貴方の望みと歩くまで   作:ぞんぞりもす

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六話

 アーツ訓練のため、深夜にこっそり訓練場を使っていた。

 

 軽く走ったあと素振りをする。

 刃が空気を切る音が心地いい。高く振り上げ、床すれすれまで振り下ろす。高く振り上げ、今度は胸の高さでビタ止めする。小さく振り上げ、胸の高さでビタ止めする。刃先は決してぶれなかった。

 

 緊張と呼吸とを体の中心に向かって流し続けた。

 徐々にギアを上げていき、跳躍の足運びも織り交ぜながら流れていく。戦闘は静と動の繰り返しでなく、緩やかな動と激しい動の繰り返しだ。

 

 体に熱が回ったら本格的に施設を使っていく。模擬的に敵を現出させられたり任意に地形を変えられたりととにかく便利だ。ロドスに来てよかったと思うときはだいたい、飯のうまさと戦闘訓練の多様さに感心している。

 

 夜の冷え込みがそのまま伝わってくるようだった訓練室にはいつのまにか熱気が満ちていた。動きを止めて息を吐くと白い煙が天井に伸びていって、自分があったまっていただけなのだと気がついた。

 天井に無数に取りつけられた白い人口灯が汗で滲んで見えた。生まれた光球が視界を漂っている。

 

 額から目と鼻の間を縫うように汗が流れる。同時にうなじから服へも汗が流れる。絞れそうなほど訓練着は濡れていた。冷気と汗が服を介して、徐々に体の表面を冷やす。やがて芯まで凍えてしまうだろう。

 早めにシャワーを浴びたほうがいい。

 

「明日も外勤ではありませんか?」

 

 片付けをしようと動き始めた俺にルトナダは声をかけた。深夜遅くにルトナダが顔を出すのはえらく久しぶりだ。

 まだ戦闘演習が続くと思っているのか、ルトナダは壁にはりつくように身を寄せたまま動かない。細い喉を懸命に震わせているのは遠目から分かったが、声はほとんど聞こえず、俺は経験からなんとなく口の動きを読み取っていた。全身に力を込めたせいか彼女の尻尾はいまだにふらふら揺れている。

 

 深夜だというのに寝間着でなく普段着なあたり、倉庫で何かやっていたのだろう。

 

 しかし入ってきたことにまったく気がつかなかった。警戒心が緩むほど集中できる環境を喜べばいいのか、不意打ちで殺されるような惨状を嘆けばいいのか分からない。落ちつかず、むず痒かった。首の後ろを乱暴に掻いたら、痛みとともにベタついた感触を覚える。

 

「今日はもう終わっとく」

「そのほうがいいでしょう」

 

 ルトナダは頷いて歩いてくる。腕には大きめのタオルが掛けられていた。飲料も持っている。

 

「お前も明日普通に仕事だろうが。何やってる」

「体力には自信がありますから、どうかご心配なさらず」

「細い体でよく言うな」

「体重は順調に増えています」

「嘘つけ」

 

 俺の言葉を遮るように、ルトナダはペットボトルの底をこつんと額に当ててくる。俺の素振りと形が似ていた。

 ペットボトルにはかなりの量が入っていたから、鈍い音が鼓膜を打つ。上下が反転したことで底に向かって気泡が昇っていった。白い光が砕ける。滲んだ視界は、汗で見えたのと似ていたけれど透明感があった。

 

「どうですか?」

「お前な」

「つい先日のメディカルチェックでも増えていました。少しずつですが、ロドスに入職した日より着実に右肩上がりとなっています。もし希望があるのなら数値までお伝えしますよ」

「いい、いい」

 

 手を掲げて押しとどめたら、その拍子にペットボトルが握らされる。ルトナダは腕にかけていたタオルを広げ、背伸びをしてわしゃわしゃと髪を拭いた。

 やわらかなタオルの生地越しに淡い光が広がる。ときおり隙間が生まれ、真剣そのものといったルトナダの顔が覗く。

 

 耳を思い切り押さえられると、自分の血流の音が聞こえた。低く唸っている。俺が周囲に向ける視線を音にしたらきっとこんなふうな唸り声になると思った。

 ルトナダが口を動かす。音は聞こえない。読心術をしようにもうまく音が当てはまらない。

 

「なんだ」

 

 ルトナダはほほえむ。タオルを離してから「なんでもありません」と言った。 

 俺が反論するよりも早く顔全体がタオルで包まれ、自分の汗にまじって、甘い香りがした。張り詰めた心臓の筋肉は香り一つで弛緩してしまう。

 

 心臓の裏側を人さし指でなぞり上げられるような怪しい快感が走る。心がどうしようもなく安心する感覚を、俺は心のどこかで恐れていた。無防備になるのが怖いのだと思う。

 

「汗を流したほうがいいですね。このままでは体調を崩してしまいますから」

「……そのつもりだった」

 

 俺の声は乾いていたけれど、ルトナダはさして気に留めていなさそうだった。「はい」と頷き、首にタオルを掛けてくれる。ぐす、と鼻をすすると、「もう体が冷え始めています」とおかしそうに言った。それからじっと俺の服を見て感触を確かめるようにぺたぺた触れる。

 

「貴方の体重も増えているようで、喜ばしい限りです。筋肉が増えているのだと服の上からでも分かります。触って確かめる必要すらなかったかもしれません。昔から着ている服がもうそろそろ小さく感じられるのではありませんか?」

「分からん。そうでもないと思うが」

「……いえ。今月のどこかに二人の非番が重なる日があったと記憶しています。服を買いに出かけましょう」

「その日はたぶんリスカムと訓練場にこもる約束をしている」

「彼女は忙しい方ですから、二人で訓練をするのであれば午前か午後のどちらかだけなのではないですか?」

 

 

 

「やはりそうなのですね。でしたら一日のどこかで空き時間を作ってくれませんか?」

「お前な」

 

 ルトナダは俺が断らないことを知っている。だから勝手に話を進める。ルトナダが俺たち以外に積極性を見せることは皆無だ。不器用な甘えなのか、それとも年上ぶろうとする面倒見なのかは知らないけれど、忘れてしまってもなくならない地層のように、積み重ねた年月の上に俺たちのやり取りは存在している。

 彼女は両手をゆっくりと持ち上げ、そっと俺の頬を挟んだ。不健康な温度だった。俺は魔法にかけられたみたいに言葉がすべて解けた。

 

「享受することを、私も貴方もきっと恐れています。善意による施しを受けることなどほとんどありませんでしたから、戸惑い、疑ってしまいます。繰り返し失敗した経験も大いに不信に貢献していることでしょう。あの当時、表に出た善意はすべて搾取のための罠でした。

 ボリバルでは感染者の子どもに気を配る余裕は大人でさえありませんでした。大人となった私たちも、自分たちのことで精いっぱいでした。しかし、それだけではいけないのではないか、とロドスの皆さまを見て思うようになったのです」

 

 言葉を差し挟む余地なく言い切ったルトナダは、深呼吸をしてから「ですからまずは、貴方から」とほほえんだ。病的なほど白い頬が白い人工灯に照らされる。陽光に目を細めるように、ルトナダはくすぐったそうにほほえんだ。

 

「貴方が不必要だと断じても、私は貴方の未来に必要そうなことをしたいと思っているのです」

 

 全身に行き渡った熱のせいで俺の頬はきっと赤かったと思う。その熱が彼女に伝播したみたいに彼女はいきいきとしていた。

 

「すみません。引き止めるようなまねをして。シャワーを浴びてきてはいかがでしょうか。片付けは私がしておきますから」

「おい、ペットボトル」

 

 ルトナダは押し返されたペットボトルを見下ろしてから困ったように笑った。

 

「先ほど売店で買ったものなのですが、やはり私には、運動のあとでもスポーツ飲料は少量で十分でした」

「お前、だから少し減ってんのかよ……」

「貴方なら残しても飲んでくれると思って……やはり、水が一番おいしいのかもしれません」

 

 亀裂があっても車輪が回るように、俺たちの関係は歪なまま裂傷を広げながら回っていた。潤滑油を差したところで変わらないから、何かを変えなければならないことだけが確かだった。

 

 

 

 ルトナダとデートに行くらしい、と僕がリスカムに伝えたとき、リスカムは驚いたような悲しむようなぎこちない笑みを浮かべた。ハンドガンのグリップを握る手が神経質に動いて、それから探るような顔つきで慎重に言葉を紡ぐ。

 

「今まで連れ添ってきたのに……初めてのデート、ですか?」

「ほら、ボリバルにいたころは娯楽用品とかを見て回るために街に行ってたんじゃなくて、生きるためだったしさ。僕はほとんど一緒に行ったことがなかったけど、聞いた話だとそれなりにぴりぴりしてたらしいよ? だからじゃない?」

 

 おそらくだけれど、僕とルトナダの思う買い物と、普通の人が思う買い物は異なっている。ぎりぎりまで切り詰めて必要最低限が揃うか揃わないかの綱渡りをデートなんて呼ばないのだろう。

 それに僕とルトナダは言いようによっては同棲していたとも表せる。もちろん僕たちはそんなふうに思っていなかったけれど、字の練習のために物語を読んでいてふと思ったのだ。

 

 そういう、同棲やデートといった浮ついた言葉が適用されない世界から投げ出されて、僕たち三人はきっと名称のつけられない関係に戸惑っている。

 

 訓練を医務室で休むみたいな宙ぶらりんの居心地の悪さからルトナダは抜け出そうとしていて。そのついでに僕にいろいろな世界を見せたいのだと思う。

 僕もゲントも望んではいないけれど、今まで散々人生に付き合わせてきた申しわけなさがルトナダを突き動かすのだろう。

 

 

 リスカムは僕たちの境遇を憐れんでいるようだった。グリップを握る手に力がこもり、表情も強張っている。

 すぐさま気を取り直して「では精いっぱい楽しんできてください。その日はアーツの練習もなしにしましょう」と笑った。ハンドガンの弾倉を交換する音がやけにかたく訓練室に響いた。

 

 

 大切なものをしまった金庫のダイヤルを回すように、僕は少しずつ関係を調整したかった。中身をぐちゃぐちゃにするつもりはないし、力ずくで開けるようなまねもするつもりがなかった。

 でも、ルトナダの望みと僕たちの望みはわずかだが決定的にずれていた。

 

 

 僕が知るどの装飾よりも店内はきらびやかだった。

 天井に吊るされた電飾は空よりもまばゆい。闇市とはまるで違っている。今まで遠ざけていたような価格帯の店にルトナダは躊躇なく入っていった。

 尻尾が振れて、ときおり商品に当たっては気恥ずかしそうに顔をそらした。普段よりも活発な動きのせいか横髪が頻繁に頬に垂れていた。

 

「どちらが似合いますか?」

 

 ハンガーを両手に持ってルトナダは僕を見上げた。楽しそうに耳が動いている。

 

「どっちも似合うよ。きれい。ルトナダも服も」

 

 両手が塞がっているせいで手を口もとに当てられず、ルトナダは服で顔を隠して俯くように笑う。僕に聞いたところでしょうがないとは思ったけれど、ひと通りの回答はリスカムから教えてもらっていた。

 でも、服やコスメの良し悪しが分かる友だち――ロドスのオペレーターと言えばいいのか、戦友と呼べばいいのかは分からない――に聞くことが最も適切なようにも感じられる。

 

 

 彼女の用事が済んだあとは、片手に提げられる大きさの紙袋を持ってメンズ用の店を何店舗もハシゴした。そこでもルトナダは両手にハンガーを持って険しい顔をした。服をあてがわれる対象はルトナダから僕に変わった。なんだかむず痒かった。

 

「何を着ても似合ってしまうので迷ってしまいます。廃屋の暗闇とこことでは景観がが異なっているため、同じような服を着たとしても印象は変わってしまうと思っていましたが……綺麗な服を着ることでさらにこんなにも印象が変わるのですね。のちほど写真を撮ってもいいかもしれません」

 

 ルトナダは僕を見つめる。目もとはからかっているが表情はほほえんでいるから、たちが悪い。

 

「買っても置く場所がないよ。上等な品だったら困っちゃうだけだし……着れればいいんだよ」

 

 ルトナダは少しむっとしたけれど、言葉を飲みこんで安いほうを手もとに残す。僕の分が入った紙袋はルトナダのよりも一回り小さい。どちらも僕が持った。

 

 

 店内のライトもガラスも全然薄汚れていなくて、ボリバルにいたころは遠目からしか見ることのできなかった都市の風景に入っているのだと思った。

 ロドス艦内に飾られている写真や絵画の世界に迷い込んだみたいで、ここから出るためには窮屈な四角から体を引っ張り出さなきゃいけないような感じがする。そして着地したら狭い廊下に出るのだ。 

 

「他に見て回りたい場所はありますか? 今までの場所はすべて私の希望でしたから」

「……そう言われてもねぇ」

 

 僕にとってはルトナダと見て回る行為自体に意味があるのかもしれない。何を(・・)は重要じゃなくて、誰と(・・)が重要、みたいな。

 目指してきた平穏を満喫できて嬉しかったけれど、そこにはやっぱり僕の意思がない。趣味と聞かれればルトナダになる。ルトナダが何かをしているだけでいいのだ。

 

 

 これを守りたいと思ったとき、僕はやはり、装備に目が向いた。

 

 

 僕が希望を口にしたとき、ルトナダは絶望が視界の端にちらついたみたいに表情を暗くした。

 複合商業施設のベンチに座っていた。彼女が握ったペットボトルから、ぱき、と高い音が聞こえた。雑踏にまじって鋭利なものが心臓に突き立てられた気がした。

 立ち上がって、全体的に照明の落とされたほうに向かった。物々しい薄暗さが立ちこめている。

 

 

「ゲントが使うなら何がいいんだろうね」

 

 ルトナダの険しさは徐々に薄らいでいって、店内で商品を見て回るころには僕と同じように真剣になった。

 

 

 ロドスを信用してからまっさきに、ゲントはアーツユニットを欲した。僕たちにはアーツを扱う才能があって、ある程度までは感覚で洗練させることができた。

 ゲントは武具の整備は自分でやると言い張り、ロドスの作業場を借りて調整している。であれば工具や武器に惹かれるのは道理だろう。

 

 

 僕は服を見ていたときよりもずっといきいきしていた。自分を着飾ることよりも、自分の道具を見繕うことは楽しい。

 訓練することで人生の余白を埋め、訓練に関連のある装備のことだから、より余白を埋めるものの密度が大きくなるのかもしれなかった。たとえ全身を覆うことは叶わずとも、心の密度を大きくしたほうが薄っぺらいものを全身にまとうよりも満足できると思う。

 

 どれだけ道具を見ても、本人の意思を聞かなければ分からないという結論にいたり、僕とゲントは交代した。僕の様子を意識の中で見ていたゲントは、交代をかなり渋ったように感じられた。

 せっかくルトナダと街に出ているのだから、とか。きっとそうやって気を遣ってくれたのだ。

 

 

 再び意識が入れ替わると、服を入れた紙袋よりも大きめの、それもがっしりした作りの袋が二つ増えていた。剣の柄が袋からはみ出ていて持ちづらい。肩にかけるとときおり後頭部にぶつかった。

 

「優秀になれば、貴方はさらに危険な場所に行くことになるのではありませんか?」

 

 工具店の薄暗さを背中に受けながらルトナダは言う。

 テナントに長く留まっていたのか、出口に向かう人の数は、外から店内に入ってくる人の数よりもずっと多かった。大きな人の波に飲まれながら、でも決して飲み込まれないような立ち位置の

端を歩く。

 

「可能性はあるね。明日の朝ご飯がサンドイッチである確率と同じくらい」

 

 茶化して言ってみたけれど、それを聞いたルトナダは表情をかたくする。

 

「ほとんど確実ではありませんか」

「そりゃまぁ万年人材不足らしいしね……ロドスって。企業として立ち行かなくなるのは避けないといけないんだから、使えるものは出し惜しみせずに使うんじゃないかな」

 

 複合商業施設の通りの照明は絞られていて、ひとつ飛びに天井灯がついていた。心なしかひとつ飛びに暗くなっているような気がした。

 僕たちの横顔をテナントから放たれる光が照らす。光が濃くなった分、横に伸びる影も濃くなった。

 

 その影は、ピンヒールや革靴、スニーカー、ブーツなどの多様な靴の下敷きになって、それでもびくともせずに、ぴたりと僕たちと一緒になって進んだ。

 いろいろな形状の靴が床を叩き、その音は店内放送をかき消すノイズになる。僕はスニーカーでルトナダはブーツだった。こういうところでも、僕たちの好みはなかなか合わない。

 俯いてることに気がついて顔を上げた。清掃の行き届いた自動ドアが店内の光を反射して、僕たちの冴えない顔を映し出す。

 

 もう夜になっているのか、と思った。

 

「ロドスに行くっていったのはルトナダじゃん」

 

 人いきれから背中を押されるようにして僕たちは外に出た。熱気は耳の後ろを撫でて頬を抜け夜風に昇っていく。

 雑踏という音は聞こえるのに、誰の話し声も聞こえなかった。

 

「ここにいるためには決まりには従わないといけないんだよ」

「それは……ひとまずの避難場所として、第一に貴方に生きる何かを見つけてもらうために……」

 

 ルトナダは言いかけて口を噤む。

 

 西の空には昼の残影が色濃く残っている。東から夜が侵食している様子は、泣き別れた家族のようにどこか悲しげだった。

 

 ぎらぎらと光を振りまく街明かりを避けるようにして進む。僕たちは通りの端を歩くようにできている。たとえ人がまったくいないとしても、何かの償いみたいにして一人分の隙間を縫って進むことだろう。染みついた習慣はそのまま僕たちの人生だ。

 

 影の濃淡が激しいせいで世界はほとんど無彩色だった。

 ときおり街灯の下を通るから、はっきりと僕たちの影が光のもとにさらされる。二人の影は別々の揺れ方で、一生リズムの合わないメトロノームみたいにちぐはぐに時を刻んでいた。

 

「ロドスを離れてもいいのですよ」

 

 趣味を見つけたと思えば、いろいろな条件が後から付与される。政治みたいに理不尽で、常識みたいに守る必要性を感じない。

 胸を張れる趣味のほうがいい、みたいに言われるけれど、別に胸を張らなくたって自分がよければいいのに、と思う。

 

 誰かと共有するもしないも自由だからこそ趣味なのであって、何か一点だけでも強制させられるのなら、それは義務だ。

 

「でも僕、装備見るのも訓練するのも好きだよ。だから嫌々ロドスにいるわけじゃないよ」

「そういった趣味は、確かに貴方の人生を豊かにしてくれるのかもしれません。長生きすることで人生の総量が豊かになるのかもしれません。総量が豊かなことを、人は幸せと呼ぶのかもしれません」

 

「しかし」とルトナダは速度を落とす。遠慮がちに手が伸びてきて、風で解けてしまいそうなほど弱く結ばれる。

 

「人を殺して生き延びる以外の方法で、別の豊かさを手にしてほしいのです」

 

 理解ができなかった。焦げ臭い村から連れ去られたあの日から、僕は、僕たちは――。

 勢いよく息を吸った。呼気が耳に貼りついた。冷え切った夜の闇が肺に満ち、外から入りこんだ冷たさが内部の熱を際立たせる。

 

 僕が何かを叫ぶ前に、ルトナダが先に口を開いた。

 

「どうして分かってくれないの、と声を荒げることができればよかったのかもしれません。しかし私は、貴方の境遇を知っているからこそ嘆くことができません。非はおそらく私に傾くでしょうから」

「それは……ズルだよ」

 

 ルトナダの自傷を前に、僕は追い打ちをかけることができなかった。激情は夜風に乗り、太陽とともにどこか遠くに運ばれていった。

 街はすっかり夜の静けさをまとっている。

 

「私が塵となったとき、あなたはその先でどのように生きるつもりなのですか。いくらロドスといえども容態が危うくなれば隔離されることでしょう。その隔離場所までついてくるのですか? いずれ失われて貴方が途方に暮れるからこそ、私は貴方の理由になりたくないのです」

「……いずれ失われる理由を持つことはいけないの?」

「いけないと断言はしません。しかし、分散させてほしいのです。依存先が一つのままでは、一つが崩れたときにすべてが瓦解してしまいますから」

 

 依存先を分散させたら、一つひとつへの強度が落ちる。傾けられる感情の量は決まっているのだ。際限なく感情が肥大していくなんてありえない。

 そう思っているからこそ、僕はルトナダを最優先にする。他の何を削ってでも体の芯を貫くものを据えている。

 

「難しいね」

「はい。難しいです」

 

 どこか他人事の僕の声に、ルトナダは感情の読めない声で同調する。

 厚い雲がかかっている。夜空には星がなかった。星が見えないと、夜空は僕たちを押し潰そうとしているんじゃないかと思えるほどの窮屈さを与えてくる。

 

 外にいるのに狭苦しい室内にいるみたいだった。

 廃墟は僕たちに安心をくれた。それなのに、暗さの種類が違うからか、空気の重さが違うからか、心が敏感に嗅ぎ分けて居心地が悪い。

 

 うまく噛み合っていた歯車は環境のおかげだったのかもしれない。

 

 過酷な日々がやわらかな夕焼けにさらわれて消えゆく。穏やかな木漏れ日にさらされるような日々は、僕たちの間に溝を作った。

 沈黙が引き伸ばされ、都市中心から漏れ聞こえる喧騒が遠のいて聞こえた。

 雑踏を抜けてロドスを目指す僕たちの周囲には、気がつけば誰一人としていなかった。

 

 

 ゲントから聞いた話では、リスカムは深夜に訓練場を訪れたらしいが、ゲントの様子を見て口を噤んだらしい。

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