ルトナダは銀世界を見て「御伽噺のようです」と言った。防寒のために着込んでいるとはいえ、頼りないシルエットは相変わらずだった。
人の往来によって道の雪はほとんどが溶けていたけれど、人の手が入っていない場所は雪に覆われている。
通りを人が進むたび、ぐずぐずに溶けた雪がべしゃっと重い悲鳴をあげる。跳ね上げられた水は不透明だったり、泥で汚れていたりした。みんながみんな、通行人を汚さないよう慎重に歩を進めている。戦闘訓練に体が慣れたせいか独特の重心移動と足の滑らせ方をしているだとすぐに分かった。ルトナダはとなりでばしゃばしゃしている。
「長靴でよかったね」と、となりを見る。ルトナダは気まずそうに、陽光を照り返すつま先を見た。ロドスの売店で昨日買ったものだ。「泥を跳ねさせないように泥濘の中を歩くようなイメージだよ」
そう教えると少しだけマシになった。僕たちの中で過去は呼吸を続けている。
ふと視界の端が輝いた。一晩降り続いた雪が陽光を受けているのだ。
新品の純白の間から人家と街灯の色が覗いて、それは建てられてから何年も経つせいか色褪せがひどく、とても窮屈そうな顔をしている。玄関から出てきた人が体を抱いて身震いした。彼の上にはつららがあって、きらめきを透明の中に封じ込めていた。
振り返ると真正面にある大きな船から出たとき、僕たちも似たようなことをした。すべての葉を落とした木々は白く蘇ったような雰囲気があった。いつから雪景色が始まったのか、ロドス内部にいるときはまったく分からなかった。
息を吸うたびに肺が白くなる感覚がして、雪の香りとも言うべき冷たさを初めて知った。
「生きているうちに雪を見られるとは思わなかったね」
「まったくです。話の中だけで終わる景色と思っていましたが……まさかこんな経験もできるとは」
ロドスが移動中、いくつかの紛争地域を抜けた際に頼まれたことをするために、僕たちは休みをもらった。
街は活気に満ちている。寒いねとか、一気に降ったねとか、今年は大変だとか。楽しそうに苦労を嘆く声に水音がまじる。未来を見据えて笑う光景は、少し前までの僕には異様なものとして映っただろう。
一つ山を越えたら積雪など嘘で、地面に赤が染みたことも嘘みたいな、反照の白に負けない活気はどこか羨ましくもあった。僕たちは別れる以外の未来を考えていないから。
べた雪に足を取られたルトナダが転びかける。
「リュック持とうか? 学校行く前にいろいろ濡れたら大変だよ……?」
体勢を立て直して胸に手を当てたルトナダは、おずおずとリュックを差し出した。彼女の控えめな表情すら輝きを放って見えた。分かり合えないのかもしれないと思いながら、それでも積み重ねていくことを僕たちは選んだ。
リュックからは決意と年月と命の重さがした。
店や遺族の家を回り、終着の学校についた。時刻は昼を回っていて、小さな庭で雪にまみれるカラフルな一団が遠くからでも目についた。
「もしもお昼から空いているのでしたら、午後から一緒に……何か、授業でも」
職員室で用件を話すと、快諾された後にこんな提案をされた。
先ほどまで教師の顔には笑みのためにしわが刻まれていた。しかし今はやるせなさの滲んだ
教師は肩を落とし、物憂げな表情を浮かべる。それからブラインドの閉められた窓に目をやった。
「ここに通っている子どもたちは、お父さんやお母さんのいない場合が多く、あるいは身寄りがいないこともあり、あなた方のような若い大人と触れ合う機会も少ないものですから……」
パソコンを触っているのも、プリンターの前に立ってボタンを凝視しているのも、お弁当箱を包んでいるのも――。
差し出されたお茶からは渋い香りがした。唇の先から湯呑みを離し、今さらになって室内のくたびれた香りに意識が向く。この建物は全体的に老朽化が進んでいて、第一印象で雪に潰されそうだと思ったことを思い出す。
「甘えるにしても、毎日顔を合わせる教師に甘えるのと、今日だけ特別に来てくれた人に甘えるのとでは勝手が違いますし……ご両親と年齢の近い方のほうが話しやすい子もいるんです。なんとか……」
ルトナダと目配せをして、僕は顔を伏せる。
「私たちとしては構いませんし、先日の争いとはまた違った場所でですが、亡くなられた方からそのような要望をいただいたこともあります。もしも会うことがあれば、どうか仲よくしてほしい、と」
「しかし」とルトナダの語調は苦々しくなった。
「……よろしいのですか? 企業に所属しているとはいえ、私たちの安全が保証されているとは言い難く、手も汚れているのです」
最近になって保護した子どもに興味を示し始めたルトナダは、しかし距離を置きがちだった。尻尾や視線ばかりが楽しげな声に向くのをロドス本艦でよく目にする。食堂でも廊下でも、子どもの声は耳鳴りの奥に届くのかもしれない。
「親を亡くした子どもは特に敏感ですし……もしも私たちが信用を損ねた場合、私たちを紹介した貴方がたの信用すら損なわれてしまいます」
不安なのだと思う。そして、不安であれば余計なことをしない、というのが僕たちを生きながらえさせた一つの指標だった。
ルトナダの心をやわらかく包むように教師はほほえんだ。いい子だと思っている相手に大人が向ける笑みは、特別な形をしていると思う。霧が払われ、不鮮明な過去に色が戻った気がした。
「ご両親の願いを聞いて、わざわざこんなところまで届けてくれる人に悪い人はいないよ」
となりを見ても、ルトナダは何も思い出していないみたいだった。失われた輝きに思わず拳を握る。僕が何か言ったところでしょうがないし、これから戻るかもしれないけれど、悔しかった。僕はどうしたって世間や世界を好きになれない。
「ですが、私たちに話したとしても、今日だけなのです。話してすぐに別れるのでは、あまりに酷ではありませんか?」
ルトナダは迷っても自分一人で解決しようとする。だから僕以外に食い下がるのはとても珍しい。穢したくない思いと子どもに接するきっかけをほしがる気持ちで揺れていた。
「今日だけだから、だよ。いつも頑張っている自分とは違う自分を見せてもいい。いつも遊んでもらえないけど今日だけは遊んでもらえる。いつもと違うことが大事なんだ。あなたたちだって、小さなころ、いつもと違うちょっといい晩ご飯が出たらわくわくしたでしょう? あの子たちにもそういう、両親がいたらきっと味わえた感触を少しでも味わってほしくて」
僕たちにだってそんなものはよく分からないけれど。あるいは分からないからこそ、願いを託すのかもしれない。
「それに……どうしても、ほら、感染者と指さされて深く傷ついた過去がある子だっているから。そういう子たちにも、夢を見せてあげたいんだ。君たちは手を取り合っているように見える」
僕たちはここを普通の学校だと思っていたけれど、どうやら戦争孤児や感染者に教育の機会を与える場所のようだった。
「街外れにあって建物がぼろぼろなのは、資金面での厳しさとか、あまり表沙汰にできない世間体とか、そういう理由からなんだよ」
きいきい鳴る廊下を進みながら、教師は言う。見るからに苦労をしていそうな
僕やルトナダには――と考えて尻尾をとなりに伸ばすと、そっと絡まってきて、やっぱり僕たちには僕たちのペースがあると思い直した。
がたぴし言う扉を開け、ロドスとよく似た食堂で給食というものをいただき、別々の組にまざる。食堂にはかすかに陽だまりの残り香があった。
チョークを走らせる先生を見て、字を練習してよかったかもしれないとしみじみ思った。
放課後も僕たちは教室に残った。帰りのホームルームの空気が僕たちを引き止めたのだ。誰一人として「帰っちゃうの?」と言わないところが子どもらしくなくて、いっそ痛々しさすら覚えた。
先生はわざわざ、残るならあの教室に向かってね、と指示を出した。
ゲントビリア先生、とルトナダはこれ見よがしに口を動かした。
学校の雰囲気を味わうことも子どもに教えることも初めてだった。生徒の様子を見て回りながら、満足そうなルトナダを盗み見る。
いろんな要素がかみ合ってルトナダが子どもを遠ざけるのなら、今日の経験はいい一歩になるだろう。
暖房を焚いていても二○度にならない室内には、寒さを吹き飛ばすほど賑やかな声が絶えずこだまする。
寒さによって甘さに磨きのかかる野菜があるように、つらいことがあるからこそ笑顔は華やかになるのかもしれない。つらいことを肯定するつもりはないけれど、そう思えば多少は未来に希望が持てた。
「ゲントビリア先生はこの問題をどう考えますか?」とルトナダから五回ほど聞かれたあと、勉強会はお開きになった。
パパとママとしたいことがあったんだ、なんて無邪気な声から雪合戦は始まった。
ルトナダは両方の手をぐいぐい引かれて遠ざかっていく。そして困ったような笑みを形作りながら、子どもたちの輪に合流した。
学校なんて夢のまた夢だったな、と腕を組んでいたら、僕の両腕もいつのまにかがっちりホールドされた。
ポーズだけの抵抗を見せつつ玄関を振り返る。教師は穏やかな笑みを浮かべ、胸の高さで手を振っていた。
遠ざかる校舎に降り注ぐ太陽は、まだまだ高い位置にあった。
「私にはあまりにも死臭が染みついていますから」
ルトナダの口癖にこんなのがある。でも彼女にぶつけられた雪玉はまっしろに砕け散り、きらきらと陽光を反射して宙に舞った。地面に落ちても長靴に踏んづけられても、依然として白いままだった。
雪は冷たかったけれど、その冷感が、着込んだコートにこもった熱を際立たせた。
子どもたちに特有のルール無用のあの感じで、チーム対抗のはずがバトルロワイヤルになった。敵も味方も分からない血みどろの戦争に近い状況は、しかし子どもたちの大笑いによって彩られていて。ルトナダの笑顔に影らしいものは見当たらなかった――不意に顔面に冷たい物が当たった。
「ゲントビリア先生アウト~!」
「よそ見してた!」
「え、ルトナダ先生のこと好きなのー!?」
そんなふうな心はとっくのとうにすり切れているけれど。好きなのだろうとは思う。肯定はできる。でも、自分から口にするには勇気が出ない。蛮勇は死に直結した。
視界の隅っこで、女の子にせがまれたルトナダが笑いながら首肯した。
一人で帰れる程度の時間まで、あるいは迎えが来るまでのひとときは、ささやかな幸福と言うにはあまりにも満ち足りていたように思う。
最後の一人として残ったのは、僕たちを雪合戦に巻きこんだ少女だった。
少女は地面に膝をついて腰を曲げ、大切な思い出をかき集めるみたいにして、ところどころに土のまじった雪を集める。
「雪だるまを作りたいんだ」
と下を見ながら少女は言った。みんなとだったら地味だし、男の子もいたから言いづらかったのかもしれない。一人になるのを待っていたのだろう。くっつくように並んだ影の片方が揺らめいて、となりから雪を踏む音がした。
雪合戦は途中からなんでもありになっていて、僕は遊具の片付けを手伝いながら二人の様子を見た。
二人は揃って腰をかがめていた。それぞれでどろんこの雪玉を作っていた。
少女の父母は戦争によって命を失ったという。自分一人だけ逃され、逃げ落ち、ここまでやってきたすえに鉱石病に罹患したと言った。この街には祖父母がいたので必死に目指したらしい。
少女はつらいことも、つらいことじゃないみたいに明るい声で話した。声の幼さと、女の子らしい高い声のせいでそう聞こえたのかもしれない。笑みは夕日の影に濃く彩られていた。
多くのものを失ったとしても明日に夢を見られる心は、幼さの裏返しだと思う。純粋なものは世間によって、あるいは理不尽な血によって穢されていく。
穏やかな表情で両親の死を語る少女を不謹慎だと責め立てる気には、到底なれなかった。
二人の雪玉は徐々に大きくなった。ルトナダのほうが小さいのは、なんというか、そうだよなぁと思ってしまう。初めての物事はだいたい不得意なイメージがある。
二人を見て口もとを隠したら、目ざといルトナダに見つかった。
「二人で一緒に持ち上げよーよ!」
少女の掛け声に合わせ、雪玉が地面から離れる。やがて二つの影はゆっくりと重なった。
小さな庭に施された雪化粧は見るも無惨な有り様で。なのに、かび臭い思い出みたいに、大切にしないといけないものだと感覚に訴えてくる。
人家の屋根や遠景の山々の雪は、凪いだ水面みたいに静かに橙を照り返す。僕は二人に歩を進めた。歩くことで角度を変え輝きの場所を変え、反照は僕に突き刺さる。
「ゲントビリア先生! てぶくろ!」
きらきら笑顔で見上げられたら、もう頷くことしかできなかった。買ったばかりのかさかさの手袋を、親指とそれ以外で分かれた毛糸の手袋に手渡す。毛糸の手袋は泥と雪に覆われていた。
ルトナダも僕と同様、片方の手袋を外す。
空気が手に冷たい。でも心と体はちっとも寒くなかった。三人の防寒具で飾られた雪だるまは不格好で、その不格好さがいかにもお手製って感じで、かえってかわいらしく映る。
見て、見て、と校舎から引っ張り出された教師が感嘆の声を上げた。
僕とルトナダは目配せをして頷きあった。
同じ速さでブランコが揺れるみたいに、耳の後ろから頬を抜けた風は優しく、爽やかだった。気候からは信じられないあたたかみすら感じた。
ルトナダが髪を押さえ、少しして帽子の下を掴む。横目に見た白い手は寒さに耐えられそうにないけれど、赤い奔流が全身に走っているのだろうと思う。
「ルトナダ先生! ありがとう!」
呼びながら少女がぱたぱたと駆け寄ってくる。雪と泥で膨らんだ手をルトナダに伸ばした。
しゃがんだルトナダはそっと手を取った。汚れに気づいた少女が手を引っこめようとするのも構わず抱き寄せる。小さな背中に手が回された。
行き場を失った手袋はしばらく空中をぼんやりしていた。それからおずおずと、抱きしめ返す。
僕は黙っていた。教師も黙っていた。目が合うと笑いかけられ、僕は何も言うことができず下手くそな笑みを返す。
「パパとママからね、こうしてもらったことがあるの。それと同じ……。悲しいけど、嬉しい」
涙声の告白だった。「思い出した」と少女は続けた。ルトナダは宥めるように背中をたたき始めた。
嗚咽する少女の言葉は判然としない。嬉しさと悲しさという対極にあるべき感情が同居していて、その矛盾が少女をかき乱していた。やがて「思い出した、思い出せた」としきりに言うようになった。
根拠のないことを無邪気に信じて、本当は間違ったことを思い出しているのかもしれないのに。その温度は、おそらくまがい物なのに。どうして記憶を疑わないのだろう。
これもまた、追悼の一つの形なのかもしれないと思った。
ルトナダは腕の位置を変え、少女を抱き上げて立ち上がった。多くの遺志を受けるルトナダの背は凛と伸びていた。彼女が体を小刻みに揺らすと、少女はますます大きな声で泣いた。
奥行きのある深い闇に揺らめきながら、それでも影は凛と伸びている。
まま、と呼ぶ声が茜の空に灼かれて消える。
いつのまにか近づいていた教師から背を押され、僕は二人に歩いた。
ぱぱ、といううわ言とともに伸びてきた手は小さい。そっと握って、抱きしめる代わりに頭を撫でた。少女は顔をまっかにして泣いた。生きている色だと思った。
こういう子どもが一人でも減ればいい。ルトナダはそう思っているのかもしれない。分からなくはないけれど、僕は、分からなくはない、で良心が止まってしまう。ロドスの理想と歩めるほど、僕はきっとできた人ではない。
視界の向こう側で屋根から重い音を立てて雪が滑り落ちた。いつかバランスが崩れても、そのたびに立ち直れるだろうか。考えるだけ無駄だと思った。僕の道はすでに決めている。
そっととなりに並ぶ温度があった。雪の白さに輝く彼女は幸福に見えた。僕たちはもしかしたら、最も幸福な一対に見えているのかもしれなかった。
「帰りたくないって、言ってもいいの」
泣きじゃくる合間に少女は言う。
「おじいちゃんもおばあちゃんも優しいけど……違うの。だからこんなふうに、もう一回だけ、もう一回だけしたかったの」
「お願いごとが叶うかどうかは分かりませんが……願うことは、きっと未来に希望を繋げることですよ」
ルトナダは抱きしめる力を強めた。
「誰かがそれを拾ってくれるかもしれませんから」とルトナダは小声で言い、穏やかな目つきで僕を見上げた。
長い睫毛に雪が乗った。街に綿雪が降った。
おじいちゃんに手を引かれながら、少女はいつまでも後ろを見て手を振り続ける。しょうがないなぁとでも言いたげな笑みを浮かべて、ときおり老人は僕たちを振り返った。
街灯にぼんやりと照らされる二人の光景は、幸せという題名のついた絵画みたいだった。
白と橙に染まる世界は優しかった。この世界が差別と戦争にあふれた世界であることを束の間忘れさせてくれるようだった。
「ばいばい」
雑踏に負けない声が届く。
少女は新雪で覆われた毛糸の手袋から、魔法の粉を振りまくように雪を散らせる。希望が見えるようになったらあんな感じなのだろうと思った。
連れそう老人は、長い年月が生み出した重い荷物を背負うように、腰を地面と平行にして歩いている。杖がなければ支えきれないほどの重量を背負い続けることは難しいのに、どうしてあんなに穏やかに笑えるのか分からなかった。
僕は立ちすくんでいた。荷物は軽いから猫背程度で、片方を素手のまま立ちすくんでいて、名称のない空白の時間に取り残されている。
長く伸びた影の中、僕の影だけが世界に存在していないみたいな異様な孤独を覚えていた。
「何を考えているのですか?」
二人とも素手は凍えていた。それなのに触れた箇所からは心の温度がした。
なんだろう、と答える前に「一緒に考えてみましょう」と腕が絡まる。
「僕も考えるの? 僕の考えていたことを?」
「ヒントをあげる係があってもいい。私は今日の授業を見ていて思いました。そして私は、あまり人にヒントを与えることが得意ではないようでした」
「じゃあ消去法で僕になるなぁ」
そんなふうに、まるで二人だけの多数決みたいに意味のない話をした。
僕に笑いかけたルトナダの笑みは、にこ、と表現するには程遠いけれど。情愛のこもった穏やかな形で、夕日が横顔を照らすのもあって儚く映った。
「どうか。お元気で」
ルトナダは背中に言葉を送る。抑揚の少ない声には真心がこもっていた。
二人のニット帽は元の色が分からないほど白くなっていて、肩にも雪が積もっていって、ついに歩みは雑踏に飲まれた。
言いようのない静寂が下りた。色めき立つ街の喧騒は、ベールを通して耳に届いた。
「子ども」とルトナダは言った。視線で問うと、腕を抱く力が強くなる。
「愛らしく感じるものですね」
恥ずかしがるような口調だった。
「今まで気にかける余裕がなかったし、自分たちも半分子どもみたいな感じだったしね」
「ですからずっと不思議だったのです。どうして私たちを気にかけてくれる人がいるのだろう、と。当時の私たちは一種の油断や優しさと捉えていましたが……今なら気持ちが分かるかもしれません」ルトナダははにかんだ。「繋いでほしいのかもしれません」
彼女の言葉は冷え切った耳を温かい響きで打った。
繋ぐ、と僕は頭の中で繰り返す。何を繋いでほしいのかは人それぞれで異なっている気がした。僕やルトナダの場合は、おそらく願いなのだと思う。
「一度割り切ったはずの欲望が、ときおり、満たされると強度を増してぶり返すのです。使い古した感情が熾火となっていつまでも胸に留まり続けるように、胸を灼く衝動があるのです」
それまで満足そうだったルトナダは、声を落として「ですが私は、感染者ですから」と俯いた。二人分の足跡はすでに見えなくなっていた。
臍のあたりを撫でながら「私の旅路は一人で十分です。二人いれば、それほど喜ばしいことはないのだと思います」と寂しげに笑った。
「それに、多くの方の遺志に背中を押してもらっていますから」
三人目は、確かに望めないのかもしれない。
「ロドスにも保護した子はたくさんいるよ。今日の一歩から関わりを増やしていくのは?」
ルトナダはわずかに眉間にしわを寄せた。不服だ、と無表情が語る。「分かっていません」と胸が押しつけられる。
「お話は済んだかな」
不意に後ろから声をかけられ、悪いことをしていた自覚があったのか僕の背筋が伸びる。ルトナダは平然とした顔で「待たせてしまい申しわけありません」と振り返った。
「いいや、とんでもないよ」と教師は柔和な表情で言った。「私も若い時を思い出して懐かしくなったんだ。若いうちは時間が永遠に続くと思いがちだけれど、別れっていうのは、案外あっけなく訪れるものだからね」
そう言って左手を胸の前に掲げた。薬指が夕日を反射して、それは涙のきらめきによく似ていた。教師はゆっくりとこちらに歩いてきて、二人が消えた方角を見やる。
「放課後にあんなに残ってくれたのは初めてだよ。いつもは宿題なんて――って言う子たちも今日だけは特別嬉しそうだった。ありがとうね」
そんなふうに語る教師もまた、特別な笑顔を浮かべているように思われた。
教師と雪だるまに別れを告げ、僕たちは帰路についた。時間的に急がなければならないけれど、どうにも急ぐ気分になれなくて、「怒られるかもしれない」なんて歩くのはそのままの速さで笑いあった。
ロドス本艦の停泊所に向かうにつれ、世界が暗くなるのにつれ、人通りは減っていった。規則的に並んだ街灯が僕たちの行く末を照らしている。
踏み固められていない綿雪が、歩くたび、ごきゅ、ごきゅ、と足跡を作る。三○分もすれば僕たちの足跡はなくなるだろう。それでも振り返ると、歪な線を描いてまだ続いている。闇によって足跡はかき消されていた。
「追悼は」言いかけて、ルトナダは考える仕草を見せる。
「本来その人が感じるべきだった喜びを横から奪い去ることでなく、今は亡き人の願いを叶えながら、自分自身が感じた幸福とともに、その相手を偲ぶことなのかもしれません。顔が思い出せなくなり、声すら朧気になり、呪詛のような鮮烈な耳鳴りだけを残している相手に対して、自分勝手な祈りを捧げることが追悼なのかもしれません」
「私はそれでいいのです」敬虔な言葉は雪にまじって静寂に飲まれた。
「亡くなられた方がどうして遺言を残したのか、私なりに感情を推察することが、私は追悼になるのだと思います」
「誰の何にもなれなかった人を、覚えていたいの?」
僕の言葉は残酷だった。所詮は他人事だ、という気持ちが抜けなかった。「そうかもしれません」とルトナダは身勝手さえも許してくれそうな慈愛の笑みを向けた。
「あるいは、願いを叶えたのだと少しだけでも安心してほしいのかもしれません。安らかに眠ることが困難だったあの場所で安心はかけがえのないものでしたから」
ルトナダはそれきり閉口した。
やがて遠くに見えていた希望の船が大きくなる。街に負けないほどロドスは輝いていた。
この特別な静寂がもったいなくて、僕は何かを言おうとしては口を閉ざした。
横顔を何度も盗み見て、こぶりな耳が寒そうだな、となんでもないことを思う。
「どうして僕たちは、別れる未来しか想定できないんだろうね」
意図せず言葉が滑り落ちた。
ルトナダははっとした顔で足を止め、口を噤む。二歩先で足を止めた僕たちを繋ぐのは心もとない架け橋だ。たわんだ腕に少しずつ雪が積もった。
「もしも一緒にいられるのなら……いいえ。私は……ロドスで保護した子たちとおままごとをしてみたいのです。約束してくださいね」
ルトナダの頬は薄赤かった。白い息がまっくらな空に昇っていく。ひとひらの雪の結晶を目で捉え、遠景に見える街の光が砕けて散った。
「もしかすれば、私たちが思っているよりも騒々しい未来が待っているのかもしれませんよ」
ルトナダは笑った。
分からないし、分かり合えないかもしれないけれど。いきなり消えゆく明日があったとしても、せめて今日ぐらいは一緒にいたい。積もり積もって、足跡は記憶となる。
精いっぱい僕たちは今日に望みを繋ぐのだろう。
そうして僕らは何も見えない未来を誓いあった。
珍しく、後書きを。
下書きをすべて終え、残りは文章の添削のみ、となったのは12月22日だったと思います。この時点でアークナイツのストーリーは5章後半だったと思います。
クリスマスイブにはフロストノヴァさんに泣かされ、クリスマスにはジェラルドさんに泣かされました。レユニオンって、テラの大地の悪
サーシャくんが源石を刺すシーンとかを見て、この主人公もやりかねないな……と思ったり、世界観の解像度がなぁ……と思ったりしているのですが、ひとまず今の自分の思うところを出力しました。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。アクナイの二次創作をすることがあれば、またどこかで。よいお年を。