ご注文はうさぎです!Re 作:新生兎丸
「もう無理!」
勢いよくシャーペンを放り出し、椅子の背もたれに思いきり体を預ける。
あれからおよそ三時間。
いくら途中で小休止を挟んだとはいえ、詰め込みすぎたアルファベットのせいで脳細胞が完全に悲鳴を上げていた。ふと壁の時計に目をやると、針はすでに夜の十時を回っている。
「……まさか、ここまで集中が持つとはな」
『フルール・ド・ラパン』でのバイトを終えて帰宅した過酷なスケジュールを考えれば、我ながら大健闘だ。誰も褒めてくれないので、心の中で自分に最大の賛辞を送っておく。
――コン、コン。
そのとき、静まり返った部屋に控えめなノックの音が転がった。
「……? どうぞー」
「こんばんは、ジンさん」
ドアが静かに開き、ひょっこりと顔を覗かせたのはパジャマ姿のチノだった。少し眠たげな目に、お馴染みのティッピーを頭に乗せていない、少し無防備な夜の装い。
「あ、チノ。おかえり。店を閉めたあと、どこか出かけてたのか? 気配がなかったからさ」
「はい。今日はマヤさんとメグさんが泊まりに来ていて、お店を手伝ってもらったんです。そのあと……みんなでプールに行っていました」
「あー、だから帰ってきたタイミングで誰もいなかったんだな。合点がいったよ」
納得してうなずきつつ、俺は椅子の上で体の向きをチノへと変えた。
「それで? どうしたんだ、こんな時間に。何か用事でも?」
「えっと、その……マヤさんとメグさんがチェスを始めてしまって。二人の邪魔をしたら悪いなと思って、ジンさんのところに来ました」
「あはは、邪魔になるなんてことはないと思うけどな」
三人の仲の良さを思い浮かべ、俺が苦笑しながら言うと、チノはもじもじとパジャマの裾をいじりながら俯いてしまった。
「ほ、本当は……」
「ん?」
蚊の鳴くような声に耳を澄ませる。
チノは上目遣いに俺をじっと見つめると、ほんのりと頬を桜色に染めて、意を決したように言った。
「……隙を見て、ジンさんに構ってもらおうと思って来ました」
あっ、尊死……。
「俺なんかで良ければ、いくらでも」
勉強の疲れも、明日への憂鬱も、チノのあまりの破壊力の前に一瞬でどこかへ吹き飛んでしまった。
俺は椅子から立ち上がると、部屋のベッドへと移動して腰掛ける。そして、自分のすぐ隣のシーツを、ポンポンと軽く手で叩いて彼女を促した。
「勉強、してたんですか?」
促されるまま、チノが少し緊張した面持ちでベッドに腰掛けてくる。
わずかに沈み込むシーツと、ふわりと鼻腔をくすぐる石鹸のような優しい香り。先ほどまで一人で英文と格闘していた殺風景な部屋が、彼女が隣にいるだけで一気に色づいたような気がした。
「まあな。さすがに疲れたよ。柄にもなく、何時間もぶっ続けで集中しちゃったからな」
苦笑しながら首の後ろを揉みほぐす。そんな俺の様子を、チノは大きな瞳を少し揺らしながら、じっと見つめていた。
何かをためらうように小さな唇を何度か動かしたあと、彼女はスカート風のパジャマの裾をきゅっと整え、
「そ、それなら……ここに、頭を乗せてください」
「え?」
見れば、チノは小さく折り曲げた自分の太もものあたりを、さっきの俺の真似をするようにポンポンと、おぼつかない手つきで軽く叩いていた。
ひ、膝枕だと……!?
まさかチノの口からそんな魅惑のワードが飛び出すなんて、完全に想定外だった。
赤面する彼女の様子を見るに、相当な勇気を振り絞って、らしくない提案をしてくれたに違いない。ここで俺がヘタにドギマギして断ったりしたら、それこそチノに恥ずかしい思いをさせてしまう。
ここは男として、お言葉に甘えるのが正解だ。
「ありがと、チノ。じゃあ、遠慮なく……」
ベッドの上でゆっくりと体勢を横たえ、チノの膝へと恐る恐る頭を預ける。
――柔らかい。
頭越しに伝わってくる、女の子特有の優しくて、信じられないほど柔らかな感触。パジャマの生地を透かして、チノの体温がじわじわと俺の頭へと染み込んでくるようだ。あまりの心地よさに、逆に緊張で全身がガチガチに強張ってしまう。
「お、重くないか……?」
チノの顔を見上げる形になるのが気恥ずかしく、あえて視線を逸らしながら尋ねる。
「いえ。全然そんなことないですよ。思っていたよりも軽くて、びっくりしています」
チノは小さく微笑むと、俺の髪にそっと細い指先を絡ませてきた。
「ジンさんの髪って、結構サラサラしてるんですね」
「そうか? 自分じゃあまり気にしたことなかったけど……」
「はい、とても心地いいです」
髪を梳くような手つきから、今度はゆっくりと頭を撫でる動きへと変わる。優しく規則的なそのストロークが、硬くなっていた俺の身体をじんわりと解きほぐしていった。
「今日は……シャロさんのところにお手伝いに行ってたんですよね?」
チノは俺の頭を撫で続けながら、思い出したようにぽつりと言った。
「ああ、まあね。参ったよ。フルールが想像以上に大盛況でさ、本当に目が回るかと思った」
「でも、シャロさんはとても助かったと思いますよ。ジンさんのこと、頼りにしてると思いますから」
「確かに、あの混み具合は一人で捌ききれる量じゃなかったな。手伝えて良かったよ」
「ふふ、そうですね。一日、本当にお疲れ様でした。ジンさん」
チノのどこか誇らしげで、それでいて慈愛に満ちた声が鼓膜を優しく揺らす。
天井の明かりを遮るようにして俺を見つめるチノの瞳は、まるで年の離れた弟をあやす姉のように温かい。
フルールでの激務。その後の、脳が焼き切れるような三時間の猛勉強。
チノの優しい手のひらから伝わる極上の癒やしに包まれているうちに、これまで張り詰めていた緊張の糸が、音を立ててぷつりと切れた。無意識のうちに溜め込んでいた疲労が一気に噴き出し、抗いようのない強烈な眠気が、波のように俺の意識をさらいにやってくる。
視界がゆっくりと、頼りなく霞んでいく。
「ジンさん、寝ちゃっても大丈夫ですよ。私のことは気にしないでください……」
ウトウトと舟を漕ぎ始めた俺の様子を覗き込むようにして、チノが耳元でそっと囁いた。
その声音は、夜の静寂に溶けてしまいそうなほど、どこまでも優しかった。
私の膝の上で、ジンさんの長い睫毛がゆっくりと震え、そのまま静かに閉じられました。
やがて、すー、すー、と、静寂に包まれた部屋に規則的な寝息が響き始めます。
パジャマの生地を通して、ジンさんの頭の心地いい重みと、温かな体温がじわりと私の太ももに伝わってきます。その温もりがなんだかくすぐったくて、私の心臓はさっきからトクトクと、少しうるさいくらいの音を立てていました。
「……ジンさん?」
起こさないように、小さな声でそっと名前を呼んでみましたが、返事はありません。完全に夢の中へ行ってしまったようです。
下を向いて覗き込むジンさんの寝顔は、いつもより少しだけ疲れた色を滲ませていました。
いつもは近寄りがたい雰囲気を出していて、けれど私達が困っているときはいつの間にか隣にいて助けてくれる、とても頼もしいジンさん。そんな彼がこんな風に無防備で、弱り切った顔を見せるなんて、本当に珍しいことです。
お昼はフルール・ド・ラパンでお仕事をたくさん頑張って、夜はこんな遅くまで、あの難しい英語の本と格闘していたのですから、無理もありません。
胸の奥から溢れてくる愛おしさと、ほんの少しの独占欲のような不思議な気持ちに突き動かされるようにして、私はジンさんの黒い髪を、再び優しく撫で始めました。サラサラとした柔らかな髪が、私の指先を滑り落ちていきます。
私の部屋でチェスをしているマヤさんとメグさんには、少し悪いことをしてしまったかもしれません。
でも、今だけは……この優しくて頑張り屋なジンさんを、私だけで独占させてほしかったのです。
髪を梳き、心地いい頭の輪郭をなぞるように、何度も、何度も、慈しむように手のひらを動かし続けます。ジンさんの表情が、心なしか少しだけ和らいだように見えました。それを見て、私の口元にも自然と小さな笑みがこぼれます。
ここでようやく理解した。
私がジンさんに抱くこの感情が、恋というものであることに。
胸の中でトクトクと刻まれる不規則な鼓動が、その決定的な答えを告げていました。
これまでにも、ジンさんが他の女の子――ココアさんやリゼさん、千夜さんに、そして今日手伝いに行っていたというシャロさんと楽しそうに話しているのを見るたび、胸の奥が少しだけチクりと痛む時がありました。
そのたびに、私はそれを「お兄さんを他の人に取られたくない、子供っぽい我が儘」なのだと言い聞かせ、心の隅に押し込んできたのです。
でも、違いました。
私の膝の上で無防備に眠るジンさんの顔を見つめ、その柔らかな髪に触れている今なら、はっきりと分かります。私は、ジンさんの特別になりたかった。他の誰でもない、私だけのジンさんでいてほしかった。
この温もりを、この優しい笑顔を、誰にも渡したくないと願ってしまうほど、私は――。
「ジンさん……好きです」
眠っている彼には届かない、小さな、小さな告白。
自覚してしまった瞬間から、私の頬は一層熱さを増し、ジンさんの頭を撫でる指先が、ほんの少しだけ震えてしまいます。
けれど、その震えを悟られないように、私はもう一度ゆっくりと、愛おしさを込めて彼の髪を梳きました。
まだ、この気持ちをジンさんに伝える勇気はありません。
伝えてしまえば、今のこの心地いい関係が変わってしまうかもしれない。それが、少しだけ怖いのです。
だから、今はまだ、この静かな夜の部屋の中にだけ、私の秘密を閉じ込めておくことにします。
「ジンさん……」
ゆっくりと、本当にゆっくりと、私はジンさんの顔へと自分の唇を近づけていきました。
自分の心臓の音が、まるで耳元で鳴り響いているかのように大きく、うるさく跳ねています。
もしジンさんが目を覚ましてしまったらどうしよう――そんな恐怖や羞恥心よりも、「もっと近くにいたい」という抑えきれない衝動が、私の身体を動かしていました。
ジンさんの唇が、すぐ目の前に迫ります。
息を吸うことすら忘れてしまうほどの緊張の中、私はそっと目を閉じました。
触れるだけの、本当に静かで、短いキス。
重なり合った一瞬、ジンさんの温かな体温と、かすかな珈琲の香りが私の中に溶け込んできました。まるで魔法をかけられたかのように、世界からすべての音が消え去り、二人の時間だけが止まったような錯覚を覚えます。
名残惜しさを引きずるようにして、ゆっくりと唇を離しました。
「っ……あぁ……」
途端に、我に返ったかのように猛烈な恥ずかしさが押し寄せてきます。
顔から火が出るのではないかと思うほど頬が熱くなり、私は思わず両手で自分の顔を覆ってしまいました。眠っている相手に、合意もなくこんなことをしてしまうなんて。
いつもの私なら、絶対に「不潔です」「最低です」と自分を激しく責め立てていたはずです。
けれど、指の隙間から覗き見るジンさんの寝顔は相変わらず穏やかで、私の小さな暴挙に気づく様子は微塵もありません。その変わらない安らかな表情を見て、胸の奥がキュンと切なく締め付けられると同時に、どうしようもない幸福感が満ちていくのを止められませんでした。
これは、誰にも言えない私だけの秘密。
ジンさんが目を覚ます、明日の朝が来るまでは、この膝の上の温もりと一緒に、大切に抱きしめていようと思います。
「ごめんなさいジンさん。私は……とっても悪い子です……」
両手で顔を覆ったまま、指の隙間からこぼれ落ちたのは、小さな懺悔の言葉でした。
普段、みんなの前では「しっかり者」でいようと背伸びをしているのに。ジンさんの前だと、どうしてこんなにも子供っぽくて、ワガママな自分が顔を出してしまうのでしょう。
そればかりか、無防備に眠っていることに乗じて、こんな大胆なことまでしてしまうなんて――。
皆さんが知ったら、きっと驚いて目を丸くするに違いありません。それくらい、今の私は自分でも信じられないほど、独占欲でいっぱいの「悪い子」でした。
けれど、押し寄せる罪悪感と同じくらい、胸の奥にはトロンとした甘い幸福感が残り続けています。
唇に残るジンさんの確かな熱量が、これが夢ではないのだと、私の恋心を優しく肯定してくれているようでした。
「もうしばらく、このままでいさせてください」
私はゆっくりと顔から手を離すと、熱を持った自分の頬を冷ますように、トクトクと脈打つ胸元に手を当てました。
もう一度見下ろしたジンさんの寝顔は、相変わらず穏やかで、私の小さないたずらをすべて許してくれているかのように優しく見えます。
私はそっと息を整え、起こさないように細心の注意を払いながら、再びジンさんの柔らかな黒髪に指先を滑らせました。
時計の針は、もうすぐ次の時間を刻もうとしています。
マヤさんやメグさんの待つお部屋に戻らなければいけない時間は、刻一刻と近づいていました。
だけど、あとほんの少しだけ。
この街の誰もが眠りについた静かな夜の中で、私は「悪い子」のまま、大好きな人の温もりをその肌に刻み込んでいました。
次回に続きやす!
オリジナルキャラクター紹介の欄に、花深と藤川の挿し絵を追加しましたので、是非見てみて下さい~!
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