葛葉が何も言わずに逃走してから一日が過ぎた。
とおこは今日も病院で仕事をしながら同僚たちと世間話に興じている。
昨今は声をスマートフォンに吹き込んで販売する商売が流行っているらしく、病院内でも、誰々のボイス買ったなどという声が多く聞かれる。
とおこ自身は誰かのボイスを買ったなどということはなかったが、なぜか周りからはとおこのボイスが欲しいと騒がれており、今日もその話が蒸し返されて若干居心地が悪くなっていた。
「dttoちゃーん!」
視線をさまよわせていたとおこの視界に知り合いの女性が病院に入ってくる姿が映る。
幼馴染の彼女、dttoの登場にとおこは思わず声をあげ、座っていた席から立ち上がる。
dttoもまたとおこの姿を目にとめ、顔をほころばせながら小走りで駆け寄ってくる。
「人質、なってくれる人ー?」
「ひ、人質……?」
幼馴染の口から出た衝撃の一言にとおこは言葉に詰まる。
ちょうどとおこの隣に座っていた緋月がゆるく手をあげながら立候補をするが、dttoはなおもとおこの方に視線を向けている。
「人質、なってくれる人ー?」
「とおこちゃん、行くのー?」
「行きたいってことー?」
「違う違う!緋月さんでいいでしょ!」
救急隊のメンバーもそれを察したのかその場の全員がとおこに行ってあげなと目で訴えかけてくる。
しばらくは闘ったものの、結果はわかり切っていた。
諦めたように両手をあげてとおこはdttoに連れられて病院の外に出る。
エントランス前には白い車が停車しており、その傍らにもう一人の女性、すみれがdttoたちを待っていた。
「OK!」
「人質、ゲットしたー?」
「ゲットしたよー」
「あ、どうもー」
二人とも美女と呼ばれる容姿をしており、その二人が揃ってとおこに笑いかける。
とおこの周囲には男の強盗しかいなかったので、女性の人質というのは経験がなく、物珍しさも手伝ってかつい軽口が口からこぼれる。
「でもこの二人に、囲まれるのはいいなぁー。これは、幸せかもしらん!」
「……はぁっ?」
そしてほとんどの場合、余計な一言というのは聞かれたくない相手に聞かれることが多い。
聞き覚えのある声にとおこが振り向くとそこには顔を強張らせた葛葉が呆然と立ち尽くしていた。
浮気現場を見られたらこういった気持ちになるのだろうか。
別に浮気でもなんでもないが、とおこの頭の中にそんな意味不明な言葉が踊る。
「た、助けてください!」
「え、え?」
「こんにちわー」「こんにちわー」
強張った表情のまま近づいてくる葛葉にdttoとすみれはのんきに挨拶をする。
その挨拶が聞こえていないかのようなとおこになぜかとおこだけが焦りを募らせていく。
「助けてください!助けてください!」
「あれ……人質になってないって言ってませんでした?」
「いやっ、ちがっ!今、違うんですよ!今「この、嘘つきがー!」」
とおこが言い訳を言い切る前に葛葉は踵を返し、病院の中に走り去ろうとする。
とおこから離れていく背中がいつもより遠く感じ、手を伸ばそうとするがその手はdttoに捕まれたまま車に乗せられる。
「違う!助けてー!」
「嘘つきがー!」
その言葉を最後に葛葉の声は車のドアにを閉める音にかき消される。
「助けてー!これやばい!これ本当に!」
「もう助けは来ないぞ!」
「あの人はもう助けに来ないよ」
すみれとdttoはにやけた顔で、焦るとおこをなだめながら車を発進させる。
加速していく車の中で、もう病院が見えなくなっても力なく助けてと繰り返すとおこの姿にdttoは好奇心で目を輝かせとおこに顔を近づける。
とおことはよく遊ぶ仲ではあるが、彼女がこんな風に勘違いされることを嫌がるような姿は今まで見たことがない。
すみれとしてもさきほどの二人の姿に青い春の臭いを嗅ぎつけ目を輝かせながらとおこに話を振る。
「どういう関係ですかー?さっきの方と」
「どういう関係。なんの、関係でもない……」
「え、でも裏切者!みたいなこと言ってたけどな」
「いや、違っ。人質、です……」
「専用人質だったってこと!?」
女が三人寄れば姦しいとはよく言った物で、とおこたちを乗せた車の中もことわざ通りの姦しさで一杯だった。
とおこの力ない答えに反比例するかのようにすみれとdttoのテンションは上がっていく。
とおこの受難はまだしばらく続く。
そんな彼女たちの車を一台の車が猛スピードで追い抜いていく。
その運転席にはまさに今とおこたちが話題にあげている男がハンドルを握っていた。
「なんだよ、嘘かよ!くだらねえ嘘、つきやがって!」
そう声をあげる葛葉の目は真っ赤に染まっていた。
そもそも今日葛葉がタイミング悪く病院を訪れたのは疲労を抜くために点滴を打ってもらうためであり、もっと言えばとおこの患者になり彼女にお金を落とすためにやってきていた。
そこであの浮気?現場を目撃してしまっていた。
とおこのためにとやって来てみれば、当のとおこは女性二人に囲まれてへらへらと笑っている。
別に彼氏でもなんでもないんだから怒る方が筋違いというのは頭ではわかっているが、子供のような独占欲が葛葉の怒りに火を注ぐ。
どうすればいいのかわからず、その場から駆け出した葛葉は病院内の行き止まりで立ち止まる。
自身の幼稚さととおこのへらへらした態度にいらだちを募らせながらもとりあえず点滴をと周囲を見回す。
すると見るからに怪しげな医師が葛葉に軽く手を振っていた。
不審に思いながらも点滴を依頼したのだが、そこで返ってきたのはいつものか、もっと濃いのかという2択であった。
「もう、どうなってもいい……」
そう答えた葛葉に怪しげな医師はにこりと笑うと通常なら薄める点滴液をそのまま葛葉の静脈に注射し始める。
次第に揺らいでいく視界と比例するように衰えていく理性。
お大事に、という言葉が右から入って左に抜ける。
金を払ったのか?
それさえもあいまいなまま気づけば葛葉は車上の人になっていた。
ハンドル操作は覚束ず、車体は右に左にと揺れている。
そんな中、高速度で車を飛ばしながら、葛葉は叫ぶ。
「ビジネスですやん!」
とおことdttoが幼馴染であることを葛葉は知らない。
とおこがdttoの要求に最後まで抵抗していたことを葛葉は知らない。
とおこがずっと、葛葉が見えなくなっても助けてと呼んでいたことを葛葉は知らない。
「くっそ……騙された!」
裏切られるのが怖かったから。
とおこと向き合うことが怖かったから。
話も聞かず、目をそらし、その場から立ち去った。
「ギャングのボスともあろう俺が。……嵌められたね」
点滴でハイになっている葛葉はまるで誰かに話しかけるかのように、車内で吠え続ける。
思い出されるのはとおことのこれまでの日々。
出会い、失敗、強盗、様々な思い出が脳裏で踊る。
そして一番印象深い昨日のとおこの言葉。
「どこか本当なんじゃないか?この人は攫われてないんじゃないか、あれ以降。そう思ってましたが……嘘ですね」
その言葉に答えるものはなく、ただ回転数をあげるエンジン音のみが車内に木霊する。
血を吐くような独白。
どこかが壊れてしまったかのように御茶らけた口調。
葛葉を知るものが見れば目を覆いたくなるような仮面をかぶり葛葉は嗤う。
「ま、犯罪すべ!俺、ギャングだし」
自分を繋ぎ止めていた物は今、千切れ去った。
この日を境に葛葉の行動は自分の身を顧みないものが増えていくことになる。
とおこと話さないまま数日が経った。
とおこからはあの後すぐに初心者講習でしたというメッセージが届いたが、返答はしていない。
ボスの気まずい空気を感じ取ったのか、それとも病院での一幕が広まっているのか鴉たちはあれほど騒いでいた葛葉ととおこについて話題に出すことはなくなっていた。
その代わりではないが、鴉たちの話題は大型犯罪と呼ばれる潜水艦強盗のことで持ち切りだった。
綿密に計画を立て、襲撃を開始したのがつい十数分前のこと。
豪雨のごとく襲い来る銃弾に対処しながら、ターゲットを奪取したまでは良かったのだが、想定以 上に警察の手が回るのが早い。
気が付けば葛葉の周囲は警察で囲まれていた。
何発かの銃弾を浴びながらもなんとかその囲みを脱出したものの、囲みを突破するときに車のタイヤもやられていたらしく、葛葉の運転する車は工場の一角で制御不能になっている。
動かなくなった車に舌打ちしつつ、急いで車を降りるが、そこで騒がしい声が聞こえてくる。
「葛葉さんやー!」
「やべー……」
聞こえてきた声に心当たりがある葛葉は顔をしかめる。
遠くからでも声で分かるその騒がしさは、昔葛葉や叶と良くつるんでいたがその後なぜか警察という真反対の道を選んだツルギの声に違いなかった。
人の気配から言ってツルギ以外にも誰かいるのだろう。
彼らは見事な連携で葛葉を追い詰めていく。
「だぁっ、くっそ!」
ついに葛葉の体を銃弾が貫く。
仲間たちはまだ奮闘中のようだが、一足先に葛葉は警察車両に乗せられ、警察署へと連行される。
前回のような奇跡を期待するが、奇跡と言うのはそう簡単に起こるものではないらしく、何事もないまま警察署へと到着する。
「良いの?こんなに優秀な警察官が俺なんかにかかりきりで?」
「重大犯罪者でしょー!」
「お話、しようよーツルギ君」
葛葉はそう言って自分を護送するツルギにヘラリと笑いかけるが、ツルギは真面目そうな表情を崩さない。
「俺、挽回しなきゃならないんで!」
「挽回?なんかやらかしたの?」
「そうなんすよっ!」
やらかした割には元気そうにツルギは笑う。
生来のネアカとでも言えば良いのだろうか、昔からツルギは失敗しても落ち込むより挽回すると言って走っていくことが多々あった。
ちなみにその後ちゃんと挽回できたことは数えるほどしかなく、たいていの場合は汚名挽回になることが多い。
「今回結果残さないと、左遷でもされんの?」
「いや、もうマジ左遷確定です。今のところ」
「ふははははっ!何やらかしたんだよ!」
「ギャルカフェで赤ちゃんになってるところを署長とか副署長全員に見られました……」
「お前何やってんの!警官らしいかっこいい姿全然見てないんだけどっはっはっつぅ!」
あまりの理由に笑いが止まらなくなり、笑いすぎたせいで傷が痛み出す。
計算してやっているのだったら大したものだが、これを天然でやるのがツルギの恐ろしいところだった。
「そういえば、葛葉さん?」
「ん?何?」
「この間、病院で揉めました?」
葛葉が痛みをこらえながら笑っている葛葉を別の衝撃が襲う。
あの場にはツルギはいなかったはずだが、どこからか情報が漏れている。
漏らしそうな奴を頭の中で探すが、葛葉の脳内に出てくる人間は全員が漏らしそうな奴しかいない。
痛みからか、それとも他の理由か、冷汗をたらし始めた葛葉の様子は特に気に留めずツルギは手持ちのタブレットを操作しながら話し続ける。
「なんか釈迦さんから聞いたんですけど、葛葉さんお医者さんと怒鳴り合ってたみたいな。だめですよ、お医者さん相手に喧「痛い痛い!ツルギ、死にそう!」」
「えー!まずいまずい!救急隊呼ばなきゃ!……どうやるんでしたっけ!?」
「死ぬ死ぬ死ぬ!早く早く!」
「葛葉さん、呼んでください!」
「俺がぁ!?」
焦りのあまり両手を拘束されている葛葉に対して無茶苦茶なことを言い出すツルギに思わず大声をあげてしまったため死にそうという嘘はばれてしまったが、話をそらすことには成功する。
ツルギは文句を言いながらも本当に救急隊の呼び方がわからなかったらしく、葛葉にタブレットを差し出してきたためタブレットで救急隊の要請を行う。
警察とギャングとは思えない一幕を終え、文句を言うツルギを平謝りでいなしていると無線で金持ち役の逃走成功の一方が入る。
「っし!」
「仮病はやめて下さいよー!って葛葉さん?なんか良い事ありました?」
「痛い痛い!」
「もうそれは良いですから!見てて下さいよ、葛葉さん!今回は警察が勝ちますからね!」
「いやもうまじで頑張れよ!……もう全員逃げたけど」
「あっはっはっはっは!え!もういないんすか!」
「もういない、もういない!」
犯罪が成功して葛葉は高笑いをするが、なぜかツルギまで爆笑を始める。
ギャングの葛葉からしても今日これまでのツルギの行動を見れば、確かにこいつは左遷だなと痛感する。
悪いやつではないが、いかんせんポンコツ過ぎる。
「いやでもその辺にまだいるかも知れないから連れてきてよ。牢屋もルームシェアしたいし」
「任せて下さいよ!」
ツルギは意気揚々と走り出すが、牢屋の出口に足を引っかけて固いアスファルトに頭突きをかます。
大丈夫かと声をかけようとするがツルギは素早く起き上がりまた走り出す。
犬みたいな奴だな、と思いながら葛葉は外に出ようとするツルギを見送るが、それより先にこの場に新たな登場人物が現れる。
「こっちでーす」
「「救急でーす」」
「ここです、ここです!」
危うくツルギとぶつかりそうになったのは鴉のメンバーを連行してきた警官の八雲と彼女に案内されてやってきた救急隊の緋月ととおこだった。
「あっ……」
「……」
葛葉ととおこ、互いに一瞬目が合うが葛葉はすぐにとおこから目をそらし天井を見始める。
とおこはそんな葛葉に話しかけようとするが、言葉が鉛を飲み込んだかのように出てこない。
終いには葛葉は通路側に背を向けて座るように体勢まで変えてしまう。
気まずい沈黙が流れる中でどうしても一歩が踏み出せないとおこを見かねてか、緋月が優しくとおこの肩に触れる。
「……」
「まかせて」
とおこにだけ聞こえるように彼女の耳元でささやくと緋月は葛葉が収監されている牢屋に入っていく。
「おひとりですか?」
「……はい」
小さく返事をする葛葉に苦笑しながら緋月は診察を始める。
「アザマス」
緊張したように片言になる葛葉だがその理由として、なぜだが緋月の距離が近い。
とおこや他の医師との診察でこんなに近いことがあっただろうかというくらいに顔の距離が近い。
緋月本人はにこやかな笑顔で診察をしているが、葛葉の後ろでは息を呑むような音が聞こえ、次いで怒りの気配が強くなる。
なんなんだ、と葛葉が言葉にするよりも早く緋月は葛葉の耳元に顔を近づける。
「ごめんなさいね。この前の人質は私がお願いしちゃったの」
「……は?」
「とおこさん嫌がってたんだけど、どうしてもって。dttoちゃんも幼馴染のとおこさんが良いって強引に連れてっちゃってね。だからあんまり彼女のこと怒らないであげてね」
呆けた表情の葛葉から顔を離すと緋月はにこやかに微笑む。
対して葛葉は自身が思い違いをしていたことを知らされ、恥ずかしさから顔を赤くし悶えるように下を向く。
子供のように独占欲を発揮して、仕方なく人質になったとおこの気持ちを考えず、今もまた意地を張ってとおこから背を向けた。
そんな自分に呆れとともに羞恥がこみあげてくる。
「はい、終わり。じゃあ刑務所、行ってらっしゃい」
「……ハイ」
緋月はウインクを残し、後から捕まった鴉のメンバーの治療へと向かう。
葛葉が振り向くと思ったよりも近くにいたとおこが慌てた様子で緋月の後を追いかけていくのが目に入る。
わずかに逡巡し、葛葉は覚悟を決める。
もう見捨てられたかもしれないが、せめて何か会話のきっかけを。
そう願いながら、葛葉は口を開く。
「また悪い事しちゃったぁー!」
「!」
あまりにも不器用な言葉に緋月も様子を伺っていた鴉のメンバーも呆れた顔をする。
唯一とおこだけが少し後にその言葉の意味に気づき顔をほころばせる。
「もー!いい加減に、しなさーい!」
「……っす」
牢屋の鉄格子を挟んでお互いに向かい合う葛葉ととおこ。
葛葉はまだ気まずげに下を向いているが、とおこはその姿をほっとした様子で見守っている。
「行ってらっしゃい!」
「……はーい」
これから葛葉は刑務所で刑務作業を行うため、一旦ここでお別れとなる。
それでも気まずいまま別れるより、一応ではあるが仲直りができたことに葛葉もそしてとおこも互いにほっと胸をなでおろす。
「じゃあ送りますよ!仲間もすぐ全員行くっすからそっちに!」
「っふははは」
まるで勝利したかのようなツルギの言葉に葛葉は苦笑いを返す。
犯罪自体は葛葉たちが勝利しているのになぜこんなに勝ち誇れるのか。
ツルギのメンタルに呆れながら夢の中特有のシステムで一瞬で刑務所に送られるのを待つ。
しかし、待てども暮らせども、一向に刑務所に送られることがない。
「あっ、間違えた!とおこさん送っちゃった!」
「待ってとおこさんいなくなっちゃったんだけど!」
「お前何やってんだよ……!」
あまりにもなミスに葛葉は頭を抱え、緋月は同僚がいなくなり声を荒げる。
当のツルギはわざとなのかミスなのか、焦ったような声色だが、大笑いしている。
「間違えて……!葛葉さんも行ってください!」
「お前、ふざけんな!左遷だよ、左遷!」
葛葉がすべてを言い切る前に、葛葉の視界が黒く塗りつぶされる。
一瞬の暗転のあと、葛葉が目を開けるとそこには見慣れた刑務所の光景が広がっている。
唯一いつもと違うのは灰色の世界の中に、真っ白な存在が呆然と立ち尽くしていた事だった。
「えぇー!」
「ぐぅ……!」
とおこも葛葉に気づいて近寄ってくるが、葛葉としてはまだ気持ちの準備が出来ていない。
精一杯の覚悟を決めてとおこと仲直りをしたが仲直りをすれば一旦刑務所でほとぼりを冷ませると楽観視していたことも確かだ。
しかし、なんの陰謀かほとぼりを冷ますこともなくとおこと二人きりというこの状況に葛葉のキャパシティは限界が近づいていた。
「え?これどうしたらいい!?これどこ!え、えぇ!?」
「あいつ、くそすぎ……!」
とおこ自身は刑務所に送られた衝撃でいろんなことが抜け落ちているようで無防備に葛葉に近づいてくる。
若干涙目になりながら、庇護欲を誘うような表情で葛葉を見上げるとおこに葛葉は思わず天井を見上げる。
「こ、こっちっす。こっちっす」
「はい……」
とおこの顔を見ないようにしながら葛葉は歩き始める。
がらんとした刑務所の中をゆっくりと、後ろについてくるとおこを置いていかないようにと気遣いながら葛葉は進んでいく。
後ろを確認すれば心細そうなとおこが小走りで葛葉についてきている。
「あいつやっただろ、ツルギ……!」
やはりツルギは釈迦からいろいろと余計なことを吹き込まれていたのだろうかと葛葉の中で疑問が芽生える。
さすがにどんなにポンコツでも一般人を刑務所に送り込むなどありえないだろう。
となるとツルギが妙な応援根性を発揮したとしか思えない。
頭の中でツルギをタコ殴りにしながら葛葉はとおこを先導する。
「刑務所やんかー!」
独房区画を抜けて刑務所の全容が見える位置まで来ると、とおこは頭を抱える。
心のどこかでそんなことはないと祈っていたが祈りはいつだって届かない。
「いや、まじ請求した方が良いっすよ。貴重な時間取られて」
「うぅー」
ツルギの計画通りかは不明だが、あまりの衝撃に葛葉ととおこの間にあった気まずさは解消されている。
葛葉がキャパシティ的限界を迎えつつあったことでさえも刑務所というある意味ギャングのホームグラウンドにいることでとおこより精神的に落ち着いてきている。
「これは、何をしたら……」
「来た事ない、ですよね?」
「来た事ないですよ!来た事何回あるんですか?」
「いやもう、結構。……庭っすね」
「庭ぁっはっはっは」
そして葛葉が落ち着いていることがとおこにも良い影響を与えたのか、とおこの顔にも笑顔が浮かぶ。
兎にも角にも時間を潰さなければならない。
葛葉は刑務所でできることをピックアップし始める。
「何が、したいですか?料理作ります?筋トレします?」
「……料理、作ろうかな?料理作れるんですか?」
「俺料理上手くなったんすよ、ここで」
そう言いながら葛葉はとおこを調理室へ案内し始める。
驚くほど自然に会話出来ていることにほっとしながら建物の扉をくぐる。
「あいつ……!」
心の中だけでは押さえきれないツルギへの呪詛が口から零れ落ちる。
肩をいからせながら扉をいくつかくぐった時、葛葉は後ろからの足音が消えていることに気づく。
はっと気づいて振り向くがとおこがついてきていない。
「とおこさーん?」
呼びかけるも返事がない。
来た道を戻りながらとおこの姿を探すが、どこにも彼女の姿が見当たらない。
「幻、か」
道に迷ったのかとさらに周囲を探すが、とおこの姿は刑務所から消え去っていた。
「とおこさーん」
誰もいない刑務所で葛葉のとおこを呼ぶ声だけが何度も響く。
さすがに罪のない一般人を刑務所に送ったことは許されなかったようで、とおこは葛葉が刑務所内を探し回っている時にはすでに元の場所に戻されていた。
葛葉がそれに思い至ったのはさらにしばらくの間とおこ捜索に時間を使った後だった。
「……いない。戻されたのか、さすがにね」
そうつぶやいて、葛葉は調理室に戻る。
静まり返った刑務所の中で一人黙々と料理を行う葛葉の姿は先程とおこと歩いていた時とは別人のようだった。
「え?こんな静かなん、刑務所って……」
先程までの状況との落差があるからか、刑務所の静寂さはいつもより耳に痛いように感じる。
それからしばらくの間、葛葉は刑務作業だけでなく静けさとも闘っていた。
葛葉が静寂と闘っているとき、元の場所に戻されたとおこは騒がしさと闘っていた。
警察の威信もあったのか鴉のメンバーたちもほとんどが捕まってきており、葛葉に状況説明のメッセージを送っていたとおこにも応援要請が入り、そのまま次々とやってくる患者を治療して回っている。
「じゃあこっちの人治療しますね」
そう言ってとおこが治療を開始したのは警察に捕まって連行されてきていた叶だった。
「お願いしまーす」
そう言って叶はゆるく笑う。
「あの写真は、みんなに渡しておきました」
「写真……?」
突然叶が言い出した言葉にとおこは首をかしげる。
あの写真、と言われても心当たりがまるでない。
内心で首をかしげながら治療を優先するために一旦疑問は置いておく。
それよりもとおこには葛葉に伝えて欲しいことがあった。
「あの、ボスに携帯に連絡したので見てくださいって伝えて下さい」
「ボスに連絡したって伝えれば良いの?」
とおこの様子に写真が何かわかっていないことを見て取った叶は自身の失敗を悟る。
葛葉には送ったがとおこにはあの写真を送っていなかったことを思い出していた。
そんな叶の内心を置いて治療は進んでいく。
「あ、はい。メッセージ送ったので、見ていただければわかると思います」
「わかった。伝えておくね」
叶の返事を聞くと同時くらいに叶の治療も終わる。
これから刑務所に行くであろう叶は何かを考える素振りをした後とおこの方を振り向く。
「とおこさん、携帯出せます?」
「え?はい」
突然の叶の言葉を不審に思いながらもとおこは素直にスマートフォンを取り出す。
それと同時くらいにとおこのスマートフォンにメッセージの着信を知らせる音が鳴り響く。
「あ、じゃあ刑務所、送ってください」
叶の言葉を片耳で聞きながら叶からのメッセージを開くとそこには【おかえり】という言葉と葛葉を治療するとおこの姿が映し出されていた。
おかえりという言葉と写真の中の自分の表情にとおこの顔が一気に赤みを帯びる。
「ちょっ!」
文句を言おうと叶の方を振り向いた時にはちょうど叶がにこやかな笑顔で刑務所に送られていくところだった。
「あー!」
とおこは呆然と叶がいた場所を見つめる。
思い出されるのは、叶が治療を始めた時に言った言葉。
「あの写真はみんなに渡しておきました……?」
その言葉の意味を理解したとき、彼女は羞恥で顔を染め走り出すことになるのだが、それは目の前まで迫っていた。