貴方の望みと歩くまで   作:ぞんぞりもす

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三話

 目が覚めた瞬間、電気でも流されたみたいに飛び起きた。しゃー、とレースのカーテンを勢いよく開けて室内全体を見回す。

 病室の個室なのだと思う。こんなちゃんとした場所で寝泊まりしたことはないけれど、軍の医療用テントに近い印象を受けた。淡い清潔感と死が横たわっている。

 

 ルトナダは俺に背を向けて縫い物をしていた。コートを脱いだ姿を久しぶりに見て、誰だあの女は、ルトナダか、あんなに細かったか、と思考が色を変える。別人みたいだ。

 彼女は裁縫の手を止め、そっとぬいぐるみを机に置いて振り返った。

 

「おはようございます」

 

 彼女の居住まいは病室によく似合っていた。そよ風に揺られる花がふとした拍子に地面に落っこちるような、生命の薄さ、みたいなものがある。

 清潔だけれど、壁や天井には隠しきれない摩耗があって、それはルトナダの精神のように現在進行系で擦り切れていっているのかもしれない。

 

「少し待ってくださいね」

 

 俺はルトナダを見つめたまま何も言えずにいた。ルトナダはくるりと机に向き直ってぬいぐるみを手に取る。

 

 彼女が縫い物をしている光景は何度も見てきた。廃墟で夜遅くに、彼女はわずかな光源を頼りに縫い物をすることがある。今と同じように黙々と手を動かす。

 今の光景には廃墟でない分だけ凄惨さがなくて、なんとなく心が浮き立った。

 

「ここは……現実か?」

 

 不意に、言葉がこぼれる。ロドスがちゃんとした企業であることを認めたくないのかもしれなかった。

 

「ロドスの医務室ですよ。正確に言えば個室なのですが……まだ具合が悪いのですか?」

「いや、大丈夫だと思う」

「本当に?」

 

 ルトナダが席を立って俺の額に手を当てる。ここまで近くで彼女の顔を見たのは、もう何年も一緒にいるのに初めてな気がした。

 ルトナダは「昨日は発熱がひどくて一日うなされていたのですよ」と言った。ベッド脇の椅子に腰掛けてベッドから伸びるボタンを押す。

 

 俺はぬいぐるみを顎で示した。

 

「裁縫はもういいのか?」

「一段落つきましたから。それよりも、貴方に現状を説明するのが先です。詳しい話は医療オペレーターの方からされると思いますが、私が聞いた話をお伝えします。まだ警戒しているのですよね」

 

 まず彼女は、寝ている間に俺のメディカルチェックが済んだことを説明した。

「検査の結果、貴方はやはり非感染者でした」とルトナダはほほむ。「よかったです」とも続けた。俺は喜んでもいいのか分からず俯いた。視界の先には重なったつややかな手と、スカートから伸びるぴっちりと閉じられた足と、源石。そっと源石に手が添えられた。

 

「はい」とルトナダは言った。彼女の口調は、俺に対して非感染者だと告げたときと同じで凪いでいた。

 

「それから、貴方の体には極度の飢餓状態や栄養失調、睡眠不足など、様々な異常がありました。主治医は私の体のほうが健康なのではないか、とすら思ったそうです。書類をごちゃごちゃに混ぜ合わせてしまったのではないか、と何度も私と貴方の検査結果を見比べ、最終的に私はもう一度検査をしました」

「それは……手間をかけさせた。すまん」

 

 ルトナダを見れないまま謝る。ルトナダは少しの間黙った。

 掛け布団にしまっていた手が包み込まれ、優しく撫でられた。

 

「罰として、ちゃんと健康になってください。ここは大丈夫そうですから」

 

 返事をしないでいると手に力を込められ「いいですか」と念を押された。ちょうどそのとき部屋の外から足音が近づいてきた。

 

「先ほど押したものは、急に体調が崩れたときに押すコールボタンというものです。目が覚めたら押すように言われていましたから。主治医が一度しっかり説明しなければならない、と」

 

 ルトナダは扉に一瞥を向けた。

 

「これから詳しい話があります。私は自分のことも貴方のことも聞きました。貴方の心配を思えば本来なら同席したいところですが……私は仕事の休憩時間を縫ってここに来ていたにすぎません。まずは一人で聞いてもらってもいいでしょうか?」

 

 掛け布団から手が抜き取られる。すっくと立ち上がるルトナダには未練も躊躇もないようだった。

 固い足音が遠ざかるにつれ大切なものが奪われる気がして、音の発生源に手を伸ばす。ルトナダは俺の静止に振り返り、困ったように首を傾げ「大丈夫ですよ」と言って再び足を動かした。

 

 踏みつけられる床の音が、そっくりそのまま心を踏みつけられる音に聞こえた。心臓が重く、鈍く痛む。

 

 

 もう一度何かを叫ぶ前に体が動き、素足が床をひたと打った。散りばめられた刺々しい清潔が、床の冷たさとともに背筋を這い上がる。体のバランスは取れない。しかし、動かなければならない。

 戦場を裸足で歩くことよりも、病室を裸足で歩くことのほうがなぜだか怖かった。

 

 がこんだとか、がちゃんだとか、物が倒れる音が背中を追い抜いてルトナダを追いかける。腕が痛んだ。点滴をされていたのかもしれない。病衣の袖から透明な管が抜けた。

 

 

 

 やがて俺は主治医と同伴で着いてきていたオペレーターに取り押さえられた。

 暴れたつもりだったけれど、病み上がりだったことや空腹だったこともあって、意識と体の動きがまったく釣り合わず、あえなくベッドに連行される。

 

 擦過傷を負ったみたいに、喉がひりひりと発熱した。なんと言っていたかは覚えていない。

 

 

 

 何を話されたのかは警戒のしすぎでよく覚えていない。戦場の記憶が曖昧なように、集中しすぎることで、人は記憶することを忘れてしまう。生存を絶対目標として集中すれば覚えることに容量を割けないのだ。

 俺は主治医がバインダーに挟んだ紙をめくる動作にすら神経を尖らせた。主治医は慣れているようで気にする素振りを見せない。後ろに控える小柄な女子は、俺が睨んだだけで身を縮こまらせた。そのたびに医師は説明の手を止めた。

 

「まず、点滴の続きをお願いします。これはあなたにとって必要なものなんですから」

 

 長ったらしい説明が終わり、主治医はぷらぷらと空中を振れる透明な管を見る。それから上を見た。中身のパックには液体が半分ほど残っている。

 こんな水に命を維持する昨日が詰まっていると思うと不思議な気分だった。きれいな水、というわけではないと思う。ただ、今まで飲んできたものは汚い水かきれいな水かのどちらかだから、俺は後者と判断することしかできない。

 

 

 毒と言われても信じることができる。薬と言われても信じることができる。

 そして、戦場で人からもらったものには最新の注意を払わなければならない。毒を渡すときに「これは毒です」なんて言ってくれる人はいないのだから。悪意には常に影がつきまとう。

 今まで与えられておきながら何を、と思うけれど、意識した途端に点滴は毒となった。体に得体の知れない何かが流れていることが怖かった。

 

 湖面がきらきらと太陽を反射したって、そのすぐ下には獲物を待ち構える動物がいる。水を飲むためにのこのこ近づけば噛みつかれて水中に引きずり込まれる。どんなにきれいな風景でも油断すれば命がなくなるのだ。

 染みついた癖は抜けないし、染みを抜こうとも思わない。足跡を消したくなかった。その先すら途絶えさせてしまう可能性が高いから、俺は俺であろうとした。

 

 

 腕に針を刺そうとする女子の手は、音が聞こえそうなほど震えていた。か細い「すみません」が連続する。腕になまあたたかい液体が落ちて、なんで腕に針を刺そうとしてパックに刺してんだよ、と睨み上げたら涙だった。ため息をついたら、抑えようとしても抑えきれなかったような嗚咽が歯の隙間から漏れ聞こえた。

 彼女の吐息はあたたかく、生命に満ちていたような気がした。

 

 どうしようもなくなって主治医と交代したけれど、数時間もじっとしていることなんてできなかったから断った。

 

「暴れて抵抗しなかっただけマシだろ」

 

 それを聞いた主治医はため息をついた。女子のいなくなった病室はやけに静かで、壁の罅にため息が吸いこまれて消える。

 扉の脇に控えていた護衛に目を向けると、彼らは面倒くさそうに顔をそらした。

 

 

 

 異例の事態らしい。あるいはたった数分で妙な噂が広がったらしい。

 

 カウンセリング室に向かう途中、俺には奇異の視線が注がれた。たくさんの理由が考えられた。

 病室から妙な叫び声が発されていたこと。本来ならいるはずの医師や護衛がいないこと。医師の助手らしき人が一人勝手に出てきたこと。しかも泣いていたこと。きりがなかった。

 

 

 カウンセリング室の扉の金属取っ手はところどころに手垢がついていて、いきなり開けると、ルトナダが俺に背を向けて座っていて、その正面に顔をひきつらせた人物がいた。比較的若い男だった。

 ルトナダのとなりに椅子があるから、そこに座れということだろう。

 

 色調の薄い室内は情勢を忘れたみたいに穏やかという言葉が似合っていて、作り物めいていた。家具や絵画、ぬいぐるみ。そのすべてが偽物の冷たさで俺を飲み込もうとしている。

 

 

「話は伺いました」

 

 椅子に腰を下ろすなり、となりから声がする。

 しかそれ以上は聞こえなかった。咎める気はないのかと右を向けば、なんともいえない顔をしたルトナダと目が合って、飲み込んでくれているのだと悟る。

 

 重い沈黙が募り、脳に染み込む。何をしているんだろうと自分でも思う。しかしこの性分が今日まで俺たちを生かしている。

 時と場合によって使い分けていたら状況を見誤っただけで致命傷を負うのだ。ギャンブルがすぎる。加えて俺は柔軟でも器用でもない。

 

 

 カウンセリング、なんて言っても俺は口を閉ざし続けた。劇場の幕は一切上ることなく、人の悩みを聞くための特殊な訓練を受けたであろうオペレーターが何度も身じろぎをした。となりに座るルトナダは停止していた。

 話したいときに話して黙りたいときに黙る、というのは俺たちの間で共通の認識になっていた。

 

 こんな場所で何がしたいんだとイライラして、そのたびにルトナダから手を添えられる。机の下ではほとんどずっと手を握られていた。

 

 

 やっとカウンセラーが口を開いたのは、二○分がすぎたころだったように思う。時計を何度も確認したわりにいつここに来たのか覚えていない。

 鉱石病罹患者をどう思っているだとか、治療についてとか、希望の仕事はあるかとか。ロドスの一員として働く上での必要事項を尋ねられて、適当に答えた。

 

「今日はここまでにしましょう」

 

 カウンセラーが紙を整えながら言った。彼は紙を見ながら質問し、俺の答えを断片的に書き記していた。小さく荒々しい字だった。何が分かるんだろうと思ったが口には出さなかった。

 

「行くぞ」

 

 俺が立ち上がってもなおルトナダが動かないので、仕方なく背中に声をかける。

 床に垂れていた尻尾の先端がくいと持ち上がった。手探りで俺の足を探し、やがて届かない場所にあると判断したのか、手で制止するように尻尾を掲げる。

 

「二人で戦場清掃を始めた当時、私たちはまだ幼く、日銭を稼ぐことすらままならない状態でした。食事は一日に一度ありつければいいほうで、水すら飲めない日もありました」

 

 不意打ちだった。空気を揺らした静かな衝撃は、静寂を食い破って再び静寂へと立ち返る。顔を上げたカウンセラーは目を丸くしていた。

 

「ゲントビリアの人格が二つに分かれていることはすでにお話ししたとおりです。彼は生活の果てに、徐々に分離していったのではなく、何かのボタンを掛け違えるようにして突然に生まれました。薄氷が音を立てて割れ、表の人格が暗く冷たい水中に閉じこもって出られなくなりました」

 

「おい」と薄い肩を掴む。シャツは触ったことのない素材で、上等な支給品であることがすぐに分かった。正面から見ればルトナダはさぞ素敵な女子だろう。もうすでに横顔の輪郭がぼやけ始めていることに、俺は気がついた。思わず力がこもった。

 ルトナダは指を絡ませて「任せて」と言うように軽くきゅっと力を込める。カウンセラーがばたばたとものを広げ直すのを意に介さず続けた。彼女は俺が「何が任せてなんだ」と思ったこともきっと気にしていない。

 

「幼かった私たちは力もそれほど強くなく、瓦礫をどかすにどかせず、大人から先を越されることが何度もありました。持ち上げようとした石材に分厚いブーツが乗せられたことも、いきなり銃声が響いて逃げ惑ったことも、そんな中で必死に持ち帰ったものを子どもだからと足元を見た価格で買い叩かれたこともありました」

 

「その果てに」とルトナダは言葉を切って立ち上がる。

 離れた手が背中に添えられ、前に軽く押された。踏ん張ったら力は弱まった。その代わり腕や足が当たるほど近くにルトナダが並んだ。

 湖で体を洗ったあとに特有の、優しい香りがふありと流れてくる。ちゃんとシャワーを浴びれているのだ、と思った。自分のことのように嬉しかった。

 

「私は貴方がたに協力的ですが、ゲントビリアが協力的でないことをあらかじめご了承ください。こうしなければ、私たちは生きることができなかったのです」

 

 扉が閉まる隙間で見えたのは、立ったまま腰を曲げて必死に何かを書き込むカウンセラーの姿だった。

 

 

 

 ルトナダの配属された後方支援部や日用施設を見て回っているうちに夜になった。

 夕食はむりやり取らされた。絶対に食べないという意思表示で腕を組んでいたけれど、小皿に乗せた料理を口もとまで運んでくるアレのせいで、食べるしかなかった。俺が飲みこまないうちから俯き加減で皿によそい、その表情がわずかにやわらかかったものだから、もう、手に負えない。

 掛け布団の下で手先や足先が暴れまわっていた。

 

 

 消えそうな灯火みたいな明かりが天井からぶら下がっている。

 窓から月光が差していた。外は晴れていた。黄色みがかった月は清潔な白を際立たせて、スツールに座るルトナダを儚く見せた。 

 静かな病室は心のやわらかいところにそっと触れてきて、後戻りできなくなるほど刺さって抜けない優しさを与えてくる。

 

 食事の味は薄かったけれど、涙が出るほどおいしくて、でも泣いちゃいけないなんて堪えていたら、小皿をことんと置いたルトナダから両頬を挟まれた。歯がゆい不快感を嗜めるように、ルトナダは両方の親指で目の下を撫でる。

 

「おいしい食事です」

 

 感情を怒りに変えなければ、決壊しそうだった。

 ルトナダは困ったように眉を寄せてほほえむ。はにかんでいるようにも見えた。

 

「おそらく私たちの三食を合わせても、栄養は敵わないのでしょうね。それに、戦場清掃員としての生活を続けたとして、このように栄養のある食事にありつけることはなかったと思います。今の私たちはきっと、ロドスに接触しなかった私たちが将来得られないであろう様々なものをすでに享受しています」

 

 細くて、白くて、やわらかい手だった。苦労をかけているのだ、と思った。

 

 世界の不条理が気に入らない。限りある未来を搾り取るように生きた先にあるどん詰まりに言葉を失う。同じ立場になることができないから、いつまでも無用の心配を抱かせている。

 内側から破裂しそうなほど莫大なエネルギーが上り詰めて、困った。掛け布団の下で握った拳には行き場がない。

 

 ルトナダが椅子からそっと体を浮かせた。ベッドに片足を乗せて抱きしめてくる。拳に重みが乗って、このままじゃ硬くて痛いだろうから、と力を抜く。代わりに抱きしめる力が強まった。

 ベッドが軋んで、ひび割れた心の隙間に痛いほど強く刺さった。

 

「信用したら終わるんだ」

「そのときは二人一緒ですよ」

「そんな都合よくはならないぞ」

「でしたら貴方の都合よくもなりません」

 

 砕けた口調の破片が深々と心に突き刺さる。気を遣われていた。

「揚げ足をとるな」と言うと、ルトナダは耳に息を吹きかけるように笑った。

 しばらくの間、浮き彫りになった心を抱きしめられていた。

 

 

 溶け合った二人分の拍動を感じていた。長いことこうしているのは珍しかった。それだけの環境に身を置いていたのだと改めて自覚する。

 一度呼吸を意識しだすとなかなか自然におこなえないように、芽を出した思考を見ないふりしようとしても難しくて。何も考えずにぬくもりを感じていたのが、ついさっきのことなのに懐かしく感じられた。短い間だけ子どもに戻っていた。

 

 装おうとした自然を見抜いたのか、ルトナダは軽く体を揺すって自分の位置を調整した。

 

「もうそろそろ、消灯ですね」

 

 ルトナダが耳もとに囁く。俺の上に乗ったまま扉を注視していた彼女は、やがてゆっくりとベッドから下りた。軽く身だしなみを整え、リュックサックから小型の四角いものを取り出して見せる。

 

「私の連絡先を登録した端末です。何かあればこちらに」

 

 ルトナダは実演を交えて使い方を説明し、終わったら机の上に伏せて置いた。

 

「こんなもの見たことないな」という呟きが静寂にこぼれる。

 

「この端末をオペレーターの方からいただいたとき、私も同様のことを思いました。すると担当オペレーターの方は満足げに笑い、れっきとした科学技術なのだと説明しました。知らないところで様々なことが変わっていますね。進歩している、と言ってもいいのかもしれません」

 

 ベッドの端に腰を下ろし、それからルトナダははっとしたように立ち上がる。自分が座った場所を丁寧に撫でつける。

 

「貴方はもうしばらくの間この個室で生活することになります。一週間は安静にしておいたほうがいいという話は聞きましたか?」

「……いや、聞いてない」

「騒動の話を伺ったときから、おそらくそうなのだろうと予想はしていました。追々慣れていきましょう。ここには様々な方がいるようですから」

 

 くるりと背を向けたルトナダは床に置いたリュックを閉める。びーっとチャックが音を立てて閉まり、その音が心の裁断音みたいに聞こえた。

 

 本当ならルトナダの近くにいたいところだったが、ここでわがままを言うのも気が引けた。もうすでに十分迷惑をかけている。これ以上の迷惑をルトナダは許してくれるだろうが、俺が自分を許せなくなる気がした。

 

 小さな体に小さなリュックを背負う姿をなんとか引き留めようとして、とりとめのない話題を探す。壁の綻びからぽろりと話が転がり落ちてくることはない。

 ルトナダと目が合い、小首を傾げた彼女に首を振る。

 

「何かあれば後方支援部の倉庫に来てください。私は大抵の場合、そこにいるでしょうから」

「あのベッドを運び込んだ場所か……お前、まさか、本気でそこで寝るつもりか? 宿舎もあるだろ」

「説明したとおりですよ」ルトナダは窓の外を見やった。「私もいまだに慣れていないのです」

 

 ここに来てから俺がどれだけ寝ていたのかは覚えていない。だが、数日は経っているのだろう。それでも慣れない。こびりついた一○年の疲労と不信はそれだけのものだ。

 

「他の方がいる場所、とりわけ物音が聞こえる空間で休むと、まったく休んだ心地がしません。入眠すら困難でした」

「まぁ、そうだろうな」

「はい。それではおやすみなさい。いい夢を見てくださいね」

 

 踵を返したルトナダに「待て」と言いかけ、しかし振り返った彼女を見ても言葉は続かない。掛け布団の下で手がぴくりと動くけれど、何も持ち上げられずにひっそりと停止する。話は終わったのだ。

 

 適当にごまかしてから「お前もちゃんと休めよ」と言った。

 ルトナダはおかしそうに口もとに手を当てて「はい」と頷いた。倒れたやつに、それも与えられた食事を食べる気がないやつに言われたのがおかしかったのだろう。

 

 

 

 一晩中考えずとも、ロドスがまともであることくらい分かった。なんなら最初の一日で分かっていた。だが、体が理解を拒んだ。

 断裂した導線が答えに辿り着けないように、俺の思考は途中でちぎれたまま、じじ、じじと必死に何かを訴え続ける。断裂が直ればいいけれど、つまるところそれは正常になるということで。異常な世界を生きるのなら正常になってはならないのだ。食い物にされてしまう。

 

 深夜遅くにルトナダからメッセージが入り、端末の説明を思い出しながら返信したら『早く寝てください。貴方は病人なんですよ』と返ってきた。『もう寝ましたか?』と聞かれたから答えただけだというのに、どうやら罠に引っかかったらしい。

 

『一人では入眠が困難なようでしたら、そちらに伺い、子守唄を歌いましょうか』

『お前も寝ろ』

 

 俺たちの言葉は拙かった。きっともっと適切な単語があったのだと思う。でも話し言葉と書き言葉、打ち言葉は違うから、付き合いの長さで意図を汲み取っていく。

 

 

 やがて決心がついたのは、退院が決まった一週間後のことだった。

 幼かったころの微熱を下げられないまま、現実を受け止められずに、何かに抗おうとしている。自分を救ってくれるものにさえ抗おうとしている。ルトナダはほんのりと熱を帯びた宝箱をこじ開けるでも馬鹿にするでもなく、ただ黙って撫でてくれた。それが情けないことのように思われた。

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