何処まで先生を傷付ければ気が済むのだ。人の悪意は、何処まであの人を傷付けるというのだ?
胃の中は既に空っぽの筈なのに、吐き気が治まらない。胃液が喉を焼き、鼻から逆流した胃液のツンとした臭いが鼻腔を擽る。
トイレの前で荒い息を吐きながら、ヒナは放心したように座り込む。
涙が止まらなかった。ただ、ひたすらに無力な自分に腹が立って仕方がない。
「……先生」
私がもっとしっかりしていれば、先生がこんな目に遭う事なんてなかったのに。
先生の無実を証明する事が出来れば、先生は苦しまずに済んだのに。
「先生、ごめんなさい」
謝った所で、何も進展しない。それでも、謝らずにはいられない。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
謝る事しか出来なかった。そして、そんな無力な自分が許せなかった。
シャーレの権限を失った事で、先生に対する対応が変化した。
先生の身は、ヴァルキューレの留置所から矯正局へと移され、司法によって裁かれる事となる。
ヴァルキューレには毎日大勢のメディアや野次馬が押し寄せ、先生を糾弾する声を高らかに掲げる。
先生は何も語らなかった。ただ黙って、その身に降りかかる罵声と言う名の暴力に耐え続けた。
「先生、大丈夫?」
「……うん、大丈夫だよ。ありがとうヒナ」
私の言葉に、先生はそう返す。しかし、その笑顔には生気がなかった。
そんな先生の様子を見て、思わず泣きそうになるが、それをグッと堪えた。
此処で私が泣いてしまったら、きっと先生に負担をかけてしまう。
それだけはダメ。もうこれ以上、先生に迷惑はかけたくない。
「……先生、何かして欲しい事とかある?」
「ううん。大丈夫だよ」
そんな私の言葉にも、先生は笑顔でそう返すだけだった。
「でも、このままじゃ先生が……」
「大丈夫。私は平気だよ」
そんな先生の様子を見て、私は何も言う事が出来なかった。
先生がこんなに苦しんでいるのに、私は何も出来ない。それが悔しくて堪らなかった。
対面窓という壁が一枚隔てられてるだけなのに、先生との距離を感じてしまう。
この窓さえなければ、先生に触れる事が出来るのに。この窓さえなければ……こんな窓、壊れてしまえばいいのに……。
そうすれば、先生を……っ
私の脳裏に、恐ろしい考えが過った。
もう、何もかも捨てて、先生と一緒に、何処か遠くへ逃げるのだ。勿論、それは一時的な逃亡に過ぎないだろう。だが、それでもいい。先生が少しでも笑って暮らせる場所を探すのだ。
そして、そこで私達は新たな生活を送るのだ。私は先生を支え、先生は私の支えとなってくれる。
きっと幸せな毎日が送れる筈だ。そうに違いない。
こんな、地獄のような日々から抜け出して、先生と二人で幸せに暮らす。
私は……それを……。
「……先生……っ」
思わず拳を握る力が強くなってしまう。この選択をしたら、おそらく二度と戻れない。引き返す事は出来ないだろう。
私は無論、先生も犯罪者の烙印を押される事となる。
それでも、私は……。
「ぁ……っ……」
言うんだ。『一緒に逃げようと』と……『全てを捨てて一緒に逃げよう』と……。
例え全てを失う事になろうとも、私は、先生が側にいてくれればそれで……。
そんな、私の心境を察したのだろう。先生は静かに首を振って、私の考えを否定する。
「ダメだよ」
「っ!!」
「ヒナ、その選択肢を選ぶ事だけはダメだ。ヒナがこれまで積み上げてきた努力を、私の為に捨ててはいけない」
「……先生」
先生は私の考えを見抜いていた。そして、それは同時に私の為でもあるのだ。
私が積み上げた努力を、私という存在そのものを否定するような選択だけはしてはいけないと、そう諭してくれたのだ。
「私は大丈夫。だから、ヒナはヒナの道を歩いて。私の事は気にしないでいいから」
「でも……っ!!」
そんな先生の言葉に、私は思わず叫んでしまう。しかし、そんな私を見て先生は優しく微笑むと、そっと対面窓に手を触れた。
「ありがとう、ヒナ。私を心配してくれて。私の事を先生と言ってくれて、本当にありがとう」
「先生……私は……」
「うん」
「……私、先生に出会えて本当に良かった。先生がいたから、今の私があると思う。だからっ……」
涙ながらに語る私の言葉を、先生は静かに聞いてくれた。そして、最後に一言だけ呟いた。
「そんな先生だから、私は貴方の事を……」
「……ありがとう、ヒナ。私の事を好きになってくれて」
「……っ!!」
その言葉を聞いた瞬間、私は泣き崩れてしまった。
先生は、そんな私を見て、優しく、そして静かに呟いた。
「さようなら、ヒナ。ヒナが積み上げてきた努力の全てが、私にとって誇らしいよ」
「……先生」
そして、先生は静かに面会室を出て行った。私はただ泣き続ける事しか出来なかった。
そして、先生を矯正局へ護送する日が訪れた。
大勢のマスコミや野次馬が、先生の顔を一目見ようと、詰めかけた。
面白おかしく、そして、罵詈雑言の嵐の中、護送車に乗り込むべく、ヴァルキューレの生徒達に囲まれた先生が、久方振りに外の光を浴びた。
私はそれを、ただ見送る事しか出来なかった。
「先生」
思わず呟いた。しかし、その呟きは誰にも届かない。そして、そのまま先生が護送車に乗り込もうとしたその時、無数の爆発音と共に、護送車のドアに銃弾が撃ち込まれた。
「っ!!」
突然の事態に、野次馬達が混乱する中、襲撃者が周囲のヴァルキューレの生徒達を銃撃する。
「先生っ!!」
私は思わず叫んだ。そして、その襲撃者の顔を見て驚愕した。
狐坂 ワカモ。
『災厄の狐』と称される七囚人の一人。
何故彼女が此処に?
それよりも、何故このタイミングで?
私は呆然としながらワカモの動向を目で追うと、彼女の目的が先生である事が分かった。
彼女は、先生を連れて此処から逃げようとしていたのだ。彼女もまた、先生が無実であると信じ、そして、先生の為に……。
ーさようなら、ヒナ。ヒナが積み上げてきた努力の全てが、私にとって誇らしいよー
「…………ぁ」
気が付くと、私の身体が勝手に動いていた。倒れる生徒や、混乱して右往左往する生徒達の障害を潜り抜け、私は先生の元へ走る。
そして、先生を連れて逃げ出そうとするワカモ目掛けて銃を振り下ろしていた。