「エルザ! 卒業おめでとう!」
アカデミックドレスに身を包んだ少女が、顔一杯に笑顔を広げて、祝福の声の主に飛びついた。
「テレザおねえちゃん!」
二人はそのまま抱き合って、しばしのあいだ、この日の最大の喜びを共に分かち合った。あのリビュアの戦いから一年の月日が流れ、エルザは晴れて帝国魔術大学院を首席で卒業したのだった。卒業後はそのままオルテュギアの宮廷に入り、正式に宮廷魔術師として手腕を発揮する予定である。
テレザはエルザの肩に手を置いて、その顔を見つめた。エルザの表情からは、故郷を失ったばかりのときのような、哀しみや、暗さ、絶望は、すっかり影を潜めていた。
「……また、胸大きくなった? 背は伸びないのに」
テレザが冗談めかして言うと、エルザは戸惑ったように弁解する。
「そ、そんなことない。背は伸びてるもの」
「問題はそっちじゃないんだけどね……」
相変わらず天然で、それゆえか相変わらずの天才でもあった。
エルザの卒業論文のテーマは、並みの学生などは到底手の届かない極大呪法に関するもので、何万通りもの術式の組み方と、それに対応した必要魔力の質や量の個人差、世界のあらゆる土地、気象条件に左右される事象、その中でコンスタントに氷術の最大の効果をあげることを実証するための、膨大な実践と研究データとが記され、数ある実例のうちには、属性は異なるが、第二次チュレニー海戦でバルドゥルによって実際に使用された火の極大呪法と、リビュアでの戦いでアポイタカラ全軍を氷付けにしてしまった、あのテレザの擬似極大呪法とが挙げられていた。
帝国魔術大学院首席候補の論文に、自分の行き当たりばったりのでたらめな魔術について記されることをテレザは嫌がったが、エルザの度重なる懇願と説得によって、最後には渋々うけがったのであった。ちなみに、リビュア戦から、テレザたちが王都に撤退した翌日、帝国正規軍の偵察隊がリビュアへ赴いたところ、氷はまだ半分も融けておらず、ドワーフたちの頭部だけがその呪縛から解き放たれ、身動きが取れないまま白ヒゲのドワーフが休み無く怒鳴り散らしたり、ため息混じりにそれを聞き流す人間族の若者がいたり、寒いよう、おなかすいたよう、と泣きべそをかく女性ドワーフがいたり、彼らとしては切実だが、なんとも滑稽な光景だったという。リビュア戦後に程なくしてアイスクリーム会社「テレザ・マジックアイス」を立ち上げたテレザは、それをヒントに、かわいくデフォルメした土妖精の砂糖菓子人形を封じ込めたアイスキャンディーを開発し、帝国中で人気を博した。
二重、三重に恥をかいたクロムは、ヘスペリアから取って返してきた帝国近衛騎士団にあっという間に蹴散らされ、リビュアの奪取を許してからは、アルシア城に閉じこもってしまい、もっと強い武器を作れば戦争に勝てるはずだ、と躍起になって日々鍛冶に励んでいるようだった。動機は不純だが、ドワーフの生活が本来あるべき姿に戻ったことによって、ニッケルをはじめとした周囲の者たちは、ほっと胸をなでおろしているという。
先ほど少し触れたとおり、いまやテレザは帝国に本拠を置く、世界的チェーンのアイスクリーム会社の社長であったが、旅人及び情報屋としての気質が抜けないことと、どうしても突き止めなくてはならないことがあるために、経営のほとんどの職務を他の取締役に丸投げしていた。
突き止めなくてはならないこと、というのは他でもないエルザの母親のことで、ゲレオンの自己啓発セミナーに、エルザと似た特徴の容貌をした女性が奉仕している、という情報をテレザは入手していたのだった。そして、実際にセミナーに潜入し、確信を得た。そこにはうつろな目をしてゲレオンにかしずく、テレザにもよく見覚えのある氷術師の女性の姿があった。髪の色、顔つき、瞳の色、体つきなどの身体的特徴から見ても、エルザの母親に相違なかった。彼女が何故ゲレオンにおとなしく従っているのか分からないが、エルザが帝国魔術大学に通っていることをたてに、脅迫されている可能性は十二分にある。ゲレオンは、用心深い氷術師たちを魔術大学特待生をだしに帝国に引き入れるため、手下を使って集落を襲わせたのであろう。もしかすると、集落の場所を知ると同時に、エルザの非凡な才能をも聞きつけていたのか……。帝国に優秀な人材を引き入れることに成功すれば、いわずもがなゲレオンの株は上がるはずであった。ともすれば、まんまと策略に引っかかったことになるが、残念ながら今の帝国でゲレオンの自由になることは少ない。最も大きな後ろ盾だった、宰相のホラーツを失ってしまったからである。
ホラーツ自身が大軍を率いて行なったケクロピア上陸作戦は、ジギスヴァルト、フィリーネ、ディルク以下クーニッツナイツの奮戦によって失敗に終わり、第一次チュレニー海戦で帝国水軍を壊滅させてしまったことと共にホラーツはその責任を問われ、皇帝の厳然たる決断によって、宰相の座を追われたのだった。武官でもないのに、戦争に関わりすぎたことが仇となった。ホラーツは自分ひとりが宮廷を去ることに納得いかないのか、あちこちでかつての右腕ゲレオンの悪事を触れ回っているらしいが、当のゲレオンは徹底して無視を決め込んでいた。ゲスどもの信頼関係など、そんなものである。ちなみに皇帝がホラーツを処断するにあたっては、近衛騎士団長ディートハルトの綿密な助言があったというが、当の本人がその件について語ろうとしないため、真偽のほどは定かではない。
ゲレオンが氷術師たちを襲撃させたというテレザの推測に確実な証拠が得られれば、エルザの母親を救い出すのは容易になるだろうし、集落を焼かれたことの復讐を遂げることもできるだろう。しかし、テレザは今はまだそれに踏み切る時ではないと思っていた。目の前にいるエルザは、あの瓦礫の中から立ち上がり、自分の力で未来をつかみつつあった。そんな時に、過去の暗い出来事を思い出させ、彼女の心を乱し、復讐に身をやつすことに導いてはならない。
それに、テレザが手を下さずとも、ゲレオンの数々の悪事はやがて明るみに出るであろう。
帝国は以前の腐った大国から、確実に変わりつつある。ホラーツの後任には、軍の必死の捜索で、苦行者のようにエレクトリスの雪原をさまよっているところをようやく発見され、帝国に呼び戻された宮廷魔術師のバルドゥルが就任した。バルドゥルは自分の罪を悔いて、表舞台に出ることをことさら忌諱したが、そんな彼に皇帝自らがひざまずき、次のように説得したのだそうである。
「余は今まで世の中のことがまったくわかっていなかった。ホラーツのような者を宰相に据え、言われるがままになっていた余にこそ、罪がある。余は、偉大なる祖父が建てたこのライナルト帝国を良い国にし、少しでも民衆たちに償いがしたい。そのためにはバルドゥルよ、そなたの力が必要なのだ。余のためではない、帝国の民のため、その才を預けてくれ。なにとぞ、頼む」
皇帝じきじきにこのように懇願されては、いかに自分に厳しいバルドゥルといえど、首を縦に振らないわけにはいかなかった。バルドゥルは宰相に就任した後、これまで宮廷にはびこっていた悪と贅沢とを徹底的に排除し、ホラーツが定めていた高い税率を落とし、様々な公共事業を行って貧民の救済に当たった。その働きが少しずつ功を奏し、帝国民たちのあいだには笑顔と活気が戻り始めた。宮廷が変われば変わるほど、次第にゲレオンは居場所をなくしつつあり、一時は帝国民の三割をも動員した自己啓発セミナーも、ただの冴えないカルト集団へと成り下がっていた。自ら希望を追い求める力を取り戻した人々にとって、ゲレオンの見せ掛けのカリスマなど、もはや無用であった。
ゲレオンが宮廷を追われるのも時間の問題だろう。そのとき、彼に恨みを持つ者たちが、いかなる行動に出るか。裁きを下したい者は、下すが良かろう。テレザはゲレオンを赦すわけではないが、復讐にもさほど興味はなかった。エルザにも、そうあってほしかった。母親には、折を見てゲレオンのセミナーから退会するように働きかけ、正気を取り戻させてから、娘に引き合わせるほうが良かろう。そのためには、テレザは懸命に奔走するつもりであった。
「テレザおねえちゃん、どうしたの、難しい顔して」
エルザに声をかけられて、テレザは我に返る。
「いえ、ちょっと昔のことをね、思い出してたわ」
「あ、あの人のこと?」
「ん? だれ?」
「おねえちゃんの友達で、女剣士の……」
「……ええ、そうね」
本当は他のことを考えていたのだが、エルザの言葉によってあの勇敢な親友の姿が思い出される。
リビュア戦の後、傭兵隊は再編され、クーニッツ騎士団やファーブニル竜騎士団との戦いにおいて、おのおの剣を振るった。バルドメロは残念ながらトマホークによって受けた傷の後遺症のため、大陸最大の帝国病院に入院し、今も苦しいリハビリを続けている。ラトカが付きっ切りでそのリハビリを支えているが、バルドメロのナンパ癖は抜けないらしく、若くて美しい看護婦がそばを通るたびにやきもきするらしい。が、戦場で共にドワーフの追撃から逃れる時に、彼と交わした言葉を信じてラトカは尽くし続けている。もう一人、戦場でそのやり取りをじかに聞いていた者がいるのだが、その内容については、恥ずかしくて教えられない、と口を閉ざしてしまった。
ファーブニル竜騎士団は、テレザの情報を書状で知って駆けつけた近衛騎士団によって打ち破られ、ヘスペリアの奇襲に失敗した。竜騎士はたった三人とはいえ、非常に手ごわかったが、そこは帝国一の名将ディートハルトである、不意を突かれなければ、未知の敵であれ互角以上に戦った。団長自身が先陣を切って繰り出す、近衛騎士団の一糸乱れぬ波状攻撃に、ドラゴンといえど太刀打ちできず、奇襲のために雇った傭兵達と共に荒野へ退散していった。もともと国力のない勢力であったので、続けて二、三度はゲリラまがいの襲撃があったが、備えを万全とした帝国軍には歯が立たず、やがて降伏した。その後はまた荒野に拠点を置き、世界各地で何かを探っているような動向が見られるが、警戒はするものの、何を探っているかに対しては帝国は積極的に関知していない。
クーニッツ騎士団とは、互いに兵力を消耗したこともあって、戦況は沈静化に向かう。悪政の中心にいたホラーツが宮廷を追われ、帝国が復興の兆しを見せ始めたこともあって、正義の名の下に帝国の民を救う、というジギスヴァルトの大義名分は失われ、情勢は変わり、やがて両国が休戦協定を結ぶに至った。現在、皇帝アグネスは、一時的にバルドゥルに国政を委ね、国交正常化の一環として自らケクロピアの大学に留学し、政治学、法学、社会学などを学び、自らも国を治める者としての才覚を示しつつある。
職を失った傭兵たちの多くは、また戦場を求めて、世界中に散らばっていったが、一部の者は正式に帝国に仕官し、新たに設立された帝国領守備兵団に配属された。その長官には、もと傭兵連隊長ジミーが据えられ、その補佐としてラッセル、ルイスが就任した。リビュア戦以後のファーブニル竜騎士団駆逐作戦と、クーニッツ騎士団との休戦に至るまでの戦闘での功績を認められ、ディートハルトが彼らを士官に推薦したのである。ただし、伝統ある帝国歩兵団と、帝国騎兵団との軋轢は大きいらしく、特に歩兵団長官のジャレッドとは練兵場での因縁もあって、嫌がらせを受けることも多々あるようである。
「新参者がいじめられるのは、どこでもあることさ。空気男と呼ばれてたころに比べれば、いじめられるだけの存在感が出てきたってことかな」
先日、王都で顔を合わせたとき、ジミーはそう言って苦笑いしていた。
「正規兵として、帝国に仕えるようになるなんて、田舎生まれの平民だった僕には考えられなかったことだよ。文句なんかありゃしない。まあ、残念なことはあるけどね」
ジミーは遠い目をして、何かを思い出しているかのようだった。テレザは、彼がその視線の先に何を見ているか分かっていた。テレザも同じことを思う。あの娘は今、どこで何をしているのだろう、約束を破って、どこかで死んでやしないだろうか、などと。しかし、今のところその心配はなさそうだ。
いまだ現役の情報屋であるテレザの耳には、世界各地の傭兵たちのうわさも入ってくる。ロストテクノロジーを復興させ、それを兵器として使うマスケットという新勢力のことや、エレクトリスの犯罪組織アルカトラズの不穏な動き、ラザフォード王家を衰退に追いやり、エリシウム砂漠で一大勢力として旗揚げした新興宗教カストゥス教団、タスクの故郷であるスカンディア山で獣人たちが蜂起したこと、エルフが帝国に攻め込む隙をうかがっていること、歌ってばかりのカエルの国、ググ王国までが何のためか大陸進出を画策していること、そして戦乱に不干渉を決め込みながらいつ他種族に牙をむくか分からない不気味なリザードマン勢力、マカン。大陸はまだ平和には程遠く、おそらく戦乱が終わる日が来るのを、生きているあいだに見ることはないであろう、とテレザは思う。
だが、そうした世界のあらゆる場所で、戦乱の終わりを信じて剣を振るう、黒髪の女剣士の姿を見た者があとを絶たない。虐げられた小さな勢力を守り、仲間を励まし、勇敢に先陣を斬る姿に、傭兵のみならず感銘を受ける者は多い。
その女剣士は、かつて自分の剣をこう呼んだ。守るものを失った亡国の剣と。
しかしいま、彼女を知る人々はそうは呼ばない。その剣は弱き者を助ける救世の剣、その姿は後に続く者を鼓舞する義勇の戦乙女、そう人々は呼ぶ。
「卒業してすぐ、宮廷魔術師に就任なんて、忙しいにもほどがあるわ。しかもバルドゥル教授の後任なんて荷が重過ぎて、今から胃が痛いんだから……。せっかく春休みにテレザおねえちゃんの友達に会えると思ってたのに、こんなんじゃ、いつ会えるもんだか分からないわ」
そう言って頬を膨らますエルザ。それを諭すようにテレザが言う。
「まあ、宮仕えになるなんて光栄なことだし、今はそのことをがんばりなさい。そのうちきっといいことがあるわ。あたしの友達も、エルザに会いたいって言ってたもの」
「でも、どこにいるかわかんないんでしょ?」
「ええ……。でもあの娘は必ず約束を守ってくれるわ。かわいくて、まじめで、ほっとけなくて、妹みたいだった。素敵な子よ。エルザもきっと好きになるわ」
「うん……楽しみにしてる」
エルザは素直に頷いて、微笑んだ。その笑顔を受けながら、テレザはまた、今も世界のどこかで剣を振るっているであろう親友のことを想った。そして、ヘスペリアの小さな部屋で、涙ながらに交わした約束のことを想い出していた。
死なないでね。きっとまた、無事でどこかで会いましょう。
アデリーナ。