ご注文はうさぎです!Re 作:新生兎丸
「よん、じゅう……きゅう……ッ!」
ここは町の体育館。
その体育館の中で、俺は今腕立て伏せをしていた。
腕を押し伸ばしきると同時に、擦り切れた声が喉の奥から漏れ出た。
視線の先にある床には、俺の額から滴り落ちた汗が小さな斑点を作っている。腕は限界を超えてプルプルと無様に痙攣し、胸から肩にかけての筋肉は焼き切れたかのように熱い。肺が必死に酸素を求めて上下するたび、耳の奥で自分の激しい鼓動が警鐘のようにドクドクと響いていた。
「ラスト! ラスト一回! 頑張って、芹沢くん!」
すぐ隣から聞こえる藤川の声援。普段なら心地よく響くはずの彼女の声も、いまの俺には水底から聞くように遠く感じられた。意識が霞み、余計なことを考える余裕など微塵もない。
けれど、女の前で不甲斐ない姿を見せるわけにはいかなかった。俺は奥歯を強く噛み締め、残された全身の力を最後の一回へと集約させる。
意を決して、ゆっくりと体を床ギリギリまで沈め込んだ。
胸が床に触れるか触れないかの限界で体を保持すると、猛烈な乳酸の波が襲いかかり、全身の細胞が悲鳴を上げる。それを力任せにねじ伏せるように、腕へと感覚を集中させた。
「ご、ご……じゅうッ……!!」
重力に抗って床を強く押し返し、震える肘をどうにか伸ばしきる。完遂した瞬間、視界が白く弾けた気がした。
「すごい……!! すごいです芹沢くん! 本当によく頑張りましたね!」
藤川のパッと華やぐような感嘆の声と、パチパチと打ち鳴らされる拍手。それを合図にするかのように、俺の身体の緊張が一気に途切れた。
腕の力を抜いた途端、糸が切れた人形のようにその場へドサリと崩れ落ちる。
ダメだ……指一本すら動かない……。
床に頬を押し付けたまま、激しい呼吸を繰り返す。崩れた体勢を直そうと身体に命じてはみるものの、疲労困憊の筋肉はまったく言うことを聞いてくれない。ただ荒れ狂う心臓の鼓動を全身で受け止めながら、しばらく動けない身体を横たえていた。
「まさか本当に腕立て50回5セット、スクワット50回5セットを完遂できるなんて思いもしませんでした。冗談じゃなく、芹沢くんはアスリート向きだと思いますよ?」
床にくたくたになって倒れ込む俺の目線の先で、藤川がちょこんと膝を折り、首をかしげながら覗き込んできた。
酸素を取り込もうと喉がひゅーひゅーと鳴り、激しい呼吸のせいで胸が大きく上下している。俺はどうにか擦り切れた声で言葉を絞り出した。
「お、俺は……生きていくための……ほどほどの体力が……あれば、それで……いいんだよ……」
「勿体ないです。せっかくこんな良い素質を持っているのに、それじゃあ宝の持ち腐れですよ?」
そう言って悪戯っぽく微笑むと、藤川は俺の頬を指先でふにふにとつつき始めた。
限界まで追い込まれて火照った肌に、彼女の少しひんやりとした指先が伝わってくる。その心地よい冷たさに、抗う気力すら失った俺はそのままされるがままに任せていた。
「芹沢くんが中学の頃、なにもスポーツをしてこなかったっていうのが本当なら……この身体能力の高さは遺伝なんでしょうか?」
「さあな……。父親の過去も詳しく知らないし、母親の過去もろくに知らないからさ。昔ふたりが何をしてたのかまでは、分からないんだ」
両親の過去を詳しく知らないからといって、別に不仲というわけでもない。ただ、向こうから進んで語らない以上、わざわざ自分から掘り返すようなことでもないと思って今まで聞かずにいただけだ。まあ、まったく興味がないと言えば嘘になるのだが。
「てか……そもそも俺、なんで休みの日に急に体育館で腕立て伏せなんてさせられてたんだ?」
呼吸を整えながら、ふと思い至った根本的な疑問を口にする。すると藤川は、顎に指を当ててうーんと首を傾げた。
「部活の新しい筋トレメニューを考えていて、部長に提案する前にテストしてみようと思ったんです。……でも、芹沢くんに試してもあんまり参考になりませんね。やれと言われた分だけ、本当にこなせちゃいますし」
「限界まで体に鞭打った挙句に、なんでそんな理不尽な理由で切り捨てられなきゃならんのだ……」
疲労困憊の身体で抗議の視線を向けると、彼女は悪びれる様子もなく微笑んだ。
「えへへ、すみません」
ほんの少しだけ申し訳なさそうに眉を八の字にしつつも、藤川は可愛らしく舌をチロッと出してみせるのだった。
「芹沢くん、少し休んでいてください。お詫びにスポーツドリンクを買ってきますね」
「……助かる」
自販機へと走っていく藤川の後ろ姿を見送る。
荒かった呼吸がようやく落ち着き、失われていた体力がじんわりと戻ってきた。俺は床に倒れたままの無様な格好をどうにか立て直し、近くの壁まで這うように移動して背中を預ける。膝を立てて座り直すと、ようやく一息つくことができた。
「芹沢……さん?」
頭上から降ってきた声に顔を上げると、そこに立っていたのは花深だった。
「花深? え、何してんのこんな所で」
「それはこっちのセリフッス! ほら、先に聞いたのボクなんだから先に答えてくださいっす!」
腰に手を当て、ぐっと顔を近づけてくる。
「いや、俺はちょっとクラスメイトの付き合いで……」
「え? もしかして彼女ッスか!?」
「なっ、なんでそうなる……!」
「だ、だってだって! ウチの高校ってほとんど女子だし、ましてや芹沢さんのクラスなんて芹沢さん以外みーんな女の子じゃないッスか! ボク以外に友達と呼べる人がいない芹沢さんと一緒に出かけるなんて、彼女以外にあり得ないじゃないッスか!」
「サラッと酷いこと言うなお前は。クラスに一人くらい友達いるわ。失敬な」
呆れつつ言い返しながらも、俺は小さな違和感を覚えていた。
やけに早口だし、どことなく必死だ。コイツは一体、何をそんなに焦っているんだろうか。
「ほ、本当ッスか……?」
「何度も言わせるな。……で、お前は何しに来たんだよ?」
「あ、えっとぉ……その……」
「勿体ぶらずに言えって」
「ちょ、ちょっと太っちゃったんで……その、身体を少し動かそうと思いまして……」
視線を泳がせながら、小さな声で打ち明ける花深。
「太った? ダイエット? 俺にはまったくその必要はないと思うんだけど……」
「せ、芹沢さんには分からないッスよ! べーっだ!」
「芹沢くん、お待たせしました! スポーツドリンク、買ってきまし——」
軽快な足取りで戻ってきた藤川が、冷えたペットボトルを手に持ったままピタリと足を止める。
彼女の視線は、舌を出す花深と、壁に背を預けたままの俺との間を往復した。
「あら……? 芹沢くん、そちらの方は?」
藤川の声から、先ほどまでの無邪気な明るさがすっと消え、どこか探るような響きが混じる。彼女は笑顔を崩さないまま、スーッと滑らかな足取りで俺たちの間へと割り込んできた。
「あ、藤川。ありがとな。……こいつは隣のクラスの花深。たまたまここで会ったんだ」
「へえ、隣のクラスの。初めまして、芹沢くんと同じクラスの藤川です」
藤川は完璧な笑みを浮かべ、花深に向かって丁寧にお辞儀をした。だが、その背後にうっすらと見えない威圧感が漂っている気がするのは、俺の気のせいだろうか。
花深もその空気の変化を敏感に察知したのか、顔をキュッと引き締め、警戒するように身構えた。
「あ、どうも……花深ッス。クラスは別ッスけど、芹沢さんとは……その、普段からよく一緒に過ごさせてもらってる仲ッス」
『よく一緒に過ごしている』という部分を妙に強調する花深。
「そうなんですね。芹沢くんってば、うちのクラスだとすごく無口でクールだから、隣のクラスにこんなに親しいお友達がいるなんて知りませんでした」
「ボクにとっては、すごく優しくて頼りになる存在ッスけど?」
「ふふ、芹沢くんは誰にでも優しいですものね。あ、芹沢くん、冷たいうちにどうぞ」
藤川は花深との視線の交差を維持したまま、俺にスポーツドリンクを差し出してきた。
「あ、ああ……サンキュ」
受け取ったペットボトルのキャップを開け、一気に口へ流し込む。冷たい液体が喉を通り、疲弊した身体にしみわたっていく感覚は心地よいのだが……目の前で繰り広げられる空気の張り詰め具合が、それ以上に冷や汗をかかせていた。
なんだ……? この絶妙に居心地の悪い空気は……。
「あ、あのさ、ふたりとも……?」
俺が困惑混じりに声をかけると、藤川と花深は同時にクルリとこちらを振り返り、示し合わせたかのような完璧な笑顔を向けた。
「なに? 芹沢くん」
「なんッスか、芹沢さん?」
「いや……なんでもないです」
体力を回復させるはずの体育館で、俺は筋トレ以上のアクシデントに巻き込まれていることを悟り、静かにスポーツドリンクをもう一口あおった。
「……ねえ、芹沢くん。立ち話もなんですし、ちょっとそこのベンチに移動しませんか?」
静寂を破ったのは藤川だった。いつも通りの柔らかい笑みを浮かべてはいるものの、その瞳の奥にはどこか観察するような光が宿っている。
「あ、うん。そうだな」
俺はどうにか床を押し返し、まだ生まれたての小鹿のようにプルプルと震える足に力を込めて立ち上がった。激しい筋トレのせいで膝が笑っているが、ここで無様に転ぶわけにはいかない。壁を這うようにして、体育館の壁際に置かれた長ベンチへと腰を下ろす。
すると、待ってましたと言わんばかりに、藤川が俺の右隣にすっと腰掛けた。体をすこし俺の方へ傾け、距離感が近い。
「芹沢くん、本当に大丈夫ですか? 顔色、まだちょっと赤いですけど……」
「いや、ただの筋トレ後の火照りだから大丈夫だ」
「えー、心配してるのに意地悪ですね」
クスクスと楽しそうに笑う藤川。
その直後、左側から「ぬん」と強い圧迫感とともに、もう一つの影がベンチに滑り込んできた。
「ボ、ボクも! ボクも座るッス!」
左隣に陣取った花深が、俺の腕に触れるか触れないかの距離まで詰めて座ってくる。そして右側にいる藤川をじーっと強い視線で見つめ返した。
俺を中央にして、右に藤川、左に花深。
……なんだこの、左右から挟み込まれるような息苦しさは。ただでさえ筋トレ後に酸素が足りていないのに、さらに圧迫されるような錯覚を覚える。
「あのさ、花深。お前、体動かしに来たんじゃなかったのか?」
「うっ……そ、そうッスけど! でも、芹沢さんがこんなに限界まで追い込まれて倒れてるのを見ちゃったら、放っておけるわけないじゃないッスか!」
「俺は別に倒れてたわけじゃ——」
「そうですよ、花深さん」
俺の言葉を遮るように、右隣から藤川の涼やかな声が割り込んできた。
「芹沢くんは倒れていたんじゃなくて、私のメニューを完璧に完遂して、心地よい達成感に浸っていただけです。ね? 芹沢くん」
首を少し傾げ、満面の笑みで同意を求めてくる藤川。だがその目が同意を求めているように見えて、俺は思わずゴクリと生唾を呑み込んだ。
「あ、まあ……メニューをやり切ったのは事実だけど……」
「芹沢さんを無理やり連れ回して、いじめてただけじゃないッスか!」
花深が身を乗り出して抗議する。
「いじめてだなんて心外ですね。私は芹沢くんの運動能力の高さを見抜いて、彼の秘められた可能性を引き出してあげていただけです。隣のクラスの花深さんには分からないかもしれませんけれど、芹沢くんって頼まれると断れない優しい人だから……私がしっかりサポートしてあげないと」
可能性を引き出してあげていた……?
部活の練習メニューの毒味役をさせられていただけの気が……いや、止めとこ。
「なっ……! ボクだって芹沢さんのことなら分かってるッス! 休み時間だって、いつも二人で——」
「休み時間『は』一緒なんですね。でも休日にこうして体育館で汗を流す約束をしたのは、私と芹沢くんですよ?」
笑顔で穏やかに言葉を交わしているはずなのに、俺の頭上を飛び交う視線と言葉がバチバチと火花を散らしている。
助けてくれ……誰かこの空間を収めてくれ……!
筋トレで限界を迎えた身体には、この精神的なプレッシャーは重すぎた。冷えたスポーツドリンクを一口飲み、喉を鳴らす。
「……なあ、ふたりとも」
「「なに(ッスか)? 芹沢くん(さん)」」
「あ、いや、なんでもない……」
ヘタに口を挟めば、火に油を注ぐことになる——直感がそう告げていた。俺は咄嗟に前言を撤回し、視線をそっと手元のペットボトルへと落とした。
◇
「あぁぁ……疲れた……」
夕闇が迫る帰り道、だらだらと脚を引きずりながら一人で歩いていた。
体育館での激しい筋トレによる肉体的な疲労もさることながら、あの後に繰り広げられた藤川と花深の間に漂う謎の緊張感。あれに削られた精神的なダメージの方が、ぶっちゃけ腕立て伏せ50回よりも遥かに重い。
二人の笑顔の裏に見えた目に見えない火花を思い出して、俺は溜め息をひとつ吐き出した。女子の立ち回りというか、あの独特の空気感はいくら体を鍛えたところで克服できる気がしない。
西日に照らされた自分の影が、アスファルトの上に長く伸びている。
オレンジ色に染まる住宅街の中、カラスの鳴き声と俺の足音だけが静かに響いていた。全身の筋肉が鈍く痛み、家に着いたら一刻も早く風呂に入ってベッドにダイブしたいという欲求だけが頭を支配していく。
「てかもうこんな時間かよ……」
軋む体を引きずるように歩いていると、聞き覚えのある声に呼び止められた。
「あー。ジンじゃ~ん」
「げっ……永菜……」
「『げっ』ってさ、幼馴染に向かってひどくない?」
振り返ると、そこにいたのは永菜だった。
楽しげに語尾を伸ばして手を振っている——が、その目の奥はまったく笑っていない。じわじわと詰めてくる距離感に、目に見えないプレッシャーが宿っていた。
「てゆーかさ。ジン、私の連絡先……まだ登録してないっしょ?」
「わ、悪かったって……」
顔は笑顔のままだが、間違いなくキレている。藤川と花深の緊張感を切り抜けた先に待っていたのは、また別の恐怖だった。俺は疲労も忘れて、思わず冷や汗をたらした。
「……てかさ、なんでそんなに疲れきってんの?」
不満げに腰に手を当てていた永菜だったが、俺のあまりの憔悴ぶりに毒気を抜かれたのか、怪訝そうに眉をひそめた。じっと顔を覗き込まれ、逃げ場を失う。
「別になんでも良いだろ」
ぞんざいに言葉を返し、俺はそっぽを向いた。
体育館での追い込みはともかく、藤川と花深の女子二人に挟まれて胃を痛めていたなんて、言えるわけがない。そんなことを喋れば最後、勘の鋭いこの幼馴染に根掘り葉掘り問い詰められるのは目に見えていた。
「ふーん……怪しい。絶対なんか隠してる顔じゃん」
永菜は半目になると、ジリジリと距離を詰めてくる。女子特有の察しの良さと逃がさない圧に、俺の背中には嫌な汗が伝わっていった。
「まっ。いいけどさ。アンタが何してようが、私には関係ないし」
ぷいっと顔をそっぽに向け、永菜はわざとらしく腕を組む。どこか拗ねたような態度は幼馴染のころから何も変わっていないが、そのくせこちらの反応を探るような視線をちらりと向けてくる。
「なら、連絡先登録してなかったくらいで不機嫌になるなよ……」
「はぁ? それとこれとは話が別だから」
食ってかかるように即答され、俺はぐったりと肩を落とした。自分に都合のいい時だけ理屈をすり替えるのは、女子の特権か何かなのだろうか。
「解せぬ……」
理不尽すぎる言い分に小声でボヤきながら、俺は疲労困憊の頭を振る。
ようやく藤川と花深の火花を避けて逃げ出してきたってのに……。溜め息がまたひとつ、オレンジ色の空へと消えていく。
「ちょっとさ、話さない?」
「構わないけど……」
俺達は近くの小さな公園へ向かい、並んで木製のベンチに腰を下ろした。夕闇が一層濃くなり始め、街灯がひとつ、ふたつと橙色の光を灯し始めている。
「こうやって二人っきりで話すの、なんか超久々な気がする」
永菜は両手をベンチの端につき、脚をぶらぶらと揺らしながら黄昏時の空を見上げた。
「気がするっていうか、その通りだろ。中学卒業以来だからな」
「あはは、そっか。けど、なんだかんだ言ってもまだ一年は経ってないのか〜」
他愛のない会話。けれど、その後に訪れた沈黙は、さっきまでの軽口とは明らかに質の違う重さを持っていた。秋の冷たい風がカサカサと枯れ葉を揺らす音だけが、俺たちの間を吹き抜けていく。
「……」
「……聞かないの?」
先に沈黙を破ったのは永菜だった。先ほどまでの怒りや呆れを含んだトーンは消え、少しだけ静かな声。
「え……?」
「私が——どうして転校することになったのか」
「…………」
触れていいのか分からず躊躇していた核心を、彼女自身から突かれて俺は言葉を詰まらせた。かけるべき言葉が見つからず黙り込む俺の横顔を、永菜は覗き込むように見つめてくる。
「なーに遠慮してんの〜? ジンのくせにさ」
強がるように語尾を伸ばして、軽やかに笑ってみせる永菜。だが、その瞳の奥には、触れられたくないような、けれど見落とされたくもないような、複雑な揺らぎが確かに存在していた。
「じゃあ……どうしてこっちに転校なんかしてきたんだよ?」
俺が観念して尋ねると、永菜は待ってましたとばかりに意地悪く口元を緩めた。
「えー? 本当に聞いちゃうの~?」
「お、お前が聞けって言ったような雰囲気を出してきたんだろ?」
「聞けなんて一言も言ってないですぅ~」
わざとらしく語尾を伸ばして小悪魔っぽく笑ってみせる永菜に、俺は呆れ交じりの溜め息を吐き出す。
「はぁ……どっちにしろ教えてくれよ。なんで急に転校なんか……」
「…………」
その場の空気が、目に見えて凍りついた。
永菜の顔から軽薄な笑みがすっと消え去り、ベンチでぶらぶらと揺れていた脚がぴたりと止まる。
「……あっちで出来た友達がさ……」
先ほどまでの戯けた声とはまるで違う、低く掠れたトーン。
「……ああ」
「付き合ってた彼氏に騙されて、輪姦されちゃったんだ」
淡々と、どこか遠い世界の話でもするかのように永菜は呟いた。
あまりにも凄惨で容赦のない言葉の重みが、遅れて俺の脳腔を殴りつける。秋の夕闇が急速に色を濃くしていく公園で、俺は息を吸うことすら忘れて固まっていた。
「だから……全員ボコボコにしてやった」
膝の上で握りしめられた永菜の小さな拳が、微かに震えていた。
「正当性の主張はある程度認められてさ。裁判だの刑事事件だのに発展せずに済んだのは、ぶっちゃけ学校側が上手く収めてくれたおかげなんだけどね。でも……流石にそんなことやらかしたら、そこに居続けられるわけもないじゃん?」
「…………」
「いやー、ほんとやっちゃったよ。一時の感情に任せて大事な進路まで棒に振っちゃってさ~。親にもめちゃくちゃ迷惑かけちゃった……」
へらへらと笑いながら、永菜は頭の後ろで両手を組む。おどけて見せてはいるが、その笑顔の裏には隠しきれない自嘲と、どうしようもない切なさが滲んでいた。
「……相変わらずの戦闘力だな」
俺は絞り出すようにそう呟いた。
永菜は昔から、人一倍腕っ節が強かった。というより、脳のリミッターが一般人よりも圧倒的に甘いらしく、本気になると化け物じみた怪力を叩き出すことができるのだ。
幼い頃から喧嘩は負け知らずどころか、一度タガが外れれば大人の男数人がかりでも手がつけられない惨劇になる。かつて中学生の頃、喧嘩の仲裁に入った俺が彼女に蹴り飛ばされて無傷で済んだのも、今思えば永菜が死ぬ気で手加減してくれていたからに過ぎない。
それを、大切な友達を蹂躙した男どもに全力で向けたのだ。相手がどうなったのか……想像するだけで背筋に冷たいものが走る。
「ま、でも……良かったんじゃないか? やらずに後悔するより、やって後悔した方が良いって言うしな」
「それ、こういう状況で使う言葉だっけ?」
「さあな。でも、そんな格言があった気がする」
「あっはははっ! なにそれ~、超テキトー!」
永菜は胸のつかえが下りたように、弾けた笑い声を上げた。
夕闇の公園に響く、可憐な少女の明るい声。こうして無邪気に笑っている姿だけを見れば、どこにでもいる普通の女の子にしか見えないのだが。
「……ま、でも冗談抜きでさ。こっちに来たのも、私の『手綱』を握ってられるアンタがいるからなんだよね」
「…………俺が、手綱を?」
「お母さんが言うにはね」
「おばさん……妙に俺のこと信頼してる節があるよな」
「そりゃアンタ、お母さんの超お気に入りだもん。『ジンくんなら永菜の暴走を止められるから安心ね』だってさ」
手綱、と彼女は口にしたが、その表情にはどこか甘えるような、温かい色が滲んでいた。
「そろそろ本気で暗くなってきたし、帰ろうぜ」
ベンチから腰を上げ、服についた埃をパンパンと払う。気づけば街灯の光がすっかり主脈となり、公園の周囲は夜の静けさに包まれ始めていた。
だが、永菜は立ち上がろうとしない。それどころか、立ち上がった俺の服の裾をキュッと引っ張ってきた。
「ねぇ。今日さ、アンタ私のアパート来てよ」
「は? なんでだよ」
「なんでって……こっちに来たの私一人だしさ。久しぶりに会えたんだから、もう少し話そうよ」
「いやいや、お前明日から俺と同じ学校に転校してくんだろ? これから嫌でも毎日顔を合わせることになるっつの」
掴まれた裾を引き剥がそうとする俺に、永菜はベンチに座ったまま、じっと上体だけを傾けてきた。
街灯の光を反射させた瞳をうるうると揺らし、首を少しだけかしげて見せてくる。
「ダメ…………?」
計算され尽くした、完璧な上目遣い。
……幼少期の俺なら一発で毒気を抜かれていたかもしれないが、今の俺はさっき「男どもを返り討ちにして全滅させた」という化け物エピソードを聞かされたばかりだ。
「……今さらお前の上目遣いが通用すると思ってんのか」
俺が冷ややかに突き放すと、永菜の瞳から一瞬で潤いが消え去った。
可憐な表情はどこへやら、口元にフッと黒い笑みを浮かべ、ドスのきいた声で囁く。
「……ふーん? じゃあ、明日転校したら、ジンの幼少期の『ありとあらゆる恥ずかしい黒歴史』を学校中にバラしてまわろっかな~?」
「……やぁ〜! 永菜と久しぶりに会ったことだし! 今夜はたくさん思い出話でも語り合いたいな~!」
「よっし! そう来なくっちゃ!」
一瞬で手のひらを返して絶叫した俺に、永菜は満足気な満面の笑みを咲かせて立ち上がった。
……なんだその流れるような脅迫術は。
もう交渉でもおねだりでもない。
ただの恐喝だろ、コレ。
ここまで読んで頂きありがとうございます!
誤字脱字、不自然な箇所等ありましたら報告頂ければありがたいです!
お次は誰のlfストーリーが見てみたいですか?
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シャロの続き
-
チノの続き
-
ココア
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千夜
-
リゼ
-
マヤ
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メグ
-
花深
-
藤川