貴方の望みと歩くまで   作:ぞんぞりもす

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一○話

 ルトナダの私室を訪れるのは久しぶりだった。

 

 生活用品と裁縫道具、工具セットなどが壁に沿うように並んでいる。部屋の中央にはやわらかい水色のラグが敷かれ、テーブルの周囲にはクッションやら座布団やらが落ちていた。その一点だけが壁から外れていた。

 僕の部屋よりも物が多い。けれど、もともと部屋が広いためか、僕の部屋より開放的に感じる。

 

「前とさほど変わっていませんよ」

 

 給湯室から戻ってきたルトナダはきょろきょろする僕にほほえみかけた。

 この部屋は落ち着くのだろうかと考えて、後方支援部の倉庫で寝泊まりしている事実が脳裏をよぎる。あまり落ち着かないのだろう。

 

 ルトナダは磁器のマグカップをテーブルにそっと置き、取っ手の向きを整えてからとなりに腰を下ろした。

 すり切れた香りを食い破るように湯気が昇る。嗅いだことのない爽やかな香りがした。

 

「なにこれ?」

「紅茶です」

 

 言いながら、白い指が細い取っ手に絡みつく。ルトナダは香りを楽しむように手前でカップを止め、やがて唇の先につけた。

 

「ソーサーも持ってくればよかったのですが……それに、少量のレモンやミルクを入れる場合もあるそうなのですが。忘れてしまいました」

 

 ぎこちない笑みだった。目で認識した情報は()に向かうはずなのに、背筋に走った震えは上から下にかけてで、なぜなのだろうと湧いた疑問が頭をまっしろにした。

 音のない深呼吸とともに、伸びた背筋をゆっくりと曲げていく。

 

「飲ん……で、みようかな」

 

 ルトナダは緊張している。仕草や表情のここが変だと明言はできない。でも、全体の輪郭と長年の付き合いが教えてくれた。

 一点で非日常を感じることは稀だ。違いを認識するとき、僕たちはたぶん、遠くから標識を見るみたいに漠然と認識する。

 

 徐々に近づいていって焦点を合わせるのだ。僕には一歩を踏み出す勇気がなかった。ルトナダから指摘されたばかりだというのに、後ろに進むことだけ得意でいる。逆風だったら言い訳ができたのに、なんて思った。みっともない心だった。

 

 頼りない取っ手を持ち、口に運ぶ。味は分からない。何かに近い気がして、昔、花を食べた記憶が蘇った。泥のついていない花はこんな味だった。記憶の中に眠っていた花は無臭で、眼の前の夕日を透明にしたような液体の香りとはかけ離れている。

 

「見た記憶がないね。耐久性が」

「お茶の感想ですか?」

「いや、器の」

「……そうですか」

「味は……」

 

 ボリバルの集落ではまず目にしないデザインだ。耐久性など度外視で観賞用なんだろうな、と茶器を揺すった。液体が踊り、鈍い天井の明かりを反射してきらめく。茶器の明るさが部屋から浮いていた。

 

「味は……分からない」

 

 ルトナダから見つめられ、言葉を絞り出す。

 

「爽やかだね。何も音が聞こえない日の風をむりやり胃に押し込んだみたいな」

「紅茶とはそのようなものらしいですよ。香りや風味を楽しむもの、と言っていました。名前も聞いたのですが、もう忘れてしまい……横文字が多かったことと、綴れなかったことだけを覚えています」

「記憶みたいだね」

「私の記憶ですから」

「ごめん、今のなし……なんていうか、そんなに鮮明に覚えていることって少ないよねって言いたかったんだよ。輪郭だけ覚えてることって多いから」

 

 僕に流し目を向け、ルトナダはテーブルに向き直る。

 

「もっと字の練習をすれば、いずれは私の見えているものすべてを言葉にして残すことができるのでしょうか」

 

 細かな筋肉が強張っているのだ、と思った。眉間に集まる力を抜き、違和感から少しずつ意識を離していく。

 冷や汗の感触はやけにはっきりと認識できた。

 

「――物語を考えてきたんです。聞いてもらえませんか?」

「それは構わないけど、どんな話?」

 

 ルトナダはじっと俯き、天板の上にぽつんと二つ並んだ茶器を見た。小さく薄い器の頼りなさが、そっくりそのまま揺れ動く心の頼りなさだと思った。

 

「本当ならまともな生活ができた男の人と、男の人の人生を絞り続けた女の話です」

「待って」

「この話は無言のまま、私に一息で話させてほしいのです。貴方と話すと、きっと物語の登場人物は許されたがるでしょうから。もともと想定していた展開に突発的に手を加えることは、いきなり手を加えることこそが相乗効果を生み出す場合もありますが、辻褄を合わせるための話へと変えてしまう悪手です」

「でも」

 

 ルトナダが僕を見る。穏やかな瞳と穏やかな無表情には迫力があった。たじろいだ僕は二の句を継げなかった。

 

「次に話したら口を塞いでしまいますよ」

「それは――」

 

 水音が聞こえた。唐突の出来事に頭が理解を拒み、離れていくルトナダの甘い残り香だけが頭で弾けた。

 

「聞いてくれませんか」

 

 凪いだ瞳は、僕を刺すように燃えていた。ルトナダは優しい表情をしていたけれど、決して笑っていたわけじゃないと思う。

 

 

 

 ルトナダがスカーフを巻かれた日、僕もまた母から言葉を預かった。僕とルトナダは当時から仲がよくて、だから、一緒にいてあげてほしい、と。ルトナダは誰からスカーフを巻いてもらえたかすらも記憶の底に沈んでいる。きっと僕だけが覚えていることなのだろう。

 

「二人の男女が非感染者だったうちはよかったのです。少ないながらも食事を取り、互いのぬくもりが安寧だと伝えるように身を寄せ合って、昼夜を繰り返す。

 似たような光景が続く日々は退屈と言います。しかし、その男女が繰り返した日常は決して退屈などではなく、退屈と思うことすらできないほどに疲労の濃い日々でした。

 

 不意に、戦争跡で、一歩間違えた人の声がこだましました。次に踏み外すのは自分かもしれない、と背筋に走った緊張とともに、しかし男女はその人のもとに歩み寄ります。そして先ほどまで息をしていた人の懐から、持てるだけの品物を回収しました。

 ときに人と争い、羽獣と争い、人の死を糧に明日を繋ぎました」

「きっとその男女は、一緒に何度も寝起きをして、二人だけの住みかであるみすぼらしい廃墟を大事にしていたんだね」

 

 きゅっと引き結ばれたルトナダの口角は直線を描いていた。線がわずかに乱れて、口角が上がったと言えないような不思議な表情になる。

 

「あるとき、女が罠を踏んでしまったのです。人の死体を利用した罠でした。原石の罠でした。

 大地は灰と焦げの黒が広がり、ところどころが赤く燃えていました。空はどこまでも厚い雲に覆われていました。

 一瞬のきらめきでした。その日、私に降り注いだのは、閃光のような、希望のような、星のようにまたたく絶望でした。

 

 土埃がゆっくりと舞い落ちます。

 この際、爆発の衝撃によって吹き飛ばされ、足を挫いたことは些細なことでした。男はなかなか起き上がらない女のもとに駆け寄ってきて、抱きかかえて街まで走りました。

 数日の道のりだった、と男は後から説明しました。

 

 女が目を覚ますと、見慣れた天井でした。暗い中でも一つだけはっきりとした染みが分かる天井です。もう長いこと寝起きしていたため、眠れない夜に飽きるほど数えたものですから、確証がありました。

 女は薄い掛け物を寄せ、重い体を引きずって男を探しました。道中で足が痛くなり、自分は爆発に巻きこまれて足を怪我したことを思い出しました。

 

 やっと見つけ出した男はやつれていました。

 有り金をすべてはたいて、身につけた物のほとんどと、回収したもののすべてを医者に渡して治療を乞うたのだ、と女は思いました。ちょうどそのころ、女の体には不思議な力が宿ったのでした」

 

 

 ルトナダは紅茶のカップを口に運んだ。喉が上下するのを僕はじっと見た。話に飲まれて動くことができなかった。

 熱が目頭に集まって、気を抜いたら感情があふれてしまいそうで。血潮の奥にみなぎる鼓動は忙しない。本当なら淡く優しくあるはずなのに。拳を握ろうとしても手には力が入らなかった。

 

 概要は聞いたことがあったけれど、ルトナダの心情が反映されたこの物語には、ありありとした自責が滲んでいる。続きを聞くのが怖くなった。見知った道、見知った暗闇、見知った出口。何ひとつ違わない人生を振り返ることが、とても怖い。

 ゲントに呼びかけても、ゲントは替わる素振りを見せない。

 

 こと、と丁寧な音でカップが置かれた。音は審判みたいに心を裁った。

 

「あるとき、どうして一緒にいてくれるの? と女が尋ねました。すでに体表には代償が刻まれていました。その代償は女を切り裂いたのではなく男を切り裂いているように、女には見えました。

 

 心身ともに疲弊しきっていた男は、悲しそうに、困ったように眉尻を下げて女の頭を撫でます。何度も剣を振るってきた健常者のかたい手でした。

 小さな音が女の耳に届きました。女は顔を上げました。なんと言ったのだろう。しかし、男にさえ分かっていないのでした。小さな音は確かに女に届き、責め苦になりました。

 その言葉が先か、感染が先か、二つと女は、切っても切り離せないほどに密接な繋がりを持ちました」

 

「感染者」とルトナダは僕を見た。体を寄せ合っていたから、僕たちは至近距離で見つめ合う。

 

 僕は後ずさった。ゆっくりと立ち上がったルトナダが追いかける。

 背後にかたい感触が生まれて、頭がぶつかった。頭皮とうなじで、異様な冷えを認識した。

 

「や、やめ――」

 

 手を伸ばしても、侵食してくる何かを押し留めることはできない。ルトナダが感じてきたものを、この期に及んで僕は拒もうとする。

 僕に差した影は、ルトナダが膝を折ったことで消えてなくなった。電灯は薄汚れた希望を放っていた。ルトナダはしなやかに背筋を伸ばして僕を抱きしめた。懇願したかったのは、僕じゃなくて、ルトナダのほうかもしれない。

 

 横顔がこすれるほど近づいていた。

 

「女は感染者で、男の人は非感染者でした。片方が常に譲られ、一緒にいることの対価を支払わせているのです。

 治療を受けることのできる組織に所属してからも、男は女の治療費を一緒になって負担しています。申し出たのです。自らの望みと言いながら、体を少しずつ削いでいくことを」

 

 腕にこもった力が抜けていく。ルトナダの腕が垂れた。二つの手はぶつかったけれど、繋がれることはない。

 

「ずっと後ろめたさを感じていました。

 自分以外の人生をめちゃくちゃにすることは、それが親しい人である分だけ、苦しいのです。人生を壊されるほうにも苦しさはあるでしょう。しかし、壊すほうも苦しいのです。貴方のように壊されている自覚がなく、自分で選んだ道だと胸を張っている場合には、特に、特に胸が締めつけられます。騙しているような気分にさえなります」

 

 信念でも、思い込みでも、決意でもよかった。僕がルトナダといることは業だった。ルトナダのいない人生は余生だった。僕の喉が震えた。

 

「もっと広い世界がある。もっと普通に生きられる。もっといい趣味を見つけてほしい。互いの要望を少しずつ言葉にしていきたいなんて言いながら、結局は押しつけるみたいなことを言って、僕はどうすればいいの? 狭い井戸の中で、空の青さすら知らずに生きていくことの何がいけないの?」

「嬉しいです。嬉しいのです。一緒にいられるにこしたことはありませんから。しかし、貴方が不憫でなりません」

 

 見えているものを手放して、見えない幸福を探すくらいなら。

 一の幸せを○にして、新たに一○の幸せを探すくらいなら。

 見えない幸福を探し求めることをこそ人生と呼ぶのなら。

 

 僕は、手に収まっているささやかな欠片を潰れるほど抱きしめることを選ぶ。その欠片が胸を刺し貫いたとしても、知ったことではない。

 僕だけが分かっていればよかった。

 

 そっとルトナダの肩を押すと、ほとんど力を入れる必要なく離れた。僕の腿に馬乗りになったルトナダはひどく疲れて見えた。心が泣き疲れている。でも体には涙を流す機能が備わっていなくて苦しんでいるような表情だった。

 

「どれだけ言葉を重ねたところで、分からないんじゃないの。僕たちのフィルターを通して意思は解釈されるから。僕の思考が僕のフィルターを通って出力されて、ルトナダのフィルターを通って受け取られる。完璧なはずはないよ」

 

 信じて言葉を与えたら壊れてしまうものを、信頼と呼ぶのだと思った。

 ロドスに来てから艶を取り戻した髪はいつのまにかあちこち枝毛が飛び出ていて、やわらかな輪郭なのにささくれだっていた。

 

「それでも積み重ねるのは無駄じゃないかな」

 

 僕が言い終えるかどうかのタイミングで、積み重ねる気もないのに何を言ってるんですか、とルトナダは吠えた。言葉の勢いそのままに顔を上げて、胸ぐらを掴んでくる。ルトナダの瞳が潤んでいるのを初めて見た気がした。

 

「貴方はそもそも何も言ってくれない! 私は貴方のために何かできるなら、捧げられるものがなくても捧げるのに、そもそも求めてくれない。何も教えてくれないものを感じ取れるわけがない!」

 

 一緒にいるだけで嬉しい。その一点で分かりあえているはずの僕たちには、日が翳るのにかかった時間の分だけ不理解が横たわる。

 ルトナダの奥に窓があった。先の見えない闇が広がっていた。

 

 闇が勢力を増すから暗くなるのか、光の勢力が弱まるから暗くなるのか、分からなかった。確かなことは、僕たちを取り囲むのは奥行きのある絶望なのだということだった。

 

 胸ぐらを掴む腕は少しずつ力を失った。ついには体まで脱力しきって、ルトナダは僕の胸に顔をうずめた。

 

「私は貴方のために何ができるのですか」

 

 声はくぐもっていて、心の外側から聞こえるみたいに遠のいて聞こえる。ルトナダは声を荒らげたことを恥じるように俯いていた。

 

「何ができるって言われても……」

 

 それを聞いたザラックの耳がうなだれた。僕はただ、ルトナダが白いキャンパスに描いてくれたものを一緒に追いかけたいだけだった。追いかけるまではいかずとも、絵の具を取りに行ったり、絵の構想を聞いたりするだけでもよかった。

 

 こういうときは、抱きしめて話し合いましょう。

 

 戸惑う頭が似たような過去を引っ張り出した。持ち上がった腕が空中で何度か震え、やがてルトナダの背中に到達する。抱きしめているのは僕だったけれど、僕が抱きしめられているみたいに小刻みに体が震えた。

 ザラックの耳は、いまだうなだれている。

 

 ルトナダの尻尾がそっと僕の手に触れてきて、それから思いのほか強い力で僕の手を下に動かす。そして上に動かした。

 背中を撫でさすると、尻尾は床に戻った。

 

「貴方といると、少しだけ羽獣の声が穏やかになるんです」ルトナダは頬を胸につけて言った。「順調とはいえずとも、そうして私は進んでいるのです」

 

 正常な言葉を失って久しい。正常な未来を失って久しい。そう思っていた。正常でなくてもいいと、そう思っていた。

 薄い扉の先から子どもの声が聞こえた。もしも幼いときに保護されていれば、こんなふうに笑うことができて、ロドスの使命に随伴して歩けたのだろうか。

 

 僕が話をしないのはたぶん僕のせいだ。でも心のどこかで、そういう境遇だったから、と主張したがっている。

 

「タオルケットのようなものはありますか」とルトナダは言った。

「タオルケット?」と問い返すと、こく、と頬が胸板に擦れた。

 

「私のベッド下には、貴方からもらった心の鍵が眠っています。貴方にはそういったものがありますか?」

 

 汚れていて、薄くて、自分の心みたいに貧相なタオルケットを大切にされている。現実味のない話だったけれど、なかばむりやり取っていった当時の言動を思い返すと信憑性は増した。

 

「業のように背負った決意に、私にもつけ入る隙を与えてほしいのです」

 

 ルトナダは全身の重みを委ねるように感情を預けてくる。銃声や悲鳴によって叩き起こされるのではなく、日差しによって意識が少しずつ浮かび上がるような優しい重みを預けてくる。

 

「貴方に私の苦しみが分かりますか? 分かってほしいとは言いませんが、私は少しずつ考えをまとめることができるようになっています」

 

 一呼吸置いて、予想通りの問いが来る。予想通りだとしても答えは準備できなかった。

 

「貴方の苦しみはなんですか? 私が納得しないことですか? それは違うでしょう。それでは……違うでしょう。無理に理解されなくてもいいのです。伝えることが大事なのです」

 

 理解されなくてもいいなんて言うけれど、それではぶつかってばっかりで。壁に叫ぶのと大差ない。理解されないことをルトナダが苦しむのと同じくらい、きっと僕だって苦しみを抱いている。僕が「関係ない」と突っぱねているだけだ。

 

 僕たちはしばらく抱き合っていた。顔を上げたルトナダは疲れたように笑いかけた。

 

 

 

 分からなくなってリスカムに相談した僕は、やはり弱いのだと思う。頼みのリスカムにも「その話は……ルトナダと同じですかね。ちゃんと自分で考えてみてください」と言われ、でもそれはそっけないと言うよりもむしろ慈しむような調子で、言葉をなくした。

 誰も手を貸してくれないのではない。貸せないのではない。自分で解決したほうがいい問題だ、と思われているだけなのだ。

 僕の苦しみは結局、自分でさえ、本質を分かっていないような気がした。理解されないなんて身勝手の裏には、前を進むルトナダに置いていかれるのが怖いなんて気持ちがあるのかもしれなかった。

 

 

 

 任務を終え、重い足取りで自室に戻った。そのまま体を打ちつけるようにしてベッドに倒れ込む。よろよろ仰向けになって、枕の上で横を見た。

 私室は質素だ。思い出すら不要と言外に訴えている気がして息苦しくなった。

 

 何かの罰を受けているみたいだと思ったら、本当にそんな気がしてきた。もしも自分がいなくなったとき、ルトナダが僕の私物を持ち歩かなかったり保管してくれなかったら、悲しい。

 思考を洗い流すためにシャワーを浴びているうち、ルトナダが入ってきた。そのままベッドに潜り込んで寝ていた。

 

 予定よりも早く帰還したので、もしかしたらまだ僕が任務から戻っていないと思っているのかもしれない。シャワーを使っていたのだけれど、風鳴りとかにまざって聞こえなかったのだろうか。あるいは疲れていたのだろうか。真相はどうであれ、僕は首にタオルを掛けたままベッド端にそっと座って寝顔を見つめた。

 

 気が抜けた表情の分、ルトナダはいつもより幼く感じられる。

 

「……?」

 

 薄目を開けて首を傾げたルトナダは、掛け布団から手を出して上にやった。手を重ねるとルトナダの体のほうへ引かれる。

 人を安心させるためにやっていることが逆の効果をもたらすことが、ままある。動けなくて、逃げ出したいのにどうしようもなく安心して、心臓が早鐘を打った。血流は重いのに勢いよく押し出されて熱を巡らせた。吐き気とともに、目頭には感情がせり上がった。

 

 やめてくれ、と思った。

 

 僕は変化を望まなかったのに、どうして彼女だけが前を向くのだろう。前に進めるのだろう。

 

 ルトナダは壁際に追いやれられていたタオルケットを手探りで見つけ、そっと僕の背に乗せた。

 

「貴方の香りは落ち着きます。ここに居着いてもいいのだと伝えられている気がして」

 

 おそろいの刺繍が施された薄い孤独の膜ごと僕を抱きしめる。

 

「貴方のそばに私の居場所はないのかもしれませんが、私のそばにはいつだって貴方の居場所があります。となりをいつまでも空けておきますから、貴方は貴方の好きなところに行ってもいいのですよ」

 

 ルトナダは夢うつつのようなとろとろした目を僕に向け、ほほえんだ。

 何色とも形容しがたい瞳からは感情が読み取れない。夜の森みたいに不気味で静かで、たくさんの木々があるのに孤独を感じさせるような奥に深い感じがする。

 

 夜闇に潜む本心が手を伸ばしている気がした。白い手は自責と自嘲にまとわりつかれていた。緩やかな拍動のたび、ルトナダは苛まれていた。

 ルトナダは自分を傷つけているけれど、僕が傷つけているのと同じなのだ。

 

「探せるかな」と呟いたら、ルトナダは「業を増やしてはいけませんよ」と冗談めかして言うのだった。

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