貴方の望みと歩くまで   作:ぞんぞりもす

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一二話

 遠いところまで来たのだと思う。灰色と泥と血に塗れたボリバルにいては一生見ることができないような草原が眼の前に広がっていた。

 

 太陽の輝きによって草花の緑が鮮やかになって、風にそよいで波が生まれる。テラを取り囲む海とは比べようもないほど穏やかな波音だった。

 若草の青い香りの向こう側から、うっすらと川のにおいがやってくる。馴染み深いドブの香りだった。

 橋向こうの都市群に先ほどまでいたけれど、その中は薄暗いジャングルみたいで、でも川をまたいで見ると、薄灰色の高い塔ですら楽しげに揺らめている気がする。

 

「午後からは空いていますし、せっかくですから。ここでお昼を取りませんか?」

 

 ロドス本艦が補給のために停泊した場所で、外出が必要な用事をドクターから頼まれた。その帰りのことだった。

 

 ルトナダは道から外れ、くるぶしほどの丈に分け入っていく。緑の波に乗って編み込みが尾を引いた。片手にはバスケットが提げられている。ロドスに戻ったら食べよう、などと言って道中で購入したものだ。

 

 小さな背中が遠ざかる。細い尻尾がメトロノームみたいに揺れて、ときおり草の先をぺしんと叩いた。下にばかり視線が向いて慌てて顔を上げたら、陽光に獣耳が踊っていた。

 

 

 道になっていない草に僕も分け入り、ルトナダの待つ木陰まで向かう。

 ルトナダはリュックからいそいそとシートを取り出し、ついでに水筒も取り出した。全財産を持ち歩いていたリュックは、いつのまにか嗜好品を持ち歩く入れ物に変わっていた。

 

「いいよ、広げるから」

 

 シートと水筒、提げたバスケットを装備して固まるルトナダからシートだけを受け取る。草に隠されたつま先を見るルトナダの頬と耳には熱が集まっていて、色づき方の穏やかさに、朝だけに咲く神秘的な花を重ねる。

 「すみません」と言いながら彼女はゆっくりと花柄に腰を下ろした。

 

 偽物の花は木の葉で加減された太陽を受け、本物みたいに楽しそうに見えた。偽物だろうと、僕が本物と思えば魂が宿る。

 

 ルトナダが座ってもシートには余裕があり、そういうことなんだ、と思う。一緒に買い物に行くこともあるけれど、そのときは買っていなかった気がする。

 誰かと出かけた先の店内で、たくさんのシートを前に気難しい顔をするルトナダを思い浮かべる。

 

 どしん、と腰を叩きつけるみたいにして座る気は起こらなかった。体を乗せたらしわで歪んでしまうけれど、できるだけ柄にしわが寄らないように座った。

 

「アーミヤさんがこの地域で有名な飲食店を教えてくれました。数日前の夜遅く、わざわざ倉庫まで来てくださって。一緒に行ってみてはいかがですか、と。アーミヤさんからは、私たちほどは濃くありませんが、確かな香りがします。それを感じさせないやわらかい笑顔でした。あとでそのときの様子を聞かせてください、とつけ足してから足早に去っていきました。扉の先が倉庫よりも明るかったことが印象に残っています」

 

 それを話すルトナダの表情も優しい。無自覚なんだろう。指摘したら損なわれる気がして「うん」とだけ言った。

 

「その店はテイクアウトができなかったので、後日、テイクアウトのできる店を私は尋ねました」

「テイクアウト? 店内で食べてもよくない?」

「……また踊りに巻きこまれてはひとたまりもありませんから」

 

 ルトナダの口もとが感情を描く。

 ちゃんと覚えていて笑えるじゃん、と思ったら僕もつられて笑顔になった。

 

「それに、大切な人と、きれいな風景が見える場所でご飯を食べてみたかった、ピクニックがしたかった、というお願いも私のもとに届いているのです」

 

「申しわけありません」とルトナダは囀る。細められた目は人生を斜め下に見ていた。

 

「本来ならば、私が自らの意思でこのような提案をすべきだったのかもしれません。しかし私には思いつきませんでした。ロドス本艦にてオペレーターの方とすれ違った際に言われ、照明の絞られた廊下の先に、貴方の姿が浮かんだのです。このような理由から、私は今日、貴方と河川敷にいるのです」

「その提案は思い浮かばなくても、提案を聞いたときに僕が思い浮かんだんでしょ? じゃあきっといいんだよ。誰かの望みに自分の希望を託すのって……あるでしょ、そういうの」

 

 僕みたいに。

 遠回しに自分を肯定しているみたいで、無意識の狡猾さに嫌気が差した。後半にかけて失速した声音は気づかれなかったと思う。

 

 心の隙間に不安が入りこむのが嫌でいやでしょうがない。なかば衝動的にルトナダと腕をくっつけた。

 共有したからといって苦しみが消えることはないし、分け合えることだってたぶんないけれど。身を寄せると表面積が大きくなり、どうしようもない寂しさの闇がほんの少し遠ざかり、光の範囲が広がるのだと思う。どうにかして光と闇の境界線を押し広げたかった。

 

「食べよう、せっかくだしさ」

「……紅茶もあるんです。新しい茶葉で淹れてみたんですよ」

 

 水筒の頭が外れる。一つのカップを二人で分け合う。

 

「日中でも湯気が立ち上るのですね」と言ったルトナダの視線につられて上を見た。太陽に気づくときも気づかないときもあるけれど、光はずっとそこに居続ける気がした。

 

 

 目覚めた場所から果てしなく遠い場所まで来たかと思えば、ぶり返しみたいに感情が反射して、元いた場所から一歩も進んでいないんじゃないかと思うこともある。

 不安に揺られながら、景色だけが進んでいるんじゃなくて、僕の心だって進めていると思いたかった。

 

 

 ルトナダが具材を食べるのに失敗して、上下の食パンだけをさらっていった。思わず僕は笑ってしまい、それきり僕たちは言葉をかわさなかった。

 今度は僕が中身を引っこ抜いてしまい、慌てて残りの食パンを口に押しこんだ。ルトナダが口もとを隠す様子を視界の隅で捉えた。

 

 片手でも持てるような小さなサンドイッチを、ルトナダはちょこんと両方の指先で挟む。言葉の隙間を風が攫って、草花はゆらゆら、ゆらゆら、川向こうの灰色の上部まで上る。過ごしやすい午後が始まった。

 

 バスケットの中は半分まで減った。

 

 大きいサンドイッチや小さなサンドイッチがあった。

 具材も様々で、ルトナダはレタスが入っているやつを好んで食べている気がする。中身が分厚いカツとかだと一口に収まらないし、噛み切れないし、とときたま視界の端でもごもご格闘を始めるのがおかしい。見ていたのがバレると感情の読めない瞳で見つめ返されるので、盗み見ることしかできなかった。

 

 無言の攻防のすえに、ふとルトナダは口を開いた。

 

「手帳に記録をつけ始めてから、考えることがあるのです」

 

 やわらかな日差しの下で、その言葉は異様な調子をもって耳に反響した。

 

「考えること?」

「はい……いえ。考えることではなく、あるときに思いついてしまって、それ以降に頻繁に考えるようになったことです」

「君を教えてもらえるんだね」

「えぇ」

 

 見つめ合い、ルトナダはポケットからハンカチを取り出す。水色がゆるやかに視界にあらわれ、口の端を優しくこすった。

 

「私はイエロースカーフという名を過去のものとしました。しかし思うのです。名乗り続けることこそが、スカーフを巻いてくれた人への唯一の追悼になったのではないか、と」

「それは……」

「私が生きていることの最も優れた証明が、その名だと思うのです」

 

 現実には、目に見えない罠があふれている。安全だと思って靴底をつけた瞬間に刃がさくっと体を襲う。

 口の中が一気に乾いた。ぱさついた感触が指の腹から伝わってきた。シートが身じろぎに反応してごわついた音を立てる。

 

 母親が巻いてくれたのかもしれない、とルトナダはうっすら気づいているのだろうか。村にいたときの話を僕がするようになってから、ルトナダの記憶は徐々に蘇っている。一緒に受けたカウンセリングで明らかになっていた。

 

「死んだ人の感情を知るすべはないよ」

「……でしたら私のしてきたことは」

「残された言葉を推し量ることしかできないんだよ。遺言の奥に眠る感情は、僕たちが勝手に想像したものにすぎない。でも自分なりに噛み砕いた解釈が一番の手向けになると思う」

 

 腿の上に重ねられた手がぎゅっと握られる。

 

「それに名前を背負い続けたほうがよかったのかもしれないけど、名前だけが望みをあらわすわけではないよ」

 

「きっと」とつけ足したのは、言葉に願いを乗せたかったからなのか、それとも自信がなかっただけなのか、自分でも分からない。

 

 記憶の中でも物理的にも色褪せてしまったスカーフを身に着け続けること。生き続けること。

 それがルトナダのお母さんへの一番の孝行になるだろう。感染してしまったルトナダには絶対に言えないけれど、いつか面と向かって言える日がくればいいと思う。

 

 そのときふと、僕のお母さんはルトナダと一緒にいてほしかっただけで、寄りかかりすぎることを望んだわけではないのかもしれない、と思った。

 思考にまとわりつく黒い靄を払うために、僕は精いっぱい優しくスカーフを撫でる。

 

「これも大切な証だと思う。村が焼かれた日から今に至るまでを貫く、大切な誰かの大切な願いだと思う。ルトナダはちゃんと一緒にあるよ」

 

 ルトナダの瞳が揺らいだ気がした。長いこと見つめ合って、僕はふと、何かを求められていることに気がついた。

 おずおずと手を伸ばす。頼りない体でここまで歩けたことが奇跡のようだった。抱きしめるたびいつも思う。

 

 僕の抱擁は、強く抱きしめるというよりも、変形しやすいものを包みこむような優しいものだった。

 

「えい」なんて抑揚の少ない掛け声とともに体重がかけられて、彼女の重みを感じる。空転した視界の先に煤けたような梢があり、緑の屋根がかかっている。隙間に光が散った。

 戸惑いによってびくつく尻尾を絡め取られ、視界が影に覆われた。

 

「たくさんの方の望みとともに、私はこれからも歩くのでしょう」

 

 抱きしめていたはずが、いつのまにか抱きしめられていて。しばらくそうしていた。

 ルトナダは体を起こした。僕の両頬がそっと包まれる。

 

「聞いてもらえてよかったです」

 

 逆光なのに笑顔が浮かび上がった。胸を撃ち抜かれたような衝撃が走り、全身がこわばる。

 

「どうですか、私の笑顔は。貴方の心を明るく照らすことができていますか」

 

 僕たちの間にあったはずのバスケットがない。ルトナダはこそこそとバスケットに蓋をし、邪魔にならない位置まで寄せていたらしい。

 視線が逃げて、思考がそれて、頬への力が強くなる。

 

 見つめ合ったままキスをした。

 

 僕たちはそろって脱力し、シートに体を重ねた。ルトナダは満足そうに笑っていたけれど、僕は似たような笑みの中に濃い疲労が滲んでいたように思う。

 

 

 

 晴天を突き崩すような笑い声が聞こえ、遠くから名を呼ばれていたのが徐々に近づいてくるみたいに音が近づいてきた。

 

「起きたのですか」

 

 いまだ僕の上にいるルトナダは不服そうに言った。唇の先が赤い艶を帯びている。

 言葉を返そうとして、口内が変にぬらついていることに気づく。溜まった唾液を数回に分けて飲み下す必要があった。

 

「まだ寝てたほうがいい?」

「おまかせします。貴方が寝ているのであれば、私はもう少しだけ寝顔の観察に従事することができます。頬に触れて遊んでいる途中でした」

「遊んでいる?」

 

 あ。とでも言うみたいに小さく口を開け、ルトナダは口を閉ざした。たっぷりと間を置いて、「申しわけありません」といかにも申しわけなさそうに睫毛を伏せる。

 

「口が滑ってしまいました」

 

 いきなり口を塞がれたものだから、眠気は驚きに蹴飛ばされた。

 

 子どもの甲高い笑い声で僕は起きたと思ったのだけれど、もしかしたら違うのかもしれない。我に返った僕が肩を押すまで、ルトナダは唇を押しつけていた。

 

 

 体を起こして筋肉をほぐしているうち、視界は開けていった。

 浅瀬で数人の子どもが水を跳ねさせている。僕たちが寝ているときにやってきたのだろう。保護者らしき人は見当たらなかった。

 

「村にいたころ、近くに川はありましたか?」

「あった気がするなぁ。酒場のほうに一つと、街道を挟んだ森の奥に一つ」

 

 昼食の時間がすぎ、特別急ぐ用事もなかったため、視線は自然と子どもに向かった。話の内容もつられてそこに向かう。

 

「私たちも……したんでしょうか」

「あんなふうに?」

「はい」

「どうだったかなぁ」

 

 周囲の景色はほとんど何も変わっていなくて、木の陰が少しずれていることに時間の経過を意識する。ふとした瞬間に認識する現実は、ときおり、周囲の彩りに気づけなかった自分をあざ笑うかのような鋭利な鮮明さと、逆に先行きの不透明さに焦燥が駆り立てられるような黒い鈍痛をもたらすことがある。

 妄想が壊れる瞬間が前者で、不安に襲われるのが後者な気がした。現実は痛い。その痛みを繰り返して僕とルトナダは並んで座っている。

 

「自由そうだよね」

「私には楽しそうに見えますが」

「どっちも似てるくない?」

 

「どうでしょうね」と言ったルトナダの髪がそよ風になびいた。彼女は薄く広がる髪を耳にかけ直した。

 

「でも僕たちには、あんなふうな自由がほとんどなかったかな」

「場所が場所でしたから」

「場所っていうか、過ごした時間が短かったからじゃない? もしもあのまま何も変わらなかったら、大人になった僕たちにだって似たような記憶がきっとあったよ」

 

 活動に責任が伴わないうちは自由でいられるのかもしれない。けれど僕たちはほとんど最初から、自分の活動の責任を、命という形で取らなければならない環境にいた。

 

「思い返せば自由なんてなかったけど、それなりに幸福だったのかもしれない」

 

「自由は幸せのアクセサリーなのかもしれません」とルトナダは冗談めかして言った。少しして、無言の僕に「何か言ってくれませんか」と言った。

 僕はしばらく子どもたちを眺めていた。幼い手は水を掬って飛沫を生んだ。川から飛び出た水は陽光を受けてきらきら輝いた。

 

 そうして彼女がコートの袖を引っ張って答えをせがみ始めたころ、僕はようやく言葉を見つけた。

 

「君にはアクセサリーがよく似合っているよ」

 

 

 

 子どもたちは男子が四人で、女子が二人だった。このさき何人が大学に進んで、別の都市や国に行って、結婚して、徴兵されて死ぬのだろう。あるいは家を追われて感染者となり、差別される身へと落ちるのだろう。

 僕たちは最悪を引いてしまったのかもしれない。物事の大半は取り返しがつくのに、取り返しのつかない運命を引いてしまった。

 

 大人になるにつれ、どうして雁字搦めになるのだろう。大切にしているつもりでも気がついたときには指の隙間からこぼれ落ちて、その事実さえ忘れてしまう。勢いがほしかったのかもしれない。自分を縛る鎖を断ち切ってくれるような、流星が落っこちるような輝きと勢いを。

 

 僕は不意に立ち上がった。

 

「川のほう」と言ってとなりを見下ろすと、不思議そうに首を傾げるルトナダと目が合う。姿勢を落として手を取った。ほとんど力を入れる必要もなく、僕は彼女の手を引いて再び立ち上がった。

 

 遠目から見た街は楽しげに揺らめいているけれど、一歩でも中に入ってしまえば、そこは陰気な活気に満ちているとすぐに分かる。悪意と商売魂が入り乱れて黒ずんでいる。

 悪意は心を外側から削り取るように破壊し、善意は心に巣食い内側から食い潰すのかもしれない。眼の前で水を跳ね飛ばす無邪気な活気を見て思った。

 

 風に吹かれて飛んでいきそうな軽い魂は、踏ん張ってとなりに立っているように見えた。

 

 手を繋ぐ僕たちを指さして一人が言う。

 

「起きたぞ!」

「カップルだ!」

「やっちゃえ!」

 

 他人の迷惑を顧みずに心の赴くまま動く姿が眩しかった。楽しげに近づいてきたと思ったら、いきなりばしゃばしゃ水をかけてくるものだから、反射的に身を引いてしまったけれど、ルトナダは動くのが一歩遅れてしまった。

 

「ねーちゃんを狙え!」と一人が叫ぶ。言っている間にルトナダは川から距離を取ったけれど、僕は彼女の背中に手を回して、下がるのを邪魔した。

 

「そうだ! お姉ちゃんを狙え! いいぞ少年!」

 

 えぇ、と聞いたことのない元気な声は、澄んだ空のどこまでも高くまで響いた気がした。何かの合図みたいに素早くコートを脱いで後方へ投げ捨てる。薄い背中を優しく叩いて、汚れたスニーカーが草をかき分けた。

 

 

 

 最初は僕と子どもたちがチームを組んでいて、最後はびしょ濡れになったルトナダのかわいさに子どもたちがやられて、なぜだか僕だけが水をかぶる羽目になった。

 親の迎えで子どもたちは帰っていったけれど、にこにこと手を振ってくれる子どもとは対照的に、大人たちは僕たちを見て首を傾げた。僕はルトナダの左半身を隠すように立ち、世間が遠ざかるのを眺めた。

 

 木陰に敷いていたシートを陽に当たる場所まで持っていき、ひとまず腰を下ろす。服は水を吸って重くなり、体には戦闘と異なる疲労が溜まっていた。

 

「疲れたんだけど」

「貴方が始めたことですよ。もう、こんなに濡れてしまって……濡れ鼠です」

「水も滴るだ」

「滴らなくとも素敵ですよ」

「言うねぇ……」

 

 ルトナダは腕を開いて裾や袖を点検する。水遊びをする前にコートを脱ぎ捨てた僕と違い、ルトナダはすべて着たまま水をかぶった。

 服が肌に吸いついて気持ちが悪く、ルトナダの場合は僕よりもさらに重そうだった。

 

 花弁の上に雫が落ちて、その様子が朝露を思わせる。彼女は絡まりを解くのに苦心しながらも編み込みをすべて下ろし、ため息をついた。

 

「髪も……この水はあまりきれいには見えませんし、ロドスに戻ってからまっさきにシャワーを浴びなければなりません」

 

 前まではその水ですら貴重だった。慣れる慣れないなんて考える余裕のなかったころからは考えつかないほど、いつのまにか安穏とした生活に適応している。

 ルトナダの表情は物憂げだったけれど、同時に、曇天の奥にはささやかで確かな幸福も感じられた。僕から水を差すまねはしない。もうこれ以上水を浴びても案外気づかないかもしれない、なんて思ったら笑いが込み上げた。

 

「笑い事ではありません。着替えを持ってきていないのですから」

 

 ルトナダは、いかにもまじめくさった顔をする。何筋か横髪が頬に貼りついているし、前髪はぺたんこだし、水滴が太陽を受けているのでかなり明るい表情に見えるしで、いろいろと台無しだった。

 

 笑いながら「ごめんね」と言ったら、一拍置いて「それはずるいですよ」と返された。

 ふいと顔を背け、どことなく肩を落とした雰囲気で、ルトナダはリュックをできるだけ濡らさないようにいそいそとチャックを開ける。

 

「まぁまぁ。乾くまで待つのも一つなんじゃないかな」

「念のためにタオルは持ち歩いていましたが……全部を拭くには足りません。靴も大変です。塹壕足になってしまうかもしれません」

 

 ルトナダが太腿までを隠す装備を外しているうちに、僕はどこかにぶん投げたコートを探し出して持ってきた。

 もともとは寒い夜も越せる分厚いコートだった。今ではすっかりすり切れそうになっている。元の持ち主と同様、そろそろ土の下に埋めたほうがいいのかもしれない。けれど、手放すには惜しい年月をともにしてきた。

 

 素足をさらけ出すルトナダをまねして、僕もシートの上に足を乗せる。彼女は土踏まずまでまっしろそうな艶のある足をしていた。つま先をぴんと上に向けてタオルを持ったまま固まっている。

 

「拭いたら?」

「いえ、しかし……」

「僕はあとでいいよ。ロドス行ったら風呂入るだろうし」

「風邪をひいてしまいますよ。貴方よりも私のほうが丈夫ですから、貴方が使うべきです」

「いやいや、それもそれでこう、いろいろあるからさ?」

 

 僕の目がルトナダの胸に行く。黒のインナーが透けていた。

 下着をルトナダの私室で目にしたことは何度もあったし、下着姿も目にしたことはあったけれど、ここは一応外なのだ。加えて、艶めかしさと言うよりも、不慮の事故の結果だと言わんばかりの生々しさみたいなものが感じられて背徳感があった。

 

 タオルの端を両手で持って飛びかかってくるルトナダとやんややんや言い合って、結局一つのタオルで交互に体を拭いた。余計に濡れた気がしなくもない。

 疲労の濃い体をシートに横たえさせて僕たちは見つめ合った。ルトナダは息が上がり、春の花みたいに頬が色づいている。

 

「日が照っているうちに解散でよかったね」

 

 傾いた陽は日中がもう少し続くことを示している。

 

「夜になったら気温も下がるし風も冷たくなるしで本当に大変だった」

「はい……しかし、こうして体が火照ってしまえば、日中であろうと衣服の冷えがこたえます。すでに乾きつつあるとは言え注意を払ったほうがいいでしょう。低体温症に陥る恐れがあります」

 

「それを防ぐためです」と前置きして、ルトナダは控えめに抱きついてくる。彼女も僕もしっとりしていた。

 

「子どもってよくあんな元気があるよ」

「私たちも戦闘となると長時間の運動にも耐えられますが、思い切り体を動かしたり遊んだりとなると……はい。子供の体力にはつくづく驚かされますね」

 

 手探りで乾いたコートを引き寄せ、できるだけ風を起こさないように体にかける。こうして日が出ているときに休んだことは何度もあるけれど、日向ぼっこをしているな、なんて呑気に考えたのは初めてな気がした。

 

「昔は収まったんだけどなぁ……」

「今はもうはみ出してしまいますね」

 

 体を浮かせたルトナダの意図を察し、僕は体を滑らせる。

 ルトナダはまどろみに優しく手を引かれた。あまり体重をかけないように体勢を工夫してくれていたけれど、眠るとやはり命の重さを感じる。背負った遺言の数なのかもしれない、と思った。あるいは服が濡れているせいだ。

 

 心臓が高鳴るせいか、寝顔を見ているうちに目が冴えてしまって、僕は体を揺さぶってそっと抜け出し、シートに座り直す。

 心安らかに眠るルトナダには、やはり自由が似合っている。遊び疲れて眠るなんてことは初めての経験のはずだ。邪魔したくなかった。

 

「……」

 

 不意にルトナダは何事かを口にした。口の動きからおそらく三文字であることしか分からない。

 

 僕はシートの周囲から白い花を探した。冠を編んでコートの上にそっと乗せる。

 一時期僕たちの面倒を見てくれたうちの一人が作り方を教えてくれた。数えるほどしか作ったことがないし、久しぶりで不格好だったけれど、歪さは、今日まで続く僕の足取りを感じさせた。

 

 ズボンのポケットから端末を取り出して、そして防水機能がついていないことに気がついた。空いた口が塞がらず、写真を取れない事実と、技術班から絶対に怒られるという予感が胸をかき乱す。

 

 

 半身を外に出しながらもなんとかコート内に戻り、ルトナダの背を叩いているうちに眠ってしまった。

 

 

 目が覚めるとちょうどいい暮れ方で、服もある程度乾いていた。コートを掛けずに服を陽に当て続けたほうが乾いたのかもしれない。

 食べ残したサンドイッチを食べながら端末の話で気を落とし、今現在の居場所へと続く道を行く。

 

 明かりのない郊外は濃い影を落とし、街は灯火によって色めき立つ。頬を耳へ抜ける風は穏やかだった。

 長く伸びた影の頭頂部を見つめながら、僕たちは揺れ方の異なるそれぞれの影を追いかける。

 

「髪、それもいいね」

 

 どうせすぐに解くのだから、とルトナダは長い髪をうなじで一括りにした。細い首筋があらわになって、活発さや清廉さと、いくらかの打たれ弱そうな感じが同居している。自分よりも歳上の事実が現実味を失った。

 ルトナダは結び目のゴムを触りながら、かわいいレベルの悪事がばれた子どもみたいにはにかんだ。

 

「今度からアレンジも検討したいと思います」

「写真が撮れればなぁ」

「撮影したとしても、端末であれカメラであれ、池に落としてはデータが吹き飛んでしまいますよ」

「じゃあ保管用にパソコンを買うとか……? アルバムに収めてみるとかもあるか」

「今度買いに行きましょうか」

「えっやる前提なの?」

「はい、絶対です。貴方に二言はないと、私は信じていますよ」

 

 電灯がつくかつかないかの暮れ方。几帳面な家庭の門限はもしかしたらこんな時間なのかもしれない。

 小さなころ、もうちょっと遅くまでルトナダと遊んで、そろって家族から怒られたことがあった。

 

 今日もきっと、僕たちはそろって怒られる。道をともにしながら、ときには違え、ほとんどをともに過ごす。かつては違えることは死を意味していた。今では、互いを分かり合うための一つな気がした。

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