帝国軍歩兵団本部の門前には、いかにも戦好きそうな無頼漢、元正騎士と思しき整った身なりをした武人、目つきの悪い罪人崩れ、ぼろぼろの僧服を身にまとった神官、顔が見えないほど深くフードをかぶった魔法使い、ほとんど町民と変わらぬ風体の者まで、様々なタイプの志願者が詰め寄せていた。それは実におびただしい数だった。
終わりなき戦乱と言われるだけあって、大陸では各地で戦争が頻発するため、正規兵、傭兵を問わず戦士を生業とするものが多い。しかし近年、一部の国家や武力集団のみが勢力を伸ばし、それに伴って多くの小勢力が消滅したため、一時的に戦の数が減った。国を失って誰もが剣を捨てられるわけではなく、アデリーナのように、流浪の傭兵に身を転ずる兵士も多かったが、職場探しはかつてほど楽ではなかった。
そこに此度の戦争が勃発し、大陸一の大国であるライナルト帝国が大々的に募兵を行なったため、世界各地から戦士たちが我先に集ったというわけだった。帝国民を対象とした徴兵検査は別日に指定されていたため、ここにいるのはおそらく外国人ばかりである。
志願者たちはまず詰所に通され、各々、身体検査と、思想検査とを受けねばならなかった。前者は健康かつ兵士として最低限の体力を持つかを判定し、後者はクーニッツ騎士団のスパイなどが紛れ込んでいないか調査するため実施されたが、兵力不足の折りか、さほど厳しい内容ではなく、アデリーナは難なく二つともパスした。
思想検査ではクーニッツ騎士団が理念として掲げる騎士道精神、男女平等、民主主義についてどう思うか、等の質問があり、アデリーナは徹頭徹尾、別になんとも思いません、で通しきった。戦争を商売にしている傭兵に思想などあるわけも無い。先方もそう考えているらしく、要するにこの検査の意図は、思想があるかどうかよりもむしろ、思想がないことを確認するところにあったのだろう。ならば、下手に意見など言えば疑われるだけである。
身体検査は、女性であっても何も身に付けていない状態で受けねばならず、ひそかに検査官が男性で無いことを願った。幸い現れたのは年老いた熟練の女官であった。女官は実に慣れた手つきで、アデリーナがほんの少しの羞恥も感じる間もなく、頭の先から足の先までを隅々まで調べつくしてしまった。その手際のよさは、思い出しても、ため息が出るほどであった。さすがは伝統ある帝国軍、検査官の腕も一流である。
二つの検査をパスした者は番号を与えられ、練兵場で実戦による審査を受ける。志願者は正規の帝国歩兵を相手に自分の得意とする武器で戦うが、これが兵科や、配属を決める際の判断材料となるのだった。
練兵場は砦の中庭にあった。たどり着くとすでにジミーが来ており、審査の様子を熱心に見守っている。練兵場の中心に円形の囲いが設けられ、そこで二人の男が戦っていた。公式の審査だというのに雰囲気はまるで闘技場のようであり、正規軍側からも傭兵側からも、野次や声援が飛びかう。中には賭けに興じる者までいる始末だ。ジミーはアデリーナが来たことに気付き、手を振った。アデリーナが、彼の傍に寄っていって訊く。
「どう? これより前の審査も見てたんでしょ」
答えるジミーの口調は、浮かないものだった。
「そうだね……腐っても世界一と謳われた帝国兵だよ。弱い奴なんかいない。二十試合以上見てるけど、傭兵側で勝てたのは二人だけだ」
「二人? たったの?」
アデリーナは驚愕した。何よりも実力がものをいう世界だ、傭兵達の中にも歴戦のつわものがいる。アデリーナ自身も、正規兵などよりもずっと頼りになる古参の傭兵達を、戦場で何人も見てきた。帝国兵がいくら強いといっても、まったく太刀打ちできないほどではないと思っていたが、どうやら正規兵ともなると、ヘスペリアで見かけた警吏などとは格が違うらしい。
「当てが外れたわね……正直、もっと甘く見ていたわ」
「うん。まあ落とすための審査じゃないからいいけど、すっかり自信をなくしてる奴もいる。ほら、また負けた」
今まで戦っていた短剣使いは、素早い動きで相手を翻弄し、必死に時間を稼いでいたが、頑強な正規兵相手には決め手に欠け、ついに囲いの端まで追い詰められて降参した。正規兵たちは歓声を上げ、傭兵達の間からは嘆息が漏れる。
(まったく、遊びでやってんのかしら)
そうは思ったものの、ジミーの言うとおり、確かに帝国兵は強かった。鈍重だが無駄な動きが少なく、常に前進して敵を追い詰める戦法を取る。盾を使うようだが、歩兵たちは総じて体格がよく、例え攻撃を防ぎきれなくても、刃を引いた剣の打撃などではびくともしない。アデリーナのように、手数で攻める小兵にとっては最も厄介なタイプだった。どうやって戦えばいいかを思い巡らすなかで、ふと気になることがあった。
「試合に勝ったっていう二人は、まだこの場にいるの?」
「ああ。あっちの壁際に、並んで立っているのがそうさ」
ジミーの指し示すほうを見ると、長身で鋭い目つきをした壮年の男と、アデリーナよりもずっと背が低く、あどけない顔をした、どう見ても子供にしか見えない体つきの女がいた。見間違いかと思ったが、ジミーによれば勝ったのはこの二人で間違いないらしい。
「男のほうはまだ分かるけど、もう一人は子供じゃない」
「そうだけど、二人とも、ものすごい怪力なんだ。正規兵でも扱えないような大斧を振り回して、相手を一撃で伸ばしちまった。ありゃドワーフ並みだよ」
「信じられないわ」
まじまじとその二人を眺めていると、男のほうがアデリーナの視線に気付いたらしく、目が合った。鋭いが、粘着質な目つきで、どことなく生理的に受け付けないものがある。そして次の瞬間、あろうことか、男はアデリーナに向かってウインクを投げかけたのである。背筋に悪寒が走り、慌てて目をそらす。
(どんな強そうな奴かと思えば、なんなのよ、あの二人は)
アデリーナは恐怖のあまり、しばらく二人のほうを見ることが出来なかった。
士官によって番号が読み上げられ、囲いの中には次の志願者が姿を現していた。二十代半ばと思しき若い男だが、身のこなしは隙だらけで、まったく戦士らしいところが無く、ただの一般市民のようにすら見えた。人は見かけによらないものだとはいうが、少なくともアデリーナの兵士としての勘は、男に戦闘経験はほとんど無いと判断していた。帝国正規兵も、囲いの中に姿を現す。これも巨漢で、異様に肩幅が広く、首はまるで丸太のようであった。審判役の士官が、志願者の男に問いかける。
「得物は何だ?」
「槍を使います」
男は凛とした声色で答えた。傭兵側の連戦連敗で、嫌というほど帝国兵の強さを見せ付けられたあとだけに、気を呑まれずに振舞えるだけでも、立派であった。
「誰か渡してやれ」
囲いの外から槍頭の無い訓練用の槍が投げ込まれた。男は手に砂をつけてから、おもむろにそれを拾いあげ、握りを確かめた。その間、正規兵のほうはリラックスした様子で首や肩の関節をぐるぐる回していたが、獲物に狙い定める猛獣のように、目だけは男から離さなかった。アデリーナには分かった。正規兵は最初の一撃で試合を決めるつもりだろう。おそらく細い槍では受けきれないような強撃だ。南無三。その一撃がせめて急所を外れるよう祈る。
士官が合図をし、試合が始まる。アデリーナの予想通り、正規兵が長剣を振りかざし、その巨体に見合わぬ素早さで、前方へ跳び出した。男は完全に不意をつかれ、なんとか距離をとろうと飛び退いたが、着地点で足がもつれて体勢を崩してしまう。すかさず正規兵はさらに距離をつめ、男めがけて剣を振りあげた。訓練用の剣とはいえ、当たり所が悪ければ命を落とすことも珍しくない。男は絶体絶命であった。
しかし、正規兵の長剣が、そこから振り下ろされることは無かった。体勢を崩した男が取り落としかけた槍の柄が地面に突き立ち、その先端が正規兵のみぞおちに深く食い込んだのである。見た目には、志願者の男が低く構えを取り、正規兵に痛烈な突きを見舞ったような形になっていた。正規兵はゆっくりと手から長剣を落とし、口元から唾液を垂れ流しながら地面に突っ伏した。戦闘は続行不能と見なされ、傭兵側の勝者はこれで三人となった。誰もがこの勝利に驚き、賭けをしていた者のほとんどが頭を抱えたが、大穴を当てて狂喜するものもいた。誰より戦った本人が一番信じられないといった風に、あっけに取られていた。
「意外な人が勝ったみたいね」
アデリーナが言うと、ジミーは複雑な表情を浮かべて唸った。
「そうだね。でも、正規兵が少しうかつだったと思う。最初の踏み込みで決まればよかったけど、相手が飛び退いたから、もう一度踏み込んだ。そのとき体が前のめりになったんだね。正規兵は一撃で決めようとして大振りになっていたから、そのぶん体も開く。そこに落としかけた槍が杭のように突き立った。みぞおちの一点に、地面からの衝撃をもろに受ける形になったんだよ」
「つまり、あなた『も』まぐれだと思っているわけね」
「うん。彼には悪いけど、正規兵がもっと慎重に戦っていたら、とても勝ち目は無かった」
「まあ、そうだけど、彼にはいいことを思い出させてもらったわ」
「なんだい」
「でかくても、人間の急所は同じ」
士官が次の志願者の番号を読み上げた。しかし、誰も応じることは無かった。次の番号の志願者も、不在であった。どうやら帝国兵の強さに恐れをなして、棄権した者がいるらしい。
「うーん、そろそろ僕かな」
ジミーが不安げにつぶやく。アデリーナはひそかにジミーの戦いぶりに期待していた。この場にいる者で、さっきの戦いをまぐれだと見破った者は、おそらくそう多くないだろう。分析眼が優れているからといって、実戦も強いとは限らないが、少なくともジミーは、帝国兵の強さを目の当たりにしながらも、この場から逃げずにいる。
「あなたは棄権しないの?」
アデリーナは少し意地悪に、冗談めかして訊いた。
「女の子が見てる前で逃げるなんて、恥ずかしくて出来るわけないだろ」
ジミーは口ごもりながら、そう答えた。
「本当にそれだけ? 自信があるんじゃないの?」
士官が次の番号を読み上げた。聞き覚えのある番号だった。だから呼ばれたのはジミーではない。なぜならアデリーナは彼の番号を知らないからである。
「へ? 私?」
アデリーナはきょろきょろと辺りを見回した。他に前へ出てくる者はない。士官がもう一度番号を読み上げ、反応がないのを確認してから、次の番号へ移ろうとした。
「はい! います!」
アデリーナは慌てて手を上げて、囲いのほうへ駆け出した。戦う者の条件をできる限り公平にするため、どうやら番号は順不同に読み上げているらしかった。少し面食らったが、アデリーナはすぐに覚悟を決めた。
囲いの中ほどまで進むと、観衆がどよめいた。出てきたのが若い女だったからであろう。次々と野次や冷やかしが飛ぶ。
「お嬢ちゃん、これが終わったら今晩付き合って!」
「勝ち負けはどうでもいいから、いいもの見せてくれよ!」
「優しくするから俺と戦ってくれ!」
口々にわめきたてる傭兵達。なかには、普通の神経なら口にするのもためらわれる卑猥な文句を連発する者もいる。正規兵側の反応は比較的静かだが、視線は下劣な好奇心に燃えていた。やはりどこへ行っても、兵士は同じゲスばかりである。慣れきったことだとはいえ、アデリーナの心情に一抹のむなしさがこみ上げてくる。こんなくだらない奴らに負けたくないと思った。
相手となる正規兵が囲いの中に姿を現した。先ほどの兵士よりは大柄ではないが、手足が長く、接近するのは骨が折れそうだ。品のない笑みを浮かべながら、鼻息を荒くしてこちらをみている。
「得物は?」
「小剣と盾をもらうわ」
正規兵の標準装備である長剣や斧に対して、一見不利に見える選択だが、アデリーナには勝算があった。
審判が試合開始の合図をした。正規兵はアデリーナの間合いの外を迂回しながら、隙をうかがう。さすがにプロの軍人だけあって、仲間の失敗と同じ轍を踏むほど馬鹿ではないらしい。アデリーナにとっては想定の範囲内である。
正規兵の迂回する円周が、徐々に狭まってくる。アデリーナは小剣を構えながら、相手の一挙一動を見逃さず、警戒を強める。両者のリーチには雲泥の差があり、正規兵の間合いで戦えば、アデリーナは何も出来ずに負けてしまう可能性があった。一気に距離をつめて、一気に決着を付けなければならない。
アデリーナはここで、ある秘策を用いることにした。
不意に正規兵が自分の間合いを捨てて前に飛び出した。アデリーナに向かって突進を仕掛けたのである。 誰が見ても隙だらけであり、明らかに正規兵の失策だった。アデリーナはその突進を難なくかわし、すれ違いざまに、両肘と両膝の関節に、小剣の一撃を見舞った。華麗な足捌きと体の回転を利用した見事な連続攻撃だった。正規兵はたまらず武器を落とし、その場に崩れ落ちた。ダメージは大きくないため、すぐに武器を拾って立ち上がろうとしたが、正規兵が振り向いた鼻先には、すでにアデリーナの剣の切っ先が突きつけられていた。
しばしの沈黙のあと、審判が試合終了の旨を告げた。アデリーナが勝利したのである。傭兵達の間から歓声が沸き起こった。正規兵は拾った剣を悔しそうに地面に投げつけ、囲いの外に引き揚げていった。
緊張を解いたアデリーナはほっと息をついて、自分も囲いの外へ出ようとした。そのとき、正規兵側から間延びした大声が響いた。
「ちょっとまて、女」
振り返るとそこには、巨漢揃いの正規兵の中でもひときわ大柄な男が立っていた。年齢は若いようだが、大木のような愚鈍な佇まいで、その眼差しには知性のかけらもなかった。
「俺が相手をしてやる。今の奴は相手が女だからと油断しただけだ。そうだな」
と先の正規兵に向かって怒鳴った。怒鳴りつけられた兵士は言われるまま、
「そうであります! 自分は相手が女だからと油断しておりました!」
と恥ずかしげもなく答えた。
「まったく、だらしねえよ。傭兵相手になんか、全勝して格の違いを見せつけろって言っただろう。それを四人も負けちまいやがって。これが終わったら、連帯責任で全員夜通し千本ノックで鍛えなおしてやる。ありがたく思え」
「はっ! ありがとうございます!」
正規兵が一同に声をそろえて応答する。薄気味悪い光景だった。どうやらこの大木のような男が、この場では最高位にあたる士官らしい。
アデリーナは再び背を向け、囲いに手をつきながら、面倒なことになった、と密かに舌打ちした。先の試合でダメージこそ受けなかったものの、集中力を極限まで高めて一気に勝負を決めたため、精神的に消耗していた。出来れば見逃してほしかったが、士官の剣幕ではそれも叶うまい。さすがに傭兵達が不平の声を上げているが、状況が覆る気配もない。
(せめて大怪我しないように努力しましょう)
アデリーナは腹をくくって振り返った。ところが、その場には士官の姿の他にもう一つ、男の後姿があった。中肉中背、ぼさぼさのブラウンの髪。それは紛れもなく、ジミーであった。
「なんだてめえ」
士官が低い声で凄んだが、ジミーはそれに気圧されることなく、毅然として言い返す。
「女性に向かって寄ってたかって、それが大陸一と謳われる帝国歩兵のやることですか。僕も志願者です。彼女に代わって僕が相手をします。剣をよこしてください」
「お呼びじゃないぜ、三下ぁ。そこをどけ!」
「どきません。それとも僕に負けるのが怖いですか。五人目の敗者は長官自身だなんて、帝国中の笑いものですからね」
士官が言葉につまった。その顔が見る見るうちに紅潮する。
「帝国歩兵隊司令長官が、てめえなんかに負けるかよ! よし分かった、てめえから先に叩き切ってやるぜ!」
囲いの中に二振りの剣が投げ込まれた。帝国側にも傭兵側にも、この騒動を止めようとする者はいない。正規兵たちは長官に意見することが出来ず、傭兵たちはこの勝負の行方を好奇心を持って見守る構えだった。アデリーナは途方にくれながら、ジミーに近づいて言った。
「ジミー、あなたが戦うことないわよ。こうなったのは私のせいなんだから」
「君が戦ったって、負けるよ。ここは僕に任せてくれ」
「あんな大きなことを言って、大丈夫なの?」
「別に、僕は予定通り審査を受けるだけさ。勝ち負けにこだわる気はない」
「相手はすっかり頭に血が上ってるわよ」
「むしろ勝算があるとすれば、そこだよ。さあ、下がって」
ジミーは足元に落ちた剣を拾って、正眼に構えた。長官も剣を拾い、力任せに数回、素振りをする。戦いを避けることは出来ないらしい。こうなってしまっては、アデリーナはジミーに言われたとおりにするしかなかった。
その場にいる誰もが固唾を呑んで見守る中、試合は開始された。体格は圧倒的に長官が勝っており、同じ剣を使っているのに、ジミーにとっての長剣が、長官が持てば小剣のように見えた。
長官が剣を振りかざし、先手を仕掛けた。首元を狙った大振りの、水平切りである。命中すれば確実に致命傷となるが、ジミーは体勢を低くしながら、長官の腕の外側から剣を叩きつけ、攻撃を逸らす。勢いあまって長官がバランスを崩し、前のめりになるが、すぐさま向き直って、同じような水平切りを繰り出す。一本調子の攻撃だった。頭に血が上った分、基本的な戦法を忘れているようだ。ジミーはこれを勝算と言ったのだろう。ただの力比べなら、ジミーは負けるだろうが、相手の力を利用する戦法なら、隙を突きやすいし、疲れさせることもできる。ただ、そう頭で分かっていたとしても、よほど戦慣れしていなければ実践できることではない。自分の非力さをハンデにしないジミーの戦い方は、非常に理に適っていた。予想以上にできる、とアデリーナは思った。
「帝国一のスラッガーのスイングをくらいやがれ!」
大声でわめきながら長官が剣を振り回す。そのたびにジミーは、攻撃を巧みに逸らしてしまう。長官は完全に冷静さを失い、攻撃を当てることだけに躍起になっていた。傍で見ていれば間抜けな光景だが、一撃でも当たれば命を落としかねないジミーの緊張は、想像を絶するものであろう。まるで命懸けの曲芸のようであった。
やがて、長官の動きに疲労の色が浮かび始めた。足元がおぼつかなくなり、剣先も定まらなくなった。ここまでくれば、ジミーが相手の攻撃をいなすのに、もはや剣を使う必要はなくなった。ただ体を捌いて、逃げ回ればよかった。静まり返っていた傭兵側から、徐々に声援が飛び始めた。
「おい! 相手はもうヘロヘロだ! 決めちまえ!」
「いつまで逃げ回ってんだよ!」
「勝ちにいけ!」
それを聞いて長官がまた躍起になって剣を振るが、もう力がない。多分、いま攻撃すれば、倒すのは簡単だろう。だが、ジミーはそれをしようとしない。
声援は徐々にブーイングに変わり始めた。逃げ回るだけの戦いに、観衆が飽き始めたのだ。だが、ジミーは勝つことをためらっているようだった。確かに一介の傭兵が、帝国歩兵団の長官を打ち倒したとあっては、面倒なことになりかねない。その場で下士官達がいきり立って、ジミーを連行するかもしれない。この試合を終わらせるには、誰かの助け舟が必要だった。だが、傭兵達にも、下士官たちにも、そんな力はない。ジミーとて永久に相手の攻撃を避け続けられるわけではなく、疲労が溜まれば、隙が生じる。そのとき、彼が無事でいられる保証はない。
(お願いだから、誰か助けに来て)
アデリーナは祈るような気持ちで、戦いを見守っていた。
その祈りは届いた。
「ジャレッド! 歩兵団長官ともあろう者が、こんなところで何をしている!」
練兵場に、力のある声が響き渡った。その声を例えるなら、草原を駆け抜ける一陣の風であった。追い風となるものには勇気を与え、立ち向かうものを怯ませる突風である。誰もがその声の主を探した。練兵場の入り口に、漆黒の鎧に身を包んだ男が立っていた。ただ立っているだけだが、まったく隙が見受けられず、かなりの手練の武人と思われた。ジャレッドと呼ばれた長官は、その姿を目にするなり、命乞いをするかのように両手を挙げ、剣を捨てた。
「傭兵団の入団審査で長官自ら剣を抜き、志願者をいたぶるなどとは、聞いたこともないぞ。貴様は司令官としての自覚があるのか」
囲いに近づきながら、鎧の男が静かに、しかし圧倒的な威圧感を込めて言う。
「いたぶるなどとは滅相もございません。これは正当な審査なのです」
ジャレッドが弁解しようとしたが、鎧の男はそれを打ち消した。
「そんなことはどうでもよい。問題は長官自らがみだりに剣を抜いてはならぬということだ。一兵卒ならばまだしも、戦場で大局を見極め、指揮を執らねばならぬ立場のものは、その剣は兵を率いるためにこそ用いるべきではないのか。力試しなどは、下士官に任せればよい」
「はっ」
ジャレッドはひざまずき、それ以上口を開くことは出来なかった。鎧の男はジミーに向きなおり、頭を下げた。
「私は近衛騎兵団長、ディートハルトだ。部下に代わって非礼をわびる」
その場にいる誰もが、彼の名を知っていた。中原において敵なし、帝国一にして最後の名将と謳われる男の名だった。アデリーナも各地の戦場でその名を聞き及んでいたが、実物はその名声にたがわぬ風格を身に纏っていた。ジミーはそのような人物から頭を下げられて、当惑しているようだった。何か言おうとするのだが、何を言っても相応しくないような気がして、口ごもるばかりであるといった風だった。
「名はなんといわれる」
「ジミー、です」
「先ほどの戦いぶり、私も途中から見せてもらったが、見事な体捌きだった。それに勇敢さと、冷静な判断力とを持ち合わせてもおられるようだ。私が責任を持って、貴殿を傭兵隊長に推薦しよう。今の帝国には、貴殿のような人材が必要だ」
ジミーは慌てて言った。
「僕はそんな、人の上に立つ仕事なんか、ふさわしくありません。ただ、彼女を守るのに必死だっただけで……」
そしてアデリーナのほうを見る。ジミーの言葉を聞いて、傭兵達が口々に冷やかしはじめる。
(何を馬鹿正直に言ってるのよ!)
アデリーナは赤面して、うつむいた。
ジミーの言葉を聞いて、ディートハルトはかすかに微笑んだようだった。
「女性を守るのは、騎士道精神にとても相応しいことだ。貴殿の気持ちはわかる。私にも守るものがあるのでな」
そして士官たちを振り返り、言った。
「貴様らも見習うがいい。騎士道は騎士だけのものではない。戦う男達全てのものだ。私は今日、この者からそれを教えられた……。ジャレッド!」
「はっ」
「貴様には仕事を与える。まずは今日定められた責務をつつがなく全うし、しかるのち私の自室まで来るように」
ディートハルトはジャレッドにそう言い渡すと、練兵場を後にして去った。
「いやあ、まいった!」
全てから開放され、ジミーは大きく息を吐いた。ディートハルトが現れたおかげで審査は無事終了し、アデリーナとジミーの両者は、晴れて傭兵として帝国に仕官することが決まった。二人は酒場で祝杯をあげていた。
「まったく、無理に助けになんか入らないで、私のことなんかほっとけばよかったのよ。あんなイノシシ男、いくら疲れてたって、私は負けなかったわよ」
酔っ払いながらアデリーナがジミーにからむ。もちろんこれは照れ隠しで、内心ではジミーに非常に感謝していた。
「またまた。アデリーナが長官に呼び止められて、すごく焦った顔したの、僕は見逃さなかったよ」
「うるっさい。あんなに騒ぎを大きくして、近衛騎士団長が来なかったら、二人して病院送りだったわ。おっさんたちには冷やかされるし……」
「まあ、全て無事に終わったんだからいいじゃない! 飲もうよ!」
仕官が叶ったこと、大立ち回りを終えた安堵、そしておそらく帝国一の名将からじかに賞賛を受けたことによって、ジミーは殊更に上機嫌だった。そんなジミーを見て、アデリーナは彼が普通の男とは違う何か特別な存在のように思えた。見た目は気弱そうで、はっきり言って地味だけど、謙虚で、本当は勇敢だなんて、ちょっとずるいわね、などと考えていた。自分が兵士であることを忘れて、そんなことを考えてしまったのは、きっと酒が入っているせいもあったろう。目の前で酒をあおりながら、ジミーがしきりに言っている。
「ディートハルトさん、かっこよかったなあ! あれこそ男の中の男だよ!」
相手には聞こえないほどの小さな声で、あなたもね、とアデリーナはつぶやいた。
「あっ、そうだ」
不意に我に返ったようになり、ジミーはアデリーナに訊いた。
「アデリーナの試合の時に、相手の兵士がいきなり無防備に突っ込んできたよね。あれはどう見ても不自然だったんだけど、何かしたの?」
「……ええ、ちょっとおまじないをね」
「なんだよ、それ」
実はあのときアデリーナは、濡れた眼差しを浮かべながら、兵士にだけ聞こえる声で、もっと近くに来て、私をいたぶって、いたぶられるのが、好きなの、とつぶやいたのだった。効果はてきめんで、それを聞いて兵士は我慢しきれなくなり、隙だらけで突っ込んできたというわけだった。まさしく、女ならではの武器であった。だから、ジャレッドが、油断をしたから負けた、と言ったのは間違っていないのである。もっと正しく言うなら、兵士は油断したのではなく、油断させられたのであるが。
「あなたには教えられないわ」
アデリーナはそう言って口を閉ざした。ジミーがしつこくせっついたり、魔法を使ったのかな、とか考え込んでいるのを見ても、決して本当のことは言わなかった。
眠気を誘うジミーの話し声を聞きながら、アデリーナは今日までに起こった様々な出来事や、出会った人々のことを思い返していた。テレザは無事に荒野にたどり着き竜を見ただろうか、戦争が始まってから船乗りは仕事をしているだろうか、バルドゥルらしき男に熱弁を振るっていたあの青年魔術師は軍を脱走したのだろうか、ヘラスやケクロピアは以前のように平和な街ではなくなったのだろうか……。
旅の疲れと、今日を終えた安堵に、気持ちよく酒の酔いが回り、アデリーナはいつしか深い眠りへと落ちていった。