの羅列と、いくつもの殴り書きの和訳が並んでいる。これが何よりの証拠だと言わんばかりに、言葉にトゲを混ぜて返した。
しかし、電話の向こうの母親は、フッと鼻で笑うような気配を漂わせる。
『あんたが勉強~?怪しいわね。どうせ机の前に座って、漫画でも読んでるか、スマホでゲームでもしてるんじゃないの?』
「ほ、本当だって……良いから。用件は?」
図星を突かれたわけでもないのに、疑いをかけられた悔しさからか、なぜか少し声が上ずってしまった。これでは余計に怪しまれる釈明のようになってしまって、心底癪に障る。
俺はコホンと一つわざとらしい咳払いを挟み、無理やり話題を本筋へと引き戻そうとした。これ以上からかわれて、せっかく温まっていた脳のエンジンを完全に冷まされるわけにはいかない。早く用件を聞き終えて、このタイミングの悪い通話を終わらせたかった。
『永菜ちゃんがあんたのとこの学校に転校するらしいわ』
受話器の向こうから、まるでお天気の世間話でもするかのような気軽さで放たれたその言葉に、俺の思考は完全にフリーズした。
脳裏をよぎったのは、見覚えのある、しかしここ最近はずっと遠ざかっていた一つの面影だ。
「永菜……?あー、あの隣に住んでた」
記憶の引き出しの奥からどうにかその名前を手繰り寄せ、呟くように返す。実家にいた頃、文字通り壁一枚隔てた隣の家に住んでいた同い年の少女。端正な顔立ちと、どこか掴みどころのない雰囲気が印象的だった彼女の姿が、一瞬で脳裏に蘇る。
『あーって、あんたの幼馴染みでしょ?』
母親の、あからさまに呆れたような声が鼓膜を震わせた。
「お、幼馴染みって言うほどの距離感でも無かったろ……」
『なに言ってるのよ。中学の頃も小学校の頃も毎日一緒に登校してたじゃない』
「毎日だなんて大袈裟な……ほとんど一人で帰ってたよ」
登校時こそ家が出るタイミングが同じだからーーというより、あっちがなぜか毎朝俺の家の門の前で待っていた気がするが、放課後はまるで違った。
彼女はいつも多くの人に囲まれていて、俺はといえば、そんな輪から逃げるようにして大抵一人でさっさと家路についていたのだ。だから、世間一般で言う「幼馴染み」のような、甘酸っぱくて距離の近い関係だったかと言われると些か疑問だった。
しかし、母親の言い分は全く違ったらしい。電話の向こうで、大袈裟に肩をすくめるような気配が伝わってくる。
『うわーヤダヤダ。息子ながらに、もうちょっと何かないもんだか。え!?あの美少女幼馴染みとまた会える!?とか喜んだりしなさいよ』
「いや、確かにアイツモテてたけどさ……」
そこは否定できない。
永菜は昔から、男子生徒たちの視線を一身に集めるような、それこそ学校でも一際目立つタイプの美少女だった。俺みたいな地味な奴が隣に並んで歩いていること自体、周囲からすれば奇妙な光景だったに違いない。
『永菜ちゃんがあんなに一途にあんたにアプローチしてるの見て、本当に申し訳なく思ってたのよ。こんな無愛想なクソガキでごめんねって。永菜ちゃんのお母さんに何度頭を下げそうになったか』
「実の息子に向かってクソガキって言った!?」
あまりの暴言に、思わず声を荒げてしまった。いくらなんでも身内に対する評価が辛辣すぎやしないだろうか。
『事実でしょ』
「いや、さも当然かのように言われましても……」
あっさりと一蹴され、俺はぐうの音も出ない。相変わらずこの母親には口で勝てそうにない。俺は一度深くため息をつき、頭を振って本題へと意識を戻した。
それにしても、だ。
わざわざこのタイミングで、俺の通う学校に転校してくる理由が分からない。
「はぁ。それで?なんでまたこっちに?あいつ、確か結構良いとこに通ってなかったっけ?」
彼女の進学先は、誰もが名前を知っているような、格式高い私立の有名校だったはずだ。わざわざそこを辞めてまで、俺のいる普通の学校に来るメリットなんてどこにもないはずなのに。
すると、母親はフッと冷ややかな笑いを含んだ声で、現実を突きつけてきた。
『良いも何も、あんたが100回生まれ変わっても通えないような所よ』
「はは。流石に言い過ぎ……」
……あれ? 反論が来ない。
『…………』
受話器の向こうは、不気味なほどの完全な静寂。ただの冗談だと言って笑い飛ばしてくれるのを待っていたのに、母親は呼吸の音すら潜めて、徹底的な「無言」で俺の言葉を肯定していた。言葉以上に重い、完全な肯定の沈黙。
「なんか言ってよ……!」
耐えかねて叫んだ俺の声が、虚しく自室に響き渡った。
『それより』
「話強引に戻したな……」
俺の情けない抗議を無視して、母親はさっきまでのコミカルな調子から一転、少しだけ声を潜めた。
『永菜ちゃんのこと。よろしく頼むわね』
「頼むって……だから、そもそもなんであいつがこっちに転校してくるのかまだ聞いてな――」
『それは永菜ちゃんから直接聞きなさい。じゃ、しっかり勉強に戻るのよ』
「あ、おい! ちょっと待っ……クソ、切りやがった……!」
一方的に通話を終了され、無機質な切断音だけを響かせる画面を睨みつける。
結局、肝心な理由は何も分からないままだ。実の息子を煽るだけ煽り、特大の爆弾だけを投げつけて嵐のように去っていったあの母親には、本当に一度、説教というものを小一時間ほど食らわせてやりたい。
「はぁ……。直接聞け、ねぇ……」
携帯を机に放り出し、椅子の背もたれに思いきり体重を預けた。
天井の白いクロスを見つめながら、脳裏に浮かぶのは明日の光景だ。幼馴染みが、俺の通うごく普通の学校にやってくる。
「……いや、ダメだ。考えても今はどうしようもない」
迫りくる憂鬱を強引に振り払い、俺は再び視線を机の上の参考書へと戻した。
複雑な構文の羅列。暗記すべき単語の山。
数分前よりも確実に集中力は削がれてしまったが、それでもタイムリミットが迫っていることに変わりはない。俺は再びシャーペンを握り直すと、今度は少し八つ当たり気味に、ノートへ文字を書き殴り始める。
外は、相変わらずしんと静まり返っていた。
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