貴方の望みと歩くまで   作:ぞんぞりもす

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二話

「髪を切るのはどうですか」

 

 となりを歩くルトナダは出し抜けに言った。修理品の換金を済ませて消耗品や食料を買いこみ、余ったわずかな金をどうやって使うか考えながら闇市を見ていたときのことだった。

 露店には様々なものが並んでいる。目移りするふりをして横顔を流し見ると、目が合った。俺は視線の動きで返答したつもりでいた。

 

 

 しばらく歩いたところで、返答を催促するようにルトナダはコートの裾を引いて同じことを言う。細長い尻尾が足に触れてきた。

 俺は尻尾でルトナダの尻尾を払いのけようとしたけれど、逆に絡め取られて終わった。

 

 

 闇市は名前に見合わず活気づいていて、どれだけの住人がこの場所を利用しているのかが伝わってくる。まともな生活ができない人がこれだけいるのだ。元気な子も、元気が何かから吸い取られたような老人も、二人並んで歩く恋人らしき連中も、これから人生の上り坂が始まりそうな青年も、みな一様にレールから突き落とされた人たちだった。

 

 太陽が照る一方で、通りにはどうしようもない薄暗さが立ちこめていた。生が摩耗している。人生を諦めた雰囲気が可視化されたようだった。視界に収まる人々は、考えることを放棄したような無表情を浮かべ、肩身が狭そうに歩いている。

 

 往来で人とすれ違ったり、人から追い越されたりしているうちに、ルトナダはコートでなく腕を掴んだ。

 

「髪を切るのはどうですか」

「どうでもいいだろうがよ」

 

 ルトナダは手を離すことも、掴む力を強めることもしない。足を止めてじっと俺を見た。つられて俺も足を止める。落ちかけた橋のような手を通行人が邪魔そうに見送った。

 彼女は、長い付き合いがあっても感情を読み取ることのできない、優しげで不可解な目つきだった。

 

「せめて歩いてくれ」

 

 手首を返してルトナダの手を引くと、彼女は渋々といった調子でとなりに並んだ。歩く速さは先ほどよりもゆっくりだった。

 往来の両どなりを陣取る露店を、薄汚れたショーケースがさらに囲んでいる。色褪せた灰色の建物は空気の流れを遮っている気がした。さほど高さがないから日が差し込んで、ところどころに場違いな明るさが生まれている。明るさが際立つのではなく、明るさがあることによって周囲の暗さが際立っていた。

 

 人と品物の奥で、埃が積もり、クモの巣の張ったガラスがルトナダを鈍く反射する。

 

 色褪せた世界で、彼女だけがいまだに輝きを放っている。使い古した感情に火がついたような穏やかな炎の輝きだった。

 

 こんな生活なんてさせたくなかったのに手遅れだ。無性に腹が立ち、それ以上何を言うでもないルトナダの拘束を解く。

 それきり俺たちは話を切り上げた。

 

 

 

「髪が伸びました」

 

 闇市のさらに郊外でルトナダは言った。足を止めても人とぶつかる心配がないからか歩みを止めている。出し抜けの言葉は聞き取れないことが多いけれど、重く垂れこめる沈黙に彼女の澄んだ声は、最初の一音から耳に届いた。

 

「どっちでもいいだろうがよ」

 

 同じ言葉を同じトーンで繰り返す。俺は歩くのを止めなかったので距離が開いた。仕方なくなって足を止め、振り返る。

 あたりは曇りの日の夕暮れみたいに寂しげな静寂に包まれていた。雑踏の中心に佇むルトナダの薄い影は頼りなく震え、周囲と同化している。心細かった。

 

 ルトナダは俺に近づいて髪に触れた。

 周囲は相変わらずどんよりしているけれど、伸びた前髪がかき分けられた世界は、ほんのりと色づいて見えた。ルトナダの目をなんだかずいぶん久しぶりに見つめた気がした。自分は今どんな表情をしているだろうと考えて、たぶん目の前にいるザラックと同じような目と表情なのだろうと思う。

 

 生きている。生きているが、死んだように表情がない。

 

「戦闘時に髪が邪魔になります。後ろの髪も切ったほうがいい長さです。特に貴方は激しく動き回りますから。いつか絡まったり、攻撃に巻きこまれて損傷してしまいますよ」

 

 ルトナダは指に挟んだ前髪をゆっくりと手櫛で梳いた。理髪師が髪を切るときにする独特の儀式みたいだった。ルトナダは真剣な目をしている。

 脳裏に赤色がよぎり、鼻を鳴らしてそっぽを向いた。「あ」という声とともに髪がするりと抜けた。

 

 俺の髪はルトナダと同じくらいの長さになっていた。だが、前髪をヘアピンで留めるわけでもなく、後ろ髪を結ぶこともなく、見た目が与える清潔感は最悪だった。

 これが別人格のビリアであれば、おそらく彼はルトナダからヘアピンを借りるだろうし、ポニーテールにして多少は見れる姿に変えるだろう。だが、多大なストレスのかかる環境でビリアは出てこない。

 

 俺は腰の剣を揺らした。

 

「適当に切るからいい」

「そうは言っても、以前はずたずたになりました。貴方が寝ている間に整えたのですよ」

「何してんだよ」

「貴方の寝顔を見ないように前髪を切り、バランスを整える作業には時間がかかりました。貴方の顔を見るわけにもいかず、想像で全てを補いました。結果としてうまくいきましたが、気がつけば、夜の底が白む時間だったことを覚えています」

 

 思わずこめかみを押さえてため息をつく。言葉が出なかった。

 ルトナダの持ち歩く修復道具一式の中に工具やハサミは入っている。そしてルトナダは俺と違って、繰り返した動作であればそつなくこなせる程度に器用だ。

 

 俺を見上げて再び前髪をいじっていたルトナダは、不意に動きを止め、リュックから小銭入れを取り出した。ぼろぼろの布切れみたいな小銭入れは、色も当然褪せている。ルトナダは小さな巾着袋を両手で握りしめた。

 

「一度、ちゃんとした理髪店に行ってはいかがでしょうか。このような場所にあるものでなく、街の中心にあるような。髪を洗ってもらえばいくらか気分が晴れるのではありませんか?」

 

 巾着が差し出された拍子に、中の小銭が軽い音を立てる。これが今日の残りだ。今日の稼ぎと言うこともできた。全財産と言うこともできた。

 肌理(キメ)の細かい手を見下ろして、かけるべき言葉を探る。整えられた丸い爪に影が落ちていた。腕全体が黒い手甲に覆われているような重たい光景だった。

 

 さらに手が突き出され、鳩尾を圧迫するように拳が押しつけられる。身を引いてルトナダの手を持ち上げる。ルトナダは不服そうな顔で俺を見上げて巾着袋を押しつけようとしたけれど、取り合わなかった。ルトナダが袋を取り落とすことはなかった。ここは闇市で、落とし物は拾い主のものとなるのだ。

 

 

 この人格が生まれる前、軍の指揮下から逃げ出したあの夜に繋いだ手と同じくらいの小さな手。その手でたくさんの人の両目を閉ざし、たくさんのものを修理し、たくさんの人間を返り討ちにしてきた。不憫だった。

 手にした武器(ハンマー)で敵を叩くたび、頭のネジがほんの少しずつ緩んでいって。傷を受けるたびに緩んだネジが吹き飛んでいって。自分がどこかに吐き出された分だけ死が降り積もる。心の容量は一定のまま中身だけが黒く置き換わっていく。

 ルトナダは何かを直すことでネジを巻き直しているのかもしれない。自分の霧散を防ぐために、頭と体内のネジを巻き直すように。

 

 

「お前が稼いだ金だ。お前が使え」

 

 ルトナダの手を離した。不服そうに見上げてくる彼女の視線をいなし、俺は歩き出した。しかしコートが掴まれる。

 これ以上話し込むなら端に寄ろう、と目で促した。視界の隅っこでルトナダが頷いた。

 

 

 俺は腕を組んで店の残骸に体を預ける。かたい感触が跳ね返ってきて、外側から体の中心に向かって冷えが侵食してきた。

 ルトナダは植物か何かのようにじっと立っている。通りを見ていた。服装も背格好もばらばらな通行人は、みな一様に俯いていた。

 

「私は以前、辞書を買いました。次はゲントビリアの番です」

「以前っていつの話してんだよ……」

 

 ぼやくと、ルトナダは考える素振りも見せずに「二ヶ月前です」と答えた。

 

 こうしてお金が余ることは稀だ。だから闇市を見て回ることも珍しくて、今日はその珍しい日だった。普段は必要最低限の買い物を済ませてすぐに街を出る。

 街で稼ぐ当てはない。戦場こそが出稼ぎの場で、街は消費の場だった。不要なトラブルを防ぐ目的もあった。

 

――お前が欲しいもの買えよ。いろいろあるんじゃないのか?

 

 こう言って何回かやり過ごして、それでもルトナダが納得しないときは、予備のさらに予備として武器や食料を買った。大半は腐るか奪われた。

 

 ちらとルトナダに目を向ける。彼女は遠くの標識でも見るように、通りの向こう側を見ていた。わずかに獣耳が動いている。

 尻尾をルトナダに向ければ、左右に振れる尻尾とぶつかる。この感情は、なんだろうか。

 

「――?」

 

 一瞬だけ目が合ったけれど、俺は何食わぬ顔で目を外した。

 

「欲しいものでも構いません。ありませんか。いつも私ばかりですから」

 

 畳み掛ける言葉から焦燥は感じられなかった。ルトナダの口調は始終穏やかだった。

 

 ルトナダは自身を大人の女性と言う。

 しかし俺からすれば、子どもが通るべき通過点を無視して大人となったように思う。自分だってそうだ。俺たちのような生き方の、体だけが大きくなった存在を大人と呼んでもいいのかは疑問だった。

 

 塗装が剥げたり薄汚れていたりする商品を興味深そうに眺める横顔を思い返し、必要以外の物を買うことが多少は楽しいのだろうな、と思う。彼女よりも自分のほうがよっぽど枯れていることを今さら悲しんだりはしない。

 ただ、枯れている植物にわざわざ水をあげなくてもいいんだがな、そうさせないためにはどうしたらいいのだろうか、と頭を捻った。

 

 ルトナダはもともと口数が少ない。黙っていると決めたら一日中黙っていられるような性分だったから、このときもずっと黙り込んでいた。

 

 沈黙をそっと割ったのはため息だった。

 

「修理に必要な素材を俺が多少は見つけてるのかもしれんが、お前の技量がなければ成し得なかったことだよ。理髪店に行くなら金が足りんだろうし、武器の手入れをするにも金が足りんし、ほしいものだってない。ビリアもそうだろう。だから俺はいい」

 

 ルトナダは視界を横切る通行人のように俯いた。耳までうなだれている。

 もっと稼げなかったことを悔やんでいるのか、なんらかの理由で自分を責めているのか、はたまた予想外の何かで落ちこんでいるのか。何も分からなかったが、分からないままでよかった。尋ねないまま長い間過ごしてきた。

 

「買いたい物があるなら付き合う。ただ、寝る場所を考えないといけないからできるだけ早くに街を出たい」

 

 金を持ち歩く必要性は皆無だ。生きるのに精いっぱいな環境では、金も理性も倫理も機能を果たさない。だから、金を余らせるよりも使ったほうがいいだろう、という見解は一致しているように思われた。

 時間を確認する手段は持ち歩いていない。かろうじて文字のすり切れた時計が視界に映っているだけだ。四時のように見えた。が、こんなところに置かれている時計などあてにならない。

 

 雲の隙間から窮屈そうに青が顔をのぞかせ、そこから差す陽が店と店の間で肩を縮める。掃き溜めにさえ陽光は降り注ぐ。細い光線は郊外の淀みに敵わず、力を振り絞るように静粛とした場違いな光を振りまき続けたあと、ついには途切れた。

 

「本とか、画集とか、目星はついてるのか?」

 

 尻尾同士を絡ませて引き寄せた。ルトナダは俺を見て、そっと口角を持ち上げた。

 

「貴方は非感染者です。それだけでも十分なほどの――」

「ないなら歩きながら探そう。時間が惜しい」

 

 ルトナダは線が細い。しかし腕を掴んで引っ張ると、予想外の重さが待っていた。思考と肉体の重さを引きずって歩くように、ルトナダはしばらく俺の後ろをついて歩いた。

 

 

 

「ロドス」とルトナダが言ったのは、そろそろ街を出ないと日が暮れそうだから早く買うものを決めてくれ、と俺がうんざりしているときのことだった。

 

「ろどす?」

 

 不審に思ってとなりを見れば、ルトナダはすでにいない。あたりを見回すと遠ざかる背が目に入った。コートを羽織っているのに、脇に持つ大盾よりも華奢な背だった。

 

 ルトナダは四隅が破り取られて水で濡れたフライヤーを拾い上げ、すぐそばまで来ていた俺に掲げた。フライヤーのせいでルトナダの顔は隠れていた。獣耳だけが上に伸びている。濡れたフライヤーをぴんと張りすぎたせいで左右に分かれそうになり、気づいたルトナダが慌てて力を抜いた。

 

「求人広告?」

 

 難しい文字は読めない。だが、何度も騙されてきた経験が、雰囲気で答えを教えてくれる。「はい」と薄い紙の奥から声がした。

 

「いや、怪しいだろこんなもん。何回騙された」

「最後に私たちが求人に応募したのは、もう何年も前のことです。当時の貴方は精神的に疲弊しきっており、正常な判断ができない様子でした。話を聞いてあげる、と倉庫に案内された私たちを待っていたのは暗闇で、その瞬間に貴方の体が強張ったことを覚えています。あのときの恐怖は私も忘れません。二人とも傷だらけでなんとか脱出しましたね」

 

 ルトナダは口もとに手を寄せ「今では私が貴方に止められる立場なのですね」と言った。物静かな調子で、笑っているのか悲しんでいるのか判別できなかった。

 ルトナダは広告を丁寧に四つ折りにして元あった道の端に置いた。

 

「貴方はその日からすべてを疑うようになりました。はねつけてきた人の手にどれだけの善意があり、どれだけの悪意があったのか、私には分かりません。もしかすればすべてが悪意だったのかもしれません。私たちに手を差し伸べてきた方々は、私たちと似た、しかし決して相容れないにおいだったことを覚えています。そしてみな一様ににおいが酷似していた、とも。一方で、ある程度心身が成熟した今、改めて行ってみなければ分からないとも思います」

「駄目だ。搾り取られるんだよ。ここはお前が思っているよりもくそったれなんだ」

 

 電柱にはたくさんの張り紙があった。どれも目を引くデザインをしている。ルトナダは俺の視線の先を見たあと俺を見つめ直し、「はい」と神妙な顔で頷く。

 

「しかし、疑ってばかりでは人の善意を見逃し、希望の船も見逃します。助けを求める私たちにできることは、狼煙を上げ、見つけてもらえる努力をすることではありませんか? 幸い、私たちの肉体は成熟しています。何かあっても脱出は当時よりたやすいと思いませんか?」

「お前な……!」

 

 思わずルトナダを睨みつける。ルトナダは無言で俺を見つめ返した。

 決して感情を荒立てない穏やかな瞳だった。それなのに、底で燃える意志の強さからか、鋭く睨みつけられているように感じられた。「ロドスアイランド」と彼女の薄い唇は繰り返した。

 

「貴方の生活が豊かになります。いいご飯を食べて、服も着替えることができるようになるのかもしれません」

 

 たちまち熱が生まれ、加速する。ルトナダに引く気はないようだった。

 

 

 

 常に人材不足で、他よりも安く鉱石病治療が受けられて、衣食住が完備されている。

 

 俺はルトナダの話を一切信用しなかったし、拾い直したフライヤーから断片的に読み取った情報も疑った。ルトナダは信じているんだか信じていないんだか分からない曖昧な態度を取り続けた。

 今まで見てきた広告とは違う感じがする、とルトナダは言う。それは瓦礫の中から生きる手立てを見つけ出すときの彼女と同じで、不思議と信じてしまいたくなる魔性の力がこもっていた。

 

「私をこのような施設に預けて一人で生きたほうが、貴方はきっと生きやすいのでしょうね」

 

 記載された場所に向かおうとしたルトナダを俺はなおも引き止めた。その俺に向かって、彼女は振り返りざまにそう言ったのだった。目を伏せるわけでもなく、ほほえみを浮かべていると錯覚できそうなほど落ち着いた無表情で言ったのだった。

 

 俺はルトナダが今まで抑え込んでいたものを感じ、刺し貫かれた気分になった。数日経った今でも鮮明に傷跡が残っている。その言葉を聞いた俺はただ「どこまでもついていくからな」と言うので精いっぱいで。たぶん血走った目をしていたと思う。

 そんな俺にルトナダはほほえみかけた。

 

「はい。ですから、何かあったときは助けてください。そしてまた一緒に戦場清掃で生きていきましょう」

 

 ルトナダの手首を握る、俺の力が弱まる。ルトナダはひょいと手首を抜いて拘束を脱し、空っぽに指を絡ませた。

 

「まずは行ってみましょう」と今度はルトナダが俺を引く。編み込みが風になびく。視線を下げた。褪せた緑色のコートの裾が浮かれた尻尾みたいに風に泳いでいた。二人を繋ぐ橋が別々にならないよう、そっと力を込め返した。

 

 

 

 俺たちはロドスにすぐ歓迎された。話を聞いてくれたオペレーターはルトナダの体表の鉱石を見ても対応を変えなかったし、自分もそうだと見せてくれる者さえいた。彼らは僻地での任務を終え、これから帰還するらしい。二週間の旅路に俺たちは同行させてもらうことになった。

 

 ロドスの連中と行動をともにしてから今日までのことを思い返しても、特に不審な点はない。それどころかまともな企業であるような気さえしてしまう。

 彼らは俺たちの買った食料に手をつけず、逆に食料を提供するようなまねをした。真実かどうかはさておき、任務に行くときはこんな感じなんだよ、と教えてくれているようだった。

 ルトナダは提供された食事を取り、俺は自前の食事を取っている。

 

 

 食事のペースは遅く、一日歩いた疲労も相まって、ルトナダに先を越されるほどだった。体内に栄養を取り込むことを体が拒絶している。

 

「お腹が空いていないのですか?」

 

 携帯食料のゴミを捨ててきたルトナダがとなりに腰を下ろす。そして流れるように膝を抱いた。

 ルトナダはついでにブランケットを持ってきていた。夜風が冷たいためだろう。自分の肩を包んでいたそれを開き、そっと俺を中に招き入れる。

 

 見知らぬ香りのする小綺麗なブランケットだった。どうしても長さが足りずに正面だけ風が入ってくる形になった。

 

 半分ほど残っていた板状の食料を口に放って、むりやり飲みこんだ。口の中が乾いて、いきなり落ちてきたどでかい固形物を胃が拒絶して、大変だった。何日前のかも分からない泥状になった食べ物が胃に溜まっている気がした。喉もとまでせり上がった吐き気を、手もとの包装紙をくしゃくしゃに丸めることでやり過ごす。

 

「寒いんだろ。別に俺はいい」

「貴方と一緒にいたほうがあたたかいですから、問題ありませんね」

 

 ルトナダがもぞもぞと身じろぎした拍子に正面から冷たい風が入る。気づけば身震いしていた。体温調節がうまくいかなくなっていた。体は寒いと訴えて、頭は熱に浮かされたように判然としない。

 しまった、と思うころにはもう手遅れで。体がぴったりとくっつくほどルトナダは身を寄せた。

 

 ルトナダは自分の肩に掛かる端をつまみ、俺の肩に掛かる端に近づける。長さの足りないブランケットはぴんと伸びて、ずるずると引きずられて俺が寒くなる。

 

「貴方も押さえてください」とルトナダは力を緩めた。「引っ張ってください。寒そうですよ」

 

 仕方なしに力を入れた。二人の肩にかかるブランケットの両端がほんの少しだけ近づいて、心の距離を縮めようとする誰かの願望そのものに感じられた。

 

「食べる余裕があるのでしたら、私の分も食べていいのですよ」

 

 穏やかな月明かりに似合う声だった。耳を傾けていると安心が意識に染み込んでいく。だが、優しく揺られては駄目なのだ。

 遠くに見える木立は闇を背負い、それぞれの梢は焼け跡みたいに黒ずんでいた。

 

「駄目だ。騙されたとき二人で逃げるなら過酷な旅になる。食料も水も金も尽きていたなんて言ったらしゃれにならない。今まで通り食べる。物資はいつも少ないんだ」

「しかし、無理をしすぎです。夜も寝ていないでしょう」

「ほっとけ」

「貴方は……」

 

 言いかけて、ルトナダは俺を見つめ、そっと目尻を下げた。唇の端を彩るわずかな弧が、包み隠そうとする悲しみを訴えてくる。

 肩にそっと重みが乗る。沈黙を開くような優しい手つきで足が叩かれる。叩かれることによって生じた揺れが、心の揺れに共鳴する。波が激しく打ち寄せて全身をおかしくした。微細な振動にさえ胃が捩れそうな不快感がある。

 

「やめてくれ」と思ったことを口にした。ルトナダの手を掴んだら「すみません」と細い声で謝られた。触れ合ったまま、行き場をなくした腕がぽとりと落ちる。

 

「私は、信じてもいいのではないかと思い始めています。貴方は疑い続けるのですね」

「最初から信じてたわけじゃなかったのか」

「騙されることはもちろん視野に入れていました。貴方には言いませんでしたが」

 

「しかしうまくいきそうですね」とルトナダはほほえむ。彼女が黙っていたのは、俺が全面的に疑っていたからという理由が大きいのだろう。もしもルトナダがロドスを疑う素振りを見せたら、その時点で俺は力ずくで引き返した恐れがある。

 

「騙したのか」

「言いませんでした」

「俺たちを散々騙してきたくそったれな企業と同じこと言ってるぞ」

「悪い女性に引っかかってしまいましたね。離れるなら今のうちですよ」

 

 手首を掴む手に力を込めると、とうのルトナダは楽しげに「すみません」と言った。

 

「実は私も、最初はロドスの理念を信用していませんでした。ですからあのときの言葉は建前だったのです」

 

 ルトナダはそこで言葉を区切った。沈黙が耳で膨らむ。虫の声がそれを割った。

 

「ですが、現状をどこかで打破しなければならないと考えていたことも事実です。それがたまたまよい形に収まりました。もう一度騙されて二人一緒に逃げ出すか、別の移動都市まで行ったところで私と貴方が離れ離れになるか、移動先で差別にあって別の国に流れていくか……本当は様々なことを考えていました。貴方には道があるから、危険を承知で、もっといろいろなものを見てほしかったのです」

「俺の道は一つしかない」

「いいえ。一つしか見ようとしていないだけです」

「ビリアの願いを叶えるためだけに生み出された人格にそんなことを言うな。ビリアに言え」

 

「ビリアとはもう何ヶ月も会っていませんね」と不意にルトナダは言った。

 彼女の手を突き飛ばすようにして離すと、ルトナダは膝を抱いた。開けた場所なのに縮こまる姿で過去が香る。彼女は横髪を耳にかけ直したあと遠くの一団を見やった。

 

 

 焚き火を中心にぼんやりと浮かび上がるオペレーターたちは何かの話で盛り上がっていた。笑い声が夜空に反響して風とともに届く。冷気の中にあって、しかし満足げな声だった。手を叩く乾いた破裂音がときおりまざった。

 

「同じ感染者だとは思えませんね」

「まったくだな」

 

 境遇が違いすぎる。俺たちは生きることに精いっぱいで、あんなふうに笑える心も、生活の余裕も、すり切れてしまった。何かしらの苦行みたいに人生が背骨に集約されていく。生き延びるため。必要最低限のために、贅肉のすべてを削ぎ落とさなければならなかった。

 振り返れば無彩色と血を混ぜ合わせたような足跡が続く。

 

 逆恨みをするのはきっと違う。いま楽しそうだから、という理由で過去の影をないものとして扱うのは一種の暴力だ。視線の先にいる、明日が来ることを当然と思っているような陽気な連中には、きっと俺たちと同じような苦労があったはずなのだ。でも、羨ましい。

 俺が探そうとしなかっただけなのに、逆恨みでもなんでもいいからもっと早くここを見つけたかった。

 

 ルトナダが鉱石病に罹患する運命は変えられずとも、早期に治療できたかもしれなかった。

 

 水気を含んだ夜風が心に絡みついてくる。

 星空を仰ぎ見ると、幹が後頭部にぶつかってそれ以上は何もできなくなる。星が木の葉で砕け散って、かすかな光だけが目に届いた。風にそよぐ葉は闇をまとい、その奥で光が様々に踊った。

 

「修理をするとき、一つのやり方を盲信してはうまくいかない場合があります。そういった場合には手を変え品を変え、様々な手法を試してみます。思いつくままに、うまくいくかもしれない、と今日まで自分を生かしてくれた経験を信じて。それは思いもよらぬ成果に繋がることが多く、いま私が貴方に『他にも道があります』と提案しているのは、私の経験も踏まえてなのですよ」

「姉貴ぶるな」

「事実歳上ですから」

「手のかかる姉だな」

「えぇ、本当に」

 

 ルトナダが動く。「やめろ」と腕を掴んだ。行き先は左の太腿だ。見当がついていたから行く先を阻むのはかんたんだった。

 

「もう休んどけ。明日も早い」

「貴方は」

「疑い続けるのが俺の仕事だ」

 

 ルトナダは何かを言いかけて口を開き、結局何も言わずに立ち上がった。自分の肩に掛けていたブランケットを俺の肩に押し当て、全身をぐるりと巻くようにして去っていく。そして新しく掛けるものをもらい、俺からほんの少し離れた位置で、オペレーターたちからも離れた位置で丸くなった。

 

 一人分をむりやり二人分にしていたブランケットは、大事な一人がいなくなったことで内部に熱がこもるようになった。服から体表へ、体表から体内へと染みこんでいく。死臭と似ていた。

 

 体力が尽きている。休まなければいけない。

 

 曖昧になりつつある思考は、壊れた機械みたいに同じ結論を繰り返す。食事は喉を通らず、夜も神経をぴりつかせているのだから、こんな結論に落ち着くのは当たり前だ。

 それでもなお、呼吸と緊張を己の内側に張り詰めさせた。獲物を前にした肉食獣がいっときも警戒を緩めないように、夜行性の動物が朝に怯えてうろうろするように、神経を尖らせ続けた。

 

 強いた忍耐は、いつの間にか我慢の連続になっていた。

 

 地層のように重なった体内の泥に、とうとう意識は沈んでいった。気力であがいても、あがいた分だけ足が取られて沈んでしまう。

 起きているのかも寝ているのかも判然としないまま、陽光によって再び意識が揺り動かされた。

 

 

 

 視界の明滅は肩で呼吸をするたびに激しくなった。体内の何かがぐちゃぐちゃになっているらしく、ときおり臓器が捩れるような痛みが走る。

 必死で息をした。自然の呼吸を意識すればするほど裂傷が広がって、呼吸することや睨みつけることを忘れていく気がした。

 

「大丈夫ですか」

 

 ルトナダが体を支えてくれたのがいつなのかは判然としない。自分の靴にすら焦点が合わず、輪郭が揺らめいていた。

 彼女を引き剥がそうとして顔を上げたとき、見たことがないほど大きな建造物があった。

 

 目的地についた。

 

 馬鹿でも分かるくらい明らかだった。

 たとえば街で一番高い塔を目指していたとして、あぁ、たぶんここなんだろうな、と直感するくらいの、目的地に設定するにはふさわしい風格があったように思う。

 

 拳を握りしめようとしても力が入らず、指先が震えただけだった。ここで一番気を張らなきゃいけないのに、どうしても体の力が抜けていく。

 

 ルトナダが体を寄せたのが分かった。肩に回された手はしっかりしていた。一方で自分は、肉体と精神の接続が切れかけている。

 やるべきことは多いのに、最低限度もままならない。悔しかった。行かないでくれ、と支えてくれたルトナダにしがみついた。肩にすがりつく俺の手を、ルトナダは優しく撫でる。

 

 この支えがなくとも二人は別々に生きていける――生きていくだけであれば――のだと思うと無性に悲しくて、腹が立った。自分が生まれたのはルトナダを守るためだった。しがみつく力が強くなった。

 視界が暗くなった。

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