貴方の望みと歩くまで   作:ぞんぞりもす

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八話

 僕とルトナダは頻繁に言葉をかわすよう戻った。戻ったと言っても、無意味な言葉を積み重ねるのではなく、積み重なった過去を手渡すような不器用なものに変わった。日常に馴染んだ歪さはどうやったって不格好だった。

 

 

 独房とよく似た狭い部屋で勉強をしていると、律儀なノック音が響いた。

 

 ルトナダが僕の部屋に入ってくるのは珍しい。大概は僕のほうから会いに行く。

 

「どうしたの?」

 

 扉を閉めてから動かないルトナダに声をかける。ルトナダは神経質そうに両肘を抱いていた。尻尾で感情をはかろうにも動かないので読み取れない。僕の部屋には嗜好品がなく、視線を向けるものがないルトナダはじっと僕を見ていた。

 

 心もとない電灯の下にいるルトナダは今にも消えてしまいそうだった。使い古された部屋にしか存在しない特有のカビ臭さと湿気が邪魔だった。

 ルトナダは儚いけれど、その儚さは白い陽光がよく似合う。

 

「お気になさらず」

 

 ようやく絞り出したような言葉に、それはさすがに無理でしょ、と心中で言う。しかしルトナダがふざけているようには見えなかった。

 僕は結局何も言わないままノートに向き直り、足音がベッドに吸いこまれる音を聞いた。

 

 

 昨日、僕とルトナダは新しいタオルケットを買った。僕の生活の質を上げるのはどうだろうみたいな話になって計画した買い物だった。

 つっぱり棒にかかっている色褪せていない服と同様、新品のタオルケットはこの部屋で浮いていた。本来の持ち主ではないのだろうなという明らかな貰い物感を放っていて、なんだか僕もタオルケットも体を縮めてしまう。肉体に馴染んだ普通と世間の普通には埋めようもない溝があった。

 

 

 ルトナダも同じなのだと思う。新品の服を買ったとしても、結局はいつもどおりに戻ってきてしまう。

 昨日は珍しく簡素なシャツに簡素なズボンを合わせていた。その簡素さは僕たちの生活そのものだった。

 

 耳が衣擦れの音を捉える。彼女が何をしているのか気になった。振り返ると、ルトナダは新しいタオルケットを律儀に畳んでベッド端に置き、薄く広がったしわだらけのほうを手に取るところだった。

 

 彼女の目が「あ」と言った。つまむように持った薄い布切れをおずおずと引き寄せて胸に抱く。俯いて顔を近づけたそうにした。

 

「別にいいよ。使っても」

 

 僕の言葉が許可証だったらしい。ルトナダは背中から布を羽織った。

 三角座りしたスカートから黒い下着が覗いた気がして慌てて顔をそらした。僕の尻尾が自分の腹を叩いた。

 ベッドとタオルケットの隙間からもれたルトナダの尻尾は、さー、さー、とシーツをこする。彼女は首を傾げていた。

 

 今までは下着になんて目がいったことがなかったのに、生まれた余裕が僕を惑わせる。

 尻尾の活動範囲のしわはすべて引き伸ばされた。

 

「なんかさ、新しいものって落ち着かないよね」

 

 言葉と言葉の隙間を埋める。沈黙が募れば余計なことを考えてしまいそうだった。きっとこの感覚を分かってもらえるだろう。そうも思っていた。

 ルトナダはほほえんだ。瞳には報告書通りの悲しみがたたえられている気がして、その雲の向こうには晴天と夜空のどちらが広がっているのだろう、と思う。晴れていても、広がっているのは月光の届かない奥行きかもしれなかった。

 

 

 

 ベッドの上で黙っていたルトナダは、やがて僕のとなりに腰を落ち着けた。僕は無言で字の練習をしていた。

 

 袖口や小指のつけ根がノート上を滑り、わずかな摩擦音を生む。シャーペンを突き立てるようにして持つのをルトナダやリスカムから何度も注意されたけれど、結局直らなかった。注意されるたび、二人の前で文字を書くのがほんの少しだけ怖くなった。

 

「どうしたの」

 

 僕は手を止めてシャーペンを転がす。ころころと転がったペンはクリップが下に行くごとに勢いを失った。

 こんなふうに、勢いよく射出された物が障害物に阻まれて失速することが、人間関係にもあると思う。低速で進んでいた僕たちはロドスに来たことで加速し、乗り越えなければならない普通にぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。今はルトナダとの間にしか障害物がないけれど、そのうちにリスカムや他の人ともこんなふうになるのだろう。障害物の山に囲まれたとき、僕はゲントに逃げ出す気がした。

 

「貴方の私物に包まれていると、貴方のそばにいると、安心するな――と、思いまして」

 

 ルトナダは手を重ねた。僕の手は紙面とルトナダから挟まれて身動きが取れない。上下とも冷たかった。

 

 ルトナダはもぞもぞタオルケットを広げて二人分の空間を作り出し、羽織った。布は小さい。だから体をくっつけても隙間風が吹いた。頬をくっつけたら人の耳とネズミの耳が触れた。ぴく、と僕がネズミの耳を震わせると、気づいたルトナダも返事をしてくれる。

 

 何度がぴくぴく叩きあった。堪えきれなくなって、二人同時に笑った。頬の肉を持ち上げたせいでルトナダの頬の感触が変わった。

 もたれかかるように体勢を変えたルトナダは僕の腕を抱きしめる。

 

「安心することがいいことなのか悪いことなのか、最近になって不思議に思うようになったのです」

 

 勢いに乗らなければ吐き出せないような内容が、安らかな僕たちの空間に横たわる。

 

「安心を感じることで安らぐのは当たり前の話です。しかし、危険の多い環境で安心を求めることと、危険の少ない環境で安心を求めることとでは、意味が違うのではないかと思いました。水底から浮かび上がる気泡のような問いは私の頭で弾け、弾けたとしても残り続けています」

 

 不器用に感性を話す彼女はいつだって愛おしい。何度ぶつかるか分からないけれど、いつもこうあればいいと思う。

 すがるように尻尾が絡みついた。

 

「貴方はどう思いますか」

 

 腕を抱く体は細い。やわらかさで包んでくれるくせに頼りない。心がこわばっている、と思った。

 

「危険の多い環境では、身を守るために安心が必要不可欠です。しかし、ここでは、安心を求めてしまえば自立を妨げるのではないかと思いました。答えは欲しません。生きる上で発生する問いかけの多くは抽象的で、解決することが困難で、流されるものですから」

 

「しかし」と白い喉は鳴いた。

 

「貴方はどう思いますか? 認定資格カウンセラーの方は私が話したとき、甘えることは危険の少ない環境でも重要なコミュニケーションだと言いました。

 私は、甘えることがコミュニケーションの一部なら、いきすぎた甘えは一種の攻撃になるのではありませんかと尋ねました。カウンセラーは口を噤み、次に会うとき――再来週までの自分の宿題にすると言いました」

 

 彼女の求める答えが僕には分からない。降って湧いた考えに打ちのめされているのかもしれないと思うだけだ。

 ルトナダは僕が答えるまで辛抱強く待っていた。

 

「分からないけど、甘えてもいいんじゃないの。一種の攻撃だって言っても、それがいきすぎているかどうかはルトナダには分からないんだし。僕がルトナダに怒ることはないし、ルトナダから何を求められても差し出すつもりだから、僕相手にはあんまり考えなくてもいいよ」

 

 ルトナダは尻尾の先端で僕を叩いた。返答に満足がいかなかったのだと思う。

 

「それでは貴方のタオルケットをくれませんか?」

「新しいほう?」

「いえ」

「せっかくなら新しいののほうがよくない?」

「……私はこれがいいのです」

 

 ぐいと引っ張られたタオルケットは、ルトナダと一緒に僕の体を離れた。こもった熱が室内に溶けて、代わりに冷たい空気がまとわりつく。

 僕は流し目で彼女を見て笑った。そうしたいのなら、そうすればいいと思う。

 

 そのまま怯えたような見透かそうとするような不思議な瞳を見つめて、私はいま貴方を傷つけているのですか、傷つけてもいいのですか、と尋ねたかったのかもしれないと思った。後悔はいつだって後の祭りだった。

 

「少しずつ話しましょう、と言ったことを覚えていますか?」

「それは、うん」

 

 話は次に移っていた。ルトナダは僕から引き剥がしたタオルケットにくるまった。

 

「ずっと昔から耳鳴りがやまないのだという話は、一緒に受けたカウンセリングでお伝えしたとおりです」

 

 少し前のカウンセリングで言っていたことだった。そして、言葉の意味を少しずつ読解することが追悼に繋がるのではないか、とルトナダは考えた。

 

「もう一つ、凄惨な話があります」

 

 いつも通りの無表情を少し困らせた感じに変えながら、ルトナダは僕を見上げた。僕の身を案じているのかもしれなかった。僕は残酷なことが得意ではない。

「うん」と頷いたら、ルトナダはタオルケットを広げて膝立ちで歩いてくる。横から抱きつくようにして、僕の前後から腕を通して肩で結ぶ。肩口に細い息が当たった。

 

「これはゲントが生まれてからの話になります」

 

 ルトナダはそう前置きした。

 

 

 

 ルトナダは自身と羽獣の見分けがつかないのだと話した。死体を食らうことで生きる羽獣と、死体を漁って生活した過去の自分たちとでは、死体を糧としている点で何も違いはないのだと話した。

 

 死に生きる術を乞うことに慣れてしまった。

 生き延びるために他人の死を糧にしてきた。

 

 焼きごてみたいに、一生消えない証となって思考に刻まれる言葉がある。死者の言葉と同じくらいルトナダを苛む現実を、僕は一切知らなかった。でも、知ったところで関係がなかった。

 

「羽獣って化け物とルトナダが一緒だとしても、ルトナダを僕が大切に思っちゃいけない道理はどこにあるの? ルトナダが、ルトナダっていう名前の人の形をした化け物だったとして、君と普通の人とを区切る違いはなんなの?」

 

 ルトナダは抱きつく力を強め、首を横に振った。

 

「生き方の違いが僕たちとドクターたちを区切るのかもしれないけど、僕たちみたいな人はあの場所ではざらにいたんだよ。みんな化け物? 違うでしょ?」

 

 ルトナダは自分だけを化け物に重ねている。それは分かった。でも、重なった幻影をどのようにすれば剥がせるのかは一向に分からない。僕からこぼれ落ちるのは安直な否定と事実だけだ。

 過ごした時間が長いからといって適切に慰められるとは限らない。人の心に寄り添うための才能も経験も、おそらく僕には足りていない。

 

 

 外から差し込むわずかな光は橙色になっていた。白いものから順々に色が変わっていく時間に、薄く白い部屋がさらされている。夕日の当たっているシーツと当たっていないシーツは、裂傷みたいな斜めの線で分かたれた。

 

 新雪のように沈黙は降り積もる。明るく無神経な声が廊下を駆け抜けていった。舞い上がった雪は静かに床に落ちた。

 

「貴方なら、そう言うと思いました」

 

 諦めの滲んだ声はくぐもっている。ルトナダは心のどこかで僕に離れてほしかったのかもしれない。

 

「違いなんて分からないよ。心優しい化け物が人間のふりをしていたら、それは人間のふるまいとして認められるかもしれないんだから」

「でしたら私は、人間と認められるような化け物になります」

 

 ルトナダは茶化すように耳もとで囁き、「貴方が第一号ですね」とほほえんだ。

 

「今だけはこの揺りかごにいさせてくれませんか」

「今だけじゃなくてもいいよ。ベッドに行こう」

 

 ルトナダは無言で僕の動きに合わせ、ベッドに背中を預けて座った。仲のいい彫像みたいに並んで座った。僕は寝転ぶつもりだった。でもルトナダの満足そうな顔を見たらすべてがどうでもよくなった。

 掛け布団は跳ね返されて裾のほうで重なり合っていた。

 

 彼女の視線の先には、天板に転がったシャーペンと一か所にまとめられた消しカスと中途半端に黒くなったノートと、二人分のガラスコップがある。

 夕日が水に砕けて不思議な色の影を伸ばしていた。水が揺れて、影がきらめく。

 コンクリートの壁から冷たさが染みてきた。

 

 僕は望みに添えているのだろうか。

 

 夕ご飯を食べ終えた人の満足そうな喧騒が通り過ぎた。夕ご飯を食べていない人の燥ぐような喧騒が通り過ぎた。僕たちは静かだった。

 

 

 羽獣について、今までずっと話されなかったことが悔しかった。気遣いなのだと思う。隠していたわけではないと思う。

 でも、ゲントは知っていただろうし、先を越されたと思った。自分に嫉妬するなんてみっともないし、この機微すらゲントは感じ取っているのに、僕は打ちのめされていた。妥当な判断に打ちのめされていた。

 

 

「こんなふうにもたれかかっても、私は眠ることができないのですね」

 

 ルトナダは出し抜けに言った。横目を向けると目が合った。

 

「寝言を聞いてくれませんか」

「ずいぶんはっきりした寝言だね」

 

 ルトナダは僕の服の袖に顔をこすりつけて、「これでどうですか?」とわざとらしく声をくぐもらせた。生ぬるい吐息がこそばゆい。

 

「今度はうまく聞き取れないな」

 

 ルトナダは不貞腐れたのか体勢を戻した。

 

「寝顔を見せるのなら、貴方が初めてがいいのです」

「もう何度も見てるんじゃない」

「……幼いころの話ですか? それとも……二人きりになってからの話ですか?」袖を引かれ、僕は肩を竦めた。「盗み見られたとしても平気ですが、ゲントが以前、人の寝顔を見ると死に顔を連想してしまうと言っていました」

「さぁ、どっちだろうね」

 

 村が焼かれる前、大人になったときにひょんなことからこのイタズラがバレるのかな、なんて思ってルトナダの私物を隠してしまったことを思い出す。バレてもバレなくても、大人になってから話の種になればよかっただけだから、事実などどうでもよかった。それとよく似た感覚だった。ルトナダの気を引いていることに僕は後ろめたい喜びを覚えている。

 

 どこかに置き忘れた宝物を探しに引き返すときは、来るのだろうか。

 

「本当は駄目なんです。話せば話すほど心が引かれていくなんて」

 

 ルトナダは目を閉じていた。薄い唇が再び開いた。

 

「ロドスで貴方と時間を重ねるにつれ、そこが自分の居場所のような感覚が強くなっています。依存先を分散させてほしいと言いながら、私はまったく分散させていません。困ったものです」

 

「しかし」とルトナダは一拍おいた。眉間にしわが寄って、今迷っているんですよ、と必死に伝えてくる。僕の腕を引く力は強かった。

 

「私は貴方を失っても、おそらく生きていけるのでしょう。生きていくのでしょう。そして貴方の声はやがて、私に響き続ける声の一部として、名前を失ってしまうのです。色が抜け落ちてしまうのです。私はその事実にも耐えることができるでしょう。何度も繰り返してきました。でも、自分の薄情さには、ときおり胸が痛みます。もしも貴方を失ったとき、私はきちんと、追悼することができるのでしょうか」

 

 生きている人がルトナダを生かしているのではない。死者が彼女の命を引きずっている。死者の望みを何重にも着込んで進むルトナダは、追悼に取り憑かれているようにさえ見えた。

 きっと僕からそう見えているだけで、本人は喜んで他人の服を着ているのだと思う。華奢な体はどうしても孤独と寒さに弱い。

 

「生活に余裕が生まれてから、このようなことを考えることがあります。望みは月と似ています。手が届かず、私たちを冷たく刺して照らします」

「その月は誰に照らされている(・・・・・・・・・・・)んだろうね」

 ルトナダはほほえんだ。「前進したとしても、私たちと月の間には大きな距離が空いていますから、進んでいる自覚が芽生えません」

 

 進んでいる自覚が芽生えなくても、少しずつ心境は変化しているような気がした。

 

 僕がそう伝えると、ルトナダは困ったように僕を見上げた。開きかけた口は何度も言葉を見失って、最後には「分かりません」と言った。

 

「何を成すことが追悼になるのか、私は考え続けなければなりません」

 

 趣味なんて言われても、漠然としすぎていて分からない。贅肉の多い人生を息苦しく思う人も、いるのだと思う。

 ルトナダの願いは、僕が健やかに暮らすことと、自分の道を考えることだと思う。僕はルトナダの願いを叶えたかった。叶えてあげたかった。でも僕の手は空っぽのままだ。手のひらにはべっとりと赤黒い液体がついている。

 

 何かを隠して、何かを隠されて、僕たちの日々は続く。

 

 そのうちに僕は眠っていた。目を覚ましたときもルトナダは起きていて、だから、僕が寝ている間だけでも眠っていてくれたら嬉しかった。

 夕焼けが死んで、外から闇が差す。ほの明るい天井灯が僕たちにまとわりつく闇を、弱く、弱くどこかに押しやった。

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