やわらかなぬくもりに揺り起こされて、液体に浸していたような意識がふうっと浮かび上がる。目を開けても何がどんな光景なのか全然分からない。その代わりなのかルトナダの香りを強く感じた。
安心で心が満たされる。強張った体から少しずつしみが抜けていく感じがする。
ルトナダの香りの奥に、カビっぽい、埃っぽい、すり切れた香りを感じた。室内の湿気がすごいのかもしれない。
「おはよう」と言おうとしても声の出し方をすっかり忘れてしまったみたいだ。掠れ声しか出なかった。頭を撫でようとしても指一本動かなかった。
ルトナダは僕の気配を察したのかほほえんで「おはようございます」と返した。
「飲み物を持ってきます」
体から重みがなくなり、正面から抱きしめられていたのだと遅れて気がついた。遠ざかる足音に心細さがこみ上げる。
ルトナダが持ってきてくれたのはガラス製のコップで、透明な液体が入っていた。「みず?」と聞こうとしてまたしても声が出ず、首をちょこんと傾げた変な人になってしまった。
「はい、水ですよ。飲めますか?」
ずっと体に電源を入れていなかったから動かし方を忘れている。なんとか首を横に振り、ルトナダに助けを求めた。
体に馴染んだ動作を思い出すまでには、さほど時間がかからなかったと思う。立ち上がった瞬間に一度ふらついて支えられたくらいで、あとはもう自由に動けるようになっていた。
部屋には時計がなくて時間の確認ができなかったけれど、ルトナダはポケットから薄くて四角いものを取り出して「一時間ほどかかっただけですよ」と教えてくれた。
机の上にも似たような薄いものが置かれてある。僕のだろうか。何かあればルトナダが教えてくれるのが通例だったので、ひとまず状況を聞くことにした。
「それでここはどこなの?」
僕の目が覚めた時点でここは安全なのだということが分かる。それだけは絶対だった。
ルトナダは両手で持っていたコップを静かに置いて、僕の腕にもたれかかるように体を横に倒した。
昼食前にロドスの設備を見て回るとのことでいろいろと見せてもらったのだけれど、やたらと視線を感じた。
今だって、すれ違った女子数人から異様に避けられた。それまで廊下の壁いっぱいを占領するように広がって歩いていた人たちが、急に端にくっついて一列の行軍をすることもあった。異様すぎる。
「ゲント?」
「はい」
「そっか」
ゲントが睨みを利かせた話はよく耳にしていた。僕はゲントの記憶を保持しているわけではないので実物を見られないところが残念だったが、もしも保持していたら戦場清掃も覚えていることになるのでごめんだ。
「どうせまたルトナダを守るためでしょ?」
「……分かりません。私もその場に居合わせたわけではありませんから聞きづてなのですが、警戒心の表れだったように思いました」
「そのときはもうここで過ごすって決まってたの?」
「決まっていたわけではありませんが、私はそのつもりでした」
「じゃあきっとルトナダを守ろうとして脅したんだよ。きっとね」
前にも何度か聞いたことだ。複数人で行動するのが決まった日のうちに、周囲を脅してみたりとか。薄い体を潰れるほど抱きしめて守りたいと願う一方で、僕は戦場に耐えられなかったから、ゲントが生まれた。
広いテーブルを二人で使うのは気が引けたけれど、僕たちの周囲には誰も寄りつかなかったので二人きりの昼食を取った。
「すごくおいしいねこれ」と思わず腰を浮かせて言ってしまい、それを見たルトナダは嬉しそうに僕を見上げた。注目が集まったためにいろんな方向に頭を下げたら、奇妙なものを見る目を向けられた。
ゲントとの違いに驚いているのだろうけれど、人格が分かれている話はそのうち広まるだろう。
ルトナダの自室に戻ってから最後まで話を聞き、やっと僕はすべてを教えてもらえた。
「とにかく二人とも無事でよかった」
自然と言葉がこぼれ落ちて、横からもたれるルトナダがくすくす笑ったのが伝わってくる。
腰を落ち着ける場所をやっと見つけたのだ。ゲントにかけた今までの迷惑を申しわけなく思う気持ちもあったけれど、それ以上に、純粋な喜びのほうが大きかった。
「無茶したんだね」と言うと、「どこかで変えなければならないと思っていました」と返ってくる。
「非感染者のゲントビリアと私とでは、個人の意志がどうあれ、生きていくべき道が違っていますから」
「そんなことないよ」
ルトナダは僕の言葉には返事をしなかった。僕とゲントに偏見がなくたって、ルトナダがどう思っているかで話は変わってくる。
差別する側の意識には問題があって、けれども差別される側の意識も複雑に絡み合っていて。
僕とゲントはどちらにも属していない。だから後者の問題をどうこうするすべを持たなかった。
「そういえば聞きそびれたんだけど、寝てる場所ってあの倉庫なの?」
なんともいえない微妙な沈黙は、時間の経過とともに緩やかに散った。僕は今日の昼から聞きそびれていたことを話題に挙げた。
ルトナダは何も言わず、僕の視線を追ってソファに目を向ける。
ここはルトナダの自室なのにベッドがなく、もともと置かれていたであろう場所にはソファがあるのだ。だから内装のバランスがちぐはぐになっている。
部屋の雰囲気に生活感はあったけれど、ルトナダの色がなく、前の人のがそのままなのだろうと容易に察しがついた。
後方支援部の倉庫にはベッドがあった。正確に言えば、倉庫にはおそらくベッドがあるであろう一角があって、僕は倉庫で寝ているのだろうと当たりをつけたのだった。
「ゲントには説明したのですが」と前置きをして、滔々とルトナダは訳を説明した。
僕が気になったのは、僕の部屋がルトナダの寝室――この場合は倉庫――から遠いという点だった。それをごまかしながら話を終わらせ、あとからドクターなる人物に宿舎の移動を願い出ようと考える。
不安が執着のようになっていることを僕は自覚していた。しかし、抗い方を学ばないまますべてをゲントに委ねてしまい、長い眠りが心の成長を妨げてしまったので、身動きの取り方を知らない。
大切を守ろうといろんなものを薪にして暖を取り、命を繋ぎ、結局その大切まで薪にして取り返しがつかなくなった。
なんとかしなきゃいけないと思いつつ、またしても僕は流した。障害物によって流れが遮られた川が別の流れを作り上げるように、迂回を繰り返した僕はその方法だけ上達していた。
僕とルトナダは二日後に初めての出撃を控えているらしい。
準備をするふりをして立ち上がり、「これからは僕とゲントの割合が同じくらいになるのかな。なんだかそんなこと初めてだね」ドクターを探しに部屋を出た。
宿舎について、ドクターは「内勤のオペレーターが働きやすいように工夫された立地なんだよ」と説明したけれど、関係がなかった。
「歩いたら移動にすごく時間がかかるよ。ロドスって広いから」
と追加で説明してくれるドクターに首を振り、僕は宿舎の移動を願い出た。
「傷、治ってきたんだね」
ルトナダの部屋で字の練習をしていた。
初めての給金で文房具をひと通り揃えた、入職日から二ヶ月経ったころのことだった。
「戦闘に行くことが減りましたから」
ルトナダはローテーブルにペンを置き、自分の手を撫でる。少し前に負った傷はすっかり見えなくなっていた。
「その分だけ様々なことを手伝わせていただけるようになりましたが、喜んでもいいものか……分かりません」
「僕は少なくとも喜んでるよ。ルトナダが怪我する可能性が減ったわけだし」
手の中でペンを弄んだ。そしてくるくる回ったペンをぱしっと掴む。もう一度ノートに向かった。
ゲントは作戦行動に向いておらず、単独で動かすかルトナダと二人一組で動かそうと考えられていた。しかし蓋を開けてみればゲントは作戦行動には忠実で、だからこそ当初の予定通り、僕は戦闘でルトナダは後方支援に回されるようになった。
素行が悪く、社交性に欠け、人間関係が杜撰という問題を除けば、ゲントはかなり評価を得ていた。何よりも作戦遂行能力が高い。
「爪とかも手入れしたらもっと綺麗になるんじゃない? ネイルしてる人けっこういるし」
手を休めて顔を上げると、俯き加減のルトナダと目が合う。彼女は僕の手を見つめていた。ルトナダはローテーブルに肘をついて体を前に出し、片方の手で僕の傷を撫でる。耳にかけていた髪が一房、頬に垂れた。
「貴方には生傷が絶えませんね」
「ゲントが出れば傷なんてつかないんだけどね。アーツの訓練は僕も受けたいから」
僕はそっと、ルトナダの耳に髪を掛け直す。彼女はくすぐったそうに顔を揺らした。耳がほんのりと色づいたのは僕の願望が見せた幻だったのか、それとも現実だったのか分からない。
「アーツ適性が貴方にもありましたからね」
僕は剣を純粋に硬く、そして強固にすることができた。
武器は硬ければ硬いほどいいなんて最初は思っていたけれど、全然そんなことなくて、初めの座学で捻じ伏せられた。字の練習を始めたのも実はこれがきっかけだ。
実践の話をすれば刃筋を立てることが難しかった。うまく切れなきゃ硬いものを叩いた感触がして手が痺れる。
足運びで足がもつれる。
剣で攻撃を受けることも剣の摩耗を防ぐためには避けたいことで、それなら体捌きを磨かなければならない。でも怯えた心じゃまともに動けない。
僕は心技体のどれを取ってもひよっこだった。ゲントと同じ肉体のはずなのに――と思っていたけれど、どうやら人格によって身体能力が変わる事例も報告されているらしい。
思い出すと口の中に苦い汁があふれてくる。でも、何かに打ちこむのは楽しかった。人生の余白を彩ってもいいのだと許してもらえた気がした。生きるため以外のことに必死になるのは、生まれて初めてだった。
勉強を休憩することにして、ルトナダが水を持ってくる間に二人分の道具をテーブルの端にさっと寄せる。僕よりも綺麗だが拙さの残る字で、容姿と文字とのギャップが愛嬌を生んでいた。
光沢のある木の机が丸い蛍光灯をぼんやりと浮かび上がらせる。ルトナダの宿舎の内装は地味だった。
「リスカムってば訓練でも容赦なくて。対人の訓練じゃない基礎のやつだけでへとへとになったりしてさ。そこからさらにリスカム相手に模擬戦しなきゃいけないからぼこぼこにされたよ。アーツを起動するまでもない、みたいな感じであしらわれるし」
「僕は必死だったんだけどね」と苦笑する。「まずはリスカムのアーツを起動させるところからだよ」
リスカムの戦闘経験は三年らしい。それと比べて僕はまだ二ヶ月だから歯が立たないのも仕方ないけれど、それにしたって、ゲントが磨き上げた肉体があるのだ。もう少し抗いたい。
思い返せばゲントが生まれるまでは僕も一応戦闘に参加していたわけだし、戦闘期間を合計したら二年ほどになるのだろうか。
喉もとまでせり上がった悔しさを水で一気に押し流す。水に溶けた感情は食道を押し広げ、そのせいで細い管が膨らんだような痛みを覚えた。胃が急激に冷たくなった。食道の鋭い痛みは徐々に引いて鈍痛となり、やがて感じなくなる。
空のコップが高い音を立てる。すかさずルトナダが立ち上がった。彼女の分はまだ何も減っていない。
「ゲントだったらこんなことにはならないんだろうけどね」
礼を言いながらぼやく僕に、ルトナダは「経験は大事ですから」と言い残して消えた。
ゲントは僕と記憶を共有しているから、僕が経験したことを知っている。しかし逆のことは起こらない。そういった部分でも差がついている。
環境が整ったのだ。それならば僕だって少しずつ戦えるようになりたい。ロドスに所属している義務感と、抱えきれない宝物を守りたい意地とが僕を加速させている。
ローテーブルに肘をついて考え込んでいると、体重をかける力が強すぎたのか接地面から肘が痛んだ。なんの気なしに見た小指の付け根には黒い跡がつき、手の甲には無数の切り傷がついていた。頬が自然に緩んだ。
「充実していますか」
出し抜けにルトナダが言ったのは、勉強を終えて夕食を取っているときのことだった。先に食べ終えた僕は食堂の営みを見渡しながらぼーっとしていた。
「してると思うけど。どうしたのいきなり」
首を斜めにしても、視界は斜めにならない。僕の瞳を釘で縫い留めるように見つめるルトナダは、正面から疑問を受けて立った。
分厚い雲の向こうには太陽と青空が広がっている。しかし彼女の瞳の奥には何が広がっているのかまったく読めなかった。夜の森みたいに、安心感と得体の知れなさが奇妙に同居している。
目を釘付けにされたまま反射的に腰が浮く。パイプ椅子が鳴いた。ルトナダは止めなかった。
僕たちのテーブルは食道のまんなかでも端でもなかった。加えて、ロドスに来た当初のように浮き島みたいになっているわけでもない。
だから人通りは程よいくらいで、テーブルの脇を歩き去る人たちは、食事のあとは何をしようと考える風の楽しげな団体やこれからの食事に胸を躍らせる団体が多くて。仕事終わりは、たったそれだけの事実で心を弾ませる。退勤の響きだけで浮足立つ人もいるだろう。
聞き耳をたてずとも聞こえる楽しそうな内容が脳を殴りつける。僕やルトナダとは違う人生の人たちだ、と思う。
幼少期にレールから外れて、僕たちと普通の間に生まれた角度はたとえ小さくたって、大人になるのにかかった年月の分だけ距離が生まれる。埋められない溝、あるいは越えられない壁になる。
安物の折りたたみ机の間――幅がぎりぎり一人分の通路には隔たりが大口を開けて待っている。
「今日もなんとかなったね」
「明日からもこのような生活が続くのですよ」
「そんなこと言わないでよ……盛り下がるなぁ」
「あるいは、これから先もずっと」
「ねえってば! 死ぬまでこんな感じなのは薄々気がついてるからさあ!」
「よく響く声ですね。野生動物から見つかってしまうかもしれません」
「今日のご飯はこれだけかあ」
「都市への移動日程が間違っていれば何も食べられない日もあると思います。道中で争いの地があればそこで補給をしましょう」
「どうだろう。このあたりはあらかた焼き払われたから、期待できないね……」
「戦場清掃以外にできることを探したほうがいいのかもしれません。壊れた武器の修復などができれば、日々の足しになるでしょうから」
「武器の手入れは道具がないと厳しいかな。裁縫とか、かんたんな機械だったら直せるんじゃない?」
僕たちの机には僕たちしかいない。世界から切り取られた狭い箱の中で浅い息継ぎをするしかない。
それなのに、ルトナダは僕を外の世界に弾き飛ばすようなまねをする。僕は二人だけの歳月に浸っていたかった。
食堂の喧騒と秒針の音が胸にたまっていった。ルトナダは髪の末端まで冷ややかに感じられた。
視界の奥にある壁には、年月の経過を思わせる罅と汚れがあった。生きた年月の分だけしわが増える僕たちのように、壁には罅が多い。
ルトナダは自分の心をそうするように、丁寧な手つきで料理をほぐす。ここ二ヶ月で食器を使っての食事がずいぶん様になった。
小分けにされた料理はゆっくりと、確実にルトナダの口に運ばれた。奥まで透過できそうな白い喉が動く。
「貴方は……戦闘と、後方支援部での仕事と、戦闘訓練と戦闘演習と、文字の練習と。それ以外の出来事に時間を費やしていますか? 趣味と呼べるものは存在しているのでしょうか」
ルトナダの声には抑揚がない。それなのに魂の叫びとでも言うのか、殴りかかってきそうな気迫を感じた。ルトナダの瞳は揺らいでいる。怒っている、のだろうか。
僕は似たような瞳の揺らぎを見たことがあった。記憶をあさると、つい先日ルトナダに自室を見せたことに思い当たる。
ドクターに話をつけて移った自室は、独房と形容するのがふさわしいような手狭な部屋だった。ベッドと小さな机、トイレとシャワー。たったそれだけ。衣装箪笥を置くスペースもないので、服は突っ張り棒に掛けるか畳んで置くかしている。
「これが貴方の……自室、なのですか」とルトナダは言った。いい意味であれ悪い意味であれ、予想もつかない光景を目の当たりにしたときに特有の言葉を失った気配がした。
「もっと広い部屋を使いたがっている人がいるだろうし、後方支援部と近かったから。交換してくれる人を探してもらったらすぐに見つかったよ」
ルトナダは無表情だった。僕の記憶に馴染んだ特別な無表情を浮かべていて、言い表すのならば、静寂、あるいは凪、といった表情だと思った。
押し黙るルトナダを見て、あぁ、そうか、と合点がいく。彼女はまっくろいどろどろが漏れ出ないように耐えているのかもしれなかった。視線を下げると、ルトナダの食事は半分ほどしか進んでいない。しかしもう十分だとでも言いたげだった。胃が感情で満たされているのだと思う。
角が丸くなったプラスチックトレイの外に、時間の経過で取れなくなったであろう黒い固形物がこびりついていた。僕とルトナダの関係も、新天地に移ったのに固着したままなのかもしれない、と思った。
人生は普通、歩いているうち勝手に肉付けされる。だが僕たちは違った。とりわけ非感染者の僕は普通に戻れる可能性を大いに秘めていたけれど、自ら道を断った。ルトナダはもしかしたら、趣味を探すことで、普通に生きる道もあるのだと僕に教えたいのかもしれなかった。
今のところ、鉱石病は治らない。きっと、ルトナダが死んだあとの依存先となれるような強度の趣味を探してほしいのだ。
「でもルトナダにも趣味はないでしょ……?」
僕の声は硬い。戦場清掃をした初めての稼ぎで買ったパンはこんな感じだった。歯が立たなくて一晩中口を動かしていた気がする。結局先に水が尽きて諦めた。後には顎の痛みと一睡もしていない疲労ばかりが残ったけれど、それでも僕たちは無邪気に笑えていた。
ルトナダは何かを言いかけて口を閉ざした。色褪せた黄色いスカーフに手が添えられる。幼いころと比べていろんなところが変わったし、いろんなところが変わらなかった。
気持ちだってそうだ。いろんなことを思って、いろんなことを忘れた。近くに居続ける事実だけが変わらない。
「私はカウンセラーと話すことで模索しています。私のように、特別な理想を抱くこともなく自分たちのためだけに生きてきたものでも成せることがないか、大それたことでも大仰である必要もない、小さなことを、探しています」ルトナダは少し考え「貴方は奪われるべきではありませんでした」と俯いた。
トレイの返却口で、ルトナダは「私は文字の続きをしたいと思います。申しわけありませんが、今日のところは一人でいさせてくれませんか」と言った。
ルトナダはコンベアの上を流れていくトレイを、じっと、死者に対してそうするように黙って眺めた。引き結んだ唇が何を言いたいのかは分からない。
僕が先に歩き出すしかなかった。
食堂の出口で分かれて僕は訓練場に足を向けた。振り返ったらルトナダと目が合って、つややかな髪の影で薄い肩が落ちた気がした。
枝毛が飛び出ている。昼下がりの太陽みたいにやわらかく、研がれたナイフみたいに鋭利な枝毛だった。
ルトナダはそれから僕と距離を取るようになった。話せばいつも通り懐に入れてくれるけれど、僕を他人と同色に見ようとしているみたいに感じられた。
○
「通信端末に連絡を入れたんですけど、確認してくれましたか?」
不意に話しかけられ、殺気まじりに声が聞こえたほうを見上げてしまう。リスカムだと気づいて謝ると「最初は驚いていたんですけどね」と苦笑された。
「みなさん作戦前だとやっぱり……少し気が立っちゃいますから。でももう慣れました。あと、柄に手が伸びてるのも気づいてますからね。こんなところで抜かないでくださいよ」
「悪い」
「ロドスに帰還したらまた模擬戦しますか」
考え事に夢中だったせいで気配に鈍感になっていた。草と土を踏む独特な湿った音を聞き逃していた自分に腹が立った。
「それで……連絡いれたんですけど」
「見ていない」
「なんのための端末だと思ってるんですかもう……それなら今から改めて確認させてください」
リスカムは当たり前のようにとなりに座り、画面を共有するように二人の間に端末を持った。青白い画面が浮かび上がって、月よりも星よりもまばゆい液晶に目の裏側が刺されたような気がした。
「眩しかったですね」とリスカムがほほえんだ。
「草、湿ってるだろ。じかに座っていいのか」
「これくらい今さら気にしませんよ。戦闘に突入すれば嫌でも汚れますし」
「そうか」
リスカムは作戦中、フランカを気にかけている。日常では部隊から浮く俺のことを気にかけていた。問題あり、と思えば気にかけないと落ちつかない性分なのだろう。
今しがた俺のところに来たのもその一部だ。
どうせ明日の朝に最終確認をするだろうに、つくづくまじめなやつだ、と思うけれど、まめさと優しさの釣り合っている彼女のことを俺は悪く思っていなかった。ビリアもかなり面倒を見てもらっている。
こういうやつは早死にする。それも、後ろからいきなり刺されたのを驚いたような顔で死ぬか、やわらかく笑って死ぬかのどっちかだ。
最初は遠慮がちに体を寄せていたリスカムだが、話に熱が入ってくると身を乗り出すように密着してきた。自分でそれに気づいてはわたわた言い訳して離れた。
俺は、彼女の顔をあまり見ることができなかった。視界の端には薄赤い頬の残滓が留まり続けた。
リスカムは何度かあくびを噛み殺して、最終的には目尻の涙を拭いながら、最後まで確認を済ませた。
闇に溶けかける背中に声をかける。
「ちゃんと寝たほうがいい」
「あなたに言われたくありません……! 夜中もずっと訓練場にいるくせに!」
「別にずっとではない」
「あなたのほうがクマがひどいんですからね……!」
幼い子どもが全方向に意地を張るような声音がおかしかった。怒るように左右に大きく振れた尻尾は遠ざかるに連れて大人しくなり、のそのそテントに這入るころには地面を引きずるような調子になっていた。