アポイタカラとの戦闘が始まってから、どれほどの時間が経ったか、分からない。とてつもなく長いあいだ、剣を振るい、仲間を励ましながら、戦い続けているような気がするが、その実、短い時間しか過ぎていないのかもしれない。剣を振るえども、振るえども、いつまでも日は傾かず、まるで永遠に続くかのような午後であった。
敵の援軍が後方から現れたのを境に、傭兵隊は徐々に劣勢に追い込まれていった。リビュア市街地方面への退路も断たれ、歩兵たちは防御体制をとりながら、城壁に併設された砦の中へ押し込まれるしかなかった。狭い場所で戦えば、相手が大軍といえども、さほど不利にならずに済む。
しかし、それも時間の問題だった。歩兵たちの体力にも限界がきたのか、ドワーフの攻撃を受けきれずに倒れるものが目に付き始めた。場所によっては前線を突破され、弓兵や術師たちにも被害が出ている。アデリーナもまた、目の前の敵と剣を合わせるので精一杯だった。
バルドメロは、本気になったクロムを相手に、十合あまり打ち合ったものの、オリハルコン製の戦斧から放たれる一撃一撃が、彼の大斧を見る見るうちにぼろぼろにしてしまった。まだ部下が戦っている以上討ち死にするわけにもいかず、やむ無くバルドメロも砦内へ後退した。
ルイスは混戦となって弓がほとんど役に立たなくなったことを悟り、砦の各所で負傷兵の応急手当を手際よくこなしながら、時に逃げ回り、時に護身用の短剣を抜いて身を守っていた。
アデリーナは近くで戦っているであろうバルドメロに向かって声を掛ける。
「バルドメロ! 王都に向けて救援要請はしてあるんでしょう!」
「セニョリータ、今はそれを疑っている時ではない! 今は信じるときだ!」
バルドメロの答えは、ほとんど答えになっていなかったが、彼が生きていることが分かるだけでも、戦う力を失わずに済む。それに、バルドメロの言うとおりである。救援を信じなければ、とてもこの状況を戦い抜けるものではない。
これまでの戦闘で、実に三本の剣が使い物にならなくなっていた。鍛冶技術に優れるドワーフの戦斧には、人間の作った剣では文字通り太刀打ちしきれないのだ。武器を失うたびに、戦場に落ちた剣を拾い、あるいは素手で格闘し、逃げ回り、アデリーナも何とか命をつないでいた。ほとんど肩で息をしていたが、ここで集中力を欠いては、確実に死んでしまう。彼女の戦いぶりは限界を超えていた。これもまた、いつまで保つか分からなかった。
(救援が来るまでは、あきらめるわけにはいかない)
己が自身に言い聞かせるその言葉は、ほとんど祈りに近かった。アデリーナは砦の詰所に備えられていた新しい剣を抜き、再びドワーフ兵たちへ立ち向かった。
そうして混戦状態にある砦の中を奔走しているうちに、アデリーナは一人の女性ドワーフと鉢合わせた。明るい色合いの赤髪をした若いドワーフで、その手には戦斧ではなく、アデリーナと同じように剣を携えていた。女性ドワーフはアデリーナの姿を見て、嬉しそうに笑う。
「うほほっ、女の子だ! スズ! 敵兵に女の子がいるよ! ふふふっ、女の子はまだ斬ったことないんだよね!」
女性ドワーフは、普通に考えれば狂っているようにしか思えないような台詞をはき、誰かに呼びかけた。どこかでそれに答える声。これも女性である。
「ジュラル! 私たちの目的は敵を殺すことではありません! 無力化すればいいのです! やりすぎてはいけませんよ!」
「わかってるわよ! でも、磨ぎ師ってのは、どうしても磨いだ剣の切れ味を試したくなるもんなのよね……」
ジュラルと呼ばれた女性ドワーフは舌なめずりしながら、最後のほうはほとんど独り言のように、低い声でそうつぶやいた。好戦的というよりは、ただ純粋に仕事の成果を確かめたいだけ、というような無邪気な口調だった。そのためには鼻歌交じりにでも人を殺しそうであった。自分の作った武器で試し切りをしてみたいからという、くだらない理由で戦を始めたクロムと、どこか通じるところがある。こういうタイプの兵は、戦いに対する恐怖心がなく、どちらかといえば戦士というよりも快楽殺人者に近い。否、殺人を犯しているという実感すらないかもしれない。相手は試し切りの対象でしかないのだから。
「それじゃ、やりますか」
ジュラルはアデリーナににっこり笑いかけてから、剣を振り上げた。殺気がないので攻撃の気配が察知しづらい。厄介な相手だ。アデリーナは相手の攻撃を盾で受けながら、たとえ敵同士でなくとも、この女とはきっと友達になれない、そう思っていた。
「おとなしく斬られなさいよっ!」
そう言われて、はいそうですかとは、とても答えられないような言葉をつぶやきながら、ジュラルは次々と剣の連撃を放つ。攻撃の一つ一つは軽いが、他のドワーフ兵とは比べ物にならない機敏さだ。アデリーナは剣と盾を駆使してそれを凌ぎながら、相手の隙をうかがう。どういうわけか、打ち合うたびにジュラルはどんどん表情をゆがめ、泣きそうな顔になっていく。
「ああ、もう! せっかく磨いだのに、またぼろぼろになっちゃう! 刀身に、ここまで滑らかな曲線を出すのに、一体何日かかると思ってるの!」
「知らないわよっ!」
一瞬隙が見えたため、アデリーナはジュラルの持つ剣に渾身の強打を加え、それを弾き飛ばした。ジュラルが慌ててそれを拾いにいく。床に転がった剣を手に取るなり、ジュラルは目一杯に涙を浮かべて、子供のようにアデリーナに文句を言った。
「人間のくせにっ! あたし達ドワーフの苦労なんかわからないでしょ! 見なさいよ! 刃こぼれしたじゃないの!」
すかさず傭兵隊の一人がジュラルめがけて襲い掛かる。が、素早く現れた別のドワーフの突進に阻まれて、兵士は倒れた。新たに現れたそのドワーフもまた、青みがかった黒髪を三つ編みにした女性であった。おそらく、これがさっきジュラルが呼びかけたスズなのだろう。
「ジュラル! 戦場は遊び場ではありません! 目の前の敵に集中しなさい! 剣はまた磨げばいいでしょう!」
「ちぇー、わかったわよ……」
ジュラルはしぶしぶといった体で再び剣を構える。スズもまた、アデリーナに向き直り戦槌を構えた。アデリーナは迎撃態勢をとるが、二人がかりで来られては、さすがに凌ぐ自信はない。
「スズ! いくわよ!」
「はい!」
目の回るような連携攻撃。上段からジュラルの剣が降ってきたかと思えば、スズの戦槌に下段を攻められる。それをどうにか凌いだかと思えば、次はその逆のパターンで攻めてくる。彼女達の息はぴったりだった。アデリーナは剣と盾をフルに活用して、必死にそれを防いだが、とうとうジュラルの剣に太腿を浅く斬られ、ひざを突く。そこにジュラルが再び剣を振り上げた。
「磨ぎ師の恨みを受けなさいっ!」
完全に態勢を崩していたアデリーナに、もはや防ぐ手立ては無かった。
(ここまでね)
体は動かないのに、相手の剣の太刀筋がスローモーションのように見える。刃が自分の頭を割るまでに、アデリーナは様々なことを思い出した。テレザと初めて出会ったとき詐欺師だと疑ったこと、練兵場でジミーに助けられたこと、冗談みたいなバルドメロの口説き文句、それに必死にせっつく可愛らしいラトカ、笑ってばかりのルイス、自分と同じ痛みと決意とを背負ったラッセル、バルドゥルの優しいまなざし、最高の武人の風格を身に纏ったディートハルト、幼くして皇帝の威厳を放っていたアグネス、そして、思い出すことをずっと封印してきた、滅びた祖国の父と母の姿……。
これが走馬灯と言われるものなのだろう。
(みんな、ごめんなさい。私、逝くわね)
全てを受け入れるように、アデリーナは目を閉じた。
「アデリーナ!」
頭上で激しい金属音。そこから、降ってくるはずの刃はいつまでも降ってこなかった。恐る恐る目を開けると、そこには見覚えのある後姿があった。帝国歩兵団の練兵場で、自分をかばって戦った男の背中。ぼさぼさのブラウンの髪と、風采の上がらない中肉中背の体。
「ジミー……」
アデリーナは信じられないといった風に、小さな声でその男の名を呼んだ。男は剣を正眼に構え、スズとジュラルを牽制しながらそれに答えた。
「遅れてごめん。助けに来たよ」
救援が間に合ったのである。砦内の状況は一変していた。今まで優勢に戦っていたドワーフたちも、急に背後を攻められておたつき、ほとんど無防備のまま増援部隊の攻撃を受けていた。スズとジュラルは他のドワーフの援護に回るためか、その場を去って後方へ向かっていった。
どこかで幼い女の子の声がする。
「バルドメロー! 生きてるのー! ラトカちゃんもいるよー!」
次に凛とした若い男の声。
「槍を使います! あなたたちを助けるために!」
ラッセルもラトカも駆けつけていた。アデリーナの祈りはまたしても届いたのだった。ジミーがアデリーナに向かって言う。
「僕らに戦況をひっくり返す力はない。奇襲をかけて、ドワーフを慌てさせることはできたけど、態勢を整えられたらどうしようもない。近衛騎士団がいれば良かったんだけど、ディートハルトさんはヘスペリアの援護に向かったんだ。君たちが送った書状を受け取ってね。すまない、駆けつけたのが僕なんかで」
戸惑いと感動とで涙を溢れさせながら、アデリーナは幼い少女のように必死にかぶりを振る。違う、あなたはいつでも私にとって最高のヒーロー。初めて会ったとき、今度は私が助けてあげるって言ったのに、助けられてばっかりで。その言葉は声にならなかった。ジミーはアデリーナに優しく笑いかける。
「泣いてる場合じゃないよ、連隊長。退路は僕らが何とか確保した。すぐに撤退命令を出してくれ。仕方ないが、リビュアはアポイタカラに明け渡す。ディートハルトさんのお墨付きだから、安心していい」
アデリーナはジミーに言われたとおり涙を拭い、すぐに決然とした声で指揮を執った。
「総員、撤退! みんな、生き延びるのよ!」
そして再び剣を掲げ、敵陣を突破するために切り込んだ。ジミーに背中を預け、並み居るドワーフたちを斬りつけ、弾き飛ばし、踏みつけながら、アデリーナは猛然と突き進んだ。彼女のすぐあとには、士気を取り戻した傭兵たちが続き、アデリーナの進撃はやがて鋭い突撃の隊列をなした。その勢いは中原最強の帝国近衛騎兵もかくやと思わせるものだった。それでも途中で何人もの兵士がドワーフ兵に阻まれ、命を落としていく。運悪く、クロムの傍を通ったものは、その太い腕の打撃を食らい、床に倒れて首を刎ねられた。あちこちで兵たちの断末魔の声が上がる。しかし、後ろを振り返るわけにはいかない。アデリーナの背後から、低い男の声が呼びかけてくる。いつの間にか隊列に加わっていたバルドメロだった。
「セニョリータ! しんがりは小生にお任せあれ!」
それにラトカが続く。
「あんた一人じゃ無理よ! 斧ぼろぼろにしたくせして!」
「子供が余計な手出しをするものではない!」
「ちゃんと口説かれるまであんたに死なれちゃ困るのよ!」
二人はそう言い合いながら隊列の最後尾に向かっていった。アデリーナは二人の声に応える暇も無かったが、心の中で、任せるけど、絶対に死ぬんじゃないわよ、と願った。
傭兵たちは砦の外になだれ出て、ようやく自軍の増援部隊と合流した。決して数は多くない。ジミーの言うとおり、今まで戦っていたドワーフを全て駆逐できるほどではない。改めて全軍に退却の指示を与え、城壁から距離をとりながらアデリーナは後ろを振り返る。他のみんなは無事なのだろうか。続々と傭兵たちが逃げてくる中、まずルイスが現れた。相変わらず顔中にこの上ない笑顔を浮かべながら、全速力で駆けてくる。
「はーっはっはっ! 弓兵の俺が剣で敵と打ち合うことになるとは思わなかったぜ! こんな戦は二度とごめんだ!」
次にラッセル。彼もどこかで戦っていたはずだが、その手に槍はなく、代わりに剣を握っていた。ラッセルは息を切らしながら言った。
「槍、使ってたんですけど、柄をドワーフ兵に一刀両断されて、剣を拾って、戦ってました……」
何はともあれ、彼も無事であった。ジミーはアデリーナのすぐ後ろで援護していたので、今も傍にいる。ということは、砦に残された連隊長は、しんがりに行ったバルドメロと、ラトカであった。退却時には、しんがりは一番の激戦となる。背後に迫る敵と剣を交え、追い払いながら、味方が全て逃げるまで戦い続けなくてはならない。先陣を切るよりもずっと危険な役目だ。しかも、ドワーフ兵はただでさえ屈強な上、敵の中にはあの恐るべき戦士たち、クロムと、ジュラル、スズ、そしてニッケルがいるのだ。いくらバルドメロが強く、そこにラトカが加わったといっても、四人が襲ってくれば絶対に勝ち目はない。
「ジミー! 私は最後尾へ行く! ラトカとバルドメロを見捨てるわけにはいかないわ!」
アデリーナの言葉を聞いて、ジミーは即座に答える。
「君一人では駄目だ! 僕も行く!」
「あなたはここに残って撤退の指揮を執って! ラッセル! ルイスもお願い! みんなを生きて逃がしてちょうだい!」
名前を呼んだ者たちの答えを聞く間もなく、アデリーナは駆け出した。アデリーナは、次々に逃げてくる傭兵たちとすれ違いながら、バルドメロたちの姿を探した。もう砦の方角から逃げてくる傭兵の姿はほとんどない。逃げられるものは逃げ、命を落としたものは命を落とした。まさか、二人とも激戦のさなかに死んでしまったのでは……。そんな最悪の事態が頭をよぎる。
だが、そうではなかった。最後にすれ違った傭兵のいたところよりもずっと後方に、小さく、ラトカの姿が見えた。その背中に、バルドメロが背負われている。逃げるときに捨ててきたのか二人の手に斧はなく、完全に丸腰だった。ラトカは何度も躓きながら、必死にこっちに近づこうとするが、速度が出ない。怪力の持ち主ではあったが、体が小さいため、長身のバルドメロを背負って走るのはうまくいかないようだった。そんな状況にあって、バルドメロはぐったりとした様子で身を預けているだけだった。ドワーフと戦っているうちに、重傷を負ったのかもしれない。アデリーナは二人に向かって、持てる力の全てを振り絞りながら駆け寄っていく。ドワーフたちの投げる、投擲用の手斧が、いくつも頬を掠めた。弓と違ってそう当たるものではないが、敵軍に背を向けて進むラトカたちにとっては脅威だ。一刻も早く近づかなければ。
「ラトカ!」
アデリーナの呼びかけに応えて、ラトカが泣きそうな声を上げる。
「逃げるとき、バルドメロが白ヒゲの投げたトマホークに当たったの! 助け起こしたんだけど、足に力が入らないみたいで……。お願い、助けて!」
その求めに応じて、アデリーナはすぐさま近寄り、バルドメロに肩を貸す。意識はあるのだが、腰から下は糸の切れた操り人形のようにだらりとぶら下がり、地面を引きずっていた。トマホークを受けた時、神経を傷つけられたのかもしれない。バルドメロの背中からは、おびただしい量の血が流れていた。ラトカとアデリーナに支えられながら、バルドメロが力なく笑う。
「……小生は、今、とても幸せだ。愛する女性たちを両脇に従えて、まさしく両手に花とはこのことだな……。もう、思い残すことはない。二人とも、小生をここに置いて、逃げるがいい」
涙声でラトカが即座に怒鳴る。
「馬鹿野郎! 何が愛する女性『たち』よ! そんなおまけみたいな言われ方しても、嬉しくともなんともない! 私、もっと女らしくなるから! あんたが口説きたいと思うような、いい女になるから! だから、あきらめないでよ!」
それは必死の懇願だった。大切なものを失いたくないと思うがゆえに、誰もがするであろう抵抗。それを受けて、バルドメロはラトカの頭をなで、低く、この上なく優しい声色で囁いた。
「ラトカ……。君はもう、すでに充分すばらしい女性だ。小生のような男が最も心を揺り動かされるのは、どんなときだと思う。美しい女性を見たときだ。そして女性を最も美しくするものはなんだと思う。……恋だよ。ラトカ、君は今とても美しい。小生に恋をしているからだ」
ラトカの顔が見る見るうちに赤くなり、ただでさえ涙を浮かべていた瞳が、熱っぽく潤み始める。
「そ、そんなこと……」
「いまさら隠すつもりか? 相思相愛だと分かったのだ。もっと喜びたまえ」
唐突な、バルドメロの本気の誘惑に面食らって、ラトカはすっかり黙り込んでしまった。アデリーナは苦笑した。実に歯が浮くというか、傍から見ていて微笑ましいような、気恥ずかしいような光景なのだが、それはそれとしてドワーフは背後にぐんぐん迫ってきていた。頭に血が上っているらしいクロムの怒号や罵声が、次々と耳に届いてくる。アデリーナは二人のあいだに割って入るように言った。
「はいはい、お二人の気持ちはよく分かったから、続きは生き残ってからにしましょう。バルドメロ、少しは足に力が入る?」
「いや、まったくだめだ……。このままでは足手まといになる。だから小生を置いて逃げるんだ。二人とも」
「それは駄目。ラトカ、バルドメロを肩車できる? 私が後ろから支えるわ。ちょっと変な格好になるけど、それで走りましょう」
ラトカはまだ上手く声が出ないのか、顔を真っ赤にしたままこくこくと頷いた。担ぎ上げられたバルドメロは、さすがにばつが悪そうだったが、もう自分を捨てて行けとは言わなかった。ラトカとアデリーナは掛け声をあげ、息を合わせながら走った。それでもあまり速度は出なかったが、ラトカ一人でおぶっているよりは、何倍もましだった。遠くにリビュア市街地が見える。そこから近づいてくる人影が三人。ルイスと、市民に避難勧告を出しに行っていたテレザ、そしてそれに付いて行ったタスクであった。ルイスが、アデリーナたち三人の姿を見とめて言う。
「おっ、バルドメロ! 怪我してるのか! 代われ! 俺がおぶる」
「男の背中は嫌だ……」
バルドメロが小さな声で言う。
「んな贅沢なこと言っている場合か!」
ラトカはいわれたとおりにバルドメロをルイスに預け、三人はそのまま急いで市街地のほうへ駆けていった。
「兵と市民たちの避難状況は?」
アデリーナに尋ねられて、テレザが頭をかく。
「大体は上手く行ってるんだけど、欲を言えば、もう少し時間がほしいわね。小さい子供やお年寄りがもたついてるの。ドワーフが略奪をするとは思えないけど、家族と離れ離れになるのはかわいそうだわ」
「奴らはもう、すぐそこまで来てるわよ」
「大丈夫。足止めはあたしがやるから」
テレザはそう言って決然と足を踏み出した。アデリーナは慌ててそれを静止する。
「なに無茶なこと言ってんの! あなた戦士じゃないでしょう!」
「そうよ。戦争嫌いの情報屋で、ただの氷術師。だけど、言ったはずよ。あたしはあたしのやり方であんたに協力するって。ま、一か八かだけど。タスク! やるわよ!」
テレザの呼びかけに応えてタスクが牙をむく。威嚇するような鳴き声と共に、その毛並みが逆立った。すると風に凪いでいた草花が動きを止め、タスクの毛並みに同調するかのようにまっすぐと立つ。テレザは地面に向けて右手をかざし、何事か呪文のような言葉をつぶやきはじめた。やがて空には暗雲が立ち込め始め、太陽が隠れて辺りは薄暗くなった。剣士のアデリーナでさえ総毛立つような、すさまじい魔力がテレザの周りに渦巻いていた。アデリーナは、親友が何をしようとしているか分からなかったが、何かとてつもないことが起きようとしていることだけは感じ取り、しかしそのただならぬ空気に圧倒され、止めるべきか考えることも出来なかった。
「これなら上手くいきそうね」
含み笑いを浮かべながら、それまで地面にかざしていた右手を、テレザは天に向ける。続いてタスクが、それにシンクロするようにまったく同じ動きをする。ドワーフたちの進軍が間近に迫る。先頭を走るクロムが、戦斧を振りかざしながら叫んだ。
「そこにいる奴! 全員、首ぶった切る!」
「悪いけど、あんたみたいな野蛮な男には固まってもらうわ!」
それに応えるように声を張りながら、テレザはドワーフの軍勢に向かって、タスクと共に天にかざしていた手を振り下ろした。
テレザの指先からきらきらとした小さな光の粒が無数に生まれ、ドワーフ達に向かってゆっくりと広がっていく。そして次の瞬間、急に草原全体に霜が降りたと思うと、一瞬にして草は凍りつき、乾いた音を立てて砕け散った。その現象が津波のように伝播し、ドワーフたちを襲う。大気中の水分全てが凍りつき、結晶化するほどの冷気が、テレザの指先から生じていたのだった。それなのにテレザより後ろにいるアデリーナには、ほんの少しの寒さも伝わることが無かった。まるでその指先を境に、地獄で罪人たちを氷付けにするという、嘆きの川が生じたかのようであった。
冷気は地面を伝ってドワーフたちの足元に蛇のように絡みつき、即座に氷の塊へと姿を変える。屈強なドワーフたちが恐怖におののき、悲鳴を上げはじめる。冷気はまず彼らの足元を固めたあと、ひざ、腰、胸へと容赦なく這い登り、最後には頭までをすっぽりと覆う、氷の柱となった。そしてほんの十秒もしないうち、そこにいたドワーフの軍勢全ての人数分の氷の柱が立ったときには、もはや悲鳴すら聞こえなかった。クロムは氷の中に閉ざされる、最後の最後まで怒号を上げていた。
「畜生! 俺をコケにしやがって! 畜生! 畜生ぉー!」
全てを終えて、テレザは大きく息をつき、呆気にとられるアデリーナを振り返って、にっこり笑った。
「さ、氷が融けてしまわないうちに、助ける人助けて、さっさと逃げましょう」
そういって照れ隠しをするように、先に駆け出していってしまった。そのすぐ後ろに続いたタスクが、ふと立ち止まって、テレザの真似をするようにアデリーナのほうを振り返り、
「にゃー」
と鳴いて目を細めた。アデリーナは我に返り、急いでテレザとタスクの後を追った。
テレザの活躍で、撤退の被害は最小限に食い止めることができた。負けはしたが、そんなことはどうでもいい。ジミーも、ルイスも、ラトカも、ラッセルも、ルイスも、バルドメロも、テレザも、タスクも、そしてアデリーナ自身も、無事に生き延びたのだ。
「ブラーヴァ! テレザ!」
市街地から歓声が起きていた。遠くから一部始終を見ていた傭兵や市民たちが、アポイタカラ軍を丸ごと氷付けにしたアイスクリーム屋の名を讃えている。その讚美の声は、瞬く間に傭兵団全軍と、リビュア市民の間とに広がり、大合唱となった。その様子はまるで、勝利の歓声をあげているかのようだった。まさしく、限りなく勝利に近い、敗北であった。
傭兵隊と、リビュアの市民たちが共に王都へ引き揚げる道中、アデリーナは、テレザがドワーフたちにいったい何をしたのか、訊かないではいられなかった。もちろん他の誰もが気になっていたのだが、一種の畏怖を覚えてなかなか口に出せずにいたのである。テレザは困ったように笑って、それに対してこう答えた。
「戦が始まってからね、自分も何かしなきゃ、何かしなきゃ、って思ってるうちに、なんだか急に頭がさえちゃって、エルザから教わった極大呪法の理論、思い出せるだけ思い出しちゃったの。もちろん不完全なものなんだけど、運がいいことにタスクがいてくれたからね。タスクはね、すごい能力を持ってるの。この子だけが使える地術の一種で、大地の力を魔力に還元して、他の術師に与えることができるのよ。この子がいなかったら、とても魔力が足りなくて、あんな芸当は出来なかったわ。だから、タスクのおかげ」
そう言ってテレザは隣をよちよち歩いているタスクの頭をなでた。タスクはいつものように、猫そのものの顔で目を細め、猫そのものの声でにゃあと鳴いた。
「じゃあ、タスクがいれば、またあんな力が使えるってこと?」
アデリーナの問いにテレザは首を振る。
「あれは一か八かの賭けみたいなもんで、失敗したら一目散に逃げるつもりだったわ。極大呪法の理論をベースにはしたけど、ところどころめちゃくちゃにアレンジして術式を組んだから、もう二度と使えない。使いたくもないしね。あーあ、戦場に立つのはこれっきりにしたいわ」
そしてテレザは大きく伸びをうった。納得したような、納得いかないような、複雑な気持ちで、アデリーナは彼女の横顔を眺めた。しかし、何はともあれ、たくさんの人が死なずに済んだのだから、全てよしとすればよかった。確かなのは、またテレザに助けられてしまったということ。余計なことは考えず、それに感謝し、それを喜べばよい。どんな不思議な力を使ったのだとしても、アデリーナにとって、変わりなくテレザは最高の親友なのだから。
「テレザ、いつもありがとう」
アデリーナは、そう言って親友に笑いかける。
「いいってことよ」
テレザもまた、そう言って親友に笑顔を返した。