ご注文はうさぎです!Re 作:新生兎丸
「それじゃあボクはこっちなので」
いつもの分かれ道に差し掛かり、花深が自分の家へと続くルートを指差した。
嵐のような永菜の襲撃からようやく解放され、いつもの落ち着きを取り戻した彼女の顔には、心なしか少しだけ安堵の色が浮かんでいるように見える。
「ああ」
短く応じ、俺は軽く手を振りながらラビットハウスのある方向へと踵を返した。
これで今日という一日もようやく平穏に終わる。そう思って数歩ほど歩き出した時、背後から少し遠ざかった花深の声が俺の名前を呼んだ。
「芹沢さ~ん!」
呼び止められて振り返ると、街路樹のふもとで、花深がちぎれんばかりに大きく両手を振っている姿が目に飛び込んできた。
「また学校で~!」
「気を付けて帰れよ~! またな~!」
いつもなら「おう」と手を挙げる程度で済ませるところだが、今日は災難に巻き込んでしまった花深への労いも込めて、俺も少し声を張り上げて別れの挨拶を返した。
俺のそんな様子を見た花深は、どこか満足そうな、今日一番の笑顔を作ると、今度こそ弾むような足取りで自分の道を歩き出していった。
その背中が小さくなり、曲がり角の向こうへと完全に見えなくなるまで、俺はしばらくその場に佇んで見送る。よし、これで本当に解散だ。
一息ついて、俺もラビットハウスへと帰るべく、再び身体を反転させた。その瞬間――
「お疲れ様です。ジンさん」
「うおっ!?ち、チノ!?」
突然、静けさを切り裂くように背後から声をかけられ、俺の心臓は文字通り跳ね上がった。
驚きに目を見開きながら勢いよく振り返ると、そこにはいつの間に近づいていたのか、学校の制服姿のチノがちょこんと佇んでいた。
「き、奇遇だな。この時間に帰るの珍しいな」
胸に手を当てて、激しく刻む鼓動を落ち着かせようと深く息を吐き出す。
だが、チノはそんな俺の動揺などどこ吹く風といった様子で、街路樹の道をじっと見つめていた。その視線の先は、つい先ほど花深が曲がっていった角の方向だ。
「驚かせるつもりはありませんでした。ただ、ジンさんがずいぶんと大きな声を出して、熱心に手を振っていらしたので。……声をかけるタイミングを見計らっていただけです」
「あ、いや、それはだな……」
チノのどこかジト目を含んだ冷ややかな視線が、今度はまっすぐに俺へと向けられる。
普段の彼女よりも、心なしか少しだけ声のトーンが低いような、あるいはただの気のせいか。
「ずいぶんと親しげな様子でしたね。学校の、お友達ですか?」
一日の終わりに訪れたこの奇妙な尋問のような空気に、俺は額に冷や汗が伝うのを感じながら、どう説明したものかと頭を悩ませる。
「友達……ていうか、付きまとわれてるだけと言うか……」
俺は後頭部を掻きながら、視線を斜め上へと逸らした。
嘘を言っているわけではない。
ただ、俺から進んで関わりに行ったわけではなく、基本的にはあちらから嵐のようにやってきて、なし崩し的に巻き込まれているのが実情だ。
だが、そんな俺の必死の弁明も、チノの耳にはあまり響いていないようだった。
彼女は小さく息を吐くと、空の光を反射する瞳をわずかに細め、淡々とした、しかしどこか冷徹な響きを含んだ声で言葉を継いだ。
「なんだか、ジンさんには女性の知り合いの方がとっても多い気がします」
「そ、そんなこと……あるかもしれないけど、気にするところか?」
図星を突かれたような、あるいは理不尽な罪悪感に駆られたような、妙に歯切れの悪い声が口から漏れる。
実際、ココアや千夜、シャロとリゼをはじめ、俺の周囲にはなぜか賑やかな女子の姿が多い。それは否定できない事実なのだが、まさかチノの口から「女性の知り合い」なんて単語が飛び出してくるとは思わなかった。普段の彼女なら、他人の交友関係にここまで踏み込んでくることは珍しいからだ。
俺の焦りを見透かすように、チノは一歩、すっと歩み寄ってきた。
「あんな風に、ジンさんが声を張り上げているところ初めて見ました」
チノの声はどこまでも静かだったが、だからこそ、その言葉の裏にある「何か」が、ずしりと俺の胸に重くのしかかる。
俺が何をしていようと一歩引いたところにいる彼女が、今は明らかに違っていた。
「いつもは、ココアさんたちが騒いでいても、面倒くさそうに生返事をするだけなのに。……あの方には、ずいぶんと自発的に、大きな声で挨拶を返してあげるんですね」
「それは……ほら、今日はあいつに色々と災難というか、苦労をかけちまったからさ。その、労いっていうか、お詫びの気持ちも含めてだな……」
言葉を重ねれば重ねるほど、自分が怪しい言い訳を並べ立てる容疑者のように思えてくる。
チノのジト目はさらに深まり、まるで冷たい夜露を帯びたかのような静けさで俺を射抜いていた。その表情は、怒っているというよりは、何か割り切れない感情を胸の奥で燻らせている、子供特有の拗ね方に近い。
「……別に、私が気にすることではありません。ジンさんが学校で誰と親しくしていようと、どうせ私には関係のないことです」
ツンとそっぽを向き、チノはそれきり口を噤んでしまった。
だが、その小さな肩は心なしか少しだけ強張っているように見える。
「チ、チノ……?」
声をかけるが、彼女はそのまま、いつものすたすたとした足取りでラビットハウスの方向へと歩き出してしまった。
どうしよう……。
全く彼女が不機嫌になった原因が分からない。俺が花深と仲良くしていたからなんだろうが、何故それに対して怒るのか俺の理解が全く及ばない。
少しだけ早足になったチノの背中を追いかけながら、俺は少し迷ったが、そっとチノの手を握った。
「っ!? じ、ジンさん……!?」
案の定、チノは弾かれたように驚き、歩みを止めた。
驚きのあまり、チノはビクッと肩を大きく震わせた。そして、信じられないものを見るような目でこちらを見上げてきたが、俺と視線がしっかりと交わった瞬間、今度は顔中を瞬時に真っ赤に染めて、大慌てで視線を足元へと落とした。
繋いだ手のひらから、彼女の驚きと、急激に速くなった鼓動のような熱がダイレクトに伝わってくる。
「こうやって、女の子と手を握ったのはチノが初めてだ」
俺が少し照れ臭さを隠しながらそう呟くと、チノの身体がさらに小さく跳ねた。
嘘偽りのない本心だった。
今まで色々な騒がしい連中に振り回されてきたし、さっきの花深にしても、あくまで奇妙な縁でしかない。こんな風に、自分の意志で、特別な感情を込めて女の子の手を握るなんてことは、俺の記憶にある限り一度だってなかった。だから、俺は俺の初めてをチノに露にして機嫌を窺った。
チノは俯いたまま、じっと自分の靴の先を見つめている。
繋いだ手を振り払おうとする様子は全くなかった。それどころか、彼女の小さな指先が、躊躇うように、けれど確かな意思を持って、俺の手をぎゅっと弱々しく握り返してきた。
小さな手のひらから伝わる、ささやかで、けれど温かい拒絶のない包容。
「……悪い人です……」
蚊の鳴くような、今にも消え入りそうな声がチノの口から漏れた。その自覚は勿論ある。だが、それ以外にどうして良いか分からなかった俺を許してくれ。
俯いているせいで表情はよく見えないが、赤くなった耳たぶがやけに目立っている。
いつもは冷静で大人びた態度を崩さない彼女が、今はただの年相応の、それ以上に脆くて愛らしい女の子になっていた。
俺の、他愛のない、けれど決定的な行動に完全にペースを乱されてしまったのだろう。
「いつもそうです……。急に、私の知らないジンさんを見せてくる……」
消え入るような声で恨み言を呟きながらも、チノがその手を離すことはなかった。
むしろ、繋いだ手の強さはそのままに、彼女はほんの少しだけ、俺の身体の方へと寄り添うように距離を縮めてくる。
「ジンさん……」
「ん?」
「明日は……休みですもんね」
「そ、そうだな」
「今日……一緒に居てくれたら許してあげます」
「そ、それは一体ーー」
俺が言い終える前に「言葉通りの意味です」と言い切ったチノの瞳には、いつもの物静かな彼女からは想像もつかないほどの、強い光が宿っていた。
「今日はずっと私の隣に居て下さい」
「ーーきょ、今日のチノは随分と大胆だな~」
俺があははと笑いながら少しおどけて返すと、チノは冗談にされたのが不満だったのか、それとも本当に余裕がないのか、切実な顔をしてこちらをじっと見つめてきた。そのまっすぐな視線に射抜かれ、俺の乾いた笑いは喉の奥に引っ込む。
「わ、分かった。今日はずっと隣にいるよ」
俺のその言葉を聞いて、チノはホッとしたように、けれどまだどこか不安そうに、繋いだ手に少しだけ力を込めた。
最近、チノとの距離が今までより一層近くなってきている気がする。
だが、あの時のこと――「不潔」という言葉が発端となって生じてしまった、チノとの酷いわだかまり。あの件で、彼女を知らずに傷つけてしまっていたかもしれないという苦い後悔と罪悪感が、今も俺の胸の底には澱のように沈んでいる。その一件以来、俺は無意識のうちにチノに尽くし、彼女の願いを最優先で叶えようと動いてしまっていた。
だから、今の彼女の少し我が儘な、けれど愛らしい要求に対しても、俺の口から『ノー』という選択肢が出てくるはずもなかった。
◇
少し、ジンさんを困らせてしまっているでしょうか。
最近の私は、自分でもどうかしていると思います。
普段なら、ジンさんが別の女性と親しそうに話していても、心の中でほんの少しだけモヤモヤするだけで、それを表に出すなんて絶対にしませんでした。
なのに、今日の私はおかしいです。
たぶん、なりふり構っていられないのかもしれません。
ジンさんが他の女の子に、あんなにも楽しそうに、自分から大きな声を張り上げて手を振っているのを見た瞬間、胸の奥が冷たくて、けれどひどく熱い何かに支配されてしまいました。
気づけば、いつもの私なら絶対に言わないような、みっともない嫉妬の言葉をぶつけてしまっていて。さらに、ジンさんの手を引き留めるようにして、明日までずっと一緒にいてほしいなどと……。そんな我が儘、彼の都合も考えない、本当に子供じみた言い掛かりです。
ほんの少しだけ顔を上げて、ジンさんの顔を盗み見ます。
案の定、ジンさんは少し困ったように眉を下げていて、けれどその瞳には、私を突き放すような冷たさは微塵もありませんでした。そこにあるのは、ただひたすらに私を思いやり、気遣ってくれる、あの人特有の不器用な優しさ。
ジンさんは今も、あの「不潔」という言葉をめぐる私とのわだかまりを気に病んでいるのだと思います。もう解決しているのに、自分が私を傷つけてしまったと思っているから、そのお詫びとして、私の言うことなら何でも聞いてあげようとしている。
ジンさんが、人の頼みを断れない性格なのを、私は分かっています。その優しさにつけ込んで、彼と一緒にいる時間を無理にでも増やそうとしている――。
本当に悪いのは、私の方です。
けれど、それでも。
一度だけぎゅっと握り返してくれた、この手のひらの温もりを手放したくないと思ってしまうくらいに、今の私は、ジンさんで頭がいっぱいになっていました。
でも……やっぱりジンさんも悪いです。
急に私の手を握ってくるなんて。
あなたのことが大好きな女の子にそんなことをしてしまったら、その子がどうなってしまうか、考えたことはないのですか?
もっともっと、好きになってしまうんですよ?
これ以上あなたを好きになったら、本当に離れられなくなってしまいます。いつかジンさんが、私の知らないどこか遠くへ行ってしまうのではないかと、怖くてたまらなくなってしまうのに。
……なんて、心の中でまた、ジンさんの優しさのせいにしている自分がいます。
本当は、全部私の独占欲の裏返し。
差し出された手のひらの温もりに、ただ甘えていたいだけ。
「……ジンさん」
繋いだ手にほんの少しだけ力を込めると、ジンさんが不思議そうにこちらを見下ろしました。その優しすぎる瞳を見つめ返しながら、私は簡単にこの手を自分から離すことなんてできないのだと、胸の奥で静かに確信していました。
「その……ごめんなさい。急にあんな態度をとってしまって……」
「いや、俺もチノの事をしっかり理解してやれてなかった。未だに理由は分からないけど、その……ごめん」
「大丈夫です。結果オーライなので」
ジンさんの頭の上には疑問符が浮かんでいるのが目に見えます。
私は、繋いだ手をほんの少しだけ自分の胸元に引き寄せるようにして、俯きました。私の耳たぶは、自分でも分かるくらいに熱くなっています。
ジンさんは本当に分かっていないみたいで、申し訳なさそうに頭を掻いています。その不器用な誠実さに、また胸の奥がぎゅっと甘く締め付けられました。
「帰りましょう。今日はずっと一緒なんですから。時間が勿体ないです」
私は繋いだ手を今度は小さく前後に揺らしながら、ジンさんを促すように一歩を踏み出しました。
理由なんて理解しなくていい。ただ、私の我が儘に付き合ってくれるジンさんの優しさに、全力で甘えさせてもらおうと思います。
◇
「チノもジンも今日は少し遅いな」
リゼちゃんの言葉を聞き流し、カウンターに突っ伏したまま、自分でも何回目か分からない深いため息をこぼす。木目のテーブルに押し当てた頬が、なんだかじんわりと熱い。
「はぁ…………」
「どうした? そんなにため息ついて。いつものココアらしくもない」
カウンターの向こうでグラスを拭いていたリゼちゃんが、手を止めて少し心配そうに覗き込んできた。いつもの私なら「リゼちゃ~ん!」って抱きついているところだけど、今日ばかりはそんな元気も出なくて、もう一度深く、深くため息を重ねてしまう。
原因は、今日の学校の掃除時間の一幕だ。
いつも通りに声をかけてくれたジンくんの軽口に、私、どうしても上手く笑顔で返せなかったのだ。
「――っ、それもこれも、全部クラスの子のせいなんだから!!」
「うわっ、急に大声出すなよ。何がクラスの子のせいなんだ?」
「うっ……な、なんでもないよ」
呆れ顔のリゼちゃんには申し訳ないけれど、思い出すだけで心臓がバクバクして、頭がどうにかなってしまいそうになる。
掃除の直前の休み時間、クラスの友達にニヤニヤしながら、手をつつかれたのだ。『彼と付き合ってるの?』って。
一度そんな風に言われて意識してしまうと、もう駄目だった。ジンくんの姿を見ただけで、なんだか気恥ずかしくて、顔がカッと熱くなってしまって……。
だから、ジンくんがいつも通りに「ちゃんと真面目に掃除しろよ」ってからかうみたいに言ってきた時も、まともに顔を見られなくて、ツンとした態度でそっぽを向いちゃったのだ。
あんなの、私のいつものキャラじゃない。
ジンくんに嫌われちゃってたらどうしよう。本当は、もっと普通に、いつもみたいに楽しくおしゃべりしたかったのに……!
「……私のバカ。ジンくん、怒ってないかなぁ……」
カウンターに顎を乗せたまま、私はラビットハウスの天井を見上げて、今度は声に出して小さく呟いた。
「でも、くよくよしててもしょうがない!」
ガバッと勢いよくカウンターから顔を上げると、私は両手で自分の頬をパン、パンッ!と力任せに叩いた。
少しだけ痛みはあったけれど、これでよし。モヤモヤしていた気持ちに気合いを注入する。
ジンくんが帰ってきたら、今度こそいつも通りの、明るくて元気な私で迎えよう! うん、そうしよう!
そう心に決めて気合いを入れた、まさにその時だった。カランカラン、と小気味いい音を立てて、ラビットハウスの扉が静かに開かれる。
「あっ! ジンくん!」
待ってましたとばかりに声を弾ませて入り口に視線を向けると、そこには学校から帰ってきたジンくんの姿があった。
――けれど、私の視線は、彼の隣に佇む少女に釘付けになる。
ジンくんの少し大きな手のひらに、すっぽりと包まれるようにして握られている、小さくて白い手。
それは間違いなく、チノちゃんの手だった。
「ち、チノちゃん! ジンくんと手繋いでズルいー!」
思わずカウンターから身を乗り出すようにして、私は叫んでしまっていた。
すると、横で一部始終を見ていたリゼちゃんが、呆れたような、ツッコミを入れずにはいられないといったような顔で私を小突いてくる。
「ココア、そこは『ジンがチノと手を繋いでてズルい』じゃないのか?」
「あ……」
リゼちゃんの冷静な言葉に、私は我に返って口をあんぐりと開けてしまった。
しまった。あんなに意識して悩んでいたはずなのに、二人の仲睦まじい姿を見た瞬間、完全に頭のフィルターが吹き飛んで、つい本音がそのまま口から漏れちゃった……!
「じ、ジンくん! チノちゃんと手繋いでズルいー!」
あまりの動揺に、リゼちゃんのツッコミをそのままなぞるようにして、私は大慌てで言葉を言い直した。
クラスの子に言われた「付き合ってるの?」という言葉が頭の隅でぐるぐると回り、目の前の光景と重なって、心臓のバクバクがさっきの何倍にも跳ね上がっていく。
「……言い直した」
リゼちゃんは私の限界突破した取り乱しぶりに呆れつつも、すぐにその鋭い視線を、入り口で立ち往生している二人へと向けた。
「というか、二人とも……いつの間にそんなに距離が近くなったんだ? 普段のチノなら、いくらジン相手でも外で手を繋ぐなんて恥ずかしがりそうなもんだが……」
リゼちゃんのそのもっともな疑問に、真っ先に答えたのはジンくんだった。
「あ、ああ。もう手を繋いで帰るくらいの仲だ」
ふいっと視線を斜め上に逸らしながら、どこかぎこちないトーンで返答するジンくん。
ぶっきらぼうを装ってはいるけれど、何より声がいつもより少しだけ上ずっている気がする。あからさまに動揺を隠しきれていないその態度に、私の胸はさらにザワザワと騒ぎ出した。
「な、ななな、何それー!? 私だってジンくんと手を繋いで帰りたいのにー!」
カウンターから身を乗り出してジタバタする私を、リゼちゃんが「お前は落ち着け!」と手で制する。
けれど、私の視線はジンくんの隣に釘付けだった。
ジンくんに手を握られたままのチノちゃんは、すっかり顔を真っ赤にして、うつむいたまま固まっている。いつもなら冷たくあしらうはずなのに、今のチノちゃんは、ジンくんの後ろに半分隠れるようにして、もじもじと彼の服の裾をもう片方の手でぎゅっと掴んでいた。
その、あからさまに「女の子」しているチノちゃんの雰囲気に、私はただただ圧倒されてしまう。
お掃除の時間のことで「嫌われちゃったかも」なんてくよくよ悩んでいた自分が、なんだか急にすごく遠い世界のことのように思えてきて、私は二人の繋がれた手を、ただ羨ましさと少しの焦燥感を覚えながら見つめることしかできなかった。
◇
「生き返る……」
湯船の縁に頭を預け、凝り固まった身体を熱い湯に委ねる。
バイトも無事に終わり、ラビットハウスの営業時間は喫茶店からバータイムへと移行した。もちろん俺達は未成年なのでバーの接客には出ない。締めの作業をすべて終え、ようやく勝ち取ったこの入浴時間は、まさに至福のひとときだった。
それにしても、今日は本当に疲れた。
テスト、幼馴染み、そして試験入学――。
いっぺんにたくさんのイベントに出くわしたせいか、頭も身体も完全にキャパシティをオーバーしている。湯気の中に今日の出来事が浮かんでは消え、どっと押し寄せる疲労感に、思わず深くため息を漏らした。
湯船の中で、ふと夕食後のチノとのやり取りを思い出す。
バイトが終わって夕飯を食べ終えた後、彼女は少し緊張した面持ちで俺を見上げて、こう言ったのだ。
『お風呂から上がって、あとはもうくつろぐばかりになったら……私の部屋に来てください』
……のぼせる前に出よう。
それに、チノの声を思い出すと、のんびり浸かっているわけにもいかなくなった。
俺は名残惜しさを感じつつも湯船から上がり、タオルで濡れた身体と頭を大雑把に拭く。寝間着のズボンだけをパッと穿き、上半身は裸にタオルを引っ掛けただけの状態で洗面台の前に立った。
まずは髪を乾かそうとドライヤーに手を伸ばした、その時だった。
――ガチャッ。
静かな脱衣所に、場違いな扉の開かれる音が響いた。
「あうっ――! ご、ごめんね!」
一瞬だけ顔を覗かせたココアが、顔を真っ赤にして叫ぶと同時に、勢いよく扉が閉められた。バタン、と激しい音が脱衣所に響き渡る。
別に減るもんじゃなし、そこまで慌てなくてもいいだろうに。
俺は苦笑しながら、閉められた扉をガラッと開けて、廊下を小走りで立ち去ろうとするココアの背中に声を掛けた。
「おいココア、別にプールでも上は裸だったろ。そんなに気にすんな」
俺の声に、ココアがぴたりと足を止めて振り返る。その顔は、湯上がりでもないのにリンゴみたいに真っ赤に染まっている。
「そ、そうだけど……お家で見るのは初めてだったからビックリして。プライベートな空間だし、悪いことしちゃったかなぁって……」
両手の指先をモジモジと合わせながら、上目遣いでこちらを伺ってくる。いつもは遠慮のないココアが、今日は妙に女の子らしい反応をするもんだから、こっちまで少し調子が狂いそうだ。
「気にしてないって。見られて減るもんじゃないしな」
俺は肩をすくめて笑ってみせ、それからふと疑問に思ったことを口にした。
「というか、ココアはもう風呂済ませたろ? どうしたんだ?」
「あ、ええと……ちょ、ちょっと忘れ物しちゃって! ヘアピン、洗面台のところに置き忘れちゃったみたいで……」
「なんだ、そんなことか。俺はもう髪乾かすだけだから、気にせず入って取っていけよ」
「う、うん……じゃあ、そうしよっかな」
どこかぎこちない足取りで、ココアが脱衣所へと戻ってくる。
狭い空間に、風呂上がりの熱気と、シャンプーの甘い香りが混ざり合う。
「どこ置いたっけ……あ、あった、これこれ」
後ろでガサゴソと棚を探るココアの気配をよそに、俺はドライヤーのスイッチを入れ、強風で濡れた髪を乾かし始めた。ゴォーッという騒がしい駆動音が、狭い洗面所に響き渡る。
ドライヤーの風を頭皮に当てながら、何気なく正面の鏡に目をやった、その時だった。
鏡の隅、俺の背後に映るココアが、忘れ物のヘアピンを握りしめたまま、こちらをジーッと見つめているのが視界に入った。
心なしか、その視線はいつもと違ってどこか妙に真剣な面持ちに見える。
鏡越しに視線が絡みそうになり、俺はなんとなく落ち着かなくなってドライヤーのスイッチを切った。急に静寂が戻った洗面所で、俺はココアの方へと振り返る。
「な、なんだよ?」
「あ! ご、ごめん! ちょっと見すぎだったね!」
俺が振り返ると同時に、ココアは弾かれたように肩を跳ね上がらせ、ブンブンと両手を振って誤魔化すように笑った。視線を泳がせながら自分の胸元でヘアピンをぎゅっと握りしめている。
「お邪魔しましたー!」
用が済んだココアは、まるで何かに追われているかのようにあたふたとした足取りで、逃げるように脱衣所から出ていった。パタンと閉まった扉の向こうから、ドタドタと廊下を駆けていく足音が遠ざかっていく。
「一体なんだったんだ……」
誰もいなくなった洗面所で、俺はぽつりと呟いた。
今日一日のココアの様子を思い返してみるが、掃除時間のよそよそしい態度といい、今の妙に落ち着きのない様子といい、どうにもいつもの彼女らしくない。考えても答えは出そうになく、俺は小さく首を振って思考を切り替えた。
チノが部屋で待っているし、早く髪を乾かしてしまわないと。
俺は再びドライヤーのスイッチを入れ、ゴォーッという騒がしい風の音で、頭の中に残る奇妙な違和感を吹き飛ばすように髪を乾かし始めた。
次回に続きます!
ここまで読んでいただきありがとうございます!
誤字脱字、不自然な箇所等ありましたらご指摘頂けるとありがたいです!
感想等もお待ちしております!
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シャロの続き
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花深
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藤川