ビリアとルトナダの間にある亀裂は今のところ小さい。だから決定的な仲違いをすることもなかった。
だが仮に仲違いをしたとしても、ビリアは一生ルトナダの近くにいるだろう。互いが背を向けることなど些細なことだった。
『隠密行動を練習したほうがいいかもしれない』
そんな書き置きが残されていたのは今日のことで、これはビリアと一緒にいることをルトナダが負担に思い始めたとき、影からこっそり見守りたいかららしい。
戦闘面でも役に立つだろうから俺は隠密行動に賛成を示した。またルトナダの目を伏せることになるな、とも思ったが、これは俺の問題じゃない。
俺の問題じゃない、と思う。本当に?
邪念が大きくなるにつれ、刃が風を切る音が鈍くなる。手応えが重い。刃筋が立っていない。実践であれば剣を消耗させるだけだ。
寝る間を惜しんで動いているので、疲労も溜まっていた。
これ以上は惰性での訓練になるから切り上げるか。そう思って動きを止めたとき、まるで最初から切り上げるタイミングが分かっていたみたいに声がかけられる。
「最近疲れていますね」
ルトナダとすれ違ってからというもの、リスカムが深夜の訓練に顔を出す頻度は増した。自分がフランカと噛み合っていないところを想像して気にかけてくれているのだと思う。リスカムは相手の立場に立って考えようとしてくれる。
「悪い」
「いえ」
タオルを受け取り、水を流しこむ。思い切り動けていないから息が切れていなかった。汗だけがだらだら流れている。床でいくつかの水滴がきらめいていた。
汗として体から水分がどんどん抜けていって、体内を巡る雑念の密度が大きくなっていく感覚が不快だった。大量の水を飲むことで感覚を元通りにしたけれど、内側に向かって体を圧迫し続ける感覚は鮮やかに残り続ける。
ペットボトルから口を離したときに漏れ出た息がため息なのか、物事が一段落ついたときに自然とこぼれる息なのかは自分でも判然としなかった。
ペットボトルは半分以上減っていた。キャップを探していると「これです」と手渡される。
「軽食でも作ってきたほうがよかったですね」
「そうか?」
「今からでも作ってきますよ」
「いや、いい」
背を向けたリスカムに言葉を投げる。あまりにもぶっきらぼうな物言いに悪い気がして、振り返った彼女と目を合わせることができないまま「悪いから」と付け加えた。
時間があるときはあらかじめ作って持ってきてくれる。それだけですら悪い気がしているのだ。
リスカムは俺の足先を見つめて「でも」と言った。訓練着から飛び出た俺の手首を掴み、骨の感触を確かめるように何回か力を込める。
「やっぱり」
気遣わしげな目で見上げられても困るだけだった。視界の端で汗まみれの手が光を反射してきらめく。
早く寝ろだの、アーツを扱う意志が鋭くないから刃も研ぎ澄まされないだの、やんややんや言ってくることが多いけれど、リスカムの本質はこういう面倒見のよさにあると思う。
「ゲントビリアは少し痩せましたよ。順調に筋肉がついていていいなって思っていたのに。今日ちらっとお昼を覗きましたが、あれでは足りません」
「増えたのが元に戻っただけなんだから結果的には一緒だろ」
「一緒じゃないです! このままだともっと痩せていきますよ!?」
いきなり声を荒くされても、根底にあるのが気遣いだと分かっているから迫力を感じない。頭を撫でてほほえむことができた。撫でてから、汗がついたな、しまったな、と思った。
リスカムは歯を食いしばって俺を睨んでいる。
「仕方ないだろ。ビリアがなんとなくルトナダに合わせちまうんだから。飯の量はずっと一緒だったんだ」
肩をすくめて「癖だ」と言っても、リスカムの表情は吠えたまま変わらなかった。
一緒にいる時間は減ったが、食事は毎日一緒に取っていた。
関係が悪化したとしても――いや、最初から関係など悪化していないのだろう。ずっと一緒にいたのが適切な距離になっただけだ。プラスが少し小さなプラスになっただけなのだ。それを悪化したと捉えるところに依存する感性がちらつく。正常に戻った、と表現すべきところなのだ。
一方で、他人から見た異常がビリアとルトナダの正常であるならば、今が二人にとっての異常とも言うことができるか、とも思う。
絡まり合って重さを増した思考が胃を強く圧迫した。
手の中でペットボトルがぱちぱちと音を立てた。キャップで蓋をされているから反発が強くなった。手を開いたら一部が音を立てて元通りになって、一部はそのまま凹み続ける。人間関係みたいだった。
負担がかかって変形して、負担が取り除かれたとしても完全には元に戻らず、この形のままやっていくしかないのかもしれないなんて諦念を滲ませた不格好のまま、元に戻そうとあがくほど形は歪になる。
今のルトナダとの関係もきっとこんな感じになっている。
元から歪な形だったのかもしれない。正常に押し戻そうとする外部圧力でおかしくなっているのかもしれない。
負担とか、元通りにとか、歪な形とか。思考の断片が全身に突き刺さった。
自分でも何を考えているのか訳が分からなかった。疲れていた。
「ルトナダも何も言わないしな。問題ないんだろ」
「何も思っていないことはないはずです。私、目の動きを見てましたから」
「絶対フランカから今度なんか言われるじゃん……見つめていたとかって」
「話をそらしましたね?」
極度に気にかけられると、いらいらするのかもしれない。つきまとう感情を振り払うように天井を仰いだ。
つきっぱなしの天井灯の白が、視界の隅々で目を灼く。
「足りない分を今補ってもいいんじゃないですか?」
「俺に言わないでくれ……ビリアに言え。この体は俺のものじゃない」
「今日言おうとしたんですけど、任務の時間が迫っていて……それに、ビリアに提案した場合、ゲントに聞いてと言われるんじゃないですか?」
「それは、まぁ……あるんだろうな。あいつのことだから」
「じゃあゲントにいきなり聞いてもいいじゃないですか」
「なんでだよ」
「いいじゃないですか……!」
「確認は取ってくれ。何度も言うが、この体は俺のものじゃない」
リスカムはどうしても飯を食わせたいらしかった。面倒なので「まぁ勝手にしろ」と言うと、その答えが分かっていたみたいに「勝手にします」とつんと返される。
きっとリスカムは早死にする。
シャワーを浴びていた。
記憶は劣化する。感情も思い出もいずれ劣化する。
風化して剥がれ落ちた記憶の欠片は足もとに溜まり、シャワーで押し流されるように排水口に流れた。排水溝は赤茶けた色をしていた。
曇っている鏡でも分かるほど体は細かった。
訓練場の片付けをしてくれている小さな姿を思う。
ぬかるみと腐敗臭をかき分ける小さな姿に重なる。
俺たちを心配してくれた連中はみな死んだ。そして俺たちは、死体から遺品を漁った。
いらいらの正体はやはり、気にかけてもらえている事実だった。度が過ぎるほど心配されているのが不快、と言うのが的確なように思う。
人の死は、親しい距離であればあるほど、近くから殴られたような衝撃をもたらす。他人であれば遠くから殴られたような衝撃だから、そもそも拳が届かず、そよ風が届くだけだ。
鈍痛はなかなか消えない。太鼓が心臓に響くみたいに何度もなんども全身を震わせ、痛みが体に同化することによってのみ解消される。俺はもうこれ以上、人を近くに置くことで心身を痛めたくないのかもしれなかった。守れるものにも限りがある。
拒絶の正体が分かったところでどうにもできなかった。あえて暴君みたいに振る舞ったとしても、リスカムは余計に俺を心配するだけだろう。
サンドイッチを作ってくれたリスカムに「俺のこと気にかけすぎじゃないか」と言うと、リスカムはほほえんで流した。
夜食と言うにはかなり量が多く、時間をかけて食べた。
「この量、二人で食べるのを想定してるだろ」とこぼすと、リスカムは「ゲントビリアならこれくらい食べると思って」と口を隠す。
「俺これから寝るんだけど」
「それなら今度からは昼にでも出しましょうか」
「お前な……」
熱気がこもっていたはずの訓練場は、食べ終わるころにはすっかり冷え切っていた。興奮すればするほど、あるいは汗をかけばかくほど、急激な温度変化が感じられて、それは底冷えが這い上がってくる訓練場にも確かに存在する感覚だった。
守りたいものが増えるほど実力不足が嘆かれた。
「もっと増やしたほうがいいな……」
「体重ですか?」
「いや、アーツの訓練」
深いため息が耳を打つ。三角座りで体を丸めていたリスカムは、膝を抱いたまま俺を見て「何も言えないですね」と呆れた。彼女は壁に背を預け、ぼんやりと白い光を見つめた。
洗い物をしている最中「互いを大切に思っているからこそうまくいかないこともありますよね」とリスカムは言った。
言い争う声は貯蔵室から聞こえた。リスカムと顔を見合わせてから廊下を駆け抜ける。蹴破る勢いで扉を開けた。
ルトナダはしばしば、深夜に貯蔵室の遺品を整理している。虫の知らせは当たった。
胸ぐらを掴まれるルトナダは困ったような顔をしていた。それから俺を見て、さらに困ったように眉尻を下げる。
ルトナダの態度が気に食わなかったらしいオペレーターは「凄惨な状態をつらつら述べることが追悼になるわけがない」と叫んだ。
貯蔵室には物が多い。ルトナダが来てからはさらに増えた。オペレーターの怒声は多くの遺品に吸われて奇妙に室内に反響した。
「何考えてるの!?」
「ゲント、これは――」
「ちょっと!」
ルトナダは刺すように睨まれ、「申しわけありません」と目を伏せる。長いまつげは長い影を落とした。
複数人のオペレーターでよってたかって、何を考えているのだろう。握りしめた拳が包まれる気配がした。
凄惨な状態での遺言を、願いを、あんたみたいに何も感じていないような声で言わないで。穢さないで。
おおむねこんな内容が続いたように思う。
ルトナダは直接的な表現が多く、聞き手を困らせることがあった。だが、逆上されることは、俺の記憶にある限りは初めてのことだ。
薄暗い貯蔵室は曇りの薄暮を思わせる。視界に稲妻が走り、残像が白い明滅を繰り返す。まばゆさに目眩がした。歯を食いしばったのは怒りのためか、目眩を堪えるためか、自分でも判別できなかった。
殴りかかるのは控えた。リスカムと敵対したいわけではない。
「大丈夫だ」
空中に言葉を放り投げた勢いそのまま手を振りほどき、ルトナダを掴むオペレーターまで歩いた。
内容の凄惨さに耐えきれなかっただけの狭量な人間が、許容量の大きなルトナダに当たることは、決して許されない。
たかだか一本の矢が胸を射抜いたくらいで喚き散らすな。もっとひどい目にあってきたルトナダは無言で耐えている。
「失せろよ」
気がつけば俺は女のオペレーターの胸ぐらを掴んで宙に浮かせていた。彼女の怒りは一瞬にして恐怖に上塗りされた。
視界に映る俺の拳は震えていて、このままじゃ顔面を殴ってしまうな、と他人事のように思う。俺は構わなかった。俺は、構わなかった。
ルトナダに一瞥を向ける。相変わらず感情の読めない瞳のまま、まっすぐに俺を見上げていた。
背後から足音が近づいてくる。リスカムは何かを言っていた。
「くそったれが」
動向を見守っていた日和見主義のくそ野郎どもに女を突き飛ばす。女は小柄だった。
薄闇と沈黙が募った。
リスカムは中途半端な位置で肩を落としている。
「もう遅いですから、休んだらどうですか? みなさん明日も任務がありますよね? 今日の疲労を引きずったままではいけませんよ」
リスカムの言葉に顔を見合わせた連中は、足音をばらつかせて出ていった。途中で何度も振り返る気配がしたけれど、目が合った瞬間に鎮めた感情がぶり返してきそうで、俺は斜め下の薄灰色の床を見続けた。
ルトナダもどこかに行ってしまった。
「行かなくていいんですか? こういうときは話さないと」
「お前とフランカの場合は、だろ」
「それはそうですけど。でも普通だと思いますよ? え、まさかこのままじっとしているつもりですか? そしたら意地でも引っ張っていきますけど」
リスカムの調子は淡々としている。奥にある決意は付き合いが短くても伝わってくる。
視界の先には、ルトナダが手入れをしていたであろう服だとか武器だとかが、部屋主がちょっと休憩に出ただけのような煩雑さで置かれている。
「問題を起こしたオペレーターの聴取はうまくやっておきますから、あなたは行ってあげてください」
「別にあいつらが問題を起こしたわけではないだろ」
「分かってるじゃないですか。そうですよ。別に今のは問題でもなんでもありません」
「ひとまず冷静でよかったです」とほほえんだ気配がした。
「あなたの問題でもあるんですよ。それに、本気で分かっていないんじゃなくて、分かろうとしていないだけのように見えます」
開きっぱなしの扉から短冊みたいな光が差す。俺は細い光線を目指して歩いた。前に長く伸びたリスカムの影は俺と重なり、俺の足もとには黒い感情が渦巻いていた。振り返って表情を見ることはできない。俯いたまま貯蔵室をあとにした。
ルトナダは後方支援部の倉庫にいた。廊下がルトナダの痕跡を示すみたいに、ほのかな体温と香りを残していた。
倉庫は誰かの心みたいに暗かった。電気をつける気力もなかったらしい。慣れた歩幅と感触でベッド付近まで向かった。
鉄筋の骨組みと垂れ下がった薄い布越しに、ルトナダの頼りない息遣いを感じる。
「大方予想はついているが、事情は聞かない。何があったのかも聞かない」
壁に全体重を預けて立った。腕の行き場がなくてなんとなく組んだ。かたい反発が背中と靴底から伝わってきて、生きて立っている感触だ、と思う。
「大丈夫なのか?」
「はい」
頷かせてしまったな、と思う。
くぐもった声だった。枕か何かを抱きしめているのかもしれない。
じりじりと無言はまとわりついてきて、今まで何度もこんなふうに気まずい夜をすごしてきたのに、どうして今日だけは沈黙の温度が低く、鋭く尖っているように感じられるのか不思議だった。
思い返せば、自分たちが揉めたのではなく、ルトナダが誰かと揉めた現場に遭遇することが初めてだった。第三者となった今、言葉のかけ方が分からない。
「カウンセラーの方から、話さないままではいけない、とついこの間言われました。頭の中で反響する事柄を言葉や文字に起こすことで、私が遺品を整理するときのように、少しずつ反響が整理されていくのだと。私には話す相手がいるのに、どうして話すことの効力を知らないまま過ごしていたのか、と不思議なそうな顔をされました」
「そうか」
「聞いてくれませんか?」
「……ビリアに言え」
「ほんの少しだけでもよいのです」
「ビリアが知れば悲しむ。俺の第一はお前じゃない」
ルトナダは無言を返した。衣擦れの音こそが声ならぬ悲鳴だった。
足は影に縫い留められて動かなかった。
「一分ならいてやる」
「……短くありませんか」
「もう数えてるからな」
リスカムから忠告されたとはいえ、俺はビリアとルトナダの問題を他人事のように捉えているふしがある。よくないんだろうなとは思いつつ、すぐすぐ直す気も起こらない。
ルトナダはたっぷりと三○秒を黙考に費やした。
「怒鳴られた瞬間、私は悲しかったのかもしれません。しかしこれは私に非があることで、自分の犯した過ちによって傷ついた人がいることを、悲しみをどこかに置いたあとで、私はどのように償えばよいのか分かりませんでした。亡くなられたオペレーターのご友人が受け取るべき悲しみは、私のせいで何倍にも増幅したようでした。私は相手の悲しみに対してどのような反応を返せばいいのか分からず、黙ってしまいました。一人でしばらく睨まれていました。心細かったのかも――」
「一分経ってる。今日はもう寝る」
俺はルトナダの気持ちを受け止める器ではない。一分などとうに過ぎていることを俺たちは分かっていたが、事実に触れなければ、思考を圧迫されたまま現実から目をそらし続けらることもまた、俺たちは分かっていた。
弾みをつけて壁から離れる。弾みをつけることで、いつまでも追いすがってくる引力を剥がした。
「ノートにでも書いてまとめておけ」
闇を裂きながら廊下へ向かう。背後でカーテンの開く音がした。
「……ありがとうございました」
「いらん。明日言え」
扉の閉まる音が先に聞こえた。カーテンの閉まる音が耳に届くことはなかった。
ちゃんと作戦が成功したのに、月がいつもどおりの明るさを放っていたのに、やわらかな夜の空気が心のやわらかいところをちくちくと刺した。
ゲントが何かをしたことは書き置きと周囲の態度が教えてくれた。恨み言こそぶつけられなかったけれど、ひそひそ話のひそひそ音が耳でこだまする。音は脳内を鮮やかに跳ね回った。
指さされるのに合わせて、心臓が細長い棒状のものに圧迫されるような痛みを覚え、息苦しかった。
ルトナダとともに夕食を済ませ、その足で倉庫まで向かう。僕たちの間でかわされる言葉は少なかった。
僕たちを貫く沈黙は珍しい沈黙で、劇と劇の合間に下ろされる幕みたいに気まずい感じがしたけれど、いつも通りの静かな場所に来てみれば、いつも通りの空気のような気もした。倉庫にはひんやりした静寂が満ちている。
「こちらに座ってくれませんか」
倉庫の隅にあるカーテンを開き、ルトナダは薄いベッドに僕を招く。並んで座った。
鉄筋と薄布によって区切られた心細い四角には、面と向かって話すときに特有の、胸を締めつけてくる静けさがある。重さはゆっくりと体に染みた。
「私たちは正直に話さなければならないのだと思います」
僕もルトナダも三角座りをして、まるで何かから身を守るように膝を抱いた。
「話しても、いいのでしょうか」
「……話すって言ったのに?」
からかうように言う。ルトナダはほほえんだ。
「迷っています」
「手でも引いてあげようか?」
「貴方が朝まで踊ってくれるのなら、喜んで」
言葉を見失う。返事の代わりに僕はルトナダにもたれかかった。二人そろってベッドに横から倒れて、この体勢はなんなのだろうとぷくぷく笑った。
最終的にルトナダが仰向けになり、僕は彼女に覆いかぶさる。ルトナダの顔の横に、長い髪が絡まないよう慎重に、自分の頬をつけた。かわいらしい耳が眼の前にあった。なだらかな膨らみの奥で、囁くように命が揺れていた。
恋人繋ぎなんて恥ずかしい名前がついているけれど、これは気持ちが交差しても離れないでいることを祈っているだけなのだと思う。たとえば、今の僕とルトナダがそうだ。
「貴方が私を思うことを、私は嬉しく感じます」
「一方で」とルトナダの言葉が震えた。
「私は、貴方が人を傷つける道具を楽しそうに見繕い、取り揃え、人を傷つけようとする光景を見たくありません。ロドスに来たのはそのためではありませんから。ここはもうボリバルではないのです。貴方には――」
他の道を探してほしい、他にも道を選べるのだから、なんて。何度も言われたことは心の表層を水滴みたいに滑り落ちる。
床に滴った水が跳ねた。誰かの涙が無意味に落ちたときと同じように、痛々しいほど澄んだ音が聞こえた。
「貴方が私のために奮闘する姿を見ると胸が弾み、しかし、何か、違うようにも感じられます。高い音を立てた呼吸が着地して、地面から受け取った反発の分だけ、心にも痛みが走ります。似たことなのですが、私は自分が責められても何も感じませんが、貴方が責められ、孤立しているところを見たくはありません。我がことのように呼吸が苦しくなります」
仰向けのまま、ルトナダは顔を横に向けて僕を見た。瞼が閉じていく。安らかに目を閉じた表情を見たのは初めてだった。
繋いだ手からは少しずつ力が抜けた。
「私は……貴方に健やかに過ごしてほしいのです。そしてそれは、私の想像する非感染者のような生活なのかもしれません……いいえ。私の想像など及ばないほどに、他地域の非感染者は穏やかで満ち足りた生活をしていることでしょう」
ほんのわずかに、ルトナダは口角を上げる。悲しい笑い方だった。
「私は貴方の理由になりたくないくせに、貴方には私の理由であってほしいのです」
木漏れ日のような拒絶だったと思う。
僕はルトナダが直接言わなかったであろう、私のような感染者とは関わってほしくない、という揺れを感じ取った。全部ではないけれど、心のどこかでそう思っている。木々に降り注いだ陽光が砕け散り、覗いた破片の一部からそう感じ取った。彼女の心はあたたかく僕を刺した。
僕たちは時の隙間に体を押しこみ、どうにか呼吸を繋いでいた。倉庫の一角にすぎない薄暗い箱庭が僕の世界そのものであってほしかった。
「……痛いですよ。ビリア……ビリア?」
気がつけば繋いだ手に力がこもっていた。深呼吸を繰り返して血流の焦点を少しずつずらす。ルトナダの耳に僕の息がかかって、ルトナダは体とザラックの耳をくすぐったそうに動かした。
彼女の首筋からは、雨に打たれても決して洗い流せない死臭がした。
「君が力を抜いたから」
「……離れて行くわけではありませんよ。安らぐと力が抜けていくようにできているのです」
カーテンに仕切られた薄暗闇は、彼女の心みたいに見透かせない。ルトナダのほほえみには翳がかかっている気がした。
「この先、私がオペレーターの方の機嫌を損ねてしまったときは」
ルトナダは天井を見つめて、囁くように言う。本当は現実に起こってほしくない、けれど確度の高い未来を予測するような諦めた語調だった。
「抱きしめてもらえませんか。私のために怒りをばら撒いて貴方が孤立することよりも、抱きしめてもらえたほうが穏便に……いえ、それは、違いますね。貴方が孤立するのを見るのが嫌ですから、それを防ぐためにも私を抱きしめてください」
「どういう……?」
衣擦れみたいに小さな声のやり取りだった。心の振動は触れ合った箇所から僕たちを行き来して、誰にも聞こえない音になる。この世界のどこにも、カーテンの外にも薄いマットレスやシーツにだって伝わらない音が、僕たちの中では大きく共鳴していた。
「とにかく、今もです」
ルトナダの声は始終穏やかだった。有無を言わせない迫力があるわけではない。それでも思わず信じてしまいたくなるような、落ち着いた自信に満ちていた。
体を左右に振って僕の下から抜け出そうとするルトナダの意図は分からない。それでも僕が体を軽く浮かせると、彼女の動きはいくぶんか滑らかになった。
僕は艷やかな髪が腕の下敷きになっていないか細心の注意を払った。そしてルトナダの動向を見守った。
ルトナダは僕に背を向け、冷え切った壁を見る。それきり動かなかった。僕は位置的にルトナダの背後に寝転んだ。まず弾力が下半身にぐりぐりと迫ってきて、それから髪がやってくる。抱きしめろ、ということなのだと僕はようやく考えついた。
抱きしめる力なんて分からなかったけれど、ルトナダの「心地いいです」という声に全身の力が抜けた。泣きそうなほどの安心は、どこか怖くもあって、その怖さが不安を煽った。葛藤に気がつくと背筋に緊張が走った。
「私たちは長い間をともにしましたが、このようにして過ごす時間はほとんどありませんでした」
ルトナダの声は不安とはほど遠い。緊張もなかった。自分が心安らかに過ごせると示すことで僕を安心させようとする気遣いなのかもしれない。
「明日を夢に見ることが精いっぱいで、やっと訪れた朝日に、今日もまた次を目指さなければならないのだ、と追われるような心地になりました。何も知らない太陽を恨む日もありました。そんなときも、貴方やゲントは何も言わずに私を翌日に導いてくれました」
細い体だった。この体を抱きしめたのは、僕は知らなかったように思う。心臓が痛いほど張り詰めていた。大切な人を抱きしめることがこんなにも怖いことだとは思わなかった。
具体的な気持ちを言葉にすることなく大切になってしまった関係や、横顔を見慣れた関係は、変化に耐えうるだけの強度がない。無弾力を手折ろうとすれば、雪崩が起こって取り返しがつかない。
「気持ちを結ぶことは困難です」
ルトナダも僕と同じようなことを思っていた。
そのうち「反転させてもいいかもしれません」とルトナダは言って、僕たちは正面から抱き合った。どうやら満足ができなかったらしく、僕の拘束を解いて潜行し、小さな額を胸に押しつける。肋骨に当たってそんなに気持ちよくないだろうに、と思ったけれど黙っていた。抱きかかえた頭は小さかった。
「結び目がかたいと解けないし、気持ちが長すぎるとどこかでこんがらがるし、糸がほどけることもある」
「ちぎれることもあります」
「それは痛いね」
「はい。離れられたほうも痛いですし、ちぎれたほうも痛いのです」
ルトナダにはこうして甘えた記憶などないだろう。母親とすごした年月は一○年に遮られて霞んでいるのだ。村が焼かれた日にスカーフを巻いてくれた母親の記憶すらぼやけている。
僕たちはそれきり何もしなかった。静寂を味わうようだった。やがてルトナダがとんとんと二回体を叩く。
「私は話しましたよ。貴方の心もお聞かせください」
「僕は――僕のはだって、分かってるでしょ?」
「分かっています。分かっているから、無理強いはしません」
言いたいことが分かっているから、望みを変えることは無理強いしない。ルトナダの言葉にはそんな響きがあった。
「僕は君を守りたいのに、その手段を整えることを君は嫌うから」
「浮かれた様子で私が装備を整えていれば、貴方だってきっと同じことを思います」
「それは……そうかもしれない。駄目だって言いたいけど」
「言えないのですよ」
自分から見た幸福の陰には、他人の心配が潜んでいる。僕はルトナダが安心できるような幸福を演じる必要があった。
「押しつけて、何になるのですか」獣耳はうちしおれた。
「だって、僕は」
「分かっています。了承はせずとも、承知はしているのですよ。それに……今のままでもいいのだと、私もどこかで思っていますから」
まっとうな生活など二の次で、自分の人生を生きるつもりもなかった。ルトナダの人生が一番大事だった。
不平等な繋がりや不公平な繋がりは不健全なのかもしれないけれど、別に健全な関係でなくたっていいと思う。幸せを他人から指図されることは間違っている。ステータスとしての幸せは、洗脳とよく似ている。
僕はただ強烈な思念に突き動かされているだけだった。
世界が間違っていてもいいし、僕が間違っていてもよかった。ルトナダが淡い光に包まれ、そして笑えるのであれば間違いなど些事だった。
ルトナダは僕の頑なな決意に対して打つ手がないようだった。
「今度からはこんなふうに、抱き合って、話していきませんか? 私たちが折り合いをつけられるように。願いを込めて」
くぐもった声に抑揚はない。どうしようもないと言うように彼女は首を左右に振った。
「いずれ結論を出さなければなりません。割り切らなければならないのに、割り切れるのかどうか定かではありません。今だけは曖昧なまま私を抱きしめてくれませんか。私はあなたと、こんなふうに過ごしたかったのかもしれません」
腕に力を込めた。ルトナダも返事をするように、しがみつく力を強めた。
「どうか私を許してください」とルトナダは言った。「私たちはきっと眠れません。それでも、起きたまま夜を明かすことはできたらどれだけいいのでしょう」
外はきっと晴れていて、綺麗な月が見えるのだろうな、と思った。