帝国水軍がチュレニー海戦で大敗を喫したという報せを聞いたのは、帝国がクーニッツ騎士団の宣戦布告を受け入れ、正式に開戦してから間もなくのことだった。宰相と副宰相自ら新式戦艦に乗り込み、聖戦を盛大に宣言して出撃していった帝国船団だったが、その指揮官の中には内応者がいたのだった。戦闘が開始されるや否や鉄甲船三隻が寝返り、帝国水軍の指揮系統は大混乱に陥った。ゲレオン船と名付けられた新式戦艦二隻は真っ先に撤退し、残った船団はクーニッツ水軍司令官、アルレットによって完膚なきまでに打ち破られたという。海戦は不得手と思われていたクーニッツ騎士団だったが、水軍司令官に任命されたばかりのアルレットは、元はチュレニー海を縄張りにしていたエレクトリスの女海賊であり、その軍人離れした戦術と指揮によって、クーニッツ水軍の強化に一役買っていた。
さらに、ヘスペリアの南に位置する関所の街、リビュアでも動きがあった。テレザの情報どおり、ドワーフ勢力のアポイタカラが帝国に侵攻してきたのである。突然の攻撃にリビュア守備隊は完全に浮き足立ったが、幸いアポイタカラの戦力は少なく、皇帝アグネスと近衛騎士団長ディートハルトとが兵を率い、駆けつけることによって即座に駆逐された。
事態を重く見た帝国軍は、速やかに戦力を増強すべく徴兵、ならびに傭兵の募集を開始した。アデリーナはそれに応じるべくヘスペリアを発ち、帝国首都オルテュギアへ向かっていた。
道中、休息を取るため立ち寄った小さな街には、偶然、帝国軍の一個旅団が駐留していた。といっても、それと初めて分かったのは、宿屋の亭主に話を聞いてからだった。兵士という割には鎧も着ておらず、華奢な体つきをした者ばかりで、女性も多かったのである。
「旅団を率いてるのはバルドゥルって魔術師だそうだ。先のチュレニー海戦に敗れたせいで、程なくしてヘスペリアにクーニッツ水軍が攻め込んでくるだろうが、その救援に向かうらしい。だが、あんななよなよした連中ばかりじゃ、また負けるに決まってらあ。王都まであっという間に攻め込まれて帝国は終わりだよ。ヘスペリアが落ちたら俺は店をたたんで、なんとかして外国へ逃げるぜ。そうさ、どこへ行ったって今の帝国よりはましなんだ」
亭主の愚痴を聞きながら、アデリーナはテレザから聞いた話を思い出していた。火術の世界的権威といわれる魔術師の名が、確かバルドゥルだった。てっきりただの学者だと思っていたが、軍の指揮もできるのだろうか。
「その、バルドゥルって、どんな人なの?」
アデリーナが訊くと亭主は少し逡巡して答えた。
「街で見かけた限りじゃ、無口だが、物腰の柔らかい男で、まあ、ひとことで言いや紳士って感じだ。とても軍人には見えねえよ。ああ、部下が口の軽い野郎で、先生は野蛮な軍人などではなく、かつて帝国魔術大学を首席で卒業された、れっきとした宮廷魔術師だ、なんてほざいてたな。平時は魔術大学で研究漬けらしい」
大学教授を一個旅団の司令に据えるなどという話は聞いたこともないが、それだけ帝国が深刻な人材不足に悩まされているのは間違いない。傭兵募集の触れ込みにも、軍指揮幹部経験者優遇、経験指揮部隊規模兵種等不問、とあった。
「世話になったわ」
アデリーナは代金を払って、宿を後にした。テレザが別れ際に氷屋のバイト代だと言って渡してくれた金で、野宿せずに済んでいる。恩返しするまで、やっぱり死ぬわけにはいかないわね、とアデリーナは思った。
街外れに差し掛かったとき、誰かが大声で議論しているのが聞こえた。すぐ近くに帝国軍のキャンプがあるが、そこから少し離れた場所で、黒いローブを着た青年が何かわめいている。その傍で、痩せているが、均整の取れた体つきをした若草色の髪の男が、静かに青年の言葉に耳を傾けていた。
「なぜ私達が戦争などしなければならないのですか。魔術は戦いのための力ではない、我々の身近にある神秘を見極め、真理を導き出すための力だと、先生は常々おっしゃっておられたではないですか。これは我々の理想に反することです。理想のために、いっそ国を捨てるべきです。我々がここまで先生についてきたのは何のためですか。共に出奔しましょう。国は無くとも、あなたに従う多くの弟子達がいます。戦火の届かぬ地で隠棲し、真理を極めるためにだけに働きましょう。今ならまだ遅くありません」
聞くつもりは無かったが、青年の声があまりに大きかったため、話が丸ごと聞こえてしまった。もし士官の耳に入れば逃亡罪、あるいは逃亡示唆罪と見なされ、処刑に値する内容だ。そこに注意を払えないところを見ると、軍人となって日が浅いか、そもそも軍人ではないのだろう。宿屋の亭主が言っていた口の軽い野郎とは、この青年のことかもしれない。とすれば、彼が先生と呼びながら食って掛かっている男が、バルドゥルなのだろうか。アデリーナは興味をそそられ、二人に気付かれないよう、近づいた。
熱弁をふるう青年に対し、バルドゥル(らしき男)が、諭すように何か言っている。青年の声に比べて極端に小さく、聞き取るためにはもう少し近づく必要があった。
「ベルンシュタイン、君の気持ちはよく分かる。魔術のあるべき姿は、君の言うとおり真理を極めるためのもので、それについて私の考えに変わりはない。魔術は戦いのための力ではない。しかし、祖国の人々が危機にさらされているのを知りながら、それを見捨てるのもまた、魔術師のあるべき姿ではない。君の言うように生きるのならば、魔術は魔術師のためだけのものになり、人間らしい生活から離れ、やがて人知れず滅んでいくだろう。それでは意味が無いのだ。……君は私が常々言っていた言葉を、もう一度言えるかね」
「我々の身近にある神秘を見極め、真理を導き出すこと……」
「その通りだ。私が我々と言っているのは、魔術師のみならず、人間全体のことなのだ。戦いのためでなく、人間のために魔術を使う。それならば、今は戦いに赴かなくてはならない。ヘスペリアの市民を救うためにだ」
「先生、そんなものは詭弁です」
「分かっている。私も断腸の思いだ。本当は君のように、理想のためだけに力を使いたいと、私も思っているのだ。だから、軽蔑してもかまわない。軍を離れ、君の行きたいところへ行くのもいいだろう。そのことで私が士官たちに告げ口することは、決して無い」
そして先生と呼ばれる男は不意にアデリーナのほうを振り返った。あまりに突然のことだったのでとっさに隠れることもできず、しっかりと目が合ってしまった。盗み聞きしていたことを弁解する余地も無かった。ただ、男の目の光は静かで、とても優しげなものだった。
「お嬢さん、あなたも黙っていてくれるね」
アデリーナはあっけに取られて、ただ頷くことしか出来なかった。いつから気付かれていたのか、見当もつかない。男は、感謝する、といった風に会釈すると、がっくりとうなだれた青年の肩を抱いてキャンプへ戻っていった。その後ろ姿を見送りながら、もしあれがバルドゥルなら、戦で死ぬべき男ではない、とアデリーナは思った。
それから数日かけてオルテュギアへたどり着いたときには、ヘスペリアの戦闘でバルドゥルという魔術師が指揮を執り、戦力不足で明らかに劣勢を強いられる中、見事な采配で街の防衛に成功したという話題で持ちきりだった。それを耳にして、アデリーナはほっと胸をなでおろし、
(別に知り合いでもなんでもないけど、死なないでくれてよかったわ)
と、本心から思った。
さて、さすがは帝国の首都というだけあって、オルテュギアは巨大な都市で、ほんの一時間歩くだけで、アデリーナがそれまでに見た人間の数を軽く超えてしまうほどの人々が、ごった返していた。傭兵の登録は帝国歩兵団本部にて、と募集要項に記されていたが、街があまりにも広く、どれだけ人に尋ねても、土地勘の無いアデリーナには、はっきりとした場所が把握できなかった。募集のビラを見せながら、十人目に声をかけた青年が、親切にも、
「ああ、その場所分かります。同じ方向に行くから、連れて行ってあげますよ」
と言ったので、アデリーナはその好意に甘えることにした。
「どこから来たんですか」
歩きながら青年が問うて来る。ヘラスから密航して来たなどとはとても言えないが、道案内をしてもらっている手前、無視するのも悪いので、
「ヘスペリア……です」
と嘘にならない程度に答えると、
「本当? 戦闘に巻き込まれなくてよかったね」
と言って青年は屈託無く笑った。中肉中背、ぼさぼさのブラウンの髪に、つぶらな目、外見はどことなく地味だが、良い人らしい。
「チュレニーで帝国水軍が壊滅して、リビュアもドワーフに攻め込まれたばっかりだったから、兵も武官もぜんぜん足りなかったらしいし、まったく今回の勝利は奇跡的だよ。バルドゥルってのはよっぽど有能な指揮官らしいね」
「ええ、そうね……」
アデリーナは、街外れで青年を諭していたあの男の姿を思い出し、彼が死ななかったのであれば、本当に良かった、と思った。あの男が死ねば、帝国軍にとってではなく、帝国という国そのものにとって大きな損失になっただろうから。
「でも、これからクーニッツとアポイタカラ、両方相手にしなくちゃなんないし、大きな声じゃ言えないけど、帝国は負けるって考えてる人も多いみたいだ」
確かに宿屋の亭主も愚痴交じりにそう言っていたし、やはりテレザの予想が現実のものになりつつある、ということだろうか。
「あなたはどう思ってるの?」
少し気になったので青年に意見を求めてみる。
「僕にはわからないよ。うん、どっちでもいいしね。君は?」
「同じ。私も、どっちでもいいわ」
「やっぱりね。君ならそう言うと思った」
「あら、どうして?」
青年は軽く一声笑っただけで、その問いに答えなかった。二人は話題を変え、王都だけに見られる珍しい品物についてや、道行く人のファッションについて、帝国で無ければどんな国に住んでみたいか、などの雑談に興じた。地味な外見とは裏腹に、青年の話しぶりはさりげないユーモアに富んでいて、道中、アデリーナは退屈しなかった。
迷路のような街角をいくつも行き過ぎ、やがて景色が開けた。
「見えてきたよ。正面に王城があって、右にあるのが帝国軍歩兵団本部、左にあるのが帝国軍騎兵団本部さ」
言いながら青年が前方を指し示す。見上げると世界一巨大で美しいといわれる壮麗な王城が高台にそびえ、その少し低い場所の脇を固めるように、二つの灰色の無骨な建物が重々しく鎮座している。見張り台と思われる塔や、屋内から矢を射掛けるための狭間窓を備えているのが見え、有事の際には砦の役割も果たすようであった。いくらなんでもここまでくれば、迷うことは無い。アデリーナは青年に向かって笑いかけ、礼を言った。
「ありがとう。とても助かったわ」
「いやいや。困った時はお互い様」
「そうね。もし次に会ったとき、あなたが困ってたら、今度は私が助けてあげる」
「ははは、なんだか照れるなあ」
青年は実際に赤面して鼻の頭をかいた。幼い頃から軍隊で粗野な男ばかり見てきたからか、アデリーナは純朴そうなその反応に嫌な気分はしなかった。
「じゃあね」
短く別れを告げて、アデリーナは砦に向かって歩き始めた。途中、背後に人の気配を感じて振りかえる。どういうわけかさっきの青年が、すぐ後ろを離れることなく付いてきていた。怪訝に思ったが、青年はただにこにこ笑っているだけである。
「どうしたの」
アデリーナが訊くと、青年は黙って自分の腰の辺りをぽんぽん、と叩いた。そこには質素な長剣がぶら下がっていた。
「あ」
それを見て、アデリーナは小さく声を上げた。うかつだった。青年が兵士のイメージとあまりにもかけ離れていたため、今まで気がつかなかったのだ。
「僕はジミー。帝国民じゃなくて、君と同じ傭兵さ」
青年はそう自己紹介して、また、にっこりと笑った。