帝国の募兵によって集った傭兵の数は、最終的に一個師団に相当し、そこからいくつかの連隊に分けられ、それぞれ隊長が据えられた。練兵場でディートハルトが約束したとおり、ジミーは連隊長に任ぜられ、それ以外には入団審査の結果に応じて、バルドメロ、ラトカ、アデリーナ、そしてまぐれで勝利したラッセルも、同じ任に就いた。弓兵などを中心に編成された後方支援型の連隊には、ルイスという男が隊長として就任しており、人員のそうしたおおまかな配属が決定されるとほぼ同時に開かれた軍議で、彼とは顔を合わせることになった。くすんだ金髪を短く刈り込み、真剣な顔が想像できないほど、豪放な笑顔が板についた人物で、
「なんだい、俺以外はみんな顔見知りってわけかい。弓兵だからって、仲間はずれにしないでくれよ」
第一声にそう冗談めかして言ってから、アデリーナたちを見回し、笑顔を一切崩すことなく自己紹介した。
「俺はルイス。もとは北部で猟師をやってたが、エレクトリスの犯罪者どもが縄張りを広げはじめたせいで干上がっちまって、仕方なく兵隊になったってわけだ。戦は正直嫌いだが、まっ、楽しくやろうぜ」
おちゃらけてはいるが、少なくとも連隊長に任ぜられるだけの実力はあるわけだし、短い袖から覗く上腕は筋肉質で、強い矢を放つには充分な腕力を持っているのが伺えた。
軍議では、まず、直近に行なわれた第二次チュレニー海戦において帝国が大勝利を収めたことが知らされ、軍議場に集った士官たちの間に感嘆の声が上がった。そして、チュレニーの制海権を奪取したことに伴い、クーニッツ騎士団領首都ケクロピアへの大規模な上陸作戦が計画され、当作戦に則った軍の配置編成がなされるとの通達があった。
それによれば、上陸作戦軍は正規兵のみで編成され、傭兵隊は、それぞれ首都オルテュギアとヘスペリアの守備、ならびにアポイタカラへの警戒のためリビュアへ配置されるとのことだった。王都の守備はジミー、ラトカ、ラッセルの連隊、リビュアの守備にはバルドメロ、アデリーナ、ルイスの連隊、ヘスペリアにはそれ以外の連隊が向かうことに決まった。
傭兵隊がそれぞれの任地へ派遣される前日、オルテュギア郊外に設けられた傭兵団のキャンプには、この上ない貴賓が姿を現した。現ライナルト皇帝アグネスが近衛騎士団を伴い、自ら傭兵団の視察を行なったのである。質素なキャンプ内を、黄金と宝石とを散りばめた豪奢な馬車が精強な近衛騎士たちに守られながら厳かに行進する様は、上層社会とはほとんど縁のない傭兵達の心情を圧倒した。普段、皇帝を軽口交じりにゲス共の傀儡、あるいは世間知らずの小娘と揶揄していた兵達さえ言葉を失い、呆然と立ち尽くしてそれを眺めていた。帝国民でもないのに、思わず平伏する者までいた。
その後流れたうわさによれば、当初は団長ディートハルトを筆頭とした近衛騎士のみによる視察が行なわれる予定だったが、皇帝たっての願いで、このような形をとったとのことだった。確かに、戦地へ赴く直前に皇帝自らが視察に現れたとあれば、傭兵といえど士気は上がる。ただ、皇帝自身にそうした意図があったかどうかは甚だ疑問ではあるが。
馬車が止まり、その中から、皇帝のみが身に付けることを許される、真紅のガウンを身に纏った人影が姿を現した。十四という少女と呼ぶべき年齢に違わず、まだ手足は伸びきっておらず、華奢な体つきをしていたが、皇族の血筋をその身に誇るかのような煌びやかな黄金色の髪と、真珠のごとき肌を持ち、未だ恐れを知らぬ不遜な光を碧い瞳に湛えていた。仮に皇帝のそれとわからないような身なりをしたとしても、皇帝として放つ威厳までを隠しきることは出来ないかもしれない。アデリーナは、その姿を目の当たりにして、巷で言われているほど暗愚であるとは到底思えなかった。
皇帝は馬車から降りると、近衛騎士の担ぐ移動型の玉座に乗り換え、高貴な者特有の傲然たる目つきで、おもむろに辺りを見回した。近衛騎士団長によって号令が掛けられ、傭兵団の代表として、連隊長全員がその御前に呼び出される。アデリーナはしがない傭兵の自分が、皇帝に謁見することになるとは夢にも思っていなかったので、命令に従いながらも内心は動転していた。それは他の隊長も同じであったらしく、ジミーなどはディートハルトに助けられた時以上に緊張した面持ちで、ほんの数十歩という距離を歩くのに、五回も躓いたのだった。連隊長たちは礼に倣って、皇帝の座る玉座の前に跪いた。
「面を上げよ」
皇帝じきじきに、連隊長達へ声が掛けられた。大声ではないが、少女にしては低く、聞く者の五臓六腑を震わすような声である。連隊長たちは皇帝の求めに応じて、顔を上げる。皇帝は連隊長一人一人の姿に目をとめたあと、声の調子を一切変えることなく言い渡す。
「異国のつわもの達よ、此度は我が帝国領の守護の任に就くこと、誠に大義である。帝国の民ならずとも、その働きによっては大いに報いがあろう。ひたすら励むがよい」
あくまで形式的なもので、これだけで謁見は終了であった。それでも皇帝が傭兵にじきじきに言葉をかけるというのは破格の出来事であった。アデリーナたちが首を垂れている間に、玉座は仕舞われ、皇帝は馬車に乗り込んだ。馬車は動き出し、視察を続けるため、近衛騎士たちを伴って再びゆっくりとキャンプの中を移動し始めた。程なくして号令がかかり、傭兵隊は通常の任務へ戻った。
「あれが本物の現ライナルト皇帝アグネスなのね……。私には人が言うほど馬鹿には見えなかったけど」
視察が終わった後、連隊長同士で集まった際にアデリーナはそう感想を述べたが、それに異議を唱えるものはいなかった。
「うむ。小生も同じ意見だ。あの髪、あの肌、あの瞳、どれをとっても幼き美の神の体現そのものだ。身分の違いがなければ、是非とも我が物にしたいと思わずにいられないな」
社会的通念上、非常に危険なことを平然とバルドメロが言ってのけ、それに対してラトカが猛然と抗議する。
「あんた、小生はロリコンではない、とか偉そうに言ってたじゃない!」
「言ったかもしれないが、年若くとも高貴な女性とあっては話は別だ」
こともなげに切り返されてラトカは一瞬言葉を失い、
「こ、この変態!」
ようやく一声罵倒したあとは、目に涙を浮かべて歯軋りするしかなかった。その様子を見てルイスが声を上げて笑う。
「バルドメロ、きっとそうだろうと思ってたけど、あんたスケベだねえ!」
「審美眼に優れると言ってくれたまえ」
「まっ、なんでもいいけどよ、俺もあのお嬢ちゃんに嫌な感じはしないぜ。ああいうタイプの娘は周りがしっかりしてりゃ、賢く育つもんさ」
「生まれた場所と時代が悪かったかしらね……」
アデリーナはヘスペリアで見た宰相ホラーツと副宰相ゲレオンの姿を思い出していた。聖戦だ何だと民衆を扇動し、第一次チュレニー海戦では、最も強大な新造戦艦に二人して乗り込んでおきながら、他の指揮官の造反にあうや否や、味方の船団を盾にして真っ先に撤退した稀代の匹夫どもである。
今度の作戦では、ホラーツがケクロピア上陸軍の指揮を執り、ゲレオンがヘスペリアの守備に当たるようだが、上陸軍に正規軍の大半を動員するため、守備戦力に不安があると言われていた。確かに、本拠地である首都や、防衛の要であるリビュアを、傭兵を中心に守備させるというのは本末転倒であったが、これを皇帝へ進言したのは他ならぬホラーツであるとのことだった。しかも最初の進言では、上陸作戦に要求した兵の数は今の倍であったというから、神経を疑う。ディートハルト率いる近衛騎士団を首都に残すだけまだましであるが、それとて、リビュア、ヘスペリアまでも同時に守れるわけではない。それについてのジミーの意見は、
「まあ、とりあえず領地防衛に関しては、アポイタカラだけ警戒すればいいという判断だろうね。それでもやりすぎだとは思うけど。もし、仮にヘスペリアが落ちれば上陸軍は孤立してしまうし……。ヘスペリアにどこかが攻め込んでくれば、の話だけどね」
というもので、やはりこの作戦に対して、どこか釈然としないイメージを抱いているようだった。
アデリーナの場合、その漠然とした悪い予感の根拠に、ひとつ思い当たる節がある。ヘスペリアでテレザが言っていた、ファーブニル竜騎士団とかいう武装集団のことである。彼等が拠点としているのはヘスペリアのすぐ北に位置するセラニウストロス荒野であり、今回の帝国軍の配置は、ここから攻め込まれることをほとんど想定していない。守備隊の指揮に当たるゲレオンの部隊は、負傷者の治療にあたる神官や衛生兵のみを中心に編成されており、実際に戦闘員として動員される正規兵や傭兵の数は多くないのである。見方によっては隙だらけの布陣である。アデリーナは、ファーブニル竜騎士団の存在を正規軍の誰かに知らせるべきか迷った。だが、すぐにその考えを打ち消した。テレザ自身が旅人同士のうわさに過ぎないと言っていたことだ。ましてや自分には証明する手段がない。人づてのうわさ話程度で軍が動くことはないであろう。しかし、風のうわさに過ぎないと捨て置いたことが、国を揺るがす事実だったと後々悔やむことは往々にしてある。
アデリーナは、ためしにジミーにたずねてみた。
「セラニウストロス荒野に武装勢力が存在するって話、聞いたことある?」
「ないね……。あるとしたら、せいぜいキュドニアの街の自治兵団だろう。でも、あんな小さな勢力が帝国に戦争を仕掛けるのは自殺行為だよ」
「そう……」
「アデリーナ、何か気になることでもあるの?」
「いえ、なんでもないわ。もしそんな勢力があったら大変だから、聞いてみただけ」
「まあね。でも、僕が知ってるぐらいなら、すでに正規軍が動いているさ。それに僕らは所詮傭兵だ。戦うことは戦うけれど、そこまで帝国の心配をする義理はないよ」
ジミーの言うことはもっともであった。アデリーナとて、帝国に対してそこまで愛着があるわけではない。だが、また国が滅びるのを見るのは嫌だった。あの幼くして威風堂々たる皇帝アグネスも、国が滅びれば処刑されるか、恩赦があったとしても監禁、拘留、上手く逃亡できても身分を隠して放浪することになる。時代に求められるがままに玉座に着いた少女が、たまたま周囲にゲスどもが跋扈していたからといって、その責任を負って死ぬほどに苦しむことが許されて良いはずはない。そうした理不尽に憤りを感じながら、不意に、テレザに会いたいと思った。テレザなら、そういうアデリーナの気持ちを理解してくれただろうし、もしかしたら竜騎士団について、はっきりした情報も手に入れているかもしれないからだ。
(あのとき一緒に旅に出てれば、こんなことで悩まなかったかしらね)
今となっては有り得ないことになってしまったが、アデリーナはそれを想像しないではいられなかった。
翌日、アデリーナは、バルドメロ、ルイスと共に連隊を率いて、リビュアの街へ向かった。行軍中、いろんな兵と言葉を交わす機会があり、傭兵隊の中でも多種多様のうわさが飛び交っているのを知ることができる。取るに足らない情報や、眉唾物の話も多いが、気になったのは、第二次チュレニー海で帝国がどのようにして勝ったか、といううわさだった。確かに、帝国が大勝したということは伝わっているが、どんな作戦だったかについては、少なくとも傭兵隊にはほとんど知らされていなかった。帝国正規軍においても最高機密に属することのようである。だから憶測が憶測を呼ぶのだが、その渦中にあるのはヘスペリア防衛戦で一躍有名となった人物で、他ならぬあの静かなる火術師、宮廷魔術師バルドゥルだった。
確かに、不自然な点がある戦であった。第一次チュレニー海戦で帝国水軍はほぼ壊滅状態に追いやられていたし、そこで難を逃れた新造戦艦ゲレオンも、ヘスペリア防衛線で戦った術師たちの盾となって、二隻とも撃沈されてしまっていた。明らかにクーニッツ水軍とまともに戦える戦力は、残っていなかったのである。
第二次チュレニー海戦後にヘスペリアから王都へ移ってきた市民に聞いた話によると、港から出航していった船団はごく少数で、乗り込む兵も、船を動かすために必要な最低限の人数しかいなかったという。そんな中に姿を見せたのが、宰相のホラーツと、宮廷魔術師のバルドゥルだった。クーニッツ水軍が総攻撃を掛ければ、ひとたまりもないような脆弱な船団に、国家の要人が乗り込み、ましてや戦に向かうなど明らかに不自然であった。その市民一人が見たのはそこまでである。
数時間後には、すさまじい轟音、そしてまばゆい光線と共に、チュレニー海沖で天を突く猛烈な火柱が上がるのを、ヘスペリアのほとんどの市民が目撃したのだった。何による力かは定かではないが、この巨大な爆発がクーニッツ水軍を焼き尽くしたのは間違いない。それを、帝国が新造戦艦に続いて極秘裏に開発していた大量破壊兵器だという者も、新しく発見されたロストテクノロジーだという者もいた。しかし、大方の予想では、船団に同行した宮廷魔術師バルドゥルが、何らかの魔術によって、大爆発を発生させたのだろう、と考えられていた。ただ、人一人の魔力が起こしうる現象の範疇を明らかに超えていたから、人々はそれにすら半信半疑であるが。
クーニッツ水軍はほとんど消滅した、そう表現していいほどの被害を受け、司令官のアルレットも消息不明となった、その結果だけが確かなものとして伝わっている。
アデリーナにとっても信じ難い話であった。それはバルドゥル一人の力がクーニッツ水軍を全滅させたことに対する疑いではなく、戦を厭いながらも弟子を諫め、苦しみを吐露しながらもヘスペリアの民を救う使命に従事していた、あの火術師のしたこととは思えない、という気持ちだった。この件については、軍の最高機密としての性質上、それ以上の情報は出てこなかった。この謎めいた勝利に対して、帝国民のほとんどが喜びよりも、帝国軍が人類の踏み入れてはいけない領域を犯しているのではないかという、一抹の不安と薄気味悪さを感じるばかりであった。
こまめに小休止を取りながらの行軍で、傭兵隊がリビュアにたどり着いたときには、オルテュギアを発ってから一日半が過ぎていた。リビュアの市街地からさらに西へ進むと、アポイタカラの本拠地、アルシア城に対して長大な城壁が築かれており、いかに屈強なドワーフといえど、これを突破するのは難しいと思われた。傭兵隊は城壁近くにキャンプを張り、おのおの休息を取ることとなった。先行していた密偵と合流し、傭兵隊はアポイタカラが再びリビュア侵攻の準備を始めているらしいことを知る。戦は近い。
日が落ちて、キャンプのあちこちで火が焚かれ、自然とその周りに傭兵達が集う。バルドメロは、行軍中に連隊の兵士全てに自分の愛唱歌を教え込んだらしく、夜通しその合唱が聞こえていた。ルイスの連隊からは、常に笑い話が聞こえ、それを耳にしたアデリーナの部下達も釣られて笑っていた。アデリーナの連隊は歩兵隊だったが比較的女性が多く、戦時だというのに男の兵士と懇ろになって、いつの間にか姿を消しているものもちらほらいる。脱走ということではなく、要するにお楽しみなのだろう。以前のアデリーナであれば、そんなことをする人の気が知れない、と思っただろうが、今日に限っては少しうらやましいような気がした。
(ジミーはどうしてるかしら。部下になめられてなきゃいいけど)
男と女の営みについてから、いつの間にかジミーのことを思い出している自分に気づき、アデリーナは慌ててそれを打ち消す。
「セニョリータ」
背後で低い男の声がして、アデリーナはぎくりと肩を震わせて驚く。彼女をこんな呼び方をするのは、他でもないバルドメロである。てっきり部下と一緒に酒でも飲みながら歌っているのかと思ったが、キャンプから聞こえる歌声は別の男のものらしい。
「音もなく後ろに立たないでよ。これでも剣士よ。もし斬られたって文句は言わないでね」
「あなたに斬られるならば、それも本望ですな」
「馬鹿」
こんな時でもぶれないバルドメロの性格が、今日は面白かったし、頼もしくも思えた。アデリーナが笑うと、
「小生の言葉で、初めて笑いましたな。女性を笑わせるのにここまで苦労したのは初めてだ」
などと言う。そして近づいて、アデリーナの隣に座った。両手にぶどう酒の入った木製のゴブレットを持ち、片方をアデリーナに差し出す。アデリーナは珍しく黙ってそれを受け取る。
「そんなこと誰にでも言ってるんでしょう。言っとくけど、私の部隊の娘に手を出したら、その口、縫い付けるわよ」
「それはそれでまた魅力的な話だが、あいにく小生はあなた以外を口説くつもりはないのでね」
「あら、女性を見かけたら口説くのが礼儀、が家訓だったんじゃないの?」
「我が家の家訓は一つではない。もっと大事な家訓がある」
「何よ」
「思いを決めた女性が現れたら、その女性だけを求めよ、だ」
そう大真面目な口調で言ったとしても、いつもそんな調子なのでアデリーナにはジョークにしか聞こえない。
「冗談ばっかり言ってると、いつか相手にされなくなるわよ」
「小生は今までに冗談など言ったことはない」
「あなたの存在自体が冗談みたいなものでしょう」
「それはさすがに少々傷つきますな」
バルドメロはそう言ってゴブレットに口をつける。しばらく黙っているので本当に傷つけたかと思い、一瞬心配したが、どうやらキャンプから聞こえてくる様々な物音や、人声に耳を傾けているようだ。そして、静かに言う。
「小生は、戦いの前の、ひと時の安らぎが好きだ。兵士達が、明日をも知れぬ命と分かっていながら、己の大切なものに想いを寄せて過ごしている。この味わい深さは、どんな酒でも、どんな芸術でも表現することが難しい」
今日に限っては、アデリーナは、彼の言うことが判るような気がした。
「あなたは何を想っているの?」
「ふ……小生があなたの姿を求めてここへ来た理由など、お分かりになっているでしょう」
「……聞きかたが悪かったわね。そうね……こういうときに、昔のことで思い出すのはどんなこと?」
「そうした詮索は好みませんな。小生はスリルを求めて生きる男だ。今にしか興味はありません。しかし、強いて言うなら、家を出奔した頃のことを思い出さないでもない」
「本当に貴族だったの?」
「疑うことからは何も生まれませんぞ」
アデリーナに対するバルドメロの口調が少し鋭くなる。憤慨というよりは、諌めるような響きがあった。アデリーナは口をつぐむ。バルドメロが貴族であったことについて、疑いをさしはさむことはしないほうがよさそうだった。しかし、それも一瞬のことで、次の瞬間にはいつも通りの飄々とした雰囲気に戻り、再び話し始めた。
「……貴族達は臆病で、常にそうした猜疑心に溢れていた。実に窮屈な世界だ。かつて小生には心に決めた女性がいたのです。月夜の海原の如く波打つ黒い巻き毛と、そこに秘められた黒真珠の如くきらめく瞳、海魔シレーナの如き豊艶なる魔力を帯びた、しなやかなる手足と二つの胸、まったく非の打ち所のない美女だった。強いて非があるとすれば、彼女が海賊だったということだ。我が家も、遠い祖先は同じ海賊だった。しかし一度貴族として身を立てた以上はその名誉を重んじ、もはや犯罪を生業とするものと結ばれるわけにはいかない。彼女に恋焦がれる小生の想いを、一族が許すはずもなかった。小生は悩んだ挙句、意を決して家を出奔した。彼女に想いを伝え、自分も先祖帰りして海賊になろうと……」
そこでバルドメロは言葉につまる。語調が真に迫っていて、とても嘘をついているようには思えない。冗談とも取れることを大真面目に言うのはいつものことなので、嘘か本当かわからないというのが実際ではあるが。それでも、興味深い話ではあった。アデリーナは先を促す。
「それで?」
「結局、彼女は小生のものにはならなかった。出奔してから知ったことだが、彼女はカエルを愛していたのです。パボニス島で生きるものにとって、カエル族は身近な存在だ。人と恋に落ちる話も聞かないでもなかった。だが、よりにもよって自分の想いを寄せた女性が、カエルを愛していたとは……。小生は立ち直れないほどに打ちひしがれたが、家に戻るわけにもいかなかった。それで全てを忘れるために旅に出たのです。心の闇を振り払うように、戦いに身を投じてね……」
そこまで話をして、バルドメロは寂しげに笑った。いつもとは違う、疲れた中年の顔だった。カエル族を実際に見たこともないアデリーナにとっては、一見ロマンチックのようでいて、結局はばかばかしい、大げさな冗談にしか聞こえなかった。しかしバルドメロがいつまでも黙っているので、場をつなぐわけではないが、アデリーナがある疑問を彼に投げかける。
「急にこんなこと訊くのは変かもしれないけど、ラトカのことはどう思っているの?」
「……なんのことですかな」
「すっとぼけないでよ。あんなに必死にまとわりついて、きっとあなたのことが好きなんだと思うわ。無事に戦いが終わったら、少しは想いに応えてあげたら?」
バルドメロはしばらく地面に目を落としていたが、急に何かを振り払うように酒を飲み干して言った。
「戦いのあとのことなど、考えられないが、そうだな、彼女が小生の目に少しでも女性らしく映れば、口説いてやらんこともない」
「まったく、えらそうなんだから」
アデリーナは微笑んで、自分も酒をあおった。
「いやあ、やっと見つけたよ! 帝国軍のキャンプが来てるって言うから、もしかしてって思って探してたんだ!」
突然、明朗な女の声がその場に響いた。ほんの少し前に別れたばかりだが、懐かしいとさえ思える声。アデリーナははっとして立ち上がり、声のしたほうを見た。大きな荷物を担いだ女が、そこに立っていた。一風変わった服装に、目が隠れるほど長い前髪。兵士であるアデリーナに、もう一度会うまでは、決して死ぬわけにはいかないと心に決めさせた存在。
「テレザ!」
アデリーナは親友の名前を呼び、その場から駆け出した。