焼けた肉のにおいがした。
人の肉が焼けたときとはまったく異なる香りに、いつも、どうしてこうも違うのだろう、と思う。音もぜんぜん違う。
店内に充満する香りは鼻腔だけでなく、背中越しにも感じ取ることができた。特有の熱気、みたいなものが香りとまざって僕を取り囲んでいる。
天井から伸びる電灯は優しい光を放っていた。丸い電球の周囲に施された装飾が、特別な日の飾り付けを思わせる。
「おまたせいたしました」
分厚い肉を鉄板に乗せ、ウエイトレスがやってくる。
肉の種類は忘れた。難しい顔でメニューを見ていたルトナダが「これを二つ」と神妙な顔で指したことだけを覚えている。
ウエイトレスは注文を丁寧にテーブルに置いたあと、向きを調整して、伝票を伏せて去っていく。
店内の四隅上部に備えつけられたスピーカーからジャズが聞こえてきて、楽しげな曲調のおかげか、白黒の後ろ姿でさえもほんのりと明るく見えた。
ウッドテイストの床をこつこつと叩く音、銀食器がぶつかる音、肉の焼ける音や人の話し声、曲。すべてが木目に染み込んで未来へと残る薄汚れた証になる。
店内はうるさかったけれど、優しい喧騒に満ちていて、どこか遠のいて聞こえた。音はレースのカーテン越しに見た景色みたいだった。漠然と、いろんな人の人生を感じた。
視界の下で肉汁が跳ねた。僕とルトナダはカトラリーに目をやった。
「……もう食べられません」
感染者がちゃんとした店を利用できることは稀だ。
ロドス本艦から支部へ出かける用事があって、そこで訪れた村にたまたまこの店があった。偶然が重なって魔法が生まれるみたいに僕たちは昼食どころに吸いこまれ、今に至る。
僕たちがロドスに来てから半年が経とうとしていた。
なんとかの肉をお腹いっぱい食べたい。
遺言を丁寧に拾っていくルトナダの活動で、僕たちの注文が決まった。
「残ってるけど」
「……はい」
片手にそれぞれフォークとナイフを持ち、ルトナダはじっと肉塊を見つめる。俯いているようにも見えた。カトラリーの刃先さえうなだれているように感じる。
「お腹いっぱい食べる目標は、達成しました」
「お腹いっぱい食べることと残すことって両立させてもいいの? もったいなくない?」
つい、と目をそらしたルトナダは、二度目の注文でやってきた肉塊を僕におずおずと差し出す。無言だった。
木のプレートと木のテーブルが擦れる音はほとんど聞こえない。各々が自分の生を消費し続ける舞台で、僕たちに気を払う人はいない。店内は一時間前と同じで賑やかだった。
他人を気にかけない雰囲気が心地よく、自分はこのままでもいいのだと背中を押してもらえた気分になった。自分にとって都合のいい情報をさらに都合よく解釈しているけれど、自分のおこないを肯定するためには、身勝手に振る舞う覚悟が必要なのかもしれない。
身勝手に振る舞う覚悟を頑固さと呼ぶ気がした。
プレートはちょうどテーブルのまんなかで止まった。僕の頼んだメニューが邪魔をしていた。
ルトナダは銀のカトラリーを置き場所に戻して、言外にもう食べないことを伝える。
「もらうけどさぁ……」
面倒くさそうな声は奥底で弾んでいて。凪いだ水面の底で感情が動き、気泡となって浮かび上がり、わずかに波紋を生む。
ルトナダの獣耳が跳ねる。ゆっくりと顔を上げてから表情を綻ばせた。
間にある溝を埋めようと、長い時間をかけて、僕たちは少しずつ会話を重ねていた。
「私が多少の冒険をするのは、貴方がつき合ってくれるおかげです」
遺言を叶えていくルトナダの活動を支えることが僕の望みだから。
そんなことを言えばきっとルトナダの顔が翳ってしまう。気づかれているだろうけれど、今は心を見逃してくれた。
僕は茶化すように笑う。ナイフを持ったほうの指を一本ぴんと立てた。
「一つ忠告しておくけど、冒険と不可能は似ているようでまったく異なるからね。ほら……実現できるかどうかの可能性がさ」
ルトナダは決まり悪そうに外を見る。こぶりな耳がほんのり色づいていた。忙しなく獣耳が動き、それとは対照的におっとりした動作で僕に顔を戻した。尻尾が椅子の脚に絡みついていそうな雰囲気がある。
「食べられると……思いました」
「もうちょっと信じやすい嘘のほうがいいかな……?」
「貴方の体重を増やしたくて。ほ、ほら、考えてみてください。最近は筋肉量が増えて、ご飯をもっと食べなければならない、と担当オペレーターの方から言われていたではありませんか」
無言で見つめ続けると、やがてルトナダは長い睫毛を伏せた。
音もなくすっと立ち上がり、テーブルを迂回して僕のとなりの椅子に座る。椅子の足と木の床がこすれることで耳障りな音が生まれたけれど、僕もルトナダもそういったものを一切意識に捉えていなかった。
予備のフォークに手を伸ばしたルトナダは細かく切られた肉塊に手を伸ばし、僕の口もとに持ってくる。肉汁は冷えて固まっていたけれど、肉の下に手を添えるところがいじらしい。
「私は貴方にこうしたかったのです。……その、世間の皆様が言うような……あーんを」
少しだけ伸びた前髪から、薄く透き通った瞳が覗く。明らかに切り札と分かる見え透いた必殺技だった。
ルトナダは密着させた椅子からさらに腰を浮かせる。スパイスの効いた香りにやわらかな香りがまざった。
「……腕がつってしまいます」
「目を見て言ってくれたら食べようかな」
僕たちのやり取りは、そこはご想像におまかせします、と言いたくなるほど秘密裏におこなわれた。
耳を震わせた言葉に追い打ちをかけたくなり「でも僕もお腹いっぱいだな~」と言葉が滑り落ちる。
餌の乗った皿を眼の前で引っこめられた犬のような表情だった。信じられない、と言葉以外のすべてが雄弁に語り、その様子が普段のルトナダからかけ離れていて、面白いような愛らしいような――すべての色をまぜあわせたら普通は黒か灰色になるのに、僕がルトナダに向ける感情だけは鮮やかすぎる色になっていた。
「言いました……私は言いましたから……!」
徐々に一切れが近づいてくる。冷たくかたいものが唇に触れた。ルトナダとキスした、あの八方塞がりでどうしようもなく気持ちよかった暗闇の感触を思い出す。
肉はかたく、飲みこむまでに時間がかかった。視界の下にはまだまだ怪物が待ち構えている。
時間の経過に伴って太陽が沈んでいくみたいに、運ばれてきたときはやわらかい色をしていた肉の外側は影を落としたように色が濃くなり、見るからにかたく冷たくなっている。
じゅーじゅー音もほとんどない。肉汁も飛び散っていない。消えかけの焚き火みたいだな、と思った。
「今度は意地悪をしないでくださいね」
肉を刺す前にルトナダが言った。楽しげに声が弾んでいたけれど、抑揚は僕の幻聴のような気もした。
「しないよ、さすがにもうね」
こんなふうなやり取りをすることは少なかった。だから終わりどころを見つけられなくて、必要以上にからかってしまったかな、なんて罪悪感も少しだけあった。
軽い冗談を交わすことでしか確かめられない友情は脆いと思う。言葉の刃で切りつけあって、いくらそれが冗談であると分かっていても、切りつけられた事実は変わらない。刃が引っこむおもちゃのナイフに切られても、なまくらで切られたのと同じだけの鈍い痛みが記憶に刻まれる。
なんだか申しわけなく思ってルトナダを見る。無表情の奥で揺れる優しさに、心の棘が包まれた気がした。
「……顔にソースでもついていましたか?」
「あーんさせてる側にソースがつくなんてことあるかなぁ」
「あるかもしれませんよ。たとえば、貴方の気を引きたくて、など」
「言ってもらえればいくらでも夢中になるって」
「このような言葉を交わすことが、最近増えましたね」
ルトナダの穏やかな雰囲気にはっとさせられた。殴りつけられたし、刺し貫かれたけれど、実際にはもっと優しい衝撃だったように思う。僕が痛みの強度を錯覚したのだ。
僕の前で一度止まったフォークは、不安定に揺れていて。ルトナダの尻尾から感情を読み取るように、小さな仕草の小さな揺れを感じ取ることができた。
自分の二回目の注文を食べ終え、ほとんど手のつけられていないルトナダのプレートを手繰り寄せる。ウエイトレスは神妙な顔で空いたプレートをさげていった。
「貴方の今日の横顔はとても新鮮でした。表情がやわらかいから……の気がします。他にも何か、私の知らない要因が関係しているのかもしれませんが」
ルトナダは話しながらも手は止めず、ゆっくりと、しかしせっせと細かく切り分ける。
「そう、かな」
頷きとも相槌ともつかない曖昧な言葉はテーブルの木目に吸いこまれた。
ルトナダの視線は冷たくなったプレートに注がれている。真剣な横顔だけれど、言われてみると確かにやわらかくもある、ような気もする。
僕の視線に気づいたルトナダが首を傾げた。どうかしましたか、と言われる前に「なんでもないよ」とほほえんだ。
料理は少しずつ解体され、ルトナダの一口サイズへと変わっていく。僕は彼女の手つきと表情とを交互に見ていた。
ときおり視線が交差してどちらともなく笑った。
一度目の料理を食べ終えたとき、ルトナダはお腹いっぱい食べるのだと張り切っていた。やめたほうがいいんじゃないと思ったけれど、結局僕は何も言わなかった。
「子どものころ、家族ぐるみで一緒にご飯食べたことがあったでしょ。そのとき僕のお母さんがパンを焼く時間を間違えちゃったことがあって」
最初の一口を食べたあと、不意に僕は口を開いた。
ファークで刺したままルトナダの手が止まる。困惑をありありと瞳に浮かべていた。
「そのときさ、僕もルトナダも、一口だけ食べたんだよ。焦げて墨みたいになったパンをさ。それで、こんなの食べられない、って言ったんだ。……そのときのパンが、今さっきルトナダが僕に渡したステーキみたいにほとんど原型そのままだったなって」
ルトナダは嬉しそうな悲しそうな、自分の胸に生まれた感情を必死で掬っているような沈黙を生んだ。
僕たちを取り囲む喧騒は遠い。壁越しにくぐもって耳に届く。店内の光は僕たちの間を取り持つ飾りにすぎなくて。周りの世界を僕たちはほとんど認識していなかった。
「こういうことを話したのって、もしかして初めてかな」
恐る恐る口にした僕を見て、ルトナダはゆっくりと頷いた。
「申しわけありません。私もまだ、貴方の言ったことを反芻している最中なのですが……私たちの間には、村が焼かれる前のことを話してはならないという暗黙の了解があったように思います。ですから貴方の言葉を聞いたとき一瞬だけ現実味を失いました」
それから慌てたように「嫌だったわけではありません」と付け足す。
フォークが甲高い音を立てて床に落ちた。先から外れた肉の一欠片が床を転がり、急いでやってきたウエイトレスに拾われる。
ルトナダは頭を下げて新しいフォークを受け取ってから、慎重に口を開いた。
「貴方は……私に、気を遣ってくださるので。私が忘れたことすら忘れているものを掘り起こさないでいてくれます。記憶に土を被せ、輝きを掘り起こさない優しさです」
「でも、そういうルトナダの反応を見られるのなら今度からは話してもいいかもね。ちょくちょくあるから」
「楽しみにしていますよ」
勢いよくフォークが刺さり、ぷしりとわずかに肉汁が飛ぶ。小さな油の飛沫は電灯を受けて鈍くきらめいた。
ルトナダの手先は器用で、何かを修復して売る活動が、思い出を修復して人に託す活動に変わった。物を直すことは変わらず、目的や直ったものがどこに行くかだけが変わった。
一つひとつ丁寧に向き合ってもらった遺言の中には、子どもにぬいぐるみを縫ってあげることや植物の栽培なんかも含まれていた。
肉をお腹いっぱい食べるなんて不思議なことを考える人もいるのだな、と肉の味に飽きてしまった頭で考える。
「貴方が食べるところを観察した回数は、実のところそう多くはありません」
そんなときルトナダは話し始めた。
「いつも早いですから」
胃の調子が戻り始めたらしく、彼女は小さな口の先にフォークを持っていった。
「……戦場では生き延びることが優先事項でしたから、娯楽のための食事というよりも、生存のために取る食事が多かったことを覚えています。それと比べると、この場に居合わせた方々はみな楽しそうな表情を浮かべていて……貴方も私もどこか、食事の風景が淡々としているように見受けられます」
「周りの人たち……?」
そこでようやく僕は周囲を気に留めた。一気に世界から色と音が戻ってくる。
ルトナダと歩く世界がこんなにも鮮やかなことが意外だった。二人きりの世界を楽しむだけでは、思い出は増えないのだ、と思った。
思い出は世界と僕たちの繋がりを指していて、二人きりの道の最果てには、きっと孤独の深い闇が横たわっている。
世界を認識した途端、強烈な胃の圧迫感を覚えた。
「もしかして僕たちだけ場違いみたい?」
僕の言葉にルトナダは悲しい笑い方をした。現実に無自覚でいることのほうがつらくないことが、あるのかもしれない。
結局どれだけ時間をかけても完食することができなくて、ゲントに変わってもらうよう頼みこんだ。億劫そうな返事とともに、意識の底から気泡が昇ってくる。僕の視界は眠りよりも深い闇に覆われた。
「これからどうすんだよ」
通算で五個目となる肉塊を食べながら、ルトナダを睨むように見る。
ルトナダは正面に戻っていた。ときおりナプキンを手に立ち上がり、俺の口もとをごしごし拭きにくるが、抵抗したところで無駄なことを早いうちに学んだのでされるがままだった。椅子の上で無意味な攻防をして、周囲から意味ありげな視線を向けられたくはない。
「ロドスに戻ってから……お前の目標手伝わせるのか。これからもずっと追悼の手伝いを続けさせるのか。そのままでお前は妥協するのか?」
適当に切った肉は一切れが大きく、口の端からあふれた欠片を口内に押し入れた。届いたばかりでまだ熱いけれど、食べられないほどではない。頬にべたついた感触が残る。ルトナダが切り分けてくれようとしたのを俺が固辞したのだった。
ルトナダはわざとらしく眉根を寄せて、困りました、という表情を作る。
「どちらがいいと思いますか?」
「俺に聞くなよ」
カウンセリングはルトナダのほうが順調だ。ビリアは自分という存在をルトナダの存在ありきで考えているから、自立した思考を持つことに苦労しているようだった。
生まれたときからずっと一緒にいた人から離れろと言われているのだ。しかも親などいない環境で、長い間、命を預けあったものから引き剥がされようとしているのだ。時間がかかっても仕方がなかった。
最近の二人はそう考えているんだろうな、というのが見え透いていた。
ルトナダは遺言を一つひとつ実行していくことを決めた。それが追悼の手がかりになるかもしれないと決めて。
そしてビリアは、ルトナダの意思を継ぎたい、ルトナダの望みを叶えたい、と言った。装備を見繕うことの次の趣味だった。
二人の関係は着実に前に進んでいる。しかし、いずれ分かたれる運命を覆すほどの決意はないように思う。心に正直に話せるようになっただけでは、死という自分たちにとって身近な現象ひとつ越えられない。
「別にお前たちの進み方は否定しないがな……お前、ちょっと前まではもう少し頑固にあいつを突き放してただろ。一緒にいたい気持ちもわかるが、死ぬ用意を進めておかないと痛い目にあうぞ。お前が痛い目にあうのならいいだろうが、あれは一人なんだ」
ビリアもルトナダもこのままではいけないと分かっている。しかし、いつか結論を出す、なんて不透明な霧でいずれ途切れる未来を見えなくして、話を先送りにしたまま過ごしている。
いきなり断裂したとしても誰も責任を取ってくれない。自分に向かって火の粉はふりかかる。振り払うのもまた自分しかいないのだ。
「貴方が慰めてください」
心を掠めたような呟きに手が止まる。先ほどまで俺を心配していたルトナダは、今度は自分のことで手いっぱいなように見受けられた。
「何言ってんだよ……俺はあくまで装飾品に過ぎない。俺に何かを求めるな」
「貴方だって逃げてるじゃないですか」
「お前な」
「自分には関係がないと、ビリアの望みこそが自分の望みであるというふうに振る舞って。私にはそれがビリアに重なります。貴方はそれを気づいていないふうに装っているだけなのではありませんか?」
フォークとナイフが震えた。長いこと持っていたから金属に特有の冷たさはなく、芯からたぎる熱に共鳴しているような気がした。
素直になったルトナダほど厄介なものはない。こいつは俺の苦手なところを刺してくる。
眉間から力を抜いて少しずつ意識を緩める。神経は流れるように張り詰めていたけれど、ぷつんと途切れることはない。
カトラリーを置くと、プレートに戻った肉が間抜けな音を立てた。
「俺はな、ビリアのことがいちばん大切だ。あいつが俺の生みの親で、あいつがいなければ俺は始まらなかったから。だから大事だ。そして意外かもしれないがお前のことも大切に思っているんだ。だけどな、ビリアが大切にしているから大切なのか、お前と何度も夜を過ごして愛着が湧いているから大切なのかが分かっていないんだよ。それが俺の現状で、これをどうこうしようなんて思わない。俺はお前に近い考えを持っている」
ルトナダはテーブルの木目を数えるみたいにして黙りこむ。テーブルの下の影になった部分には魔物が潜んでいる気がした。
「俺には戦うことしか脳がないから、戦いがあるのなら出ずっぱりでもいい。だがな、別に表に出なくたっていいんだよ。この体の本来の持ち主は俺じゃないんだ。俺はひっそり消えてもいい。そう思っているから別れを許容しているんじゃないか」
「貴方が本心を話してくれたのは、初めてですね」
くすりと笑うルトナダにいらだちがこみ上げる。笑ってほしくて言ったわけではなかった。
「黙ってりゃよかった」
「そう不貞腐れないでください。とても嬉しかったんですよ。なんでも分かったように話す貴方から飛び出る迷いは、珍しいような気がしましたから」
「お前俺のことどう思っているんだよ」
ルトナダ悩むような仕草を見せてから、自分を嘲るように歪な表情を作る。
「ロドスのように、しっかりとした航路を持っているように思います。私は小さなころから漠然と、あなたの手に収まる羅針盤を羨ましく感じていました。貴方の手が実際は虚無を掴んでいるとしても、私には羅針盤が見えていたのです」
「別に俺はそんなんじゃ」
「持っているように見えるだけで羨ましく思うのです。私が先ほど貴方に当たったのは、もしかすれば、羅針盤を持っていないように見えて理想が幻想に置き換わったことに腹が立ったせいかもしれません。私は昔から貴方に対して身勝手をはたらいているのかもしれません」
憧れを押しつけられるとろくなことにならない。だが、そんなに自分を斬りつける表情で押しつけられては、返せる言葉も返せない。
「本音を言うことを覚えたお前は厄介でしょうがない」
傷に顔を歪めながらルトナダは笑う。
「でしたら厄介ついでに、もう一つお願いを聞いてくれませんか?」
「断る」
「貴方も大切ですから消えないでください」
ルトナダは歳下のような雰囲気を一転させて「お願いです」と言った。
「もう一度言いますが、私がいなくなったらビリアを支えてください」
「断る」
俺の語調は変わらなかった。お願いです、はどちらにもかかっているのだと推測できた。
ルトナダはきれいな眉を寄せ、困ったぞ、とでも言いたげに鼻先にしわを寄せる。
「お前がなんとかしろ」
話に夢中になっていたせいで肉は固くなっていた。おいしいままだったけれど、少しもったいないことをした気分になる。この話を続けたくないから、肉汁は熱いほうがおいしいな、などと関係ないことをあえて考えた。
ルトナダはテーブルの下にある手をじっと見つめているように見えた。
「私が悲しむことを、ビリアは望みません。ビリアの望みを叶えるために生まれたのが貴方ということなら、ビリアの望まないことをしないのが貴方です」
「何を言いたい」
「つまり、貴方は私が悲しむことをしてはならないということです」
睨みつけても無表情は動じない。それどころか勝ち誇ったような雰囲気すら醸している。腹立たしかった。
その腹立たしさは苛立ちと言うよりも、むしろ、くだらない三段論法を使ってまで意見を押し通そうとする子どもっぽさへの呆れに近かった。
大切という矢印を向けられていることへの感情や、おかしさや、親愛の情を、おそらく腹立たしいという言葉に変換していた。自分が気に食わなかった。
無言のまま肉を食べ進めると、半分ほどなくなったところでルトナダは口を開いた。
「今の話は仮の話ですから、最悪の事態を想定した話なのです。どうかあまり気分を害さないでください」
「別に害されたとかではない」
「言質ですね」
「お前なぁ……」
重たいため息をついたちょうどそのとき、がこん、という衝撃が耳を襲った。鉄板の上に乗った肉塊が跳ね、着地と同時に香ばしい音を立てる。
戦場に出たらすぐに死んでしまいそうな小太りのおっさんが側面にいた。赤い面と独特の臭気から、木製ジョッキの中身を察する。
もう一度ため息をついたら、「ため息とはなんだぁ!」とおっさんは声を荒らげた。音を投げ飛ばすような言葉尻で、「なんだ」よりも「なんら」と言った気がした。思わずプレートを反対側に寄せた。
「さっきから辛気くさい顔ばっかして……せっかく若いもんらがデートしてるんだったらもっと楽しそうにしなくちゃ――」
「はいはい」とおっさんの言葉を遮り、テーブルにジョッキが二つ置かれた。
「ずっといるんだし一つはサービスってのと、あともう片方は場所代だよ。嬢ちゃんの分、もうちょっとはもらわないとねぇ?」
ウエイトレスという風貌からはかけ離れた豪気なおばさんが現れた。
「あんたさんらが思ってるよりも周りには楽しいものが――」と引きずられて遠ざかる声を聞きながら、ルトナダと目を見合わせる。
「なんだ、今の」
「……私たちはある程度楽しそうにしていたと思ったのですが、まだまだ足りないのかもしれません」
「待て――おい手をつけるな!」
神妙な顔のルトナダを制止するも、俺に行動を止められる道理はなかった。店に長時間、ほとんどタダで居座っているのだ、と遠回しに言ってきたおばさんの言い分はまっとうだからだ。
重い音でルトナダに手繰り寄せられるジョッキから液体と泡が飛んだ。嫌な予感も弾けて飛んだ。もはや手の施しようがない。
互いに酒は初めてだった。
どうやらこの飲食店は、夜になったら酒場になるらしかった。周囲を見回して、窓ガラスが店内を反射するのを見て、深々と三度目の息を吐く。どこかのことわざで『仏の顔は二回まで殴っていい』というのがあるらしかったが、回数を超えている。俺ではどうしようもないと思った。
椅子や机が爆発に巻きこまれたように轟音で散るのを見て、ビリアへ合図を出した。天井灯のまっしろな光は、裏に引っこんでも思考の中でちかちかしていた。
暗い夜道だった。道にある障害物にぶつからない程度の足取りで僕たちは事務所へ戻っていた。
交代したら酒場だった飲食店は、なんなら途中からパーティー会場へと変じた。三つの顔を持つ女みたいにころころと変わった店内は賑やかなまま閉店を迎え、名前も知らない全員から見送られて今に至る。
特別な日みたいだなと思っていた装飾はどうやら真理をついていたらしい。夜風に当たって幾分か冷静になった頭が結論づける。
「ルトナダ。大丈夫?」
泥酔する耳にも届くように、ゆっくりはっきりと発音した。ルトナダはぴくりと反応を返しただけだ。彼女は酒にめっぽう弱かった。
酒を飲んだまではよかったものの、お客さんの誰かがダンス大会を始める前に退散するべきだった。体を動かしてさらに酔いの回ったルトナダが店内に留まることを望んだのだ。
「いきますよ」
記憶にあるルトナダの頬は薄赤い。電灯によって鮮やかな血色になっていた。振り返りざま僕の手を握って尻尾を絡みつかせて、ルトナダは歓声に飛びこんだ。
無論、酒の勢いもあったと思う。
でも僕は、ルトナダとこういうことをしたいと心のどこかで思っていたのかもしれない。
体をくるくる回すと、景色と天井が光の尾を引いたように感じられた。光は途絶えることなく視界に残り続けた。
踊っては休み、また踊り。囃し立てられて何度も繰り返した。
踊りの心得なんて必要なくて、世界に必要なのは楽しむ心なのだ、と店内の全員が思っていたに違いない。
そのときに初めて、僕は、くしゃっと笑う彼女を見た。記憶のどこを探しても見つけられない華やかな笑みだった。
切り取られた一瞬は鋭く、死臭のように長い時間をかけて肉に染みたわけではなく、鮮やかな一撃として僕に刻まれた。
曲はあってもなくても同じだった。そもそも店内の賑やかさにかき消されて音が拾えなかったし、もし曲のリズムがしっかりしていたとしても、リズムになんて乗れないからだ。
肉を調理することで生まれる熱と香りに、人が集まったときに特有の熱気がまざる。かき混ぜられた室内の空気はある種の戦場と表してもよかった。外から入ってきた人が嫌厭しそうだけれど、中に居続けた人からはさほど気にならないような、陶酔感がなければ耐えられない臭気だった。
自分の熱かルトナダの熱か、触れた場所はとろけてしまうほど熱かった。
世界の彩りを五感のすべてで感じたのは初めてだった。
天啓のように、この顔が好きなのだ、と思う。
視界の隅々にまで一瞬で色がついて、この笑顔を見るためならどこまでも行ける気がした。どこまでも行きたかった。
いつもより疲れの溜まった体を引きずって事務所まで歩き、着替えもそこそこにベッドに倒れ込む。電気をつけても事務所は暗かった。どうでもよかった。どうでもいいけれど、投げやりなどうでもいいじゃなくて、気にならないという意味でのどうでもいいだった。
「疲れた……」
呟くと、一緒に横になったルトナダが目をくれる。口を開くのも億劫だと言わんばかりの表情で頷いた。
頭だけ起こして周囲を見るけれど、特に変わったところは見当たらない。支部に滞在しているうち、いつのまにか後方支援部の倉庫みたいになったくらいだ。ずいぶんと物が増えたから、本艦に運ぶには骨が折れると思った。でも今日はもう休んでいいだろう。
「笑顔、よかった」
「えがお?」
「うん。好きだった」
ルトナダのどこか気の抜けたような珍しい表情に頬が緩む。横向きで見つめ合ったまま頬を撫でた。ルトナダはむずがるように喉笛をさらけ出した。
晴れやかな倦怠感に包まれてひと眠りした。
目が覚めるとルトナダは起きていた。僕と目が合った途端「笑顔を浮かべていないときの私は好きではありませんか?」とどこか拗ねたように尋ねてくる。
「そんなことないよ」
「本当ですか」
「本当に」
寝起きの声は疲れを引きずっていた。窓に目を向けるとまだ暗い。深夜に目を覚ましてしまった事実を朧気に認識し、もう一眠りできるのだと意識を手放しかけた。
「信じましょう」
「……そんな簡単に信じたら騙されるよ」
「騙さないでください」とルトナダは、まどろむ僕を現実の縁に留めるみたいにのしかかってくる。
アルコールのにおいがした。どちらの呼気かは分からない。
「まだ酔ってる?」
「わずかに」
「眠った?」
「途中で起きてしまいました」
「そっか」
ルトナダは僕の気を引きたいのか、執拗に尻尾で「構って」と伝えてくる。
「酔ったときは水を飲むといいんだって。持ってこようか?」
「貴方が水を持ってくるのは珍しい気がします」
「そうかも。いつもは持ってきてもらってばっかりだし」
沈黙があって、ルトナダは「朝になれば覚めていると思います」と言った。
それきり部屋は静かになった。けれどもルトナダは僕に眠ってほしくないらしい。特別何かを言われたわけではない。ただ、不器用な雰囲気を感じ取っただけだった。
「今までは……僕が喜ぶよりも、ルトナダが喜ぶことを優先してたけどさ」
僕は口を開いた。酒の影響はあったけれど、確かな感情に基づいた確かな口調だった。
「でも今日の……あー、昨日の? 夜みたいに、くしゃっと笑った顔を見るのも同じくらい好きなんだなーって思った。今まではそんな顔見せたことなかったじゃん。だから見たとき、時間が止まったんじゃないかって思った」
頬が熱いのは、いまだに残る酒のせいにした。
「望み云々じゃなくて、笑っているところを見たいから一緒にいるのは駄目なの?」
一周回った理論が単純なように、僕の結論も単純だった。
ルトナダは戸惑いを見せた。
僕も話の接ぎ穂を失っていた。着地点を見据えてボールを投げたのでなく、衝動に任せて勢いよくボールを投げたので、どこに落ちたのかまったく見えなかった。
誰かの後をついて歩くことほど簡単なことはない。考えなくて済むから。同様に、誰かに目標を決めてもらうことのほうが楽だ。
自分で定めた、正解かも分からない目標に向かって歩く不安に耐えられない人がいるのだと思う。間違えていたらそれまでの全部が無駄になったように感じられて、歩いた距離と年月の分、気づき一つで圧みたいなものが落っこちてくる。その痛みに耐えられない人だっているだろう。
だから僕もまた、信頼できる人のためなら無駄を重ねてもいいなんて言い訳で自分を着飾った。装飾品まで身につければ、見れるかどうかはさておいて、ひとまず服を着ていることに代わりはない。裸よりもずっとマシだと思う。
それに、自分が信頼している人なら、きっと僕よりも間違いが少ないかもしれないし。
そんな中でやっと見つけたのだ。分厚い雲の向こう側にある輝きに胸を灼かれた。広がった青空はどこまでも澄み渡っていた。
ボリバルでは永遠に出会うことのできなかった景色は、最も親しい人の心の中に眠っている。引き出したい、と思った。
「大切な人が優しい顔をするのもいいけど、笑うのもいいじゃん」
そう締めくくると、首もとにくっついていたルトナダは顔を上げてまじまじと僕を見た。二の句が継げない、と感情の読み取りづらい瞳が伝えてくる。一の句すらなさそうだった。
常夜灯の中、暗闇に慣れきった目で見つめ合う。神聖さすら感じ取れる沈黙が募った。これを破っていいのは当事者だけで、
「ずっと顔上げててさ、腰痛くない?」
「……痛いです」
「痛いかぁ」
ルトナダがゆっくりと首筋に戻る。
「笑顔を浮かべる練習をすればいいのでしょうか」
ルトナダは思い詰めたように言った。
ルトナダの肩甲骨と背筋の間に親指を当てて力を込めると、彼女はわずかに声をもらした。しばらく揉んだあとに僕は自分の手を休めた。
「僕がルトナダの笑顔を見たいのに、ルトナダが笑顔の練習をするの?」
「はい。私もまた、貴方に捧げたいのです」
「なんか……どこかで話がぐにゃってしてるね」
ぼーっと天井を眺めた。答えが降ってこないのは分かっている。かつての自分は星空を見上げながら、あの輝きをどうやったら掴めるかと考えていたから、さすがに学んでいた。
「私も練習しますから、貴方も、私が笑うようなことを考えてください」ルトナダは僕が答える間を置かず「楽しみにしていますよ」と続けた。声音は弾んでいた。薄暗闇の中でもルトナダの笑顔は輝いていた。
「ひとまず眠ろう」
ルトナダの頭を撫でた。すべてを委ねるようにルトナダは僕にくっついた。
幸福とは、境遇や環境に関係なく、二人が協力して、努力して作り上げるしかないのかもしれない。
僕たちは暗くても幸福だった。未来が暗くとも、幸福だった。