ご注文はうさぎです!Re 作:新生兎丸
「チェックメイトです」
「また負けた……!」
チノの部屋に招かれてから、俺たちは盤上の駒を挟んで、かれこれ数戦目となるチェスを続けていた。結果は、俺の全敗。
「チノ、強すぎだろ……」
がっくりと肩を落とし、チェックメイトの形に綺麗にハメられた自分のキングを見つめる。
なんだってこんなに勝てないんだ? 俺の頭が固すぎるだけか? いつも良いところまでは攻め込めているはずなのに、気づけばチノの張り巡らせた網に絡め取られている。
「ジンさんは、なんというか……全体の動きが実直すぎるんです。定石通りの綺麗な動きしかしないから、先が読みやすくて。時には、相手の不意を突くような大胆な動きも混ぜてみないと」
チノは呆れたように小さく息を吐きながら、手際よく駒を片付け始める。
「それができたら苦労してないって。俺にはそんな器用な真似――」
「……女の子の扱いに関しては、さらっと大胆な真似ができるくせに」
「ん? 何か言ったか?」
駒を片付けるチノの手がピタッと止まり、長い睫毛の奥にある瞳が、一瞬だけジト目に変わった。
「なんでもありません。……本当に、なんでもありません」
「ええ……気になるだろ……」
絶対に何か言っていたはずだが、ぷいっと顔を背けられてしまっては追及のしようもない。
「それより……もう、終わりにしますか?」
チノが時計の針をチラリと盗み見る。その視線を追って俺も壁掛け時計に目をやると、夜の静寂にふさわしい、ずいぶんと深い時間を示していた。
「ん? ああ……もうこんな時間か。チノも流石に眠いだろ」
「はい。少しだけ……」
そう言うチノの小さな口元から、可愛いあくびが零れそうになる。それを隠すように彼女は小さな手で口元を押さえ、少しだけ潤んだ瞳で俺を見上げてきた。
「じゃあ、俺はそろそろ自分の部屋に戻るな」
これ以上夜更かしをさせるわけにもいかない。そう思って絨毯から腰を上げかけた、その瞬間だった。
クン、と微かな抵抗が伝わり、動きが止まる。
見下ろすと、チノの小さな手が、俺の寝間着の袖口をぎゅっと 掴んでいた。
「……一緒に、寝てくれないんですか?」
「え……」
予想だにしなかった言葉に、思考が完全にフリーズする。チノは俯いたまま、掴んだ袖を離そうとしない。それどころか、指先にさらにきつく力が込められる。
「ジンさんは……『今日はずっと一緒にいる』って、そう言いました」
「い、言った……言ったけど、それはほら、起きてる間の話っていうか……」
「嘘……ついたんですか……?」
すがるようにして見上げてきたチノの瞳は、薄く涙の膜を張ったように潤んでいた。今にも零れ落ちそうなその光に真っ向から射抜かれ、俺の心臓がドクリと跳ね上がる。
うっ……。
そんな顔で訴えかけるのは反則だ、チノ……!
そんな捨てられた子犬のような目を向けられたら、どんな無理難題でも首を縦に振ってしまいそうになる。胸の奥をギリギリと締め付けるような罪悪感が、俺の理性を激しく揺さぶってきた。
けれど――流石にそれはマズイ。
いくら彼女の我が儘を叶えてやりたいと思っていても、未成年ーーましてやチノは中学生。同じベッドで夜を明かすなんていかがなものか。
「……ごめん、チノ。やっぱりそれは駄目だ」
俺は優しく、けれど拒絶の意思を込めて、チノの指を自分の袖からそっと引き剥がした。
手を離されたチノは、拒絶されることを予感していたのか、驚くというよりは、ただ悲しそうにぽつんと自分の手のひらを見つめた。
その肩が、微かに落胆で小さくなる。
「……分かっています。そんなの、いけないことだってことくらい」
チノの声は、先ほどまでの切実な響きから一転して、ひどく静かで、どこか自分を責めるようなトーンに変わっていた。
「調子に乗って、困らせるようなことばかり言いました。ごめんなさい、今の言葉は忘れてください」
チノはそのままベッドの中に入ると、壁の方を向いて丸くなってしまった。
背中越しに伝わってくる、強烈なまでの寂しさと拒絶の気配。
完全に拗ねさせてしまった。それも、ただの我が儘ではなく、彼女なりの勇気や甘えを俺が真っ向から跳ね除けてしまったような、最悪の空気だ。
脳裏をよぎるのは、チノを傷つけまい、彼女に尽くそうと決めたはずなのに、結局最後の最後でこんな顔をさせている。
確かに同じベッドで眠るのはマズイ。だが、だからといって、このまま「じゃあな」と部屋を出て行けば、きっと後悔する。
「……チノ」
声をかけるが、返事はない。小さな背中が微かにピクリと動いただけだ。
俺は小さくため息をつくと、部屋の隅にある丸椅子を引き寄せ、チノのベッドのすぐ脇へと腰掛けた。
「一緒に寝るのは無理だけど……お前が眠るまで、ここに座ってる。それなら、嘘ついたことにはならないだろ?」
壁を向いたままのチノが、じわりとこちらを振り返る。
布団の隙間から覗くその瞳は、まだ少し潤んでいて、不満そうにこちらを値踏みするように見つめていた。
「……ずっと、そこにいてくれるんですか?」
「ああ。チノが完全に寝息を立てるまで、どこにも行かないよ」
「朝まで……じゃなくて、眠るまで、ですか?」
「そ、そこは妥協してくれ。これでも譲歩した方なんだからな」
俺が苦笑交じりに言うと、チノは少しだけ考えるように視線を彷徨わせた後、観念したように小さく息を吐いた。そして、もぞもぞとベッドの中で寝返りを打ち、こちらに体を向け直す。
「……じゃあ、条件があります」
「条件?」
布団から、さっき引き剥がしたはずのチノの小さな手が、再びすっと差し出された。
「手が届くところにいてください。……寝るまで、手を繋いでいてくれるなら、許してあげます」
上目遣いで、けれど今度はどこか少しだけ悪戯っぽく微笑むチノ。
その表情に、俺は完全に降伏するしかなかった。
「ああ。分かったよ」
差し出された小さな手を、俺は今度は拒むことなく、そっと包み込むように握り締めた。
チノの口元にはどこか満足そうな笑みが浮かんでいる。
握り合っている手のひらから、彼女の微かな体温がじんわりと伝わってくる。
「ジンさん。今、目を閉じてしまったら、ジンさんがすぐにいなくなってしまいそうです。だから、眠くなるまで、少しお話をさせてください」
「じゃあ、どんな話がしたい?」
「なんでもいいです。ジンさんの……学校のこと、とか」
チノの少し引きずるような、眠気を帯びた声が静かな部屋に溶けていく。
俺の学校の話、か。チノにしてみれば、まだ見ぬ高校生活というやつへの興味もあるのだろう。
「俺の学校なぁ……。大して面白い話なんてないぞ?あるとしても厄介な奴らに絡まれるだけで」
「……今日、ジンさんが手を振っていたーー」
チノが少しだけ手を握る力を強めた。まだほんのりと、昼間の嫉妬の残り香を漂わせている。
「あー……花深のことか」
俺は苦笑交じりに後頭部を掻いた。まあ、隠すようなことでもないし、誤解を解くにはいい機会か。
「あいつは花深っていう、ただのクラスメイトだよ。なんかいつもカメラを持ち歩いてる変な奴。今日は、ちょっと迷惑掛けてさ。それで、別れ際に『災難だったな、気を付けて帰れよ』って意味を込めて声を張っただけだ」
「……花深さん」
チノは名前を覚えるように小さく呟くと、じっと天井を見つめた。
「ジンさんは、そういう風に……ぶっきらぼうに見えて、困っている人を放っておけない性質ですからね」
「俺を買い被りすぎだよ」
俺が恐縮したように言うと、チノは小さく「そういうところです」とだけ返して、今度は静かに目を閉じた。
「高校って、楽しいですか?」
「んー……。まあ、中学の時よりは、少しだけ世界が広くなった気はするな。気の合う連中もいるし、こうしてラビットハウスでのバイトにも繋がったわけだし。……悪くはないよ」
「そうですか……」
繋いだ手から伝わる力が、少しずつ、ゆっくりと緩んでいく。
チノの規則正しい、静かな寝息が部屋に響き始めた。長い睫毛が微かに震え、完全に深い眠りへと落ちていくのが分かる。
「……おやすみ、チノ」
俺は起こさないように細心の注意を払いながら、その小さな手をそっとベッドの上へと戻し、掛け布団を優しく肩まで掛け直した。
これで、本当に今日という一日が終わる。
少しだけ名残惜しさを感じながらも、俺は丸椅子から立ち上がり、足音を忍ばせて電気を消し、チノの部屋を後にした。
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